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8話. 面談

Author: YuIm
last update publish date: 2026-11-04 13:29:07

神保町駅のA3出口を出てカフェまで歩く間に、紗奈はバッグの持ち手を3度握り直した。

バッグには、午前中に病院で受け取った診療記録の写しが入っていた。

28枚の書類と、その中で1枚だけ異質だった所見書。

書類の重みが、バッグの持ち手を通して肩に伝わってきた。

今日の面談が何をもたらすのか、まだわからなかった。

それでも、5年たって初めて、誰かが『おかしい』と言ってくれた。その事実が、紗奈の足を速めた。

カフェの看板が見えた。

ガラスのドアの向こうでは、半分以上の席が埋まっていた。

土曜の午後の店内は、ノートパソコンを開く人や、おしゃべりするグループでにぎわっていた。

紗奈はドアを開けて入り、奥の隅の席を取った。

壁を背にする席。

出入り口の見える場所だった。

カウンターへ行き、メニューを見た。

アイスのアメリカーノを頼んだ。

「380円です」

カードを出し、飲み物を待った。

時計を見た。

1時50分。

約束より10分早く着いていた。

飲み物を受け取って、席に戻った。

ストローのそばで、溶けかけた氷がぱきりと鳴った。

店内のざわめきと音楽が、混ざり合っていた。

紗奈はバッグの上に手を置き、出入り口を見つめた。

中の書類の角が、手の甲に触れた。

2時ちょうどに、カフェのドアが開いた。

短い髪に眼鏡をかけた女性が、店の奥を見回した。

灰色のコートに包まれた肩は細く、バッグを体の前で抱えていた。

紗奈と目が合うと、おずおずと近づいてきた。

「水原さん、ですか?」

紗奈は立ち上がった。

「はい。どうぞ」

女性は向かいに座った。

コートの襟元を合わせ、周囲をひと通り見た。

店員が来ると、温かいゆず茶を注文した。

しばらく沈黙があった。

隣のテーブルで笑い声が上がり、やんだ。

女性のほうから口を開いた。

「お顔を見ると……思い出しますね」

「すみません。私は、よく思い出せなくて」

「当然ですよ。入院中は、何人もの看護師が交代しますから」

女性は運ばれてきたゆず茶を受け取り、カップを両手で包んだ。

指が細く、手の甲にそばかすがあった。

記憶のどこかで、似た手を見た気もした。けれど、確かではなかった。

「あの頃は、私もまだ新人でした。産婦人科病棟に配属されて、1年ほどで」

「……」

「水原さんを担当したのは、入院2週目からです」

「何か、覚えていらっしゃいますか?」

「経過はよかったです。お薬への反応もよくて、カウンセリングもきちんと受けていらして。診療録にも、そう書いてあるはずです」

紗奈はうなずいた。

午前中に見た記録が浮かんだ。

『自傷念慮なし。危険行動は認められず。』

「でも、退院の頃に、所見書が1通出されたんです」

紗奈の手が、カップの上で止まった。

「お電話でおっしゃっていた……」

「はい。そこには『自傷および乳児への加害のおそれ』と書かれていました」

「診療録には、危険はないとありますけど」

「そうなんです。だから、おかしいと思いました」

女性はゆず茶をひと口飲み、カップを置いた。

湯気が立ち上った。

もう1度辺りを見て、声を落とした。

隣のテーブルと十分な距離があることを、確かめたようだった。

「所見書が出されるまでの過程を見ました。普通は主治医が作成するのに、あのときは……手順が違ったんです」

「どう違ったんですか?」

「詳しくは、今はお話ししづらくて。手元の記録を整理して、お渡しします」

紗奈は指でカップを包んだ。

冷たいプラスチックが、手のひらに触れた。

コーヒーの氷が溶け、かたりと音を立てた。

「それと、もう1つお伝えしたいことがあります」

「何ですか?」

「所見書だけじゃないんです」

紗奈は顔を上げた。

耳が熱くなった。

「ほかにも、何かあるんですか?」

「あのとき、陳述書も一緒に出されました。関係者のものです。その内容も……私が知っている事実とは違っていました」

紗奈の息が止まった。

ストローを握る手に力が入った。

所見書だけではない。陳述書まで。

法廷に出された資料は、1つではなかったということだ。

「陳述書は、誰が書いたんですか?」

「そこは、私ももう少し確かめる必要があります。時間をください」

紗奈はバッグから、午前中に受け取った診療記録の写しを出した。

束の中から所見書を探し、テーブルに置いた。

ほかの書類とは書式の違う、あの1枚だった。

「今日、開示してもらった診療記録です。この所見書だけ、ほかと書式が違うんです」

女性が書類をのぞき込んだ。

しばらく見つめてから、ゆっくりうなずいた。

「これです」

「これが、お電話でおっしゃっていた所見書ですか?」

「はい」

店内の音楽が、ジャズからポップスに変わった。

紗奈は慎重に所見書をファイルに戻し、バッグにしまった。

女性の顔を見た。

「記録を整理してくださるとのことでしたが、どのくらいかかりますか?」

「2週間ほどです。手元のものを整理して、写しを作らないといけないので。原本は私が保管します」

「わかりました。待っています」

「1つだけ、お願いが」

「はい」

「まだ、ほかには話さないでください。整理が終わる前に知られてしまうと、困るんです」

「わかりました」

女性が席を立った。

カップのゆず茶は、半分残っていた。

「また、ご連絡します」

女性はコートの襟を立て、カフェを出ていった。

ガラスのドアの向こうで、灰色のコートの背中が人波に溶け、見えなくなった。

紗奈は席に残り、溶けていく氷を見ていた。

店内のざわめきが、また聞こえてきた。

話している間は、周りの音が何も聞こえていなかった。

ストローの先から、水滴が落ちた。

(所見書だけじゃない、って言った)

紗奈の指が、テーブルをたたいた。

所見書と陳述書。

2つの書類。

5年前、紗奈の人生を壊す根拠になったものが、重なった。

看護師が店を出る直前に言った言葉が、よみがえった。

「陳述書は、ご覧になったことがありますか?」

紗奈は空になったカップから、目を離せなかった。

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