Share

契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる
契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる
Author: 清水澪

第1話

Author: 清水澪
静まり返っていた診察室に、私の淡々とした声が落ちた。

くるみの妊娠の喜びに浸っていた慎は、その言葉を聞いて顔を上げる。

そして、不愉快そうに眉をひそめた。

「契約ってなんだよ?またそうやってヒステリーを起こして、俺の気を引きたいわけ?」

――忘れているんだ。

その事実に気づいた瞬間、デスクの縁を掴む手にぎゅっと力がこもる。

息をするだけでも、胸の奥がチクチクと痛んだ。

「……ヒステリーなんかじゃないわ。あなたの言う通りよ。これからはもう干渉しない。あなたが家庭に戻ろうが戻るまいが、もうどうでもいいの」

私が言い終わるか終わらないかのうちに、慎は面倒くさそうにこめかみを揉んだ。

両手を広げて診察用のパイプ椅子に深く寄りかかり、あからさまな苛立ちを顔に浮かべる。

「俺たちの界隈じゃ、愛人の一人や二人囲うなんてごく普通のことだろ。

鈴木社長だって、佐藤社長だってそうだ。あいつらの奥さんの誰が、お前みたいにいちいち嫉妬して騒ぎ立てる? 俺がお前に、金で不自由させたことが一度でもあったか?

お前もくるみの半分でも物分かりが良ければ、ここまで俺に疎まれずに済んだのによ」

この5年という月日の間で、同じようなセリフを千回は聞かされただろう。

5年前、慎は周りの誰もが知るほど、熱烈に私にアプローチをしてきた。

当時の私は、重い病気を患っていた母の看病があり、彼からの求愛を何度も拒み続けていた。

しかし、母の病状が急変し、いよいよ危篤となった時。

彼は1億円という大金と、高価な特効薬を最優先で回すことを条件に、私と婚前契約を結んだのだ。

――それなのに。

結婚してわずか一年で、母はこの世を去った。

そしてその直後、慎はくるみと浮気に走った。

よりによって、私がその裏切りの現場に踏み込んだのは、他でもない私たちの自宅だった。

新婚気分のインテリアすら片付いていない寝室で。

飾られていた結婚写真のフレームには、べったりと生々しい手形の跡が残されていた。

他にも、吐き気がするほど下品な痕跡が、部屋のあちこちに散乱していて。

あの日、私は家の中の壊せるものをすべて叩き壊した。

でも、怒り狂う私を見て、彼はただ「つまらない女だ」「聞き分けがない」と冷たく言い放つだけだった。

どれだけ泣いて喚いても、最後に返ってきたのはこの一言だけ。

「自分の立場をわきまえろ。お前の母親の命を繋ぎ止めてやったのは、どこの誰だと思ってるんだ」

過去の記憶から引き戻され、小さくため息をつく。

誤解を解く気も起きなかったが、それでも何か言い返そうと口を開きかけた、その時だった。

バンッ、と無遠慮な音を立てて診察室のドアが開かれた。

息子の浩一(こういち)が、くるみと手を繋ぎながら嬉しそうに駆け込んでくる。

「パパ!」

満面の笑みを浮かべていた浩一だったが、その視線が私を捉えた瞬間、さっと表情を曇らせた。

「……あ、ママもいたんだ」

私は無意識に手を伸ばし、その小さな頭を撫でようとした。

けれど、私の指先が触れるより早く、浩一は露骨に嫌悪感を顔に浮かべてサッと身を捩ったのだ。

行き場をなくし、宙に浮いたままの手。

私はそれを、ゆっくりと下ろすしかなかった。

「慎さん、私の検査結果、どうだった……?」

くるみが、愛おしそうに自身の下腹部へそっと手を添えながら、甘えるように尋ねる。

先ほどまで不機嫌そうに強張っていた慎の顔が、その声を聞いて途端にデレっとした甘い笑みに崩れた。

「ああ、すごく健康だってさ」

私はただ静かにその場に立ち尽くし、慎の横顔を見つめていた。

よくよく考えてみれば、結婚してから今日まで、彼が私に向けてあんなふうに優しく笑いかけたことなんて、一度もなかった気がする。

あんなに熱烈に私を追いかけ回していたくせに、いとも簡単に「もう愛していない」と態度で示すのも彼なのだ。

「あら、川島先生。先生ってここのお医者様だったんですね?偶然とはいえ、先生に診ていただけるなんて安心しました」

くるみが、ようやく私の存在に気づいたような素振りで声をかけてきた。

その唇の端には、勝ち誇ったような意味深な笑みが浮かんでいる。彼女は慎の指に自分の指を絡ませ、あてつけのようにイチャイチャとじゃれ合っていた。

それを見た浩一が、「わあ!」と歓声を上げる。

「パパとくるみおばちゃんに、あかちゃんができたの?

もしかして、僕に妹ができるの!?」

くるみはまるで本当の母親のように、浩一の頬を愛情たっぷりに軽くつねった。

「うふふ、弟かもしれないわよ?」

目の前で繰り広げられる、まるで絵に描いたような『幸せな家族』の光景。

それがひどく刺々しく目に焼き付き、私はたまらずスッと視線を逸らした。

くるみが私たちの生活に現れてからというもの、浩一は私にまったく懐かなくなってしまった。

一度、どうしてそんな態度をとるのかと尋ねたことがある。

あの時も、浩一は私を汚いものでも見るかのような目で睨みつけ、こう言い放ったのだ。

「僕の友達の家だって、ママが何人もいるもん!僕に新しいママが増えて、何がいけないの?

それに、くるみおばちゃんは僕の欲しいものを何でも買ってくれる! ママは僕にダメって怒ってばっかりで、本当にうざいよ!」

――ふう、と深く息を吸い込み、私は意識を現実に引き戻した。

慎も、先ほどまで私に向けていた苛立ちなどすっかり忘れてしまったようだ。

上機嫌な様子で診察室を出て行く間際、彼はわざわざ私を振り返ってこう言った。

「お前も、仕事が終わったらさっさと帰ってこいよ」

バタン、と無情な音を立ててドアが閉まる。

静寂を取り戻した部屋で、私はデスクの端に置かれた母の遺影にゆっくりと視線を移した。

瞬きをした途端、限界まで堪えていた生理的な涙がポロポロとこぼれ落ち、視界をぐにゃりと歪ませていく。

私の帰るべき『場所』なんて。

おそらく5年前のあの日から――もう、どこにもなかったのだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第8話

    慎がメディアに向けて真実を公表したことで、ネット上の世論は瞬く間にひっくり返った。あれほど私を「略奪女」だと叩いていたSNSの住人たちも、手のひらを返したように態度を変えている。【まさか本物の泥棒猫が別にいたなんて……】【自分で不倫しておいて、世間には本妻の存在を隠し続けるとか社長クズすぎ。そりゃ離婚されて当然だわ】さらには、以前私を罵倒していたネット民たちからの謝罪コメントも次々と寄せられていた。【先生、ひどいこと言って本当にごめんなさい!】【あれだけ理不尽に叩かれても一言も言い訳しなかった川島先生、マジで本妻の鑑すぎる……】タイムラインに流れるそれらの言葉を眺めながら、私はふうっと静かに息を吐き出した。手元に視線を落とす。浩一によって無残に引きちぎられ、床に散らばっていた母の『真珠のネックレス』。専門の職人に頼み込んで繋ぎ直してもらったそれは、元の美しい輝きを取り戻し、私の手のひらの中で静かに光を放っていた。――慎が私の居場所を突き止めた時。私は、郊外にある母の墓前に静かに佇んでいた。彼は浩一の手を引いて、私の目の前まで歩み寄ってきた。「栞奈。……くるみとは、もう完全に縁を切ってきた。さあ、一緒に家に帰ろう」その横で、浩一も私の服の袖を弱々しく引っ張った。「ママ、一緒に帰ろうよ……」この数年間。浩一はすっかりくるみに懐き、私のことを母親扱いせず『おばさん』と呼ぶことさえあった。彼がこんなふうに素直に、すがるような目をして私を「ママ」と呼ぶのは、本当に久しぶりのことだった。けれど、私は一切の感情を交えずに二人を見つめ返し、小さく鼻で笑った。「ネットのニュースは見たわ。私が家を出て、都合のいい『無償の家政婦』がいなくなって、ようやく自分たちが困ったから迎えに来たの?」慎が私と一緒にいた頃、彼は家事や身の回りのことなど、何一つ気にする必要がなかった。翌日の天気から、着ていくスーツのコーディネート、三度の食事の栄養バランスまで、すべて私が事前に手配していた。彼の細かな好みやアレルギーは、専用のノートを作ってびっしりと書き留めていたほどだ。浩一にしてもそう。私が毎朝完璧に準備を整えていたからこそ、彼は学校に遅刻することなど一度もなかった。でも、くるみがこの数年間で彼らを骨抜きに

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第7話

    病院に到着するなり、慎は妊娠中のくるみを気遣うことも忘れ、足早に車を降りて病院のロビーへと駆け込んだ。息を乱しながら、一直線に栞奈の診察室を目指す。勢いよくドアを開け放つと――そこに座っていたのは、見知らぬ白衣の男だった。「あの、ご予約の患者さんですか?」男が座っているデスクには、栞奈がいつも大切に飾っていた母親の遺影がない。それどころか、彼女の私物らしきものは何一つ残されていなかった。慎の唇が、微かに震える。「……川島栞奈を、探しに来たんだが」先日のシンポジウムでの騒動で、栞奈が停職処分を受けたことは知っていた。しかし、それはあくまで一時的な処分に過ぎない。慎自身、裏で病院の上層部に手を回し、「停職は一週間程度で切り上げ、すぐに復帰させるように」と口止めをしていたはずなのだ。だが、見知らぬ医師は淡々とした声で、残酷な事実を告げた。「川島先生なら、もう退職されましたよ」その一言が、慎の耳にはまったく別の次元の言葉として響いた。「……退職? どういうことだ」「どうもこうも、先日、病院側が川島先生の停職処分を解いて復帰を打診したところ、ご本人から自ら辞表を提出されたんです」目の前がぐらりと揺れ、慎はあやうくその場に崩れ落ちそうになった。先ほどの車内で弁護士が言っていた、『離婚協議書』という言葉がフラッシュバックする。そして今度は、命よりも大切にしていたはずの仕事を、自ら手放したという事実。ここまで来て、ようやく慎の鈍い思考も追いつき始めた。栞奈は今回、怒って家を飛び出したわけでも、俺の気を引くために駆け引きをしているわけでもない。――彼女は本気で、俺の元から去ろうとしているのだ。そうでなければ、あんなに誇りを持って続けていた天職を、あっさりと捨てられるはずがない。それでもなお、慎のプライドは現実を受け入れることを激しく拒絶した。「……栞奈に、そう言えって頼まれたのか?お前たち、グルになって俺を騙してるんじゃないのか!?」初めて俺の浮気がバレた時、あいつはあれほど泣き叫んで狂ったように取り乱していた。俺のことを愛しているからこそ、嫉妬に狂ったのだ。それなのに、いつからかあいつはすっかり大人しくなり、俺が外で女と何をしてこようが一切口出ししなくなった。あれもすべて――あい

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第6話

    くるみが場を盛り上げてくれたおかげで、浩一の誕生日パーティーは終始和やかな雰囲気で進んだ。慎も浩一も、先ほどの凄惨な修羅場などすっかり頭から抜け落ちているようだった。パーティーがお開きになり、ゲストの子供たちが全員帰宅した後。静かになったリビングで、ようやく慎は栞奈のことを思い出した。スマートフォンを取り出し、画面を開く。てっきり彼女の方から、泣き言か、あるいは弁明のメッセージが来ているものだとばかり思っていた。しかし、トーク画面は彼が数時間前に送ったメッセージを最後に、ピタリと止まっている。メッセージはおろか、着信履歴の一つすら残っていなかった。それどころか――彼が慰謝料代わりに電子送金したまとまった金が、全額『受け取り拒否』で突き返されていたのだ。慎はギリッとスマートフォンを握りしめる。胸の奥に湧き上がってきたのは、苛立ちなのか、それとも得体の知れない焦りなのか、自分でもよくわからなかった。これまでなら、金さえ渡せば最終的には大人しく引き下がっていた栞奈が、金を受け取ろうとすらしない。まるで、彼女が自分の支配下から完全に抜け出し、手の届かない場所へすり抜けてしまったような、ひどく不快な感覚だった。……まだ意地を張っているのか?忌々しい思考に沈んでいたその時。くるみが甘えた声を出して、慎の腕にすり寄ってきた。「慎さん。もう遅いし、そろそろ休みましょう? 私、お腹に赤ちゃんもいるんだし……ね?」慎はハッと我に返り、小さく頷いた。「ああ……そうだな。それより明日、もう一度病院に行って妊婦健診を受けてこい」「え? 次の健診は来週のはずだけど……どうして急に?」くるみが不思議そうに小首を傾げる。慎は自分の動揺を誤魔化すように、キュッと唇を結んだ。「……少し不安なんだ。念のため、早めに診てもらった方が安心だろ」そう口にしながらも、慎は内心でひどく後ろめたさを感じていた。もちろん、健診というのはただの建前だ。彼の本当の目的は、栞奈の勤める病院へ出向き、『どうして金を突き返したのか』を直接問い詰めること。だが、自分から頭を下げて妻に会いに行くのは、男のプライドが許さなかった。だからこそ、くるみの健診という都合のいい『口実』が必要だったのだ。「ねえくるみママ!明日、僕も

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第5話

    慎は、顔中をケーキまみれにし、血を流したまま無言で立ち去った栞奈の後ろ姿を、複雑な面持ちで見送っていた。あれほど癇癪を起こして暴れていた浩一も、いざ彼女が本当に背を向けて出て行ってしまうと、ハッとして思わず二、三歩その後を追いかけた。しかし、すでに無情な音を立てて玄関のドアは閉ざされている。浩一は唇を噛み締め、振り向くと、小さな声で慎に尋ねた。「……パパ。ママ、帰ってくるよね?」慎は無理に笑顔を作り、浩一の頭をポンポンと撫でた。「大丈夫さ。ママはああいう頑固な性格だからな、少し時間が経てばすぐ戻ってくるよ。その時は、ちゃんと謝るんだぞ」そう口にしてみたものの、なぜだか慎の胸の奥には、得体の知れない不安がドロリと居座っていた。床に点々と落ちている、赤黒く粘り気を帯びた血の跡。それを見るたび、どういうわけか心臓がチクリと嫌な音を立てて軋むのだ。しかし、浩一の方は慎の言葉を聞いてすっかり安心したのか、先ほどの気まずさなど微塵も感じさせない様子で、再び無邪気に笑い声を上げ始めた。慎はポケットからスマートフォンを取り出し、栞奈宛てにメッセージを打ち込んだ。【今日は浩一の誕生日だ。あいつの友達が大勢来ているんだから、少しは大人しくして、息子の顔に泥を塗るような真似はしないでくれ】【友達が全員帰ったら、また家に戻ってこい】二通のメッセージを送信した後、いつものようにまとまった金額の電子送金を栞奈の口座へと送る。この数年間、彼はこうして事あるごとに『金』で彼女をなだめ、黙らせることにすっかり慣れきっていた。結婚したばかりの頃は、栞奈も「お金で私を侮辱する気?」と食ってかかっていたはずだ。だが、ここ最近の彼女は、もう彼に干渉しようとしなくなった。嫉妬して喚き散らすこともなくなり、ただ無関心に彼を見つめるだけになっていた。――そんなことに考えを巡らせていた時、スマートフォンが震えた。くるみからの着信だ。今こちらに向かっているところだという。「慎さん!浩一くんの誕生日プレゼント、ちゃんと用意したから今からそっちに行くわね!」電話のスピーカーから漏れ聞こえたくるみの声に、浩一はパァッと顔を輝かせ、得意げに周りの友達へと自慢し始めた。「ねえ!くるみママ、最近仕事が忙しかったんだけど、今からプレゼン

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第4話

    あの一件があってから数日後。珍しく慎の方からメッセージが届いた。【今回の件は俺が悪かった。くるみと少し口論になって、「そんなに怒るなら子供なんておろせ」とついキツイことを言ってしまったんだ】【あいつが真に受けて、お前のところへ怒鳴り込むなんて思わなかった。すまない】【子供が無事に生まれたら、ちゃんとメディアの前で誤解を解くから。それまでは、どうか少しの間だけ我慢してほしい】メッセージの直後、私の口座に『迷惑料』とでも言わんばかりの巨額の振り込み通知が届く。私はスマートフォンを握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めた。ただ、あの二人が痴話喧嘩をしたというだけの理由で。私は、築き上げてきた名誉も、愛した仕事も、すべてを台無しにされたのだ。大勢の群衆から投げつけられた罵声、同僚たちの軽蔑するような視線、私を赤の他人だと言い放った慎の冷たい声……あの時の光景が、頭の中にこびりついて離れない。私はゆっくりと背中を丸め、ベッドにうずくまった。もう、あの男と争う気力すら、一滴も残っていなかった。結局のところ、『愛していない』というのはこういうことなのだ。何があっても、彼にとっての最優先は常にくるみであり、私はただの都合のいい防波堤に過ぎない。――それならもう、あの二人が好きなようにすればいい。私は海外へ向かう片道航空券を手配し、出国に必要な手続きもすべて終えた。あとは、あの家に残したままになっている例の『婚前契約書』と、そして無残に散らばった母の真珠の粒を回収するだけだ。翌日。こっそりと荷物をまとめるため、久しぶりにあの家へ足を踏み入れた私は、思わず立ちすくんだ。リビングには、色とりどりの風船や飾り付けが施され、大勢の子供たちがワイワイと集まって騒いでいた。どの子も、浩一と同じくらいの年の子ばかりだ。壁に飾られた大きな『Happy Birthday』のガーランドを見て、私はようやく思い出した。今日は、浩一の5歳の誕生日だ。以前の私なら、絶対にこの日を忘れることなんてなかった。それどころか、一ヶ月も前から彼の喜ぶ顔を想像しながら、一生懸命プレゼントを探して準備していただろう。もっとも、過去に私が贈ったプレゼントなど、とっくに彼の手によってゴミ箱へ直行しているのだろうが。私は伏し目が

  • 契約満了。浮気夫と恩知らずな息子を捨てる   第3話

    足音も荒く出て行った二人の背中を見送った後。私は暗いリビングのソファに座り込み、抜け殻のように朝まで一睡もせずに過ごした。白み始めた空の光の中、引き出しの奥から少し黄ばんだ封筒を取り出す。中に入っていたのは『婚前契約書』だ。署名欄には、慎の達筆なサインが堂々と記されている。ページの隅に書かれた日付を指でなぞる。――契約の満了日は、いよいよ来月に迫っていた。それからしばらくの間、慎と浩一が家に帰ってくることはなかった。私も連日10件以上の手術が立て込んでいたのを理由に、あの冷え切った家には戻らなかった。病院の近くに仮の部屋を借りて、そのまま寝泊まりする生活を続けたのだ。私は、離婚専門の弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼した。本当なら、母が亡くなったあの時に、すぐ準備しておくべきだったのだろう。ただ、私は『家族』というものに固執しすぎていた。かつて私を愛してくれた慎への執着を、どうしても捨てきれずにいたのだ。けれど――いざ手放してみると、拍子抜けするほど簡単なことだった。……離婚の準備は、このまま何事もなくスムーズに進むものだとばかり思っていた。だけど、現実はそう甘くなかった。一ヶ月後、私が登壇した大規模な医学シンポジウムの会場でのことだ。水を打ったように静まり返る大ホールに、突如として不吉な音が響き渡った。鼓膜を破るような勢いで、ホールの両開きドアがバンッと蹴り開けられたのだ。警備員の制止を振り切って壇上へと駆け上がってきたのは、目を真っ赤に腫らしたくるみだった。彼女は狂ったように私に掴みかかり、マイクスタンドの前で私の白衣の胸ぐらをきつく締め上げる。「川島先生!私に不満があるなら私に言えばいいじゃないですか!どうして、慎さんとの大事な子供にまで手を出そうとしたんですか!」その金切り声はマイクを通して、広大なホール全体へと響き渡った。何事かと立ち上がる聴衆たち。ざわめきが波のように広がり、取材に来ていたメディアのカメラが、バシャバシャと容赦なくフラッシュを焚いて私を照らし出す。突然の異常事態に血の気が引き、状況を飲み込めないでいる私に向かって、くるみはさらに悲痛な声で泣き叫んだ。「あなたが私たち二人の間に割り込んできたことは、もう百歩譲って許しま

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status