تسجيل الدخول終業時間ギリギリ。 私、川島栞奈(かわしま かんな)の診察室を訪れた最後の患者は、あろうことか私の夫だった。 彼が無造作に差し出してきた検査結果の紙には、はっきりと『妊娠5週目』の文字が記されている。 父親の欄には、彼自身の名前。 そして母親の欄には、彼が5年も囲っている愛人――藤井(ふじい)くるみの名前があった。 私は感情の波一つ立てず、その紙を静かに川島慎(かわしま しん)へと押し返し、ぽつりと言った。 「……おめでとう。念願叶ったわね」 慎は一瞬きょとんとした後、不機嫌そうに眉をひそめた。 「おめでとう、だけか?他に言うことはないのかよ」 机の上の紙を見つめる。 私の夫と、見知らぬ女の間にできた命の証。 きっと少し前の私なら、世間体なんてかなぐり捨てて、彼にすがりつき、泣き叫んで修羅場を作っていただろう。 でも不思議なことに、今はもう、怒る気力さえ湧いてこなかった。 「俺もここ数年、十分に遊ばせてもらったしな。くるみが子供を産んだら、もう遊びは終わりにして家庭に収まるつもりだ」 その言葉を聞いて、私はゆっくりと顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに射抜いた。 「朔也。私たちの契約期間、もう終わりね」
عرض المزيد慎がメディアに向けて真実を公表したことで、ネット上の世論は瞬く間にひっくり返った。あれほど私を「略奪女」だと叩いていたSNSの住人たちも、手のひらを返したように態度を変えている。【まさか本物の泥棒猫が別にいたなんて……】【自分で不倫しておいて、世間には本妻の存在を隠し続けるとか社長クズすぎ。そりゃ離婚されて当然だわ】さらには、以前私を罵倒していたネット民たちからの謝罪コメントも次々と寄せられていた。【先生、ひどいこと言って本当にごめんなさい!】【あれだけ理不尽に叩かれても一言も言い訳しなかった川島先生、マジで本妻の鑑すぎる……】タイムラインに流れるそれらの言葉を眺めながら、私はふうっと静かに息を吐き出した。手元に視線を落とす。浩一によって無残に引きちぎられ、床に散らばっていた母の『真珠のネックレス』。専門の職人に頼み込んで繋ぎ直してもらったそれは、元の美しい輝きを取り戻し、私の手のひらの中で静かに光を放っていた。――慎が私の居場所を突き止めた時。私は、郊外にある母の墓前に静かに佇んでいた。彼は浩一の手を引いて、私の目の前まで歩み寄ってきた。「栞奈。……くるみとは、もう完全に縁を切ってきた。さあ、一緒に家に帰ろう」その横で、浩一も私の服の袖を弱々しく引っ張った。「ママ、一緒に帰ろうよ……」この数年間。浩一はすっかりくるみに懐き、私のことを母親扱いせず『おばさん』と呼ぶことさえあった。彼がこんなふうに素直に、すがるような目をして私を「ママ」と呼ぶのは、本当に久しぶりのことだった。けれど、私は一切の感情を交えずに二人を見つめ返し、小さく鼻で笑った。「ネットのニュースは見たわ。私が家を出て、都合のいい『無償の家政婦』がいなくなって、ようやく自分たちが困ったから迎えに来たの?」慎が私と一緒にいた頃、彼は家事や身の回りのことなど、何一つ気にする必要がなかった。翌日の天気から、着ていくスーツのコーディネート、三度の食事の栄養バランスまで、すべて私が事前に手配していた。彼の細かな好みやアレルギーは、専用のノートを作ってびっしりと書き留めていたほどだ。浩一にしてもそう。私が毎朝完璧に準備を整えていたからこそ、彼は学校に遅刻することなど一度もなかった。でも、くるみがこの数年間で彼らを骨抜きに
病院に到着するなり、慎は妊娠中のくるみを気遣うことも忘れ、足早に車を降りて病院のロビーへと駆け込んだ。息を乱しながら、一直線に栞奈の診察室を目指す。勢いよくドアを開け放つと――そこに座っていたのは、見知らぬ白衣の男だった。「あの、ご予約の患者さんですか?」男が座っているデスクには、栞奈がいつも大切に飾っていた母親の遺影がない。それどころか、彼女の私物らしきものは何一つ残されていなかった。慎の唇が、微かに震える。「……川島栞奈を、探しに来たんだが」先日のシンポジウムでの騒動で、栞奈が停職処分を受けたことは知っていた。しかし、それはあくまで一時的な処分に過ぎない。慎自身、裏で病院の上層部に手を回し、「停職は一週間程度で切り上げ、すぐに復帰させるように」と口止めをしていたはずなのだ。だが、見知らぬ医師は淡々とした声で、残酷な事実を告げた。「川島先生なら、もう退職されましたよ」その一言が、慎の耳にはまったく別の次元の言葉として響いた。「……退職? どういうことだ」「どうもこうも、先日、病院側が川島先生の停職処分を解いて復帰を打診したところ、ご本人から自ら辞表を提出されたんです」目の前がぐらりと揺れ、慎はあやうくその場に崩れ落ちそうになった。先ほどの車内で弁護士が言っていた、『離婚協議書』という言葉がフラッシュバックする。そして今度は、命よりも大切にしていたはずの仕事を、自ら手放したという事実。ここまで来て、ようやく慎の鈍い思考も追いつき始めた。栞奈は今回、怒って家を飛び出したわけでも、俺の気を引くために駆け引きをしているわけでもない。――彼女は本気で、俺の元から去ろうとしているのだ。そうでなければ、あんなに誇りを持って続けていた天職を、あっさりと捨てられるはずがない。それでもなお、慎のプライドは現実を受け入れることを激しく拒絶した。「……栞奈に、そう言えって頼まれたのか?お前たち、グルになって俺を騙してるんじゃないのか!?」初めて俺の浮気がバレた時、あいつはあれほど泣き叫んで狂ったように取り乱していた。俺のことを愛しているからこそ、嫉妬に狂ったのだ。それなのに、いつからかあいつはすっかり大人しくなり、俺が外で女と何をしてこようが一切口出ししなくなった。あれもすべて――あい
くるみが場を盛り上げてくれたおかげで、浩一の誕生日パーティーは終始和やかな雰囲気で進んだ。慎も浩一も、先ほどの凄惨な修羅場などすっかり頭から抜け落ちているようだった。パーティーがお開きになり、ゲストの子供たちが全員帰宅した後。静かになったリビングで、ようやく慎は栞奈のことを思い出した。スマートフォンを取り出し、画面を開く。てっきり彼女の方から、泣き言か、あるいは弁明のメッセージが来ているものだとばかり思っていた。しかし、トーク画面は彼が数時間前に送ったメッセージを最後に、ピタリと止まっている。メッセージはおろか、着信履歴の一つすら残っていなかった。それどころか――彼が慰謝料代わりに電子送金したまとまった金が、全額『受け取り拒否』で突き返されていたのだ。慎はギリッとスマートフォンを握りしめる。胸の奥に湧き上がってきたのは、苛立ちなのか、それとも得体の知れない焦りなのか、自分でもよくわからなかった。これまでなら、金さえ渡せば最終的には大人しく引き下がっていた栞奈が、金を受け取ろうとすらしない。まるで、彼女が自分の支配下から完全に抜け出し、手の届かない場所へすり抜けてしまったような、ひどく不快な感覚だった。……まだ意地を張っているのか?忌々しい思考に沈んでいたその時。くるみが甘えた声を出して、慎の腕にすり寄ってきた。「慎さん。もう遅いし、そろそろ休みましょう? 私、お腹に赤ちゃんもいるんだし……ね?」慎はハッと我に返り、小さく頷いた。「ああ……そうだな。それより明日、もう一度病院に行って妊婦健診を受けてこい」「え? 次の健診は来週のはずだけど……どうして急に?」くるみが不思議そうに小首を傾げる。慎は自分の動揺を誤魔化すように、キュッと唇を結んだ。「……少し不安なんだ。念のため、早めに診てもらった方が安心だろ」そう口にしながらも、慎は内心でひどく後ろめたさを感じていた。もちろん、健診というのはただの建前だ。彼の本当の目的は、栞奈の勤める病院へ出向き、『どうして金を突き返したのか』を直接問い詰めること。だが、自分から頭を下げて妻に会いに行くのは、男のプライドが許さなかった。だからこそ、くるみの健診という都合のいい『口実』が必要だったのだ。「ねえくるみママ!明日、僕も
慎は、顔中をケーキまみれにし、血を流したまま無言で立ち去った栞奈の後ろ姿を、複雑な面持ちで見送っていた。あれほど癇癪を起こして暴れていた浩一も、いざ彼女が本当に背を向けて出て行ってしまうと、ハッとして思わず二、三歩その後を追いかけた。しかし、すでに無情な音を立てて玄関のドアは閉ざされている。浩一は唇を噛み締め、振り向くと、小さな声で慎に尋ねた。「……パパ。ママ、帰ってくるよね?」慎は無理に笑顔を作り、浩一の頭をポンポンと撫でた。「大丈夫さ。ママはああいう頑固な性格だからな、少し時間が経てばすぐ戻ってくるよ。その時は、ちゃんと謝るんだぞ」そう口にしてみたものの、なぜだか慎の胸の奥には、得体の知れない不安がドロリと居座っていた。床に点々と落ちている、赤黒く粘り気を帯びた血の跡。それを見るたび、どういうわけか心臓がチクリと嫌な音を立てて軋むのだ。しかし、浩一の方は慎の言葉を聞いてすっかり安心したのか、先ほどの気まずさなど微塵も感じさせない様子で、再び無邪気に笑い声を上げ始めた。慎はポケットからスマートフォンを取り出し、栞奈宛てにメッセージを打ち込んだ。【今日は浩一の誕生日だ。あいつの友達が大勢来ているんだから、少しは大人しくして、息子の顔に泥を塗るような真似はしないでくれ】【友達が全員帰ったら、また家に戻ってこい】二通のメッセージを送信した後、いつものようにまとまった金額の電子送金を栞奈の口座へと送る。この数年間、彼はこうして事あるごとに『金』で彼女をなだめ、黙らせることにすっかり慣れきっていた。結婚したばかりの頃は、栞奈も「お金で私を侮辱する気?」と食ってかかっていたはずだ。だが、ここ最近の彼女は、もう彼に干渉しようとしなくなった。嫉妬して喚き散らすこともなくなり、ただ無関心に彼を見つめるだけになっていた。――そんなことに考えを巡らせていた時、スマートフォンが震えた。くるみからの着信だ。今こちらに向かっているところだという。「慎さん!浩一くんの誕生日プレゼント、ちゃんと用意したから今からそっちに行くわね!」電話のスピーカーから漏れ聞こえたくるみの声に、浩一はパァッと顔を輝かせ、得意げに周りの友達へと自慢し始めた。「ねえ!くるみママ、最近仕事が忙しかったんだけど、今からプレゼン