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第264話
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妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第380話
天音は、女物の香水の匂いと、強いお酒の匂いを嗅ぎ取った。要がお酒を飲むのは滅多にない。木村家でのパーティーが初めてで、今が二度目だ。要は羽目を外すような人じゃない。常に仕事に集中している。必要な付き合いの場でも、水を飲んでいた。天音の脳裏に、智子の美しい顔が浮かんだ。男というものは、これまでとは違うタイプの女性に出会うと、変わってしまうものなのだ。天音は眉をひそめて要を見上げた。その端正な顔は、何の感情も浮かんでおらず、静まり返っていた。二人の距離はとても近かった。他の女の匂いが染みついた要に触れたくなくて、天音は思わず顔をそむけた。「想花に会いに来た」その落ち着いた声が、少しお酒の香りと熱を帯びて、天音の耳元に届いた。「想花はもう寝てるわ」天音は言った。「隊長、こんな時間まで来るなら、事前に連絡をくれるべきだわ。もう遅い時間よ」さっきまで龍一と楽しそうに話していた天音の明るい表情は、要が現れた途端、影を落とした。要は一歩下がり、その視線は、疲れきった様子の天音の顔に注がれた。「隊長、また今度来てください」天音は要を見ずに、彼を追い出すように言った。要はわずかに目元を動かした。「パパ――」突然、寝室の方から想花の声が聞こえてきた。想花が目を覚ましたのだ。そばには由理恵が付いている。ピンクのさくらんぼ柄のパジャマを着た想花が、眠そうに目をこすりながら裸足のまま、短い足で要に駆け寄る。要は、さっとかがんでその小さな体を受け止めた。要に抱き上げられた想花は、彼の首筋に顔をうずめてすり寄った。「パパ、行かないで」要は想花を抱き上げると、もう片方の手でその小さな足を包み込み、優しく言った。「スリッパを履かなきゃだめだよ」想花はこくりと頷くと、顔を上げて要を見つめた。「パパ、眠れないの。絵本を読んで」由理恵が出てきて、玄関で立ち尽くす二人に言った。「隊長、想花ちゃんのことがご心配で、こんな時間に駆けつけてくださったんですね。子供って病気の治りが早いです。でも、パパに会いたくて、なかなか寝付けなかったみたいですけど」由理恵の言葉を聞いて、要は天音の方を見た。想花が、うるんだ大きな瞳でお願いするように自分を見つめているのに気づき、天音はドアを閉めた。要は想花を抱いたまま、子供
妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第379話
その瞬間、蓮司と恵里が浮気をしていた記憶が、一気に蘇ってきた。天音は恵里の前に大股で歩み寄り、思いっきり平手打ちをした。「黙りなさい！あなたの声なんか聞きたくない！」天音はありったけの力を込めた。恵里はか弱く、そのまま地面に倒れ込んだ。天音は蓮司と大智に目を向けた。胸が張り裂けそうな傷の痛みが、全部こみ上げてきた。天音はヒステリックに叫んだ。「出ていって！」「天音、お前が見たものとは違うんだ」蓮司は弁解しようとした。しかし、彼と大智は、特殊部隊の隊員によって救急処置室から引きずり出されてしまった。恵里は苦しそうに床にうずくまり、口から歯を一本吐き出した。彼女は怯えながら床を這い、天音の方へにじり寄って、言い続けた。「天音さん、お願いです。私たちのお父さんのためだと思って、私を許してください、私の心臓が……」すると、天音は温かい胸に抱き寄せられた。それと同時に、恵里は突然、蓮司のボディーガードに引きずり起こされ、そのまま救急処置室の外へ連れ出された。蓮司一行はようやく、姿を消した。天音は床に残された血の跡を見つめ、抑えきれずに激しく震え出した。ずっとそばにいた美咲が慌てて駆け寄り、バッグから薬を取り出した。美咲はひどく狼狽した声で言った。「隊長、天音さんが発作を！」要は天音を抱きしめたが、天音は彼を突き放した。「やめて」心配そうな要の顔を見て、美咲から薬と水を受け取ると、天音は薬を飲んだ。そして、よろよろと救急処置室に入っていく。天音はベッドのそばに倒れこむと、そこに眠る想花をきつく抱きしめた。想花こそが、自分のすべてだった。しばらく激しく息を切らしていたが、やがて落ち着きを取り戻した。一方、要は天音の後ろに立ち尽くし、何もできずにいた。……車の後部座席で、恵里は床に伏せて、恐怖で全身を震わせていた。「蓮司さん、お願い、許して」恵里は怯えた声で言った。「逃げたんなら、もっと遠くまで行けばよかったのに」暗闇に隠れた蓮司の瞳には、怒りの炎が燃え盛っていた。「よくも天音の前に現れて、彼女を刺激できたもんだな！」「ち、違うの、私は……」恵里の目から、どっと涙が溢れ出した。かつては美しかった顔は輝きを失い、服はぼろぼろだ。骨と皮ばかりの痩せた手首の内側には、新旧さまざまな傷跡がいくつも刻まれてた。「
妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第378話
自分が病気のとき、ママは一晩中そばにいてくれた。歌を口ずさみながら、自分の腕を優しくたたいてくれた。大智は、ママの胸に飛び込んで抱きしめてほしかった。そう考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。でも、ママの邪魔をしちゃいけないことは分かっていた。大智はその場に立ち尽くして、天音を見つめていた。その時、要が処置室に入ってきて、大智を一瞥した。要は天音のそばに歩み寄り、かがんで天音の髪にキスをした。それはまるで、昔のパパみたいな自然な仕草だった、と大智は思った。要は天音の手を握ると、耳元でそっとささやいた。「医者によると、胃腸炎から高熱が出たそうだ。今夜、熱がぶり返さなければ、明日には退院できるって。あまり心配しないで。子供はみんなこうやって成長していくものだから」要がそう言っても、天音は何も言わなかった。ただ要の手から自分の手を引き抜くと、また想花の体を拭き続けた。「想花の看病は俺に任せて、君は少し休んで」要は天音を気遣って、彼女の手から濡れタオルを受け取った。天音はそこに座ると、まっすぐに大智のほうを見た。天音の瞳に涙が浮かんでいるのを見て、大智は胸が痛くて、駆け寄って抱きついた。「ママ、想花ちゃんはきっと大丈夫だよ」大智がそう慰めると、天音の手がふと、大智の首にかかったペンダントに触れた。天音の眼差しが変わって、氷のように冷たくなり、怒りがこもった。天音は両手で大智のペンダントを強く引っ張ると、突然それが真っ二つに割れた。そして中から黒い「目」のようなものがこぼれ落ちた。天音は怒りの目で大智を見ると、立ち上がって部屋を出て、蓮司の所へ向かった。蓮司は途端に嬉しそうな顔をした。ここ数年で、蓮司が喜んでいる顔を見たのは、大智にとって指で数えられるくらいしかない。ママに会った時だけだった。突然、「パチン！」と乾いた音が響いた。天音は蓮司の頬を思いきり平手打ちして、その「目」を蓮司に投げつけた。天音が蓮司を叩くのを見て、大智の心臓はきりきりと痛んだ。両親が優しく微笑み、頬にキスをし、両手を繋いでいる光景が、大智の頭の中を駆け巡った。涙が、次から次へと大智の目からこぼれ落ちてきた……「蓮司、大智を利用して私を監視するなんて、あなたは本当に変わらないのね！」天音は携帯を取
妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第377話
想花は救急処置室に運ばれ、40度の高熱を出していた。由理恵はすぐに要に電話した。すると数分も経たないうちに、十数人の専門医たちが診察のために駆けつけた。蓮司が駆けつけた時、救急処置室は十数人の専門医たちにびっしりと取り囲まれていた。その光景を見て、心は一瞬にして巨大な恐怖に支配された。蓮司は行く手を阻む医師たちを押しのけた。その表情は、心の奥底をえぐるような痛みに歪んでいる。そして、天音の冷たい視線とぶつかった瞬間、乾ききっていた身体に、じんわりと血が通い始めた。天音は恐怖で手足が痺れていた。声の震えを抑えきれず、蓮司に向かって「出ていって！」と怒鳴りつけた。蓮司はベッドの上の想花に目を向けたが、ボディーガードのリーダーに腕を引かれて外へ連れ出された。蓮司は椅子に腰を下ろした。激しい不安が消え、全身の力が抜けた。頭の中では、ベッドに横たわるあの小さな子の姿が何度もよぎった。小さな手、小さな足。全身真っ赤で、苦しそうにもがいていた。どうして、要の娘が苦しんでいるのを見て、こんなにも辛いのだろう。「旦那様、中村さんはどうしますか？」ボディーガードのリーダーの声が、蓮司の思考を遮った。「送り返せ」と蓮司は言った。ボディーガードのリーダーは、すぐに対応するためにその場を離れた。その時、数人が救急室に押し寄せた。要が暁を連れて救急処置室に大股で入ってきて、天音を抱きかかえて外へ連れ出した。要は天音の耳元で、「先生たちに任せよう」と、なだめるように言った。天音が要を押し返すと、彼はすぐに手を離した。天音は救急処置室のドアのそばに寄りかかり、一歩も離れようとしなかった。想花は生まれつき体が弱く、やっと乳児期を乗り越え、ここ数年は健康だったのに、なぜ突然高熱が出て、しかも下がらないのか。天音は恐怖に震えていた。要は天音の前に立ち、声を潜めて言った。「海辺で遊んで、ちょっと風邪引いちゃっただけだ。そんなに心配するな」要は天音の手を取ろうと手を伸ばした。天音は抵抗したが、それでも要の手にしっかりと掴まれた。その瞬間、蓮司の氷のように冷たい声が聞こえてきた。「その手を離せ」蓮司は周りを気にすることなく、二人の前まで歩いてきた。特殊部隊の隊員が前に出て止めようとしたが、要が一瞥するだけでそれ
妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第376話
不機嫌なのは、自分自身の問題だった。要を突き放したのは自分なのに、他の女性と仲良くするのは見たくなかった。それが自分の問題だから、怒るべきではない。智子でなくても、いつかは別の女性が現れるだろう。「信じてくれたか？」要が優しくささやいた。天音はうなずいた。要は天音の頬を軽くつねり、上機嫌だった。すると天音が言った。「隊長、私が悪かった。あなたに冷たい態度をとるべきじゃなかった。お二人が個人的な関係でも、当たり前のことだよね。だって私たちはもう……」要は大きな手で天音の顎をつかみ、その唇にキスをした。空には、色とりどりの花火が咲き乱れていた。耳元では、人々の歓声と叫び声が聞こえてきた。天音は両手で要の胸を押さえた。要の顔が天音の顔に近づき、唇を天音の唇の端に重ねた。自分の気持ちを必死に抑えた声で、「余計なことは言うな」と囁いた。その時になってようやく、天音は周囲にどれほど多くの人が見ているかに気づいた。彼女は自分のしたことを後悔し、体を後ろに引いて、要の腕から抜け出ようとした。要は天音の細い腰を抱き、大きな手で彼女の後頭部を支えた。彼の腕には血管が浮かび上がった。そして、次の瞬間、天音は要の特有の墨の香りに包み込まれてしまった。要は唇を彼女の唇の端に、そして唇全体に重ねた。人々の叫び声と夜のざわめきの中、要は甘美な感覚に抗うことができなかった。その瞬間、天音の頭は真っ白になり、胸は何かで満たされ、花火の爆発に合わせてドキドキと高鳴った。彼女は昨日の夜の出来事が繰り返されるのを恐れた。自分が要にキスを返し、再び抑えきれなくなるのが怖かった。頭の中には、要が身をかがめて智子に話しかける姿と、恥ずかしそうに頬を染める智子の姿が浮かんでいた。目尻から涙がこぼれ落ちた。天音の涙に気づいた要は、彼女の唇を離し、その体を腕の中に抱きしめた。二人とも息を切らしていた。要は天音の背中を優しく撫でた。「池田さんを呼んで、君に説明させよう」要は天音の耳元でささやいた。その声は掠れていて、天音が今まで聞いたことのない、情熱に満ちた声だった。天音は要の胸に顔をうずめ、熱い涙が次々と溢れ出た。力いっぱい要のシャツの襟をつかみ、感情を抑えきれずに泣きじゃくりながら言った。「ひどいじゃない……
妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 第375話
要は天音の腰を抱き、彼女の小さな顔を上げさせた。天音の目が赤くなっているのを見て、小声で尋ねた。「どうしたんだ？」天音は要の手を避け、そして、顔を背けた。「なんでもない。離して」天音は弱々しくそう言いながら、腰に回された彼の腕を解こうとした。「まずはちゃんと説明してくれ」要は天音を離さなかった。それどころか、天音の顔を上げさせようとした。天音も譲らなかった。要の手を外せないので、その胸を押しのけようとする。込み上げてくる悔しさに、目元はさらに赤くなった。そして、涙声で、声を詰まらせながら言った。「抱かないで。私たち、もうすぐ離婚するのに、そんなことして、酷いじゃない」天音は、こう言えば要がきっと手を離してくれると思っていた。しかし、次の瞬間、彼女の顔は持ち上げられた。要は天音をじっと見つめた。こんなに近い距離だと、まつげが一本一本はっきりと見える。それは、蓮司が暁に送った写真とまったく同じだった。天音はまばたきをすると、涙が要の手の上に落ちた。要が涙を拭おうと手を伸ばすと、天音は顔をそむけた。二人はそのまま、数秒間睨み合った。要の気持ちが揺らぎ、手を離そうとした瞬間、突然部屋のドアが開けられた。要はとっさに天音を抱きしめた。暁が誰かを連れて入ってきた。「要さん、天音さん、花火が始まるわ。砂浜に行こう」要の従妹、霞が言った。天音の目が赤く、頬に涙が伝っているのを見た。霞が尋ねた。「要さん、天音さんをいじめたの？」要は天音の方を見て言った。「そんなことしたか？」天音は首を横に振った。霞は大きな声で言った。「おばあさんったら、なんであんな女たちを呼んだのかしら。雰囲気が悪くなるじゃない。天音さん、花火を見て気分転換しましょうよ。せっかくの良い気分を、玉の輿を狙ってるだけの女に邪魔されちゃだめよ。特にあの池田さんね、人気女優なのに、仕事もせずに金持ちの男の人たちにばっかり近づいて。みっともないわ」霞は天音を外へ連れ出しながら言った。「あの人、何を企んでるかなんて、みんなお見通しよ。お金持ちはみんな馬鹿だと思ってるんじゃないかしらね。金持ちの老人には相手にされなかったから、今度は私のいとこみたいな若い金持ちに狙いを変えたのよ」霞が智子の悪口を言うのを聞いて、天音は要の方を見た。
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