LOGIN世界はもう温まらないのに、息だけが先に温かかった。
目を開けると、薄い光がカーテンの縁をゆらし、手首の誓環がほんのり色を含んでいた。赤というより、夜の名残のような色。触れれば、指先の内側で小さく跳ねる。 扉の向こうで、器の当たる遠い音。運ばれてくる湯気の匂い。 ノックの前の、ためらい一つ。 「入るよ、お嬢」 ニナの声は、朝を起こす声だった。盆の上で湯気が揺れ、軽いパンと、甘くない果実と、薄いスープ。彼女の頬は赤く、息は白い。 「庭の方、ちょっとだけ騒がしい。剣の音、する。……あ、でも怖いほどじゃないやつ」 「訓練?」 「たぶん。ほら、聞こえる?」 耳を澄ますと、金属が擦れる高い線が、朝の白の中に細く伸びた。遠いのに、まっすぐ届く。 誓環がそれに合わせて、ほんの少しだけ脈を打つ。痛いとは言えない、でも、黙っていられないくらいの合図。 「……変な感じ」 「冷えるとき、古傷がうずく、みたいな?」 「古傷、ね。あったかもしれない」 笑うと、誓環がゆるむ。そんな気がした。 スープの湯気を一口だけ分けてもらい、体の中心が静かにほどけていくのを待つ。 「食堂、行ける? 運ぶこともできるけど」 「行くわ。歩きたい」 ニナの目が、安心で少し湿った。 カーテンをほんの少し開けると、白い庭。氷の彫り物に朝が触れて砕け、粉になって風に混じっていた。遠く、掛け声。剣の線。足踏み。静かな戦いのリズム。 廊下は冷たい石の匂い。壁の灯が丸く、足音をやわらかく呑んでいく。 食堂の扉が開く前に、誓環が先に光った。微かな、挨拶みたいな光。 彼はもう来ていた。長いテーブルの端、窓のそば。背に朝を背負って座ると、影が薄い青になって床に落ちた。 二人分の器。間に、湯気がふたつ。 「……静かですね」 声に自分の寝起きが混じる。彼は器を取る手を止めなかった。 「嵐の前は、いつも」 沈黙。スプーンが器の内側に触れて、小さな音。 外から風がひとつ入ってきて、白い花を浮かべた水面に円を走らせた。 「それでも、風の音が恋しい」 「……風は、味方じゃない」 言葉を飲み込む音が、喉の奥で小さく鳴る。 彼の視線が、一瞬だけこちらに留まって、すぐ窓の外へ戻った。外気の冷たさが、窓硝子の白で測れる。 廊下の向こうから、靴の速い音。近衛のひとりが、肩の雪を落として入ってくる。 低く頭を下げ、「今朝の報告を」と言いかけて、視線が私の首筋をかすめた——ほんの、紙一枚ぶんの触れ方で。 誓環が、一度、強く締まる。 息が止まり、器の縁が揺れた。 「……痛い」 思わず漏れて、彼がこちらを振り向く。彼の手首にも同じ輪があり、その縁が白く、硬く光っていた。 「……すまない」 「あなたが、痛いの?」 「……わからない。だが、反応したのは——俺の方だ」 報告に来た男は、何も見なかったふりで言葉を短く終え、下がっていった。 テーブルの上に残されたのは、湯気の筋と、器の浅い音だけ。 「庇ってくれた……の?」 「庇うつもりはなかった」 「誓環は、嘘を嫌うのに」 彼の輪が、わずかに光を深めた。 痛い、と言うほどじゃない。けれど、心のどこかで合図が上がる。ここ、と。 スープが冷めていく。二人とも、ほとんど口をつけないまま、朝は静かにほどけていった。 * 昼、執務室。 地図の上に、細い色の線がたくさん走っていた。 彼は窓を背に立ち、ペン先を拭いている。紙の匂い。蝋の甘さ。指先の白。 扉を閉めて、距離を量る。昨日より近い。二歩と半分。 机の角に手を置くと、冷たい。誓環が、その冷たさに小さく返事をする。 「助けてくれたんですか」 窓の外にいた視線が、こちらにゆっくり戻る。 一拍、遅れて返る声。 「……庇ったつもりはない」 「でも、痛んだ」 「偶然だ」 「誓環は、偶然を嫌うのに」 ——ここ。 輪がまた微かに痛んで、彼が手を引く。机の下で、その手が短く握られるのが見えた気がした。 ペンのキャップが、指から小さく滑った。拾い上げるまでの一拍、蝋の炎がふ、とたわむ。 喉が音にならないまま止まり、すぐ平らに戻る。呼吸が、ひとつ詰まって、整う。 「君は……面倒だ」 「それでも、手放せないでしょう」 ねぇ、と言い切る前に、飲み込む。 言葉が完全になる前の温度だけを、あえて置く。 彼のまぶたが、ほんの少しだけ、長く閉じられて、開く。 誓環の白が、光と痛みを同時に孕んで脈打った。 愛の光でも、契約の痛みでもない。名前が決まる前の、混じった色。 「……相談だ」 彼が地図の端を指で押さえ、別の紙を引き寄せる。 騎士団の配置。王都の門。物資の流れ。 目で追うだけで、誓環が熱を帯びる。戦いという形のすべてに、輪は敏感すぎた。 「噂の方は」 「午后にひとつ、火が上がる」 「誰の」 「南の商会。……いや、名前はまだいらない」 彼が見ているのは地図の線じゃない。私の言葉の切れ目だ。 切れ目をどう繋ぐかで、物語は平和にも戦にもなる。 「午後までに、手を打つ」 「連名で」 「行動で」 私たちは同じ言葉を違う呼吸で言った。 机の上の蝋の炎が、小さく跳ねて、二つの呼吸の間の空気を揺らす。 * 日が傾く。庭はさらに白くなる。 氷の彫り物の根元で、小さな足跡が折り重なっていた。避難してきた子どもたち。笑い声が雪をくぐり抜け、空へこぼれていく。 「走ると転ぶよ」 声をかけると、笑い声がもう一段高くなる。 雪の玉が手袋の上で崩れて、誓環がそれを映したみたいに、一瞬だけ明るくなる。 ひとりが足を滑らせ、雪の下の固いものに膝を打った。 黒い金属片が覗いて、嫌な角度で光る。古い罠の欠片。誰の、いつの、そんなことより、鋭い縁。 反射で手を伸ばした。自分より先に、誓環の方が反応する。 鋭い冷が、手首から肘、胸へと走った。痛む、というより、引かれた。止まれ、と。 息が詰まる。子どもの目がこちらを見る。 その刹那、影が雪を裂いた。レオンの外套が視界を塞ぎ、彼の腕が子どもを抱き上げる。もう片方の手で、黒い欠片に触れる寸前の雪面が一瞬白く凍り、動きが封じられる。 「……触れるな」 声は低いけれど、叱るのとは違う硬さ。 私の手は空中で止まり、誓環はまだ小刻みにうずいている。 「痛かったの、あなた?」 「俺じゃない。君の方だ」 彼の指が、私の手首を見た。氷の輪が、私の脈と同じ速さで明滅している。 雪の白、彼の息の白、子どもの泣き声が細くなって、やがて、止む。抱き上げられた小さな体が、肩に落ち着きを取り戻していく。 「罠は……昔のもの」 「この庭に、昔は要らなかったものが、今は要る」 「今は、要らない」 短く言い合って、それ以上は言わなかった。 彼は封じた金属片から手を放し、子どもを別の兵に預ける。氷に閉じ込められた黒は、もう何もできない。 私の手はまだ宙にあって、降ろし方を忘れていた。 彼がその手を、空中のまま、視線で支える。触れはしない。誓環がそれを感知したみたいに、痛みをひとつ、吐き出して、静かになった。 「……大丈夫」 誰に向けたのか分からない言い方で言う。 自分の胸にも、子どもの背にも、彼の肩にも、全部に向けたつもりで。 「中へ」 彼はそれだけ言って、私の歩幅に合わせた。雪の上に、二人の足跡。 並び方が少しだけ近く、少しだけ深い。雪がそれを覚える。 * 夜。 部屋の灯を落とす前に、灰薔薇の日録を開く。紙は冷たく、指先で温めると、ゆっくりと呼吸を始める。 少し待つと、薄い文字が浮かんだ。はじめは色が薄く、やがて濃く。 〈痛み〉 〈庇護〉 〈共鳴〉 三つの言葉が、この順で並び、間に細い矢印が一本ずつ伸びて、隣と結ばれる。 さっきの庭の冷たさと、手首の熱と、子どもの涙と、彼の息。ぜんぶが紙の上で静かに混ざり合い、輪郭を作っていく。 扉の向こうに足音。重さで、誰かが分かる。 立ち止まり、息を整えて、声に変えようとして、やめる。木がわずかに鳴って、沈黙だけが残る。 「……います」 言う必要は、ほんとはないのに。 言ってしまってから、指先で誓環をなぞる。輪が柔らかく光り、痛みではない反応を見せる。名前を呼ばれたのが嬉しい子どものように。 外の足音が、一歩だけ近づいて、また離れる。 扉の木目に額を寄せると、木の匂いの奥に、夜の匂い。庭の白、冷えた石、蝋の甘さ。どれも薄い。けれど、全部いる。 ——この痛みが、私の嘘を少しずつ削っていくのなら。 悪くない。 灯を落とす。 闇は冷たいのに、息は温かい。 目を閉じる前、誓環が小さく震えて、光を一滴だけ残した。 氷の夜に、ひとつの痛みが生まれた。 それは、まだ名前を持たない優しさだった。東の空が灰色で、屋根の縁だけが少し明るい。市は半分しか開いていない。布をかけた台が並び、値札の端に「風聞割増」と小さく書かれている。列は長いのに、足が進まない。声は低い。門柱の風聞計は〈不安〉が高く、〈好奇〉が中くらい、〈祝福〉は消えたまま。役人の腰の箱に、小さな針が見える。印を押すたび、針がわずかに跳ねて、また戻る。「並んでるのに、前が……動かない」私が言う。「噂が列を増やす」レオンが短く答える。「……先に、支える」「台、借りるね」ニナが瓦版屋に目配せして、小さく手を上げた。「息、整えて」レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る力は弱いまま。誓環は温かいだけ。風聞計の針が、〈好奇〉のほうへほんの少し傾く。瓦版台の上に立つ。人々の視線が、縁をかすめて集まる。「連名で告げる」レオンが先に言う。「——東の代替倉庫を開く」「今夜から、上限を出す」私は呼吸を合わせる。「まず、歩く順を決める」記者が前に出る。手帳を開いたまま、視線は上ずらない。「それ、誰の資金で」「払う」レオンは視線を外さない。「今は、列を進めたい」「詳しい数は、紙で」私は言葉を短く置く。「——ここでは、短く」人垣の端から、若い書記風の男が割って入る。衣の袖口に商会の紋が縫い込んである。「既に我々が手配済みです」男が言う。「港の相場は心配無用」針先で触られたみたいに、誓環がちくりと刺す。「……今」私が小さく息を吸う。「言葉より、列を動かす」レオンは群衆のほうへ目を走らせる。ニナが貼り紙を一枚抜き、角度を変える。「『倉庫—東二番→』」風聞計の札がかすかに動く。〈不安〉がわずかに下がり、〈好奇〉が上がる。噂税の箱で印が押され、針が一度だけ戻って、また揺れた。東二番の共同倉庫は、港風が当たる角にある。扉は二重錠。紐印に“連名封緘”の朱。レオンが鍵を半分だけ回して、手を止める。「一緒に」「うん」私は手首の力を整える。「……強くはしない」二人で同時に回す。鈍い音が一度、扉の芯を抜ける。紐印がほどけて落ちる。中は冷えて、粉と木の匂いが混じる。ニナが列の先頭へ声をかける。「先に子ども、次に夜勤明け」ニナは手を広げて、間隔を作る。「——怪我の人、手を挙げて」「言葉より、手が早い
馬車が白い門をくぐると、宵の灯が水に伸びていた。石畳の手前で降りる。前庭には人が多い。風聞計の掲示が門柱に吊られ、札が少し揺れる。〈好奇〉が上に、〈嫉妬〉も高い。祝福は点かない。「人、多いね」「多いほど、楽だ」レオンが短く言う。「並べばいい」「見られる前提、だよ」ニナが小声でつけ足す。「見せる前提、にする」息を合わせるだけにして、前室へ向かった。廊下の壁に、噂税の注意札が貼られている。今夜は加算率が高いと書いてある。役人の腰の小箱に、小さな針が見えた。印を押すたび、針がほんの少し跳ねる。前室で白百合の公女と対面する。アウローラは清潔な笑みを作り、杯の脚を指先で持った。その指先だけ、ひと呼吸、硬い。視線はまっすぐ、でも奥で少しだけ揺れる。「お噂は届いております」白百合が微笑で言う。「形式にお強いとか」「形式は、守るためにある」レオンは視線を落とさずに答える。「守れたら、少し楽になるから」私も短く重ねる。瓦版記者が筆を止めて、また動かした。伯爵夫人たちがさざ波みたいに近づいては離れる。「契約婚だって」「氷の輪、見える?」空気のほうに声が浮いて、耳に直接は触れない。そのとき、ルカが肩を寄せる。「護衛は充分です」耳にかかるくらいの声。誓環が、針先でつつかれたみたいに微痛を寄こす。私とレオンの視線が同時に外周へ走る。入口、退避、柱の陰、楽師の脇。一周して、ルカへ戻る。「今、ちょっと」「充分ではない」レオンが短く切る。「入口、変える」ルカはうなずき、離れる。ニナが柱影の女中と目を合わせ、貼り紙の矢印を一枚だけ向き替えた。風聞計の札がわずかに動く。〈嫉妬〉がひとつ下がり、〈好奇〉が上がる。「歩き方が合ってる」「氷公、意外に…」ささやきの角度が変わる。扇の骨が一度、鳴って止まる。合図の鐘が遠くで鳴る。大広間の扉が開き、開幕の一曲が始まる。レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る私の指は深くは締めない。「右」「うん」二歩、揃う。腰骨が半拍だけずれ、すぐ戻る。呼吸をひとつ合わせて、視線を床へ落とし、客席へ流し、互いの喉元で止める。誓環の薄い光が床面で反射し、波みたいに横へ走る。足首のところを、すっと跨いで消えた。近い席の靴裏が、板をかすめる。「
夕方の邸は、音が少ない。廊下の灯が順に点いて、息が整う。ユリウスが足を止めた。短く敬礼して、紙片を差し出す。「桟橋の風聞計、今夜は〈嫉妬〉が高い。〈恐れ〉〈好奇〉中。噂税も上がる」「了解した」レオンの声は平ら。私はうなずくだけ。ニナが外套を肩にかけてくれる。襟を直して、日録を私の手に乗せる。「書けなくても、持ってて。吸って、吐いて、が楽になる」「ありがとう」手首の誓環は静か。温かいだけ。「……行くんですね」「行く。君と」「うん、二人で。私も、ちょっとだけ」レオンがニナへ目だけ向ける。「影に」「心得てる」短い支度。扉が開く。冷たい空気が入る。歩き出す。*桟橋は、人の視線でざわついていた。風聞計の札が吊られて、今夜の空気が並ぶ。〈嫉妬〉が一番上。「『見せつけてる』『ほんとに夫婦?』って、小さく空気がざわつく。」役人が帳面を抱えて近づく。「ご夫婦、連名での入城ですね。今夜は風聞圧が高い。税率も——」「連名だ」レオンが先に答える。私は隣に立つ。群衆の視線が、私の手首へ集まる。氷の輪が見えるらしい。「……大丈夫です。私たちで、答えます」声に力を入れないで言う。誓環が淡く光る。痛みはない。〈嫉妬〉が一段下がって、〈好奇〉が少し上がる。そこで、顔色の悪い男が人混みを割ってきた。見覚えがある。「王都調査官のルカです。同船します。封呪の件、王都で続報が」「乗れ」レオンが短く返す。次の瞬間、彼が腕を差し出す。袖が、すこし触れた。歩幅を合わせる合図。私は受け取る。視線が一段、静かになる。役人が印を押す音。役人の腰の箱の小さな札メーターが、針を震わせた。船へ。*夜の運河は、船底に水の音が続く。灯が点々と流れていく。デッキに出ると、冷たい風が頬を撫でた。ルカが報告書を半分だけ開く。「(小声)倒れた使者の衣から、“鈴印”の粉が。聖堂の封呪媒と同系統……断定はできませんが。乾いた香りがします」「名を出すな」レオンが切る。ルカの喉が詰まる。「港ではテオが噂を買っています。噂は貨幣に。供給網も押さえられつつ」私は運河の匂いを吸って、吐く。「じゃあ、使えばいい。……行動で」レオンが視線だけで同意する。「……並んで立て」二人で手すりに並ぶ。何も言わない。見られることを、こちらから選ぶ。船室の窓がいくつも開いて、目がこちら
夜の底がほどけかけて、窓の白が少しずつ息をする。灰薔薇の日録をひらくと、昨日の〈名前〉のあとに、ごく薄い滲みが残っていた。指で触れた瞬間、手首の誓環があたたかく跳ねる。映像はないのに、胸の内側に——誰かを腕に抱いた、やわらかい重さだけが、そっと置かれた。廊下の向こうで足音が止まり、扉板が木の匂いを立てる。「……呼んだ?」声が出た自分に少し驚く。扉の隙がひらいて、低い呼吸が混ざる。「呼ばれた気がした」彼はいつもの角度で立ち、部屋の空気を崩さない。わたしたちはことばの先を持たないまま、窓辺へ並ぶ。外は白く、音が遠い。「袖……」視線の端、彼の手首近く。布の裏に、指先ほどの朱。彼は目で否定も肯定もしない。「……痛いの?」「痛みを残すと、静かになる」「静かにするために、痛むの?」「昔、消そうとして……声を失った」沈黙が、部屋の四隅へ薄く広がる。誓環がそのあいだで、小さな灯りを立てた。「その声……誰の?」彼は窓の外を見たまま、喉をひとつ動かす。白い庭に、吐く息が映る。「妹の。名は、もう覚えていない」冬の匂いが、胸の真ん中まで下りてきて留まる。言葉を入れると崩れる空気があって、いまはそれだった。ただ、隣に立つ。「君の誓環が、さっき……共鳴したのは、その記憶かもしれない」「……呼ばれたのは、あなたの過去」「そして、君が受け取った」ふたつの輪が、同じ速さで明滅して、すぐ引っ込む。灰薔薇の日録が、机の上でひとりでに息をした。紙の縁が、夜の名残りを吸って柔らかくなる。「触れて、いい?」返事を待たず、指の腹でページの端に触れる。瞬間、空気の密度が変わった。静かな部屋が、遠くの雪原みたいに広がって、時間が薄い膜になって揺れる。——雪の匂い。——少年の、少し高い声。——小さな手を抱いた、かすかな重さ。——呼んでも、返らない呼吸。彼の肩が、わずかに固くなる。息を吸い損ねたみたいに、胸の前で止まる。「……いま、誰を見てるの」声は小さく、輪に触れない。彼は答えないで、指の骨が白くなるほど手のひらを握った。「君じゃない。……でも、君の声で、呼ばれた」「じゃあ、戻ってきて。——もう一度」彼の手の上に、自分の手を置く。手袋ごしでもわかる温度。誓環が、合図みたいにふっと光った。しばらく、何も言わない。空気の波だけが
雪は降らない朝だった。白は残っているのに、庭の輪郭が少しだけ近い。灰薔薇の日録をひらくと、紙の上にひと文字だけ浮かぶ。〈沈黙〉指先で角をなぞって、閉じる。誓環はおとなしい。温度だけ、かすかに。扉の外で、弾む足音。ためらい一拍、ノック。「入るよ、お嬢」「どうしたの」「王都から……人。えっと、えらい感じの」ニナの声に、誓環がうすく灯る。拒むみたいに。深呼吸をひとつ。立ち上がる。*応接の空気は冷たく整っていて、硝子に薄い光が走っていた。若い男が立っている。灰の外套、真新しい手袋、腰の印章。「王都直属、調査の任にございます」言葉は丁寧。目だけ、探る音をしていた。レオンは椅子の背へ指先をかけ、座る気配を作る。私はその斜め隣。「先日の件、負傷者の傷に刻まれていた印を拝見したく」「記録は渡す。だが現物は消えた」「消える性質は、禁じられた術式に似ております」「似ている、ではなく同じだろう」短く切られて、男のまつ毛が一度揺れた。「その判断は、我々の権限で」「“痛み”を、見たんです」自分でも驚いた。言葉が先に出た。男の視線がこちらへ滑る。「痛み……と仰るのは」「印から、声がしました。あの朝」沈黙。レオンが、ゆっくり私を見る。誓環が指一本ぶん、明るくなる。「声、とは——」「彼女の言葉を、軽く聞くな」「いえ、ただ……記述のために」男のペン先が、空気を掴み損ねたみたいに小さく震えた。誓環の光が、テーブルの木目にひと拍強く落ちる。「……干渉反応、ですか。この光は」「質問の権利を失ったな」レオンの声は低く平らで、刃の背の温度。場が、すこし凍る。私は窓の硝子に目をやる。遠い白の上、赤い影が一瞬だけ浮かんで、消えた。残滓。誰かの呼気みたいな、薄い記憶。使者は紙をまとめ、礼を置いて下がる。扉が閉まる音が静かすぎて、心臓の音が少し大きくなる。*廊下に出ると、誰もいない朝の匂い。硝子越しに日が動く。「……怒った?」隣を歩く背に、問いだけ置く。返るまでの間が、長すぎず、短すぎず。「怒ってはいない」「でも、声が少し……冷たく」「冷やさないと、崩れる」「崩れても、いいのに」足音がそろって、ずれて、またそろう。誓環が一度、ふたりの間で明滅。「……君は、そうやって平気な顔をする」「平気じゃないよ。
世界は息をひそめて、窓の白だけがゆっくり動いていた。灰薔薇の日録には、今朝は何も浮かばない。ページは冷たく、手首の誓環はおとなしい。静けさは楽なのに、少しだけ、こわい。扉の向こうで、慌ただしい歩幅。ためらいが一拍、それからノック。「入るよ、お嬢」ニナの頬は風色で、目元だけ濡れていた。盆の上の湯気がゆらいで、言葉が落ちる。「門の外で……血が」体のどこかが、先に縮む。誓環が、遅れて、うすく灯った。*雪はひかりを細かく砕いて、庭じゅうに撒いていた。白い真ん中に、ひとつだけ赤。倒れた兵の肩口が染まっていて、手袋が濡れる前に、誓環が先に脈を打つ。「……知らない人なのに、どうして」自分に向けた声が外へこぼれる。足元の雪が、きゅ、と鳴る。「契約の範囲が広がっている」背後でレオンの息が白くほどける。膝をついた彼の指が、傷の縁に触れずに周りだけを見る。血の下に、黒い印。細い針で縫ったみたいな線が、肌のうえでほどけずに絡んでいる。「封じてある。……だれかの手が、近い」彼の声は低いのに、刃の背みたいに平ら。怒っている、というより、怒りを冷やして鞘に戻した温度。兵はうめいて、眉をよせる。誓環がさらに熱を足す。私の痛みじゃないのに、胸の内側が小さく引かれる。ニナが布を押さえ、兵の呼吸が浅く整っていく。雪の上に、赤い花がひとひら。冷たさに縁取られて、きれいで、いやだ。*夜が深くなる前、部屋の灯は低く、言葉は控えめになっていく。窓をかすめる風の音。机に置いた手の下で、誓環がまだ、薄く。「王都へ知らせる。印の出処がわかれば——」レオンが上着を取る。背中の布が鳴って、立ち上がる気配。「待って」袖口を指でつまむ。布越しの体温が、少しだけ高い。言い切る前に、言葉の色だけを渡す。「……まだ、だめ。あの印、あなたのと同じ匂いがした」「俺の?」ゆるく、視線が落ちてくる。「冷たいのに、焼ける。……そういう匂い」沈黙。誓環が、ほそく震えた。「俺が見てくる」「一人で行かないで」袖口の布が、指の間で少ししわになる。言った瞬間、誓環が柔らかく灯る。承諾の光。彼は短く息を吐き、上着を片手で直した。「夜明け前に出る」「ええ」言葉を置きすぎないように、うなずきだけで。*空があおくなる少し前、街道は音を吸っていた。雪はやみ、硬くなった地







