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第2話

Author: 清水澪
仕事を終えて帰宅した頃には、外はすっかり暗くなっていた。

玄関のドアは半開きになっており、足を踏み入れたリビングは目を疑うほどの惨状だった。

床には家族写真が放り投げられ、息子の浩一がその上にマジックで落書きをしている。さらにはハサミを握りしめ、私の顔が写っている部分だけを無残にジョキジョキと切り抜いていた。

「ここが、くるみおばちゃんだったらよかったのに」

浩一の口からは、不満げな呟きが漏れている。

以前の私なら、間違いなくその手からハサミを取り上げ、厳しく叱りつけていただろう。

けれど今の私は、ただ無言で浩一の横を通り過ぎた。

ソファに座っていた慎が、私の足音に気づいて顔を上げる。その表情には、明らかな苛立ちが張り付いていた。

「帰りが遅いぞ。まだ夕飯の支度もできてないじゃないか。浩一がお腹を空かせてるんだ」

ピタリと足を止め、私は冷ややかな視線を彼ら父子へと向ける。

この5年間、私がどれだけ残業して疲れて帰ってこようと、彼らのために食事を作り、床を磨き、洗濯をするのが当たり前の日常だった。

「冷蔵庫に昨日の残り物があるわ。レンジで3分温めて」

私は皮肉を込めて、片方の口角を吊り上げる。

「まさか、そんなこともできないの?」

予想外の反抗に、慎は目を丸くした。何か言い返そうと口をパクパクさせ、勢いよくソファから立ち上がる。

「お前な……!」

「ママぁ、僕、ママが作ったご飯が食べたいー」

床に座り込んだままの浩一が、甘えたような、それでいて召使いに命令するような間延びした声を出す。

どっと全身に疲労感が押し寄せ、私はもう彼らの顔を見ることすら嫌になった。

足早に寝室へ向かい、ドアを開けた――その瞬間。

私の顔から、サァッと血の気が引いていく。

部屋の中に置いてあった大事な書類が、ビリビリに破かれて散乱している。

花瓶も、ベッドサイドのランプも、写真立ても……

部屋中のありとあらゆるものが、めちゃくちゃに叩き割られていたのだ。

もつれる足で、私はベッドのそばへと駆け寄る。

サイドテーブルに大切にしまってあったはずの小箱が、床に落ちていた。

そして、中に入っていた真珠のネックレスが――無残にも引きちぎられ、白い真珠の粒が床一面にバラバラと散らばっている。

それは、母がこの世に遺してくれた、たった一つの形見だった。

いつもは箱に入れて、傷一つつけないように大切に大切に扱っていたのに。

勢いよく振り返ると、案の定、寝室のドアの枠に寄りかかり、ふてぶてしい態度でこちらを見下ろしている浩一の姿があった。

「……あなたが、壊したの?」

まだ5歳の子供は、悪びれる様子もなく唇を尖らせた。

「ママが、いつもくるみおばちゃんをいじめるからでしょ! 僕にご飯も作ってくれないし、自業自得だよ」

――ブツンッ。

頭の中で、何かが激しく切れる音がした。

目の前が真っ赤に染まるような感覚に陥りながら、私は血走った目で息子を睨みつける。

気づけば、私は右手を高く振り上げていた。

パァァンッ!!

乾いた破裂音が響き渡る。

渾身の力を込めた平手打ちが、子供の小さな顔を勢いよく横へと弾いた。

じんじんと掌が痺れるように痛む。

けれど、そんなものは、胸が張り裂けそうなこの絶望的な痛みに比べれば、何でもなかった。

生まれたその日から、私の腕の中で大事に抱きしめてきた子。

初めて言葉を覚えた時、満面の笑みで「ママ」と呼んでくれた私の子供。

それなのに。

今はもう、目の前にいるこの子は――信じられないほど冷たい、赤の他人にしか見えなかった。

浩一は頬を押さえ、信じられないものを見るような、ひどく怯えた目を私に向けた。

次の瞬間、火がついたように泣き出した浩一の声を聞きつけ、慎が寝室へ飛び込んでくる。

部屋の惨状を見るなり顔を黒くし、浩一を力任せに抱き寄せた。

「栞奈!お前、子供に手を上げるなんて頭でもおかしくなったのか!?」

彼の怒鳴り声など、今の私の耳には欠片も届いていなかった。

ただ魂が抜けたようにその場にへたり込み、床に散らばった真珠の粒を一つ、また一つと拾い集める。

「たかが古いネックレスが壊れたくらいで、子供を叩く親がどこにいる!? そんなに惜しいなら、後でいくらでも新しいのを買ってやるからいい加減にしろ!」

真珠を集めようと散らかった床を探った手が、写真立てのガラスの破片に触れたのだろう。

指先が浅く切れ、赤い血の雫がポタリと床に落ちた。

――母がまだ生きていた頃、病床で私の手にこのネックレスを握らせてくれた日のことが蘇る。

「栞奈。慎さんは、本当にいい人ね。これはお母さんが嫁入り道具として持ってきた、一生モノの真珠よ。

私が死んでも、これがお母さんの代わりに、ずっとあなたに寄り添ってくれるから……」

ゆっくりと目を閉じ、そして立ち上がって慎を真っ直ぐに見据えた。

「……あなたの目には、お金さえあればどんなものでも代わりが利くように見えているのね」

底冷えするような私の視線に、慎は一瞬怯んだように息を呑んだ。

その場に釘付けになり、口先まで出かかっていた罵倒の言葉を喉の奥に詰まらせる。微かに唇を震わせたものの、結局何も言い返すことはできなかった。

その沈黙を破るように、浩一がさらに激しく泣き喚き、私の足にポカポカと蹴りを入れてきた。

「うわあぁん! ママなんてもういらない! くるみおばちゃんがいい! パパ、僕をくるみおばちゃんのところに連れてってよぉ!」

鼓膜を劈くような鳴き声に、ズキズキとこめかみが痛む。

我に返った慎は、ひどく気まずそうな、それでいて苛立ちを孕んだ顔で浩一を抱き上げた。

「……栞奈。お前が何を血迷っているのかは知らないが、この件は後できっちり説明してもらうからな。

自分のやったことを反省するまで、浩一は俺が連れて行く」

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