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第2話

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静奈は震える手で119番に電話をかけた。

救急車のサイレンが聞こえてきたところで、彼女はついに意識を失った。

再び目を覚ましたのは、翌日のことだった。

体中に、無数の医療機器の管が繋がれている。

医師が、まるで出来の悪い子供を叱るように言った。

「短期間内に性行為は駄目だと、あれほど言ったでしょう!旦那さんはそんなに我慢ができない人なんですか?

手術したばかりの体で関係を持つなんて!無茶苦茶で!傷口がまた開いて出血したんですよ!搬送がもう少し遅かったら、命はありませんでしたからね!」

「ごめんなさい、先生。迷惑をかけてしまって」

医師は、衰弱しきって青白い顔をした静奈を見て、少しだけ不憫に思ったのか、語気を和らげた。

「言わせてもらいますけど、旦那さんは本当にろくでなしですよ。あなたの体を少しも大事にしていない!

すぐに家族に電話して、病院に来てもらいなさい。万が一のことがあっても、私では責任が取れませんから」

医師はそれだけ言うと、病室を出て行った。

静奈の胸に、苦い思いが込み上げる。

彼女にもう、家族と呼べる人はいなかった。

十七歳の時。

両親が不慮の事故で亡くなり、彼女は天涯孤独の身となった。

叔父の朝霧良平(あさぎり りょうへい)が後見人として現れ、両親が遺した財産と会社を少しずつ食い潰し、ついには両親の屋敷まで乗っ取った。

十九歳の時。

酒に酔った叔父が、亡き母の名を呼びながら彼女の部屋に押し入ってきた。もう少しで、力ずくで辱められるところだった。

その日を境に、彼女はあの家を完全に捨てた。

これ以上医師に迷惑はかけられないと、静奈は親友の浅野雪乃(あさの ゆきの)に電話をかけた。

三十分後。

雪乃が病院に駆けつけてきた。

看護師から静奈の事情を聞いた彼女は、怒りを爆発させた。

「長谷川、あのクソ野郎!あなたをこんな目に遭わせておいて、顔も見せないなんて!番号を教えなさい!罵詈雑言の限りを尽くしてやらなきゃ、気が済まない!」

雪乃は、自分のことのように憤慨している。

しかし静奈は静かに首を振った。

「その必要はないわ」

今電話したところで、惨めな思いをするだけだ。

彼はきっと、もっと自分のことを嫌いになる。

醜く争うくらいなら、このまま静かに別れた方がましだった。

「あんたってば!」

雪乃は、もどかしさと不憫さで胸がいっぱいになった。

「四年前、目を輝かせながら結婚するって言った時、私はてっきり、玉の輿に乗って幸せになるんだと思ってた!まさか、こんな苦行をさせられてたなんて!」

「長谷川はあんたに無関心で、辛い思いばかりさせて……一体、どこが良くて、そんなに尽くしてきたの?

金持ちだからって言うなら、まだ分かるわよ!でも、あのケチ男、毎月数万円の小遣いを家政婦経由で渡してくるだけじゃない!あなたに対して、とことんセコいのよ!」

静奈、もしかして長谷川って、あなたの命の恩人だったりするわけ?だからそんなに惚れてるの!」

静奈は力なく笑った。

「ええ、そうよ。彼は私の命の恩人」

両親を失い、重度のうつ病に苦しんでいた時、彼は光のように、自分の人生を照らしてくれた。

その日から、どうしようもなく彼を愛してしまった。

でも……

静奈は、そっと自身の下腹部に手を当てた。

彼のために、二度も死にかけた。

これで、あの時の恩は返せただろう。

もう、彼との間に何の貸し借りもない。

入院して一週間。

ずっと雪乃が付き添ってくれていたが、彰人から電話の一本もかかってくることはなかった。

その日の午前。

雪乃に支えられ、静奈が病室を出た時のことだった。

廊下が急に騒がしくなり、若い看護師たちが皆、同じ方向へと走っていく。

「うちの病院に新しい准教授が来たのよ!まだ二十五歳ですって!しかも女医さん!」

「そんなに若くて准教授なんて、すごすぎる!」

「ええ、ずっと海外で研究されてて、賞もたくさん取ってるらしいわよ。帰国した途端、医学界が騒然となったんだって!」

「実力だけじゃなくて、ものすごい美人で、超お金持ちの彼氏がいるって噂よ!彼女をバックアップするために、病院に病棟を一つ寄付するって申し出たらしいわ!」

「うそ!どんだけリッチなのよ!」

病院での生活に退屈しきっていた雪乃は、その話を聞くやいなや、目を輝かせた。

「静奈、私たちも見に行きましょ!」

病院の正面玄関は、黒山の人だかりだった。

院長自らが出迎えているところを見ると、病院側がこの新しい女医をいかに重要視しているかが分かる。

静奈が人に押されないよう、二人は人垣の一番後ろに立った。

雪乃は爪先立ちで首を伸ばしながら、ぼやいた。

「この騒ぎ、知らない人が見たら、どっかのトップアイドルでも来たのかと思うわよね」

黒い高級車がゆっくりと停車し、中から一人の男と一人の女が降りてきた。

人垣に遮られ、女の顔は見えない。

しかし、男の際立って高い身長は、人混みの中でも一際目を引いた。

その背中を見て、静奈はどこか見覚えがあるような気がした。

男が隣の女をエスコートし、こちらに振り向いた瞬間、静奈は息を呑んだ。

その、この世のものとは思えぬほど整った顔立ちは、自分の夫、長谷川彰人だったのだ!

「新しく来た朝霧先生、彼氏は長谷川グループの社長ですって。やっぱり噂通り、めちゃくちゃ格好いい!」

「数日前のニュースで見たわ!恋人のご機嫌を取るために、オークションでとんでもない額を使ったって!

今日は堂々と彼女のために公の場に現れるなんて、甘やかしすぎでしょ!」

「朝霧先生って本当に幸せ者ね。まさに完璧な人生。どうしたらあんな風になれるのかしら!」

周りの感嘆の声や噂話が、次々と静奈の耳に流れ込んでくる。

雪乃もまた、彰人の顔を見て、驚きを隠せなかった。

「うっそ……!あのクソ野郎!」

静奈が死にかけてるっていうのに、知らんぷりを決め込んで。

その裏で、堂々と愛人を世間にお披露目していたなんて!

怒りに燃えた雪乃は、静奈のために文句を言ってやろうと前に飛び出そうとした。

しかし、静奈が彼女の腕を掴んだ。

「やめて、雪乃。帰りましょう」

離婚はもう決まったこと。事をこれ以上荒立てたくはなかった。

雪乃は悔しくてたまらなかったが、手術を終えたばかりの静奈がこれ以上の刺激を受けて倒れてしまっては大変だと、彼女を支えて病室に戻った。

「長谷川、あのクソ野郎!既婚者のくせに、なんて厚かましいの!愛人を連れて、堂々と人前でいちゃついて!

あの愛人も本当に面の皮が厚いわ!医者のくせに、人の夫を誘惑するなんて!医者としての倫理観ゼロよ!」

雪乃は、クズ男と愛人を罵り続けた。

しかし、静奈の表情は驚くほど穏やかだった。

雪乃は、静奈がどれほど彰人を愛していたかを知っている。

だからこそ、心配になった。

「静奈、大丈夫?」

静奈は、無理に笑顔を作った。

「大丈夫よ。だって、もう彼とは離婚するって決めたから」

離婚協議書は、寝室に置いてきた。

遅くとも来月には、彼も目にするだろう。

雪乃は少し驚いた。

「静奈、本当に吹っ切れたの?長谷川と離婚するって」

静奈は、こくりと頷いた。

「ええ、吹っ切れた」

表情は穏やかだったが、心は引き裂かれるように痛んでいた。

七年間、ずっと彼を愛し続けた。

彼の名前は、すでに心の奥深くまで刻み込まれている。

血が滲むほど強く引き剥がさなければ、彼を完全に自分の中から追い出すことはできないだろう。

たとえ、どれほど痛くても……

彼女は、この結婚生活に終止符を打つと固く決意していた。

「良かった、静奈!」

雪乃は、少し興奮気味に言った。

「あなたはこんなに優秀で、綺麗なんだから!どんな男だって見つかるわよ!何も長谷川みたいな奴に夢中する必要なんてないじゃない!

離婚よ、離婚!さっさと離婚しちゃいなさい!離婚が成立したら、この私が、あなたをモデルのいる店に連れて行ってあげる!

年下の可愛い系、ワイルド系、癒し系、筋肉系、選び放題よ!片っ端から遊び尽くしてやりましょ!」

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