LOGIN洪水が押し寄せたその瞬間、救助隊長である父は真っ先に従妹の由奈を抱え上げ、ためらうことなく私の命綱を切り捨てた。 「由奈ちゃんは泳げない。ヘリにもう席がないんだ。お前は少しぐらい助けるのが遅れたって、死にはしないだろう」 息絶え絶えで、私は病院へと運ばれた。 ところが、医者である母は、最後に残っていた一袋のRhマイナスの血液を、さほど重症でもない由奈へと迷いなく回した。 私は掠れる声で母にすがりついたものの、母は冷ややかに私の手を振りほどいた。 「由奈ちゃんは貧血で、昔から体が弱いの。こんな時まで私の気を引こうとしないで」 けれど、そんな両親は知る由もなかった。 彼らに見捨てられたその時、私はもうとっくに息絶えていたということを。
View More由奈が笑いながら希未を遊園地に連れて行こうと提案したその瞬間、母の瞳の奥で光がわずかに揺らめいた。表向きには笑顔を保ちながら頷き、希未に穏やかに言い聞かせる。「由奈おばさんの言うことをよく聞くのよ。夜になったら、おばあちゃんが魚の煮付けを作ってあげるからね」その言葉に対し、由奈の笑みはすっと消え、憎しみの色を帯びた目が希未に突き刺さった。そして、甘ったるい声を作りながら言う。「ええ、必ず希未ちゃんの面倒はちゃんと見るわ」母の爪は掌に食い込み、うっすらと血が滲んだ。由奈は、気配を潜めて立っていた田中圭司(たなか けいじ)に目を向けると、無表情のまま希未に声をかけた。「ちょっとトイレ行ってくるから、外で待ってて」だが希未は首を横に振り、幼い声で言った。「ママがね、人がいっぱいいるところでは、大人から離れちゃダメだって言ってた」その瞬間、由奈は苛立ちを隠そうともせず、希未を突き飛ばした。「いい加減にして。死んだあんたの母親とそっくりで、本当にむかつく。言っとくけど、この家に、あんたたち親子が居られる場所なんて永遠にないんだから!」遠くからその様子を見ていた母は、胸を押さえながら、そばの木の幹に身を預けた。圭司が希未の口を塞ぎ、抱え上げて足早に立ち去ろうとしたまさにその時だった。父が背後から圭司を蹴り倒した。圭司を地面に押さえつけたまま、父は静かに涙を流す希未を見つめ、手を差し出した。だがその手は、ためらうようにゆっくりと引っ込められた。外の物音に気づいた由奈が飛び出してきたところで、母の失望に満ちた眼差しと正面からぶつかった。警察に連行されるその瞬間まで、由奈は父と母がここまで自分に立ち向かうとは信じられずにいた。「お前は、今までずっと私たちを騙していたのね」母の髪には、一晩で白髪が一気に増えていた。由奈は鼻で笑った。「そんなこと聞くってことは、全部知ってるってことでしょ?そうよ、唯をいじめて、貶めて、人を使って嫌がらせをさせたのは私。でも、それが何?あの子が死んだのは、あんたたち二人のせいじゃない」母は大きく息を吸い込みながら、まともな言葉すら紡げなかった。父は驚愕に顔を歪め、こめかみの青筋をぴくぴくと震わせていた。そしてテーブルを力任せに殴りつけた。「俺たちは、お前に対
母はソファに腰を下ろし、果物をつまむ由奈をじっと見つめていた。その声はかすれ、いつもの柔らかさを失っていた。「由奈ちゃん……唯の死亡証明書にサインしたの、あなたなの?」ぱたん、と由奈の指から葡萄が滑り落ち、床を転がった。その瞳に一瞬、不安の影が差したものの、すぐに涙をにじませて言う。「ええ……お姉ちゃんは亡くなったの。二人があまりに悲しむと思って、少し時間を置いてから伝えようとしただけなの」父は荒い息をつき、理解できないといった顔つきで声を荒らげた。「どうして俺たちに隠していたんだ」私の口元は、さらに冷ややかに吊り上がった。理由は明白だ。由奈は、私を貶める材料を手放したくなかったし、私の死によって彼らの中に築いた自分の立場が揺らぐのを恐れた――それだけのことだ。由奈はすぐさま言い訳を紡ぎ、母の肩にそっと腕を回した。しゃくり上げながら、甘えるように言う。「お姉ちゃんはもういないけど、私がずっとそばにいるから……ね?」母は顔を覆い、指の隙間から涙がぽろぽろと落ちた。「でも……私たちは唯の最期にさえ立ち会えなかったのよ」父はタバコに火をつけ、数度むせ返りながらため息交じりに言った。「唯は……どこに埋葬されたんだ」由奈は慌てたようにクッションを握りしめ、視線を泳がせながら言った。「お姉ちゃん、生前に言ってたの。事故で死んだら、遺骨は海に撒いてほしいって……」私は鼻で小さく笑った。由奈はこういう嘘を、呼吸をするように平然と口にする。父は訝しげに彼女を見たが、唇をわずかに動かしただけで、追及はしなかった。両親のその反応から察するに、彼らは、由奈が私の遺体を勝手に火葬し、それを隠していたことにすら怒りを覚えていないのだ。失望することに、あまりにも慣れすぎてしまったのだろう。心臓のあたりに手を置いてみたが、不思議と今回はそれほど痛まなかった。その夜、由奈は機嫌を取るように豪勢な料理を並べた。「お姉ちゃんのために、お墓を建てましょう。これから毎年、みんなでお墓参りに行きましょうね」まだ不満げだった両親の顔に、わずかながら柔らかさが戻る。「由奈ちゃんの言う通りだわ。唯はもういないんだから……もっと今そばにいる人を大事にしないとね。由奈ちゃん、私たちにはもうあなたしかいないんだ
父の誕生日の日、両親は警察から一本の電話を受けた。「お宅のお子さんが、『母親が失踪した』と通報に来ています。至急、警察署までお迎えをお願いします」怒り心頭のまま希未を家に連れ帰ると、父は私が昨年贈った湯呑みを叩き割った。飛び散った破片が、まるで私の胸に突き刺さるようだった。激痛が全身を駆け巡り、息さえ苦しくなる。「この出来損ないが……お前の母親は気でも狂ったのか!警察沙汰まで起こしやがって。よりによって今日、俺に嫌がらせか!」希未は怯えたように、小さな指をいじっている。家政婦が辞め、誰にも面倒を見てもらえなかったせいで、顔も服も薄汚れていた。由奈は露骨に鼻を覆い、甘ったれた声で文句を口にした。「何この匂い、臭っ!お姉ちゃん、今回はいくらなんでもひどすぎるよ。帰ってきたら、お父さんからガツンと言ってやってよ」母は深いため息をつき、冷たく言い放った。「とりあえず家にいなさい。唯が帰ってきたら迎えに来てもらうから」その一方で、由奈は刃物のように鋭い眼差しで希未を睨みつけた。彼女の中では、この家は父と母、そして自分だけのもの。私と希未が入り込む余地なんて、はじめからなかったのだ。そして由奈は、温めた牛乳を持っていくふりをしながら、わざと希未を刺すように言い放った。「あんたのお母さんね、もうあんたのことなんていらないんだって。もう灰になって下水に流されちゃったの。あんたのお母さんなんか、汚くて腐ったゴミと一緒がお似合いよ」希未は言葉の意味こそ分からなくとも、その言葉に込められた悪意だけは敏感に感じ取った。次の瞬間、牛乳が床にこぼれ、ガラスのコップが由奈の足の甲に叩きつけられた。痛みに顔を歪めた由奈の隙を突いて、希未はぷんぷんと怒りながら彼女を突き飛ばした。「ママのスマホだ!」希未が叫んだ。肌身離さず持っているのが一番安全だとでも思ったのだろう、由奈はずっと私のスマホをポケットに隠し持っていた。物音を聞きつけ、母が駆けつける。その瞬間、由奈の鬼のような形相は、か弱く哀れな少女のそれへと一瞬で変わった。由奈は涙をにじませ、赤く腫れた足の甲を押さえながら訴えた。「お母さん、希未ちゃんを責めないで……私がうっかりしてただけだから」「ママの悪口を言った!スマホも盗んだ!」希未は悔しそ
母はその場に立ち尽くし、問いただすことさえ忘れたように呆然としていた。その時、不意に由奈が姿を見せた。「お母さん、今日退院するんだから、お父さんと一緒にお祝いのご飯に付き合ってよ」彼女は母の肩を抱き寄せ、甘えるようにその額を預けた。そこへ希未が駆け寄り、小さな拳で由奈のすねを力いっぱい叩いた。「あんたは悪い人!おばあちゃんは希未と一緒にママを探しに行くの!」由奈は驚いたように声を漏らした。「そんなはずないわ。お姉ちゃん、昨日も私にメールをくれたもの」私は歯ぎしりしながら由奈を睨みつけた。由奈が私の携帯を使ったのは、私を陥れるためにほかならなかったのだ。どうりで両親に「気が利く子」と褒められるわけだ。私が生きていた頃、由奈は巧みに両親と私の仲を引き裂いてきた。そして私が死んだ今でさえ、その手口を手放すつもりはないらしい。【由奈、あんたなんかにお父さんとお母さんを奪われてたまるもんか!あんたはただ巣を乗っ取っただけのクソ女よ。お父さんとお母さんの娘は、私ひとりだけなんだから!】【私がしばらく姿を消せば、お父さんとお母さんも私の大切さに気づくはず。あんたなんか、とっとと消えてしまえばいいのよ!】母は手元のメールを凝視し、胸を激しく上下させながら小鼻を震わせた。その眉間には深い憂色が影を落としていた。「唯に伝えなさい。よくも由奈ちゃんを罵るメールなんて送りつけたわね。もう二度とこの家の敷居は跨がせないから!死んだふりをするだけならまだしも、看護師と口裏を合わせて私を騙すなんて……私の娘はこれから由奈ちゃんだけよ!」由奈の瞳には笑みが滲んでいたが、母が目を向けた瞬間、その表情はしょんぼりとしたものへと変わった。「お母さん、私が悪いの。お姉ちゃんは私のことをすごく憎んでいるから、こんな方法でお父さんとお母さんの気を引こうとしたんだわ。だったら、もう『お父さん』『お母さん』って呼ばない方がいいのね。お姉ちゃんが聞いたら怒っちゃうもの」母は希未のことを元々よく思っていなかった。そこへ由奈の尾ひれのついた説明が加わり、看護師の言葉でわずかに芽生えかけた不安は、瞬く間に霧散していった。希未は今も小さく啜り泣いている。それなのに、母の顔は氷のように冷え切ったまま、ひとかけらの情も浮かばなかった。「