Partager

氷の庭に、痛みは芽吹く

Auteur: 吟色
last update Date de publication: 2025-10-17 06:24:25

世界はもう温まらないのに、息だけが先に温かかった。

目を開けると、薄い光がカーテンの縁をゆらし、手首の誓環がほんのり色を含んでいた。赤というより、夜の名残のような色。触れれば、指先の内側で小さく跳ねる。

扉の向こうで、器の当たる遠い音。運ばれてくる湯気の匂い。

ノックの前の、ためらい一つ。

「入るよ、お嬢」

ニナの声は、朝を起こす声だった。盆の上で湯気が揺れ、軽いパンと、甘くない果実と、薄いスープ。彼女の頬は赤く、息は白い。

「庭の方、ちょっとだけ騒がしい。剣の音、する。……あ、でも怖いほどじゃないやつ」

「訓練?」

「たぶん。ほら、聞こえる?」

耳を澄ますと、金属が擦れる高い線が、朝の白の中に細く伸びた。遠いのに、まっすぐ届く。

誓環がそれに合わせて、ほんの少しだけ脈を打つ。痛いとは言えない、でも、黙っていられないくらいの合図。

「……変な感じ」

「冷えるとき、古傷がうずく、みたいな?」

「古傷、ね。あったかもしれない」

笑うと、誓環がゆるむ。そんな気がした。

スープの湯気を一口だけ分けてもらい、体の中心が静かにほどけていくのを待つ。

「食堂、行ける? 運ぶこともできるけど」

「行くわ。歩きたい」

ニナの目が、安心で少し湿った。

カーテンをほんの少し開けると、白い庭。氷の彫り物に朝が触れて砕け、粉になって風に混じっていた。遠く、掛け声。剣の線。足踏み。静かな戦いのリズム。

廊下は冷たい石の匂い。壁の灯が丸く、足音をやわらかく呑んでいく。

食堂の扉が開く前に、誓環が先に光った。微かな、挨拶みたいな光。

彼はもう来ていた。長いテーブルの端、窓のそば。背に朝を背負って座ると、影が薄い青になって床に落ちた。

二人分の器。間に、湯気がふたつ。

「……静かですね」

声に自分の寝起きが混じる。彼は器を取る手を止めなかった。

「嵐の前は、いつも」

沈黙。スプーンが器の内側に触れて、小さな音。

外から風がひとつ入ってきて、白い花を浮かべた水面に円を走らせた。

「それでも、風の音が恋しい」

「……風は、味方じゃない」

言葉を飲み込む音が、喉の奥で小さく鳴る。

彼の視線が、一瞬だけこちらに留まって、すぐ窓の外へ戻った。外気の冷たさが、窓硝子の白で測れる。

廊下の向こうから、靴の速い音。近衛のひとりが、肩の雪を落として入ってくる。

低く頭を下げ、「今朝の報告を」と言いかけて、視線が私の首筋をかすめた——ほんの、紙一枚ぶんの触れ方で。

誓環が、一度、強く締まる。

息が止まり、器の縁が揺れた。

「……痛い」

思わず漏れて、彼がこちらを振り向く。彼の手首にも同じ輪があり、その縁が白く、硬く光っていた。

「……すまない」

「あなたが、痛いの?」

「……わからない。だが、反応したのは——俺の方だ」

報告に来た男は、何も見なかったふりで言葉を短く終え、下がっていった。

テーブルの上に残されたのは、湯気の筋と、器の浅い音だけ。

「庇ってくれた……の?」

「庇うつもりはなかった」

「誓環は、嘘を嫌うのに」

彼の輪が、わずかに光を深めた。

痛い、と言うほどじゃない。けれど、心のどこかで合図が上がる。ここ、と。

スープが冷めていく。二人とも、ほとんど口をつけないまま、朝は静かにほどけていった。

昼、執務室。

地図の上に、細い色の線がたくさん走っていた。

彼は窓を背に立ち、ペン先を拭いている。紙の匂い。蝋の甘さ。指先の白。

扉を閉めて、距離を量る。昨日より近い。二歩と半分。

机の角に手を置くと、冷たい。誓環が、その冷たさに小さく返事をする。

「助けてくれたんですか」

窓の外にいた視線が、こちらにゆっくり戻る。

一拍、遅れて返る声。

「……庇ったつもりはない」

「でも、痛んだ」

「偶然だ」

「誓環は、偶然を嫌うのに」

——ここ。

輪がまた微かに痛んで、彼が手を引く。机の下で、その手が短く握られるのが見えた気がした。

ペンのキャップが、指から小さく滑った。拾い上げるまでの一拍、蝋の炎がふ、とたわむ。

喉が音にならないまま止まり、すぐ平らに戻る。呼吸が、ひとつ詰まって、整う。

「君は……面倒だ」

「それでも、手放せないでしょう」

ねぇ、と言い切る前に、飲み込む。

言葉が完全になる前の温度だけを、あえて置く。

彼のまぶたが、ほんの少しだけ、長く閉じられて、開く。

誓環の白が、光と痛みを同時に孕んで脈打った。

愛の光でも、契約の痛みでもない。名前が決まる前の、混じった色。

「……相談だ」

彼が地図の端を指で押さえ、別の紙を引き寄せる。

騎士団の配置。王都の門。物資の流れ。

目で追うだけで、誓環が熱を帯びる。戦いという形のすべてに、輪は敏感すぎた。

「噂の方は」

「午后にひとつ、火が上がる」

「誰の」

「南の商会。……いや、名前はまだいらない」

彼が見ているのは地図の線じゃない。私の言葉の切れ目だ。

切れ目をどう繋ぐかで、物語は平和にも戦にもなる。

「午後までに、手を打つ」

「連名で」

「行動で」

私たちは同じ言葉を違う呼吸で言った。

机の上の蝋の炎が、小さく跳ねて、二つの呼吸の間の空気を揺らす。

日が傾く。庭はさらに白くなる。

氷の彫り物の根元で、小さな足跡が折り重なっていた。避難してきた子どもたち。笑い声が雪をくぐり抜け、空へこぼれていく。

「走ると転ぶよ」

声をかけると、笑い声がもう一段高くなる。

雪の玉が手袋の上で崩れて、誓環がそれを映したみたいに、一瞬だけ明るくなる。

ひとりが足を滑らせ、雪の下の固いものに膝を打った。

黒い金属片が覗いて、嫌な角度で光る。古い罠の欠片。誰の、いつの、そんなことより、鋭い縁。

反射で手を伸ばした。自分より先に、誓環の方が反応する。

鋭い冷が、手首から肘、胸へと走った。痛む、というより、引かれた。止まれ、と。

息が詰まる。子どもの目がこちらを見る。

その刹那、影が雪を裂いた。レオンの外套が視界を塞ぎ、彼の腕が子どもを抱き上げる。もう片方の手で、黒い欠片に触れる寸前の雪面が一瞬白く凍り、動きが封じられる。

「……触れるな」

声は低いけれど、叱るのとは違う硬さ。

私の手は空中で止まり、誓環はまだ小刻みにうずいている。

「痛かったの、あなた?」

「俺じゃない。君の方だ」

彼の指が、私の手首を見た。氷の輪が、私の脈と同じ速さで明滅している。

雪の白、彼の息の白、子どもの泣き声が細くなって、やがて、止む。抱き上げられた小さな体が、肩に落ち着きを取り戻していく。

「罠は……昔のもの」

「この庭に、昔は要らなかったものが、今は要る」

「今は、要らない」

短く言い合って、それ以上は言わなかった。

彼は封じた金属片から手を放し、子どもを別の兵に預ける。氷に閉じ込められた黒は、もう何もできない。

私の手はまだ宙にあって、降ろし方を忘れていた。

彼がその手を、空中のまま、視線で支える。触れはしない。誓環がそれを感知したみたいに、痛みをひとつ、吐き出して、静かになった。

「……大丈夫」

誰に向けたのか分からない言い方で言う。

自分の胸にも、子どもの背にも、彼の肩にも、全部に向けたつもりで。

「中へ」

彼はそれだけ言って、私の歩幅に合わせた。雪の上に、二人の足跡。

並び方が少しだけ近く、少しだけ深い。雪がそれを覚える。

夜。

部屋の灯を落とす前に、灰薔薇の日録を開く。紙は冷たく、指先で温めると、ゆっくりと呼吸を始める。

少し待つと、薄い文字が浮かんだ。はじめは色が薄く、やがて濃く。

〈痛み〉

〈庇護〉

〈共鳴〉

三つの言葉が、この順で並び、間に細い矢印が一本ずつ伸びて、隣と結ばれる。

さっきの庭の冷たさと、手首の熱と、子どもの涙と、彼の息。ぜんぶが紙の上で静かに混ざり合い、輪郭を作っていく。

扉の向こうに足音。重さで、誰かが分かる。

立ち止まり、息を整えて、声に変えようとして、やめる。木がわずかに鳴って、沈黙だけが残る。

「……います」

言う必要は、ほんとはないのに。

言ってしまってから、指先で誓環をなぞる。輪が柔らかく光り、痛みではない反応を見せる。名前を呼ばれたのが嬉しい子どものように。

外の足音が、一歩だけ近づいて、また離れる。

扉の木目に額を寄せると、木の匂いの奥に、夜の匂い。庭の白、冷えた石、蝋の甘さ。どれも薄い。けれど、全部いる。

——この痛みが、私の嘘を少しずつ削っていくのなら。

悪くない。

灯を落とす。

闇は冷たいのに、息は温かい。

目を閉じる前、誓環が小さく震えて、光を一滴だけ残した。

氷の夜に、ひとつの痛みが生まれた。

それは、まだ名前を持たない優しさだった。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   薄明の市、嘘の痛み

    東の空が灰色で、屋根の縁だけが少し明るい。市は半分しか開いていない。布をかけた台が並び、値札の端に「風聞割増」と小さく書かれている。列は長いのに、足が進まない。声は低い。門柱の風聞計は〈不安〉が高く、〈好奇〉が中くらい、〈祝福〉は消えたまま。役人の腰の箱に、小さな針が見える。印を押すたび、針がわずかに跳ねて、また戻る。「並んでるのに、前が……動かない」私が言う。「噂が列を増やす」レオンが短く答える。「……先に、支える」「台、借りるね」ニナが瓦版屋に目配せして、小さく手を上げた。「息、整えて」レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る力は弱いまま。誓環は温かいだけ。風聞計の針が、〈好奇〉のほうへほんの少し傾く。瓦版台の上に立つ。人々の視線が、縁をかすめて集まる。「連名で告げる」レオンが先に言う。「——東の代替倉庫を開く」「今夜から、上限を出す」私は呼吸を合わせる。「まず、歩く順を決める」記者が前に出る。手帳を開いたまま、視線は上ずらない。「それ、誰の資金で」「払う」レオンは視線を外さない。「今は、列を進めたい」「詳しい数は、紙で」私は言葉を短く置く。「——ここでは、短く」人垣の端から、若い書記風の男が割って入る。衣の袖口に商会の紋が縫い込んである。「既に我々が手配済みです」男が言う。「港の相場は心配無用」針先で触られたみたいに、誓環がちくりと刺す。「……今」私が小さく息を吸う。「言葉より、列を動かす」レオンは群衆のほうへ目を走らせる。ニナが貼り紙を一枚抜き、角度を変える。「『倉庫—東二番→』」風聞計の札がかすかに動く。〈不安〉がわずかに下がり、〈好奇〉が上がる。噂税の箱で印が押され、針が一度だけ戻って、また揺れた。東二番の共同倉庫は、港風が当たる角にある。扉は二重錠。紐印に“連名封緘”の朱。レオンが鍵を半分だけ回して、手を止める。「一緒に」「うん」私は手首の力を整える。「……強くはしない」二人で同時に回す。鈍い音が一度、扉の芯を抜ける。紐印がほどけて落ちる。中は冷えて、粉と木の匂いが混じる。ニナが列の先頭へ声をかける。「先に子ども、次に夜勤明け」ニナは手を広げて、間隔を作る。「——怪我の人、手を挙げて」「言葉より、手が早い

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   白百合の舞踏、噂の庭

    馬車が白い門をくぐると、宵の灯が水に伸びていた。石畳の手前で降りる。前庭には人が多い。風聞計の掲示が門柱に吊られ、札が少し揺れる。〈好奇〉が上に、〈嫉妬〉も高い。祝福は点かない。「人、多いね」「多いほど、楽だ」レオンが短く言う。「並べばいい」「見られる前提、だよ」ニナが小声でつけ足す。「見せる前提、にする」息を合わせるだけにして、前室へ向かった。廊下の壁に、噂税の注意札が貼られている。今夜は加算率が高いと書いてある。役人の腰の小箱に、小さな針が見えた。印を押すたび、針がほんの少し跳ねる。前室で白百合の公女と対面する。アウローラは清潔な笑みを作り、杯の脚を指先で持った。その指先だけ、ひと呼吸、硬い。視線はまっすぐ、でも奥で少しだけ揺れる。「お噂は届いております」白百合が微笑で言う。「形式にお強いとか」「形式は、守るためにある」レオンは視線を落とさずに答える。「守れたら、少し楽になるから」私も短く重ねる。瓦版記者が筆を止めて、また動かした。伯爵夫人たちがさざ波みたいに近づいては離れる。「契約婚だって」「氷の輪、見える?」空気のほうに声が浮いて、耳に直接は触れない。そのとき、ルカが肩を寄せる。「護衛は充分です」耳にかかるくらいの声。誓環が、針先でつつかれたみたいに微痛を寄こす。私とレオンの視線が同時に外周へ走る。入口、退避、柱の陰、楽師の脇。一周して、ルカへ戻る。「今、ちょっと」「充分ではない」レオンが短く切る。「入口、変える」ルカはうなずき、離れる。ニナが柱影の女中と目を合わせ、貼り紙の矢印を一枚だけ向き替えた。風聞計の札がわずかに動く。〈嫉妬〉がひとつ下がり、〈好奇〉が上がる。「歩き方が合ってる」「氷公、意外に…」ささやきの角度が変わる。扇の骨が一度、鳴って止まる。合図の鐘が遠くで鳴る。大広間の扉が開き、開幕の一曲が始まる。レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る私の指は深くは締めない。「右」「うん」二歩、揃う。腰骨が半拍だけずれ、すぐ戻る。呼吸をひとつ合わせて、視線を床へ落とし、客席へ流し、互いの喉元で止める。誓環の薄い光が床面で反射し、波みたいに横へ走る。足首のところを、すっと跨いで消えた。近い席の靴裏が、板をかすめる。「

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   運河の灯、連名の歩幅

    夕方の邸は、音が少ない。廊下の灯が順に点いて、息が整う。ユリウスが足を止めた。短く敬礼して、紙片を差し出す。「桟橋の風聞計、今夜は〈嫉妬〉が高い。〈恐れ〉〈好奇〉中。噂税も上がる」「了解した」レオンの声は平ら。私はうなずくだけ。ニナが外套を肩にかけてくれる。襟を直して、日録を私の手に乗せる。「書けなくても、持ってて。吸って、吐いて、が楽になる」「ありがとう」手首の誓環は静か。温かいだけ。「……行くんですね」「行く。君と」「うん、二人で。私も、ちょっとだけ」レオンがニナへ目だけ向ける。「影に」「心得てる」短い支度。扉が開く。冷たい空気が入る。歩き出す。*桟橋は、人の視線でざわついていた。風聞計の札が吊られて、今夜の空気が並ぶ。〈嫉妬〉が一番上。「『見せつけてる』『ほんとに夫婦?』って、小さく空気がざわつく。」役人が帳面を抱えて近づく。「ご夫婦、連名での入城ですね。今夜は風聞圧が高い。税率も——」「連名だ」レオンが先に答える。私は隣に立つ。群衆の視線が、私の手首へ集まる。氷の輪が見えるらしい。「……大丈夫です。私たちで、答えます」声に力を入れないで言う。誓環が淡く光る。痛みはない。〈嫉妬〉が一段下がって、〈好奇〉が少し上がる。そこで、顔色の悪い男が人混みを割ってきた。見覚えがある。「王都調査官のルカです。同船します。封呪の件、王都で続報が」「乗れ」レオンが短く返す。次の瞬間、彼が腕を差し出す。袖が、すこし触れた。歩幅を合わせる合図。私は受け取る。視線が一段、静かになる。役人が印を押す音。役人の腰の箱の小さな札メーターが、針を震わせた。船へ。*夜の運河は、船底に水の音が続く。灯が点々と流れていく。デッキに出ると、冷たい風が頬を撫でた。ルカが報告書を半分だけ開く。「(小声)倒れた使者の衣から、“鈴印”の粉が。聖堂の封呪媒と同系統……断定はできませんが。乾いた香りがします」「名を出すな」レオンが切る。ルカの喉が詰まる。「港ではテオが噂を買っています。噂は貨幣に。供給網も押さえられつつ」私は運河の匂いを吸って、吐く。「じゃあ、使えばいい。……行動で」レオンが視線だけで同意する。「……並んで立て」二人で手すりに並ぶ。何も言わない。見られることを、こちらから選ぶ。船室の窓がいくつも開いて、目がこちら

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   雪の記憶を抱く手

    夜の底がほどけかけて、窓の白が少しずつ息をする。灰薔薇の日録をひらくと、昨日の〈名前〉のあとに、ごく薄い滲みが残っていた。指で触れた瞬間、手首の誓環があたたかく跳ねる。映像はないのに、胸の内側に——誰かを腕に抱いた、やわらかい重さだけが、そっと置かれた。廊下の向こうで足音が止まり、扉板が木の匂いを立てる。「……呼んだ?」声が出た自分に少し驚く。扉の隙がひらいて、低い呼吸が混ざる。「呼ばれた気がした」彼はいつもの角度で立ち、部屋の空気を崩さない。わたしたちはことばの先を持たないまま、窓辺へ並ぶ。外は白く、音が遠い。「袖……」視線の端、彼の手首近く。布の裏に、指先ほどの朱。彼は目で否定も肯定もしない。「……痛いの?」「痛みを残すと、静かになる」「静かにするために、痛むの?」「昔、消そうとして……声を失った」沈黙が、部屋の四隅へ薄く広がる。誓環がそのあいだで、小さな灯りを立てた。「その声……誰の?」彼は窓の外を見たまま、喉をひとつ動かす。白い庭に、吐く息が映る。「妹の。名は、もう覚えていない」冬の匂いが、胸の真ん中まで下りてきて留まる。言葉を入れると崩れる空気があって、いまはそれだった。ただ、隣に立つ。「君の誓環が、さっき……共鳴したのは、その記憶かもしれない」「……呼ばれたのは、あなたの過去」「そして、君が受け取った」ふたつの輪が、同じ速さで明滅して、すぐ引っ込む。灰薔薇の日録が、机の上でひとりでに息をした。紙の縁が、夜の名残りを吸って柔らかくなる。「触れて、いい?」返事を待たず、指の腹でページの端に触れる。瞬間、空気の密度が変わった。静かな部屋が、遠くの雪原みたいに広がって、時間が薄い膜になって揺れる。——雪の匂い。——少年の、少し高い声。——小さな手を抱いた、かすかな重さ。——呼んでも、返らない呼吸。彼の肩が、わずかに固くなる。息を吸い損ねたみたいに、胸の前で止まる。「……いま、誰を見てるの」声は小さく、輪に触れない。彼は答えないで、指の骨が白くなるほど手のひらを握った。「君じゃない。……でも、君の声で、呼ばれた」「じゃあ、戻ってきて。——もう一度」彼の手の上に、自分の手を置く。手袋ごしでもわかる温度。誓環が、合図みたいにふっと光った。しばらく、何も言わない。空気の波だけが

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   硝子越しの声、雪の向こうの名

    雪は降らない朝だった。白は残っているのに、庭の輪郭が少しだけ近い。灰薔薇の日録をひらくと、紙の上にひと文字だけ浮かぶ。〈沈黙〉指先で角をなぞって、閉じる。誓環はおとなしい。温度だけ、かすかに。扉の外で、弾む足音。ためらい一拍、ノック。「入るよ、お嬢」「どうしたの」「王都から……人。えっと、えらい感じの」ニナの声に、誓環がうすく灯る。拒むみたいに。深呼吸をひとつ。立ち上がる。*応接の空気は冷たく整っていて、硝子に薄い光が走っていた。若い男が立っている。灰の外套、真新しい手袋、腰の印章。「王都直属、調査の任にございます」言葉は丁寧。目だけ、探る音をしていた。レオンは椅子の背へ指先をかけ、座る気配を作る。私はその斜め隣。「先日の件、負傷者の傷に刻まれていた印を拝見したく」「記録は渡す。だが現物は消えた」「消える性質は、禁じられた術式に似ております」「似ている、ではなく同じだろう」短く切られて、男のまつ毛が一度揺れた。「その判断は、我々の権限で」「“痛み”を、見たんです」自分でも驚いた。言葉が先に出た。男の視線がこちらへ滑る。「痛み……と仰るのは」「印から、声がしました。あの朝」沈黙。レオンが、ゆっくり私を見る。誓環が指一本ぶん、明るくなる。「声、とは——」「彼女の言葉を、軽く聞くな」「いえ、ただ……記述のために」男のペン先が、空気を掴み損ねたみたいに小さく震えた。誓環の光が、テーブルの木目にひと拍強く落ちる。「……干渉反応、ですか。この光は」「質問の権利を失ったな」レオンの声は低く平らで、刃の背の温度。場が、すこし凍る。私は窓の硝子に目をやる。遠い白の上、赤い影が一瞬だけ浮かんで、消えた。残滓。誰かの呼気みたいな、薄い記憶。使者は紙をまとめ、礼を置いて下がる。扉が閉まる音が静かすぎて、心臓の音が少し大きくなる。*廊下に出ると、誰もいない朝の匂い。硝子越しに日が動く。「……怒った?」隣を歩く背に、問いだけ置く。返るまでの間が、長すぎず、短すぎず。「怒ってはいない」「でも、声が少し……冷たく」「冷やさないと、崩れる」「崩れても、いいのに」足音がそろって、ずれて、またそろう。誓環が一度、ふたりの間で明滅。「……君は、そうやって平気な顔をする」「平気じゃないよ。

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   氷に咲く、ひとひらの血

    世界は息をひそめて、窓の白だけがゆっくり動いていた。灰薔薇の日録には、今朝は何も浮かばない。ページは冷たく、手首の誓環はおとなしい。静けさは楽なのに、少しだけ、こわい。扉の向こうで、慌ただしい歩幅。ためらいが一拍、それからノック。「入るよ、お嬢」ニナの頬は風色で、目元だけ濡れていた。盆の上の湯気がゆらいで、言葉が落ちる。「門の外で……血が」体のどこかが、先に縮む。誓環が、遅れて、うすく灯った。*雪はひかりを細かく砕いて、庭じゅうに撒いていた。白い真ん中に、ひとつだけ赤。倒れた兵の肩口が染まっていて、手袋が濡れる前に、誓環が先に脈を打つ。「……知らない人なのに、どうして」自分に向けた声が外へこぼれる。足元の雪が、きゅ、と鳴る。「契約の範囲が広がっている」背後でレオンの息が白くほどける。膝をついた彼の指が、傷の縁に触れずに周りだけを見る。血の下に、黒い印。細い針で縫ったみたいな線が、肌のうえでほどけずに絡んでいる。「封じてある。……だれかの手が、近い」彼の声は低いのに、刃の背みたいに平ら。怒っている、というより、怒りを冷やして鞘に戻した温度。兵はうめいて、眉をよせる。誓環がさらに熱を足す。私の痛みじゃないのに、胸の内側が小さく引かれる。ニナが布を押さえ、兵の呼吸が浅く整っていく。雪の上に、赤い花がひとひら。冷たさに縁取られて、きれいで、いやだ。*夜が深くなる前、部屋の灯は低く、言葉は控えめになっていく。窓をかすめる風の音。机に置いた手の下で、誓環がまだ、薄く。「王都へ知らせる。印の出処がわかれば——」レオンが上着を取る。背中の布が鳴って、立ち上がる気配。「待って」袖口を指でつまむ。布越しの体温が、少しだけ高い。言い切る前に、言葉の色だけを渡す。「……まだ、だめ。あの印、あなたのと同じ匂いがした」「俺の?」ゆるく、視線が落ちてくる。「冷たいのに、焼ける。……そういう匂い」沈黙。誓環が、ほそく震えた。「俺が見てくる」「一人で行かないで」袖口の布が、指の間で少ししわになる。言った瞬間、誓環が柔らかく灯る。承諾の光。彼は短く息を吐き、上着を片手で直した。「夜明け前に出る」「ええ」言葉を置きすぎないように、うなずきだけで。*空があおくなる少し前、街道は音を吸っていた。雪はやみ、硬くなった地

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   灯の名を知らない夜

    雪は昼の光をやわらかく返して、薄い粉になって空気に混ざっていた。世界が静かすぎて、胸の奥の音が外へこぼれそうな午後。灰薔薇の日録をひらくと、紙の肌にゆっくりと言葉が上がってくる。〈共鳴〉〈安堵〉〈兆し〉手首の誓環が、同じ間隔でかすかに脈を打つ。痛みはない。ただ、温度だけ。その時、扉の向こうで短いノック。木の繊維がふるえ、低い声が落ちた。「入る」レオン。白手袋を外して近づき、封書を机へ置く。紋章の赤が光を吸って、朝より深い色。私は端だけ指でなぞり、目で読み、息をゆっくり吐いた。彼は何も言わない。沈黙が、部屋の隅からすこしずつ積もっていく。「……怖くは、ないんですね」自分の

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   氷の邸と、誓環の息

    世界がまだ寒いのに、息だけが先に温かかった。護送馬車の幌が少し上がって、朝靄の底から邸が姿を上げる。黒と白の石が静かに積まれ、外壁の縁に薄い氷の彫り物。光がそこに触れて砕け、粉のような白が風に混ざった。門が開く瞬間、手首の誓環がほのかに灯る。約束に、朝が触れた合図。「——お嬢!」駆け寄ってきた影に腕をつかまれて、やっと笑みを作る。栗色の三つ編み、鍵束の音。ニナの息は白く、目は少し湿っている。「生きて……ちがう、よかった。ほんま、よかった」「泣かないで。泣いたら、私まで崩れる」泣き笑いの顔がぐしゃっと歪んで、すぐ戻る。ニナは袖で鼻を拭き、小声でささやいた。「ねぇ、お嬢。ここ、寒い

  • 契約だけのはずが氷男爵の独占欲は嘘を赦さない   氷の誓環は、朝に溶ける。

    蝋の火は、小さな心臓みたいに揺れていた。冷えた石の壁は夜を抱え込み、息をするたび白くほどける。机の上の薄い紙に、丸い染みがひとつ、またひとつ。涙か、蝋か、血か。もう、どれでもよかった。——やり直せるなんて、思ってなかった。でも、もしもう一度だけ“選べる”なら。筆が静かに止まったとき、廊下の向こうで鉄が鳴った。重たい扉が、きぃ……と、眠れない夜の背中を裂く。黒が滲み、風が流れ込む。そこに立つ輪郭は、冬を連れてきたみたいに、空気を澄ませた。氷の色の瞳。無駄のない所作。息の音まで静かに整っている。「……君が、最後に会いたい相手がいると聞いた」低く、温度の決められた声。蝋燭

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status