Share

第3話

Author:
数日後、静奈は退院手続きを済ませた。

彼女はネットで物件を探し、家賃一百万円、年払いの部屋を見つけた。

ATMでお金を引き出そうとした時、カードの残高がわずか数千円しかないことに気づいた。

雪乃は、またしても汚い言葉で罵倒せずにはいられなかった。

「長谷川!潮崎市一の富豪!資産何兆よ!自分の妻に対して、なんてケチなのよ!

愛人には平気で何十億、何百億と貢いで!オークションで馬鹿騒ぎしたり、病院に寄付したり!

通りすがりの物乞いにだって数千円くらい恵んでやるくせに、どうして妻に対しては他人以下なのよ!

静奈、この数年間、一体どんな生活してたのよ?」

静奈の胸が苦しくなる。彰人は、きっと心の底から自分を憎んでいるのだろう。

四年前。長谷川家の大奥様に招かれ、本邸を訪れたことがあった。

夕方から大雨になり、帰れなくなった彼女を、大奥様は彰人の隣室に泊まらせた。

彰人はその日、接待があった。誰かが彼の酒に薬を入れたのだ。

夜中、泥酔して帰宅した彼は部屋を間違え、彼女と関係を持ってしまった。

大奥様は、元々二人を結婚させたがっていた。

翌朝、二人が同じベッドで寝ているのを見つけると、それを口実に彰人に彼女を娶るよう強制したのだ。

彰人の誤解は深かった。彼の心の中で、静奈は玉の輿に乗るためなら手段を選ばない女、ということになっていた。

人に指図されることを何よりも嫌う彼は、彼なりのやり方で、静奈に手酷い復讐をしていたのだ。

思い返せば。家政婦の敦子は、生活費を渡すたびに、嫌味たらしく彼女を貶めた。

「若奥様は毎日、食材の買い出しも料理もなさらない。光熱費や管理費を払うわけでもない。

一体何にお金をお使いになるんですか?若様が毎月数万円くださるだけでも、ありがたいことですよ!」

静奈は、元々物欲がほとんどない人間だった。彰人と一緒にいられるだけで、彼女にとってはそれがこの上ない幸福だったのだ。

だから、そんな状況を少しもおかしいとは思わなかった。

今にして思えば、自分は「長谷川夫人」として、あまりにも惨めな存在だったと痛感する。

カードを財布に戻そうとした時、ふと、仕切りに古いカードが一枚入っているのに気づいた。

それは、大学時代のものだ。

毎年の奨学金や、コンペで得た賞金がこのカードに入っている。家賃くらいは払えるはずだ。

静奈がカードをATMに挿入すると、信じられないことに、画面に長い数字の列が現れた。

隣の雪乃は、目を丸くして固まった。

「うそ!これ、バグってない?……百万、千万、一億……」

雪乃は真剣にゼロを数えた。

「え、二十億以上あるんだけど!」

静奈もその金額に驚いた。明細を調べてみると、ある製薬会社からの特許配当金であり、毎月一億円近い入金があることが分かった。

大学の期間、彼女は指導教師の下で創薬研究に参加し、ある特効薬を開発して特許を取得した。

大学は彼女のために、博士課程への海外留学を特例で申請してくれた。

だが当時の彼女は、彰人と結婚することしか頭になく、他の一切には無関心だった。

彼女は留学の機会を放棄し、研究成果のすべてを指導教師に一任した。

先生は口を酸っぱくして彼女を説得したが、彼女は全く聞く耳を持たなかった。

最終的に、先生は諦めたように彼女の口座番号だけを尋ね、彼女の結婚式にも出席しなかった。

今になるまで、静奈は知らなかったのだ。あの特許の配当金が、毎月欠かさず彼女の口座に振り込まれていたことを。

このお金の出所を聞いて、雪乃は心の底から静奈に感服した。

「静奈、あなたってマジで天才!大学時代の研究成果だけで、こんな大金稼いでたなんて!すごすぎでしょ!」

静奈は、一瞬、意識が遠のくのを感じた。

長年「長谷川夫人」を演じるうちに、すっかり忘れていた。

かつての自分が、わずか十五歳で国内トップの医科大学に首席で合格した天才少女だったことを。

二十歳で特効薬を開発し、医療業界全体の注目を集めたことを。

ぼんやりしていると、不動産仲介業者から電話がかかってきた。

「朝霧さん、先ほどの部屋ですが、借りられますか?」

「いえ、借りません」

静奈は答えた。

「オーナーに、売却の意思がないか聞いてください。私が買います」

「えっ!かしこまりました!すぐにオーナーに確認します!」

その日の午後。静奈は売買契約書にサインし、所有権移転手続きを済ませ、新しい自宅へと引っ越した。

雪乃がインテリアのセッティングを手伝い、ささやかな引っ越し祝いを開いてくれた。

「静奈、あのクソ野郎と縁が切れて、本当におめでとう!これからは絶対に良いことしかないわよ!」

夜。静奈がベッドに入ろうとした時、突然、高橋榊(たかはし さかき)から電話がかかってきた。

榊は、彼女の父が生前、運転手として雇っていた人物だ。

よほどの緊急事態でなければ、こんな夜更けに電話をかけてくるはずがない。

静奈は電話に出た。

「榊さん」

「お嬢様、社長と奥様のあの事故ですが、単なる事故ではなかったかもしれません。お二人は、殺害された疑いがあります」

静奈の瞳孔が、カッと見開かれた。

「榊さん、何か分かったの?父と母は、一体どうやって死んだの?誰に殺されたの?」

「犯人は叔父さん、朝霧良平だと思われます。まだ彼を断罪できる直接的な証拠はありませんが、ご両親の死に、彼が関わっていることは間違いありません」

朝霧良平……静奈は、ベッドの上に崩れ落ちた。

両親が亡くなって以来、すべての利益を得てきたのは、叔父の一家だった。

彼らは、静奈の両親が二十年かけて必死に築き上げてきたものすべてを奪い取った。

てっきり、彼らはただ強欲なだけだと思っていた。

だが、疑ったことすらなかった。彼らが、お金のために、両親の命まで奪うということを!

静奈は、一睡もできなかった。目を閉じれば、両親が亡くなった時の光景が蘇る。

悪夢にうなされ、飛び起きた。静奈は、荒い息を何度も繰り返した。

必ず、両親の死の真相を突き止める。

そして、犯人に必ず代償を支払わせる!

翌日の午前。雪乃が静奈をショッピングに誘った。

「静奈、どうしたの、顔色が真っ青よ。昨日、眠れなかった?」

「ベッドが変わったから、ちょっと慣れなくて」

雪乃は、彼女に薄く口紅を塗ってあげた。

「うん、だいぶ顔色が良くなった!

さあ、行きましょ!あなたみたいに美人でスタイルも良い子が、綺麗な服を着ないなんて、宝の持ち腐れよ」

雪乃は静奈の手を引き、潮崎市で最も高級なデパートへとやってきた。

静奈は、シルバーグレーのオフショルダードレスに目を留めた。

「お客様、お目が高いですよ。そちらは、今年のショーで使用された限定モデルで、国内には一点しかございません」

店員がドレスをハンガーから外し、静奈に手渡そうとした。

静奈が手を受け取ろうとした、その時。別の手が、ドレスの反対側を掴んだ。

「これ、いいわね。店員さん、包んでちょうだい」

静奈が顔を向けると、そこには見慣れた顔があった。

完璧なメイクで、高級ブランド品に身を包んだその女は、まさしく叔父の娘、朝霧沙彩(あさぎり さあや)だった。

かつて、沙彩は静奈の家に居座り、彼女を散々いじめていた。

昨夜の榊からの電話の件もあり、静奈の胸には、彼女に対する憎しみが込み上げた。

静奈は冷たい声で言った。

「私が先に見つけたの、放して」

沙彩も静奈に気づき、少し驚いたような顔をした。

彼女は静奈を品定めするように見つめ、疑念に満ちた声で言った。

「このドレス、560万円もするのよ。あなたなんかに買えるわけ?」

「買えるか買えないか、あんたに関係ないでしょ!」

気が強い雪乃が、ドレスをひったくった。

「静奈、ほら、試着してきなさい」

静奈が試着室に向かおうとした時。突然、力強い大きな手が、彼女の腕を掴んだ。

低く、拒絶を許さない威厳のある声が、頭上から響いた。

「その服は沙彩に譲れ。埋め合わせに、他の服を好きなだけ選んでいい」

静奈が顔を上げると、その場で凍り付いた。

沙彩の隣に立ち、仇の娘に服を譲れと命じたその男は、あろうことか、彼女の夫、長谷川彰人だったのだ。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 妻の血、愛人の祝宴   第10話

    シャワーを浴び、清潔な服に着替えると、静奈は彰人と共に階下へ降りた。使用人が、温かいスープを差し出す。「若奥様、温かいうちにどうぞ。体が冷え切っていらっしゃいますから」静奈はそれを受け取って飲み干した。胃のあたりがじんわりと温まり、少し気分が楽になった。食事中。大奥様は、静奈の好物を彼女の目の前に並べた。「静奈、もっとお食べ。ずいぶん痩せてしまったじゃないか。私がが留守にしていたこの二ヶ月、また彰人があなたをいじめたんじゃないだろうね?」確かに、このところの手術や入院、そして離婚の心労がたたって、静奈はかなり痩せていた。大奥様に心配をかけまいと、彼女は笑顔で首を振った。「ううん。最近ダイエットしてるだけです」「ダイエットなんて必要ないよ。ちっとも太ってない。そんなことしてたら、骨と皮になっちゃうよ」大奥様は、彰人に目配せした。「彰人、静奈に取り分けておやり」彰人は、仕方なくといった様子で、料理を静奈の皿に置いた。皿に盛られた豚肉の唐辛子炒めを見て、静奈の心は揺らいだ。自分は、辛いものが苦手だった。彰人が好きだからという理由だけで、味を受け入れようと努力してきた。おそらく、自分はあまりにもうまく演じすぎていたのだろう。彰人は、自分の好みも、苦手な食べ物も、何一つ知らなかった。これまでは、彼が取り分けてくれたものなら、たとえそれが何であっても喜んで食べた。口の中が火を噴き、唇がみっともないほど腫れ上がっても、心は甘美な喜びで満たされていたのだ。だが今回、もう自分に嘘をつきたくなかった。彰人が取り分けたその料理に、静奈は一口も手をつけなかった。夕食が終わり、使用人がテーブルを片付けている時、静奈の皿に手付かずで残っている豚肉の唐辛子炒めを見て、わずかに訝しげな顔をした。静奈と彰人の間に、何か妙な空気が流れている気がする。だが、それは自分の考えすぎかもしれないと、使用人は何も言わなかった。彰人は、仕事の処理があると言って書斎に向かった。大奥様は、静奈の手を取ってソファに座らせた。「静奈、この数年間、辛い思いをさせたね」その話題に触れると、大奥様は涙を抑えきれなかった。元はと言えば、自分が彰人に静奈を娶るよう強制したのだ。静奈ほどの素晴らしい娘であれば、彰人

  • 妻の血、愛人の祝宴   第9話

    辺りには雨宿りできる場所すらない。静奈は鞄を頭上に掲げ、本邸の方向へと足を速めた。ププーッ!背後で、車のクラクションが鳴り響いた。静奈は慌てて道の脇に寄った。黒い車が彼女のすぐそばを通り過ぎる。窓越しに、あの整った冷徹な顔が見えた。彼女が呆気に取られている間に、車はすでに遠ざかり、テールランプがぼんやりと霞むだけだった。彰人だ。間違いなく、彼は今、静奈に気づいたはずだ。それなのに、彼は減速する素振りも見せず、脇目もふらずに走り去っていった。冷たいものが静奈の全身を駆け巡り、体が思わず震えだす。それが打ち付ける雨による冷たさなのか、それとも心の冷たさなのか、もはや区別がつかなかった。三十分後。静奈は、ふらふらになりながら本邸にたどり着いた。全身ずぶ濡れで、まるで溺れたネズミのような有様だった。ドアを開けた使用人は、驚きに目を見開いた。「若奥様、どうしてそんなに濡れて……」大奥様は、寒さで唇を白くしている静奈の姿に胸を痛め、すぐに振り返るとソファに座る彰人を詰問した。「静奈を一緒に乗せてくるように言ったでしょう!この馬鹿者が!自分の妻を労わることも知らんのか!」彰人は、整った眉をわずかに吊り上げた。「静奈が、俺の電話に出なかったんだ」静奈は、わずかに目を見開いた。暗に何かを言っている。昨日、彼からの電話を切ったから、その仕返しに、わざと雨の中に放置したというのか?静奈は使用人から差し出されたタオルを受け取り、まだ水が滴る髪を拭いた。「おばあさん、大丈夫ですよ。平気ですから」大奥様は、持っていた杖で彰人の脚をピシャリと叩いた。「ぼうっと突っ立っていないで、早く静奈を部屋に連れて行って、シャワーを浴びさせてやりなさい!それから清潔な服に着替えさせるんだ!」彰人は親孝行な男だ。そうでなければ、そもそも大奥様の強引な仲介で、静奈を娶ることもなかっただろう。彼は長い脚を一歩踏み出すと、大股で二階へと上がっていった。静奈は、大奥様に何かを勘繰られたくなくて、仕方なく彼の後について行った。寝室。彰人は、ソファにふんぞり返るように座った。「さっさと入って洗え。何を突っ立ってる、まさか俺がお湯を溜めてやるとでも思ってるのか?」静奈は、部屋を濡らしてしまう

  • 妻の血、愛人の祝宴   第8話

    翌日の午前。静奈が仕事に没頭していると、病院から電話がかかってきた。復帰後の検診に来るよう、念を押す内容だった。会社は病院からそう遠くない。退勤後、静奈は歩いて十数分で病院に到着した。病院の正面玄関に着いた途端、見慣れた一台の高級車が目に入った。彰人の愛車だ。彼女は乗せてもらったことこそないが、一目で見分けることができた。この車種は、潮崎市全体でも数台しか走っていない。彰人は車体に寄りかかり、その長い指には火の点いたタバコが挟まれている。煙が薄い唇から吐き出され、アンニュイな雰囲気と冷酷さが同居していた。格好をつけているわけではないのだろうが、通り過ぎる若い女性たちは皆、彼から目を逸らせないようだった。「彰人さん!」女の声が響いた。沙彩が病院の診察棟から駆け寄ってくる。彰人は手慣れた様子でタバコの火を揉み消すと、走ってきた沙彩を抱きしめた。「出張中、私のこと、恋しかった?」沙彩が、ごく自然に彼に甘えた。「どう思う?」彰人は直接答えなかった。沙彩が助手席のドアを開けた瞬間、口を押さえて歓声を上げた。「うそ!」助手席は、シートが見えなくなるほどの花で埋め尽くされ、その中央には小さなギフトボックスが置かれていた。彼が念入りに選んだことが一目で分かる。「彰人さん、こんなサプライズ、ありがとう!」沙彩は彰人の首に腕を回し、彼の頬にキスをした。静奈は、物陰に隠れていた。目の前の光景を見て、彼女の顔からは血の気が引き、爪が手のひらに深く食い込んでいた。結婚して四年。彰人は、自分にプレゼントをくれたことなど一度もなかった。サプライズなどもってのほかだ。それどころか、自分が心を込めて用意したプレゼントさえ、彼は履き古した靴のようにゴミ箱に捨てたのだ。この結婚生活に、もう未練はない。しかし、これほど強烈なコントラストを見せつけられると、やはり心が痛むのを止められなかった。「朝霧さん、どうかなさったんですか?」ちょうど看護師が出てきた。「早く中へどうぞ。先生、もう終業の時間ですから」「はい、今行きます」静奈は感情を押し殺し、建物の中へと入っていった。三十分後。医師が検査報告書を手に口を開いた。「経過は良好ですね。ですが、絶対に安静にしてください。

  • 妻の血、愛人の祝宴   第7話

    月曜日の午前。静奈が明成バイオテクノロジーに出社すると、すぐに弁護士から電話がかかってきた。「朝霧様、長谷川様は水曜日の午前でしたらご都合がつくとのことです。当日の離婚届の提出で予約を取りましたので、必ず時間通りにお越しください」「はい、分かりました」電話を切り、静奈は深く息を吸った。水曜日。あと二日で、この息苦しい婚姻関係から解放されるのだ。「朝霧さんですね?」人事部の担当者が静奈を迎え入れた。「あなたの席はこちらです。主なお仕事は、創薬開発チームの実験操作や資料整理の補佐となります。現在、会社は抗がん剤の標的薬の開発に注力しています。こちらが関連資料ですので、先に目を通しておいてください」静奈の役職は、創薬開発アシスタント。人事担当者から、分厚い資料の束を手渡された。創薬研究は、長く複雑なプロセスを要する。彼女が短期間で戦力になるには、一刻も早くプロジェクトの全体像を把握しなければならなかった。静奈は自席で食事さえ忘れて資料を読みふけった。重点箇所には印をつけ、自身の考えや見解も書き加えていく。気づけば、とっくに退勤時間を過ぎていた。資料はまだ四分の一ほど残っており、彼女は迷わず残業することにした。すべてに目を通し終えたのは、夜の九時過ぎだった。外はすっかり暗くなり、オフィスには彼女一人だけが残っていた。静奈は席を立ち、トイレへ向かった。席に戻ると、デスクの傍らに長身の整った人影が立っており、彼女が資料に書き込んだメモを熱心に読んでいるのに気づいた。「社長」静奈は、努めて事務的に声をかけた。その声に、昭彦が顔を上げた。「この資料を三日で読み終えるだけでも早いが、君は一日で目を通したのか?」「いえ……大まかに把握しただけです。細かい部分は、まだ文献を調べる必要があります」昭彦は、手に持っていた資料を閉じた。「まだ夕食を食べていないだろう?行こう、何かご馳走する」「いえ、お構いなく、社長。それは……」静奈が断ろうとすると、昭彦は半分冗談といった口調で言った。「入社初日からこんな時間まで残業させて、人聞きが悪いな。僕がブラック企業の経営者だと思われる。僕の名誉のために、付き合ってくれないか?」そこまで言われては、静奈も断りきれず、頷くしかなかった。「

  • 妻の血、愛人の祝宴   第6話

    陸と湊は、彰人の結婚式で一度だけ静奈に会ったことがあった。正直なところ、なかなかの美人であり、何年も経ってはいたが、二人は一目で彼女だと気づいた。彰人の幼馴染である彼らもまた、静奈のことをひどく嫌っていた。陸が、わざと嫌味な口調で言った。「おやおや彰人、奥様のお出ましだぞ?旦那の不倫現場を押さえに来たってわけか」彰人は鼻で笑った。「こいつが?そんな資格があるとでも?」彰人の冷酷な言葉、沙彩の勝ち誇ったような明るい笑顔、そして陸と湊の嘲笑が、静奈の心を深く突き刺した。「ごめんなさい、部屋を間違えたわ」彼女はそのままドアを閉め、外に出た。静奈のあまりにも冷静な態度に、陸と湊は少し面食らった。「普通の女なら、旦那が他の女といるのを見たら、泣きわめいたりするもんじゃないか?あいつ、なんで平然としてるんだ。彰人、まさか愛想を尽かされたとか?」「あり得ないだろ?あいつは彰人のこと、死ぬほど愛してるんだ。ここで騒ぎ立てて、追い出されるのが怖かっただけだろ」ドアの外で、静奈は深く息を吸った。彼らの言葉を気にしてはいけないと、必死に心を落ち着かせようとした。「お姉さん!」その時、先ほどの男性モデルが彼女の方へ歩いてきた。「探したよ、こんな所にいたんだ」彼は、ごく自然に静奈の腰に腕を回した。「行こう。雪乃さんが待ちくたびれてる」静奈は、その馴れ馴れしさに戸惑いつつも、今度は拒まなかった。陸が、ドアのガラス越しに、静奈がその男と親密そうに別の個室に入っていくのを目撃し、思わず大声を上げた。「マジかよ!彰人、これはなんのプレイだ!あいつ、男を買いに来てやがるぞ!」湊が分析する。「てことは、さっきのは浮不倫調査じゃなくて、マジで部屋を間違えただけか?」彰人の端正な顔が、瞬く間に恐ろしいほど黒く染まった。静奈、よくも!「長谷川夫人」の名を冠しながら、妻としての貞淑さも守らず、こんな場所で男遊びとは。自分の面子をどこまで潰せば気が済むんだ?静奈が個室に戻ると、雪乃はすでにかなり酔っていた。「静奈、どこ行ってたのよ、遅かったじゃない」「すみなせん、ちょっと部屋を間違えて」静奈は、彰人に遭遇したことを彼女には話さなかった。雪乃が提案する。「ねえ、ゲームしない?口でカード

  • 妻の血、愛人の祝宴   第5話

    翌日の午前。明成バイオテクノロジー、社長室。人事部の人が書類を運んできた。「社長、こちらが本日の面接者の履歴書です」「そこに置いておいてくれ。この後会議があるから、面接はパスする」「かしこまりました」桐山昭彦(きりやま あきひこ)が会議室へ向かおうと立ち上がった時、ふと、一番上にあった履歴書に目が留まった。朝霧静奈。その名前を見た瞬間、彼は動きを止めた。履歴書を手に取り、そこに写る見慣れた顔を見て、彼の心には複雑な感情と、わずかな驚きがこみ上げてきた。彼は高野文教授の愛弟子であり、静奈より幾つか年上だった。海外で研究に没頭していた頃から、指導教師である文が「聡明で、まさに天才と呼ぶべき後輩を指導している」と話しているのを何度も耳にしていた。文は電話で学術的な議論をするたび、いつもその後輩のことを手放しで褒めていた。初めのうちは、教授にそこまで言わせるほどの逸材とはどんなものか、という単なる興味で彼女の情報を追っていた。だが、いつしか写真でしか見たことのないその後輩に、彼は惹かれていた。研究期間を終えると、彼はためらうことなく帰国の途についた。しかし、空港に降り立って真っ先に耳にしたのが、彼女の結婚の知らせだった。もう二度と関わることはないだろうと思っていた。まさか、彼女の履歴書を受け取ることになるとは。昭彦はすぐに秘書に内線を入れた。「午前の会議は全てキャンセルだ!」昭彦は面接室へ向かった。人事部の担当者は彼の姿を見て一瞬驚き、すぐに中央の席を譲った。「社長」昭彦は、内なる興奮を抑えつけた。「始めてくれ」面接が正式に始まった。昭彦は面接官の席に座ったまま一言も発さず、人事担当者が応募者に質問をしていく。「社長、先ほどの方は……」人事が昭彦の意見を求めた。「君たちで判断してくれ」「かしこまりました」「次の方、朝霧静奈さん」静奈が面接室に入ってきた瞬間、昭彦の意識は彼女に集中した。彼女の顔色は、あまり良くないように見えた。人事担当者が、いくつか専門的な質問をした。静奈は四年間のブランクがあったものの、その間も独学で知識をアップデートし続けていたため、淀みなく、的確に回答していく。人事部の担当者は満足げに頷き、結果は後日連絡すると伝えようとした。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status