LOGIN拓也は路線図を見上げたまま、しばらく動かなかった。
仕事へ行かなければならない。
せっかく決まった仕事だ。
遅刻するわけにはいかない。
「……今日は無理か」
結局、いつもの電車に乗った。
会社へ着けば、普通に仕事をした。
頼まれた作業をこなし、昼休みには同僚とコンビニへ行く。
以前より生活は整っている。
だからこそ拓也には分からなかった。
自分はちゃんとしている。
なのに、なぜ美月は離婚したがるのか。
仕事を終え、駅へ向かう。
改札の前で足が止まった。
帰宅する路線。
その隣に、カフェへ向かう路線が表示されている。
「……確認するだけ」
美月が本当に辞めたのか。
それさえ分かればいい。
拓也は行き先を変えた。
次の調停の日。 美月は藤崎とともに家庭裁判所へ入った。「今日はご主人から直接話したいという希望が繰り返し出ていることも、こちらから改めて伝えておきます」「はい」「もちろん、朝倉さんが応じる必要はありません」「会いません」 美月は答えた。 もう迷っていなかった。 ◇ 調停室でも、美月の意思は変わらなかった。「ご主人からは、離婚について一度直接話したいというご希望が出ています」「希望しません」「分かりました」 調停委員はそれ以上勧めなかった。「離婚についてのお気持ちにも変わりはありませんか?」「はい。離婚したいです」 これまで何度も繰り返した答えだった。 そして今回は、調停委員から今後についてもう一段踏み込んだ説明があった。「これまで複数回お話を伺いましたが、双方のご意向に隔たりがあり、現状では合意の見込みが難しい状況です」「はい」「次回までの状況にもよりますが、調停を不成立として終了することも考えられます」 美月は藤崎を見る。 藤崎が小さく頷いた。「分かりました」「その場合の今後については、代理人の先生とご相談ください」「はい」 怖くないわけではない。 裁判になれば、もっと時間が掛かるかもしれない。 それでも。 戻るという選択肢はなかった。 ◇ 拓也の番になった。「奥様は、現在も離婚を希望されています」 また同じ言葉。「直接話すことについても、希望されていません」 拓也は調停委員を見た。「それ、本当に美月が言ったんですか?」「奥様ご本人から伺っています」「藤崎先生じゃなくて?」「はい」 拓也の表情が固まった。
その夜。 拓也はほとんど眠れなかった。 目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かぶ。 カフェから出てきた美月。 その前に停まった車。 蒼真を見て笑った美月。「……俺には会わないのに」 自分とは十分話すことさえ拒む。 それなのに九条とは、当たり前のように一緒にいる。 仕事を始めたことも。 家を整えたことも。 赤ちゃんのために準備していることも。 美月は何も見ようとしない。「一回話せば分かるのに」 拓也は起き上がった。 スマートフォンを手に取る。 藤崎へメールを打った。『もう一度お願いします。美月と直接話す機会を作ってください』 送信。 続けてもう一通。『裁判になる前に一度だけでいいです』 さらに。『俺は美月に危害を加えるつもりはありません』『第三者がいる場所で構いません』『警察署でも構いません』 送ってから、拓也は息を吐いた。「これならいいだろ」 安全な場所。 第三者もいる。 それでも拒否する理由なんてない。 ◇ 翌朝。 藤崎から美月へ連絡が入った。『ご主人から、また直接面会の希望が来ています』「……」『今回は、第三者がいる場所や警察署でも構わないとのことです』「嫌です」 美月は答えた。 自分でも驚くほど、迷わなかった。「場所の問題じゃないんです」『はい』「私は拓也と会いたくありません」『分かりました』「裁判になる前に話したいって言ってるんですよね?」『そうです』「でも、私はもう何度も答えてます」
拓也は路線図を見上げたまま、しばらく動かなかった。 仕事へ行かなければならない。 せっかく決まった仕事だ。 遅刻するわけにはいかない。「……今日は無理か」 結局、いつもの電車に乗った。 会社へ着けば、普通に仕事をした。 頼まれた作業をこなし、昼休みには同僚とコンビニへ行く。 以前より生活は整っている。 だからこそ拓也には分からなかった。 自分はちゃんとしている。 なのに、なぜ美月は離婚したがるのか。 仕事を終え、駅へ向かう。 改札の前で足が止まった。 帰宅する路線。 その隣に、カフェへ向かう路線が表示されている。「……確認するだけ」 美月が本当に辞めたのか。 それさえ分かればいい。 拓也は行き先を変えた。 ◇ カフェが見える場所まで来ると、拓也は足を止めた。 以前ここへ来た時、店長から美月はもういないと言われた。 店の前まで行けば、また騒ぎになるかもしれない。「入らなきゃいいんだろ」 道路の反対側を歩く。 窓越しに店内を見る。 客が何人かいる。 店員が動いている。 美月はいない。「やっぱり辞めたのか……?」 そのまま帰ればよかった。 けれど拓也は、近くの店へ入った。 窓際の席から、カフェの入口が見える。「少しだけ」 以前、九条の会社で何時間も待ったことを思い出す。 警察には、待ち伏せのようなことはするなと言われた。 でも今回は九条ではない。 美月の家でもない。 病院でもない。 カフェにいるとも分からない。「ただ休んでるだけだ
翌朝。 藤崎法律事務所に、拓也からメールが届いた。『美月と一度だけ直接話をさせてください』 それだけではなかった。『離婚についてきちんと話したいです』『裁判になる前に、夫婦二人で話すべきだと思います』『第三者がいる場所でも構いません』『十分でもいいです』 藤崎は内容を確認し、美月へ連絡した。『ご主人から、直接話したいという申し出が来ています』「……嫌です」 美月は即答した。『第三者が同席する形でも構わないとのことですが』「会いたくありません」『分かりました』 藤崎の声は変わらない。『では、そのように回答します』「お願いします」 電話を切ったあと、美月はしばらくスマートフォンを見つめていた。 五回目の調停で、訴訟の話が出た。 拓也もそれを聞いたはずだ。 だから急に焦り始めたのだろう。 けれど。「話すことなんて、もうない……」 離婚したい。 戻らない。 直接会いたくない。 何度も伝えている。 会えば違う答えになると思っているのは、拓也だけだった。 ◇ 昼休み。 拓也のもとへ藤崎から返答が届いた。『奥様は、直接お会いしてお話しすることを希望されていません』「……」 拓也は画面を見つめた。 また同じ答えだった。 だが、今回は引けなかった。『十分だけでも駄目ですか』 送信する。 しばらくして返ってきた。『時間の長短にかかわらず、現時点で奥様は直接の面会を希望されていません』 拓也はすぐに返信した。『藤崎先生も同席してく
五回目の調停の日。 美月はいつものように藤崎と家庭裁判所を訪れていた。 これまでと違っていたのは、調停室で告げられた言葉だった。「これまで双方からお話を伺ってきましたが、現時点では離婚について合意できる見込みが立っていません」 美月は静かに頷いた。 拓也は離婚しない。 美月は離婚する。 何度確認しても、そこだけは変わらなかった。「今後も合意の見込みがない場合には、調停を不成立として終了することも考えられます」「……はい」 覚悟していた言葉だった。 それでも、胸が少しだけ緊張する。「朝倉さんとしては、現在も離婚を希望されているということでよろしいですか?」「はい」 美月は迷わず答えた。「離婚したいです」「分かりました」 調停委員が記録する。「仮に今回の調停で合意に至らなかった場合についても、弁護士の先生とご相談されていますか?」「はい」 美月は藤崎を見る。 藤崎が頷いた。「その場合は、離婚訴訟も含めて今後の手続きを検討する予定です」 口に出されると、急に現実味が増した。 裁判。 そこまでしてでも離婚する。 以前の自分なら、怖くなっていたかもしれない。 けれど。「お願いします」 美月はそう答えた。 ◇ 入れ替わりで、拓也が調停室へ入った。「よろしくお願いします」 いつものように頭を下げる。 仕事にも慣れてきた。 美月の家にも行っていない。 病院にも行っていない。 九条の会社にも、あの日以来行っていない。 自分はちゃんとやっている。「ご主人のお気持ちについて、改めて確認させてください」「はい」「現在も離婚には応じ
拓也は検索結果を何度も読み返していた。『出生届 父親 同意』『子供の名前 父親 反対』『別居中 出生届』 だが、期待していたような答えはなかなか出てこない。「……なんだよ」 父親の許可がなければ名前を決められない。 そんな説明を探していた。 けれど、見つからない。 拓也は役所へ電話を掛けた。『はい、戸籍担当です』「あの、出生届について聞きたいんですけど」『はい』「妻と別居してるんですけど、もうすぐ子供が生まれるんです」『はい』「子供の名前って、夫婦二人の同意が必要ですよね?」 電話の向こうで少し間があった。『出生届には、お子さんのお名前を記載して届け出ていただきます』「それは分かってます。父親が同意してない名前でも受理されるんですか?」『届出人や記載内容など、必要な要件を満たしているかを確認して受理することになります』「じゃあ、俺が知らない名前でも?」『ご夫婦間でどのようにお名前を決められたかを、窓口で確認する手続きではございません』 拓也は黙った。「……妻が一人で出すこともできるんですか?」『出生届の届出人については法律上定められておりますが、ご夫婦が必ず一緒に窓口へ来ていただく必要はございません』「そうですか」 電話を切る。 しばらく、スマートフォンを見つめた。「勝手に決められるじゃん」 納得できなかった。 自分の子供なのに。 名前すら知らないまま、生まれるかもしれない。 けれど。 役所へ怒っても仕方がない。 藤崎に言っても、美月が相談したくないと言えば終わる。「だったら……」 拓也はメモを開いた。