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氷の庭に、痛みは芽吹く

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-17 06:24:25

世界はもう温まらないのに、息だけが先に温かかった。

目を開けると、薄い光がカーテンの縁をゆらし、手首の誓環がほんのり色を含んでいた。赤というより、夜の名残のような色。触れれば、指先の内側で小さく跳ねる。

扉の向こうで、器の当たる遠い音。運ばれてくる湯気の匂い。

ノックの前の、ためらい一つ。

「入るよ、お嬢」

ニナの声は、朝を起こす声だった。盆の上で湯気が揺れ、軽いパンと、甘くない果実と、薄いスープ。彼女の頬は赤く、息は白い。

「庭の方、ちょっとだけ騒がしい。剣の音、する。……あ、でも怖いほどじゃないやつ」

「訓練?」

「たぶん。ほら、聞こえる?」

耳を澄ますと、金属が擦れる高い線が、朝の白の中に細く伸びた。遠いのに、まっすぐ届く。

誓環がそれに合わせて、ほんの少しだけ脈を打つ。痛いとは言えない、でも、黙っていられないくらいの合図。

「……変な感じ」

「冷えるとき、古傷がうずく、みたいな?」

「古傷、ね。あったかもしれない」

笑うと、誓環がゆるむ。そんな気がした。

スープの湯気を一口だけ分けてもらい、体の中心が静かにほどけていくのを待つ。

「食堂、行ける? 運ぶこともできるけど」

「行くわ。歩きたい」

ニナの目が、安心で少し湿った。

カーテンをほんの少し開けると、白い庭。氷の彫り物に朝が触れて砕け、粉になって風に混じっていた。遠く、掛け声。剣の線。足踏み。静かな戦いのリズム。

廊下は冷たい石の匂い。壁の灯が丸く、足音をやわらかく呑んでいく。

食堂の扉が開く前に、誓環が先に光った。微かな、挨拶みたいな光。

彼はもう来ていた。長いテーブルの端、窓のそば。背に朝を背負って座ると、影が薄い青になって床に落ちた。

二人分の器。間に、湯気がふたつ。

「……静かですね」

声に自分の寝起きが混じる。彼は器を取る手を止めなかった。

「嵐の前は、いつも」

沈黙。スプーンが器の内側に触れて、小さな音。

外から風がひとつ入ってきて、白い花を浮かべた水面に円を走らせた。

「それでも、風の音が恋しい」

「……風は、味方じゃない」

言葉を飲み込む音が、喉の奥で小さく鳴る。

彼の視線が、一瞬だけこちらに留まって、すぐ窓の外へ戻った。外気の冷たさが、窓硝子の白で測れる。

廊下の向こうから、靴の速い音。近衛のひとりが、肩の雪を落として入ってくる。

低く頭を下げ、「今朝の報告を」と言いかけて、視線が私の首筋をかすめた——ほんの、紙一枚ぶんの触れ方で。

誓環が、一度、強く締まる。

息が止まり、器の縁が揺れた。

「……痛い」

思わず漏れて、彼がこちらを振り向く。彼の手首にも同じ輪があり、その縁が白く、硬く光っていた。

「……すまない」

「あなたが、痛いの?」

「……わからない。だが、反応したのは——俺の方だ」

報告に来た男は、何も見なかったふりで言葉を短く終え、下がっていった。

テーブルの上に残されたのは、湯気の筋と、器の浅い音だけ。

「庇ってくれた……の?」

「庇うつもりはなかった」

「誓環は、嘘を嫌うのに」

彼の輪が、わずかに光を深めた。

痛い、と言うほどじゃない。けれど、心のどこかで合図が上がる。ここ、と。

スープが冷めていく。二人とも、ほとんど口をつけないまま、朝は静かにほどけていった。

昼、執務室。

地図の上に、細い色の線がたくさん走っていた。

彼は窓を背に立ち、ペン先を拭いている。紙の匂い。蝋の甘さ。指先の白。

扉を閉めて、距離を量る。昨日より近い。二歩と半分。

机の角に手を置くと、冷たい。誓環が、その冷たさに小さく返事をする。

「助けてくれたんですか」

窓の外にいた視線が、こちらにゆっくり戻る。

一拍、遅れて返る声。

「……庇ったつもりはない」

「でも、痛んだ」

「偶然だ」

「誓環は、偶然を嫌うのに」

——ここ。

輪がまた微かに痛んで、彼が手を引く。机の下で、その手が短く握られるのが見えた気がした。

ペンのキャップが、指から小さく滑った。拾い上げるまでの一拍、蝋の炎がふ、とたわむ。

喉が音にならないまま止まり、すぐ平らに戻る。呼吸が、ひとつ詰まって、整う。

「君は……面倒だ」

「それでも、手放せないでしょう」

ねぇ、と言い切る前に、飲み込む。

言葉が完全になる前の温度だけを、あえて置く。

彼のまぶたが、ほんの少しだけ、長く閉じられて、開く。

誓環の白が、光と痛みを同時に孕んで脈打った。

愛の光でも、契約の痛みでもない。名前が決まる前の、混じった色。

「……相談だ」

彼が地図の端を指で押さえ、別の紙を引き寄せる。

騎士団の配置。王都の門。物資の流れ。

目で追うだけで、誓環が熱を帯びる。戦いという形のすべてに、輪は敏感すぎた。

「噂の方は」

「午后にひとつ、火が上がる」

「誰の」

「南の商会。……いや、名前はまだいらない」

彼が見ているのは地図の線じゃない。私の言葉の切れ目だ。

切れ目をどう繋ぐかで、物語は平和にも戦にもなる。

「午後までに、手を打つ」

「連名で」

「行動で」

私たちは同じ言葉を違う呼吸で言った。

机の上の蝋の炎が、小さく跳ねて、二つの呼吸の間の空気を揺らす。

日が傾く。庭はさらに白くなる。

氷の彫り物の根元で、小さな足跡が折り重なっていた。避難してきた子どもたち。笑い声が雪をくぐり抜け、空へこぼれていく。

「走ると転ぶよ」

声をかけると、笑い声がもう一段高くなる。

雪の玉が手袋の上で崩れて、誓環がそれを映したみたいに、一瞬だけ明るくなる。

ひとりが足を滑らせ、雪の下の固いものに膝を打った。

黒い金属片が覗いて、嫌な角度で光る。古い罠の欠片。誰の、いつの、そんなことより、鋭い縁。

反射で手を伸ばした。自分より先に、誓環の方が反応する。

鋭い冷が、手首から肘、胸へと走った。痛む、というより、引かれた。止まれ、と。

息が詰まる。子どもの目がこちらを見る。

その刹那、影が雪を裂いた。レオンの外套が視界を塞ぎ、彼の腕が子どもを抱き上げる。もう片方の手で、黒い欠片に触れる寸前の雪面が一瞬白く凍り、動きが封じられる。

「……触れるな」

声は低いけれど、叱るのとは違う硬さ。

私の手は空中で止まり、誓環はまだ小刻みにうずいている。

「痛かったの、あなた?」

「俺じゃない。君の方だ」

彼の指が、私の手首を見た。氷の輪が、私の脈と同じ速さで明滅している。

雪の白、彼の息の白、子どもの泣き声が細くなって、やがて、止む。抱き上げられた小さな体が、肩に落ち着きを取り戻していく。

「罠は……昔のもの」

「この庭に、昔は要らなかったものが、今は要る」

「今は、要らない」

短く言い合って、それ以上は言わなかった。

彼は封じた金属片から手を放し、子どもを別の兵に預ける。氷に閉じ込められた黒は、もう何もできない。

私の手はまだ宙にあって、降ろし方を忘れていた。

彼がその手を、空中のまま、視線で支える。触れはしない。誓環がそれを感知したみたいに、痛みをひとつ、吐き出して、静かになった。

「……大丈夫」

誰に向けたのか分からない言い方で言う。

自分の胸にも、子どもの背にも、彼の肩にも、全部に向けたつもりで。

「中へ」

彼はそれだけ言って、私の歩幅に合わせた。雪の上に、二人の足跡。

並び方が少しだけ近く、少しだけ深い。雪がそれを覚える。

夜。

部屋の灯を落とす前に、灰薔薇の日録を開く。紙は冷たく、指先で温めると、ゆっくりと呼吸を始める。

少し待つと、薄い文字が浮かんだ。はじめは色が薄く、やがて濃く。

〈痛み〉

〈庇護〉

〈共鳴〉

三つの言葉が、この順で並び、間に細い矢印が一本ずつ伸びて、隣と結ばれる。

さっきの庭の冷たさと、手首の熱と、子どもの涙と、彼の息。ぜんぶが紙の上で静かに混ざり合い、輪郭を作っていく。

扉の向こうに足音。重さで、誰かが分かる。

立ち止まり、息を整えて、声に変えようとして、やめる。木がわずかに鳴って、沈黙だけが残る。

「……います」

言う必要は、ほんとはないのに。

言ってしまってから、指先で誓環をなぞる。輪が柔らかく光り、痛みではない反応を見せる。名前を呼ばれたのが嬉しい子どものように。

外の足音が、一歩だけ近づいて、また離れる。

扉の木目に額を寄せると、木の匂いの奥に、夜の匂い。庭の白、冷えた石、蝋の甘さ。どれも薄い。けれど、全部いる。

——この痛みが、私の嘘を少しずつ削っていくのなら。

悪くない。

灯を落とす。

闇は冷たいのに、息は温かい。

目を閉じる前、誓環が小さく震えて、光を一滴だけ残した。

氷の夜に、ひとつの痛みが生まれた。

それは、まだ名前を持たない優しさだった。

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