تسجيل الدخول――『返品』
黒いマジックで大きく書かれた二文字を見た瞬間、美月は息をのんだ。
手が震える。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「どうされましたか」
蒼真が静かに尋ねる。
美月は言葉もなく、スマートフォンを差し出した。
蒼真は画面を見つめ、しばらく何も言わなかった。
段ボールは十二箱。
どれも何重にもガムテープが巻かれ、乱暴に扱われたことが写真からも伝わってくる。
その表面には、黒い文字。
――返品。
まるで、人ではなく物を送り返すような扱いだった。
「……ひどい」
思わず、美月の口から言葉がこぼれる。
拓也は、本当に怒っているのだ。
だから、こんなことをした。
そう思うと悲しいよりも、ただ虚しかった。
「中身は確認してみないと分かりませんね」
蒼真は穏や
家庭裁判所を出た拓也は、不機嫌そうに歩いていた。 美月とは一度も顔を合わせなかった。 同じ建物にいたはずなのに。 自分は直接話したいと何度も伝えたのに。「何のための話し合いなんだよ……」 拓也はスマートフォンを取り出した。 美月へ電話を掛けたい。 けれど、警察から注意され、藤崎からも直接連絡しないよう繰り返し言われている。 さすがに今は掛けられなかった。 そのまま自宅へ戻る。「お帰り」 和江がリビングから顔を出した。「どうだった?」「駄目」 拓也はソファへ座る。「美月、離婚するって言ってる」「まだそんなこと言ってるの?」「しかも、俺と会いたくないって」「会ってもないの?」「一回も」 拓也は苛立ったように髪をかき上げた。「俺は直接話したいって言ったんだよ。でも、美月が嫌だって言ったから駄目だって」「それじゃ話し合いにならないじゃない」「だろ?」 和江に同意され、拓也は勢いづく。「調停委員も俺の話を聞いてはくれたけど、結局、美月が嫌だって言ったらそれで終わりなんだよ」「弁護士も一緒だったんでしょう?」「ああ」「じゃあ、やっぱり周りにいろいろ言われてるんじゃない?」「俺もそう思う」 拓也は迷わず頷いた。 美月が自分の意思で会いたくないと言っている。 その可能性を、二人とも考えようとはしなかった。「次はいつなの?」「また連絡が来る」「それまで待つしかないわね」「……」 拓也は黙った。 待つ。 それが、ひどく長い時間に思えた。「母さん」「何?」「美月、もう腹大きくなってるかな」「そりゃ、少しずつ大きくなってるでしょうね」「……子どもが生まれるまでに戻ってこなかったらどうなるんだろ」 和江も答えなかった。 拓也は初めて、その可能性を具体的に考えた。 美月が戻ってこないまま出産する。 自分の知らない場所で、自分の子どもが生まれる。「それは嫌だ」 低い声が漏れる。「俺の子なのに」 和江が顔を上げる。「まだ時間はあるでしょう」「でも、調停なんかやってたら……」 拓也は唇を噛んだ。 自分が離婚を拒否していれば、美月は妻のままだ。 それで安心していた。 けれど。 結婚しているからといって、美月が帰ってくるわけではない。 子どもに会える保証もない。 その当たり前のこ
数週間後。 離婚調停の日がやってきた。 美月は家庭裁判所の前で、小さく息を吐いた。「緊張しますね……」 隣には藤崎がいる。「今日は、ご自分の考えをそのまま話せば大丈夫ですよ」「はい」 美月は頷いた。 ここまで来た以上、もう引き返すつもりはない。 建物へ入り、案内された待合室へ向かう。 拓也とは別の場所で待つことになっていた。 それでも、同じ建物のどこかに拓也がいる。 そう思うだけで、身体が少し強張った。 やがて名前を呼ばれ、美月は藤崎とともに調停室へ入った。 調停委員から、まず現在の状況や離婚を希望するまでの経緯を尋ねられる。「離婚を希望されているということで、間違いありませんか?」「はい」 美月ははっきり答えた。「離婚したいです」「ご主人は、夫婦関係を修復したいというお考えのようです。それを踏まえても、お気持ちは変わりませんか?」「変わりません」 美月は迷わなかった。「もう戻るつもりはありません」「分かりました」 調停委員はそれ以上、美月を説得しようとはしなかった。 続いて、これまでの経緯を確認される。 拓也の浮気を知ったこと。 家を出たこと。 その後も何度も連絡や接触が続いたこと。 実家やカフェへ来たこと。 警察へ相談したこと。 第三者を通じて手紙を届けてきたこと。 美月は藤崎の助けを借りながら、一つずつ説明していった。「現在、ご主人と直接連絡を取ることには抵抗がありますか?」「はい」「今後の連絡についても、代理人を通してほしいというご希望ですね」「はい。直接会って話すつもりもありません」「分かりました」 調停委員が記録を取る。
拓也は家庭裁判所から届いた書類を、何度も読み返していた。「……意味分かんない」 離婚調停。 文字を見れば見るほど、苛立ちが込み上げてくる。「美月、本気で離婚するつもりなのか?」「でも、調停なんでしょう?」 和江が向かいから書類を覗き込む。「話し合いをするだけじゃないの?」「たぶん」「だったら、離婚したくないって言えばいいじゃない」 拓也は顔を上げた。「そうだよな」「あなたが嫌だって言ってるのに、勝手に離婚なんてできないでしょう」 和江の言葉に、拓也は少し安心した。「俺は絶対に離婚しない」 そう口にすると、ようやく気持ちが落ち着いてくる。 美月が何を言っても、自分が拒否すればいい。 そう思った。 けれど。「……何て言えばいいんだ?」「何が?」「調停で」 拓也は書類をテーブルへ置いた。「離婚したくない理由、聞かれるだろ」「そんなの決まってるじゃない」 和江は当然のように答える。「子どものためよ」「子ども……」「もうすぐ父親になるんでしょう? 父親が必要だって言えばいいじゃない」「そうだよな」 拓也の表情が明るくなる。「俺だって子どものことは考えてる」 まだ生まれていない。 顔も見たことがない。 それでも、自分の子どもだ。「美月だって、一人で育てるより俺がいた方がいいに決まってる」「そうよ」「仕事だってしてないんだし」 拓也はそこまで言って、黙った。 今、自分も無職だった。「……でも、俺はこれから働けばいい」「
数日後。 美月は藤崎の事務所を訪れていた。「では、離婚調停を申し立てる方向で進めます」「はい」 美月はしっかりと頷いた。 拓也が話し合いでの離婚に応じない以上、いつまでも返事を待っているつもりはない。「調停になったら、拓也と会わないといけないんですか?」「基本的には、同じ場所で直接話し合うわけではありません」 藤崎が説明する。「裁判所では、それぞれ別の待合室で待機して、調停委員を介して話をする形になります。事情についてはこちらからも伝えておきます」「そうなんですね」 美月は少しだけ肩の力を抜いた。 拓也と顔を合わせなければならないのではないか。 それが一番不安だった。「ただ、ご主人がどういう主張をするかは分かりません」「……はい」「これまでの経緯についても整理しておきましょう」 藤崎は手元の資料へ視線を落とす。 拓也の浮気。 家を出てから繰り返された連絡。 実家やカフェへの訪問。 警察への相談。 第三者を使って届けられた手紙。 一つずつ並べていくと、美月自身が思っていた以上に多かった。「こんなにあったんですね……」「そうですね」 藤崎は淡々と答える。「記録が残っているものは、今後のためにもまとめておきます」「お願いします」 事務所を出る頃には、美月は少し疲れていた。 けれど、不思議と後悔はなかった。 もう待たない。 そう決めてから、少しずつ前へ進んでいる。 建物の外へ出ると、蒼真の車が停まっていた。 美月に気付いた蒼真が、運転席から降りる。「お疲れさまでした」「ありがとうございます」 車へ乗り込んでから、蒼真が尋ねる。「今日はどうでした?」「離婚調停を申し立てることになりました」「そうですか」「やっぱり少し緊張しますけど」 美月は苦笑した。「でも、拓也が離婚してくれるのを待ってるよりいいと思います」「はい」「裁判所で直接顔を合わせなくていいみたいなので、それはちょっと安心しました」「それなら良かったです」 蒼真はそれ以上、離婚について口を挟まなかった。 そのことが、美月にはありがたかった。 自分で決める。 蒼真は、その決断を邪魔せずに支えてくれる。「終わったら、何か食べて帰りませんか?」 不意に蒼真が言った。「え?」「昼食には少し遅くなりましたが、まだ何も
藤崎からの電話を切ったあとも、拓也はしばらくその場に立ち尽くしていた。 美月は手紙を読んだ。 それなのに、帰ってこない。 離婚する意思も変わっていない。「……なんでだよ」 拓也はソファへ座り込んだ。「俺、ちゃんと書いたよな?」 和江が向かいに座る。「書いたわよ。私も読んだもの」「だったら、普通は少しくらい返事するだろ」「そうね……」「それすらしないって、おかしくない?」 拓也は納得できなかった。 何度も謝った。 やり直したいと伝えた。 九条とのことまで許すと書いた。 それでも美月は、自分を拒絶した。「やっぱり、九条が何か言ってるんだ」 拓也が呟く。「弁護士も美月本人の意思だって言ってたけど、そんなわけない」「拓也……」「だって、あいつはこんな女じゃなかった」 以前の美月なら、拓也が怒れば謝った。 頼めば家事もしてくれた。 多少不満があっても、最後には自分に合わせてくれた。 それが拓也にとっての「美月」だった。「急に人間が変わるわけないだろ」 拓也はそう言い切った。 一方。 サービスアパートメントでは、美月が藤崎からの報告を受けていた。『ご主人には、手紙を受け取ったことと、直接返答する意思がないことを伝えました』「ありがとうございます」『今後の連絡についても、改めてこちらを通すよう伝えています』「はい」『また何かあれば、すぐにご連絡ください』「分かりました」 通話を終える。 美月は小さく息を吐いた。
三日目の朝。 拓也は目を覚ますと、真っ先にスマートフォンを確認した。 通知はいくつか届いている。 けれど、どれも美月からではない。「……まだかよ」 ベッドの上で、何度も画面を更新する。 手紙は確実に届いている。 知り合いが、美月の実家に届けたと言っていた。 なら、美月は読んでいるはずだ。 それなのに、何の返事もない。 拓也は身体を起こした。「考えるって言っても、三日もかかるか?」 もちろん、美月は考えるとは一言も言っていない。 それでも拓也の中では、返事がない理由は「迷っているから」になっていた。 リビングへ行くと、和江がテレビを見ていた。「母さん」「何?」「まだ美月から返事ないんだけど」「そうなの?」「もう三日だよ」 和江は少し考える。「手紙、本当に美月さんが受け取ったの?」「実家には届けたって」「でも、お母さんが美月さんに渡さなかった可能性もあるんじゃない?」 拓也の動きが止まった。「……え?」「だって、あっちのご両親もあなたに怒ってるんでしょう?」「……」「美月さんに見せないで、勝手に捨てたとか」 拓也の表情が変わっていく。「ありえる……」 自分の手紙を読んでも返事をしない。 その可能性よりも、誰かが美月へ届けなかったと考える方が、拓也には受け入れやすかった。「じゃあ、美月は読んでないのかもしれない」「そうかもね」「だったら、返事がないのも当然じゃん」 拓也は立ち上がった。 何か別の方法で、美月本人に届けなければならない。 しかし、すぐに昨日の知







