共有

第4話

作者:
この光景を目の当たりにし、静奈の足元から冷気が這い上がってくるようだった。体は思わず震えだす。

彰人が骨の髄まで可愛がっていた女、それが、まさか沙彩だったとは!

なぜよりによって彼女なのか、なぜよりによって仇の娘なのか!

「もし、断ると言ったら?」

静奈は、声の震えを必死に抑え込んだ。

「お前への生活費を中止する」

彰人の声は、冷たく突き放すようだった。

「ふふ……」

静奈は笑いながら、涙がこぼれそうになった。なんという皮肉だろう。

沙彩のご機嫌を取るためなら、彼は本当に何でもするのだ。

「いいのよ、彰人さん」

沙彩が甘えた声で彰人の腕に絡みつく。

「彼女、私の従妹なの。両親を早くに亡くして。昔、家にいた頃から、よく私の物を欲しがったわ。たかが服一枚じゃない、譲ってあげるわ」

雪乃が我慢できなくなり、沙彩を指差して怒鳴った。

「この厚かましい泥棒猫!静奈の物を奪うだけじゃ飽き足らず、白々しい嘘までつくなんて!その口、引き裂いてやるわ!」

彰人の顔色が、目に見えて険しくなった。

静奈は雪乃を引き留めた。

彰人と沙彩、そして自分。この三人の問題に、他人を巻き込みたくはなかった。

彰人は静奈をじっと見つめ、彼女が折れるのを苛立たしげに待っていた。

しかし静奈は、持っていたカードをまっすぐ店員に差し出した。

「このドレス、いただくわ。カードで」

これほどあからさまに拒絶され、彰人はわずかに眉をひそめ、不快感を露わにした。

静奈は彼を無視し、高額なドレスの入った紙袋を手に、踵を返した。

背後から、彰人の低い声が聞こえた。

「これと、これと、それもだ。この店にある新作を全て、沙彩の家へ送ろう!」

静奈の足が止まった。

新作全てとなれば、安く見積もっても億単位になるだろう。

沙彩が望んだ服を手に入れられなかった埋め合わせとして、彼はこれほど豪快な手段で彼女を慰めるのだ。

よほど、心の底から彼女を愛しているのだろう。彼女がほんの少しでも不快な思いをすることが許せないのだ。

雪乃は、またしても汚い言葉で罵った。

「クソッ!長谷川の目は節穴か!あなたみたいな素晴らしい奥さんを大事にしないで、あの性悪女のどこがいいって言うのよ!」

静奈の胸に鋭い痛みが走ったが、すぐに穏やかな心持ちを取り戻した。

離婚を決めた以上、もう彼のために心を痛める必要はない。

翌日の午前。静奈は一人、当てもなく街を歩いていた。

ぶらぶらしているうちに、いつの間にか母校の前にたどり着いていた。

キャンパス内では、合同企業説明会が開かれている。

後輩たちの希望に満ちた顔を見て、静奈の心は揺らいだ。

もし四年前、自分が彰人との結婚にそこまで固執していなかったら。

もし、自分の学業もキャリアも諦めていなかったら、今頃は全く違う景色が広がっていたのだろうか?

「朝霧さん?」

背後から名前を呼ばれ、振り返ると、そこには大学時代の指導教師だった高野文(たかの ふみ)教授がいた。

「高野先生」

文は少し老け、白髪が増えていたが、相変わらず毒舌な「先生」のままだった。

「痩せたな。顔色も悪い。この数年、あまり良い暮らしをしていなかったんじゃないか?」

「私は……」

静奈は言葉に詰まり、どう答えるべきか分からなかった。

「あの男には、遠目から一度会ったことがある。その時、君に対して本気じゃないと分かったよ。

君という奴は、痛い目を見ないと分からないタイプだからな。ようやく目が覚めたか?」

文は、まるで出来の悪い弟子を叱るように言った。

静奈は苦笑した。

「ええ。自分で経験してみて、初めてどれだけ痛いか分かりました。

先生、特許の件、ありがとうございました」

「あれは元々、君が得るべきものだ。金が手元にあれば、いざという時の逃げ道くらいにはなるだろう」

今になって、静奈はようやく文の真意を理解した。

彼が結婚式に来なかったのは、師弟の縁を切るためではなかった。

ただ、教え子が火の穴に飛び込むのを、目の当たりにするのが耐えられなかっただけなのだ。

昼。静奈は文と学食で昼食を共にした。

「今は仕事をしているのか?」

静奈は首を振った。仕事を探そうとは思ったが、四年間の専業主婦生活で、ほとんど世間から隔絶されていた。

彼女の目には彰人しか映っておらず、今更どうやって社会復帰すればいいのか、見当もつかなかった。

文は、一枚の名刺を差し出した。

「ここの責任者は、私の教え子だ。君が行く気になれば、いつでも入社できる」

静奈は名刺に目を落とした。

明成バイオテクノロジー株式会社。

ここ数年で急成長している企業で、がん治療薬の研究を専門としている。

彼女の専門分野とぴったり合致しており、組織構成も比較的シンプルで、自分のような実務経験のない新人には適しているように思えた。

だが静奈は、文のコネを使いたくなかった。

午後、文は講義があった。彼女は家に帰ると、履歴書を作成し、明成バイオテクノロジーの人事部に送った。

すぐに人事担当者から電話があり、翌日の午前、必要書類を持って面接に来るよう通知された。

書類を整理している時、静奈は卒業証書がないことに気づいた。おそらく、汐見台に置きっぱなしなのだろう。

彼女は証書を取りに、邸宅へ向かった。

家に入った途端、家政婦の敦子が電話をしているのが聞こえた。

「若様、今月のお振込額、間違っていらっしゃいませんか?」

電話の向こうから、彰人の冷たい声が聞こえた。

「それは邸宅の維持費だ。今月から、静奈への生活費は全て停止する」

敦子は、静奈が帰宅したことに気づき、明らかに動揺した表情を見せた。

彰人は毎月、敦子の口座を経由して静奈に生活費を渡していた。

そして敦子は、静奈が彰人に寵愛されていないのをいいことに、その金をこっそり横領し、ほんの数万円だけを渡してごまかしていたのだ。

静奈が普段と変わらない様子なのを見て、何も気づかれていないだろうと、敦子は胸を撫で下ろした。

彼女は静奈の後ろについて回り、しきりに説得を始めた。

「若奥様、また若様を怒らせたのですか?」

「若様と結婚できただけでも、若奥様は幸せ者なのですよ。たとえ若様が外に愛人を作ったからといって、何だと言うのです。

生活に困らないよう、ちゃんとお金は頂いているではありませんか。そんな些細なことで、若様に逆らうなんて。

私を信じて、すぐに若様に電話して謝罪なさい。そうすれば、若様も許してくださるかもしれませんよ。

これも全て若奥様のためを思って言っているんですよ。ありがたい忠告だと思いなさい」

敦子は、寝室までついてきて、休みなくまくし立てた。

静奈は振り返り、笑みを浮かべた。

「本当に『私のため』?それとも、自分の『私腹を肥やすため』?どっちなのか、自分で分かってるんじゃないの?」

敦子は、一瞬、呆気に取られた。彼女は手に持っていた雑巾で、慌ててテーブルを拭くふりをした。

「ど、どういう意味ですか?」

敦子の不自然な挙動を見て、静奈は自分の推測が正しかったことを確信した。

彰人が以前、毎月いくら振り込んでいたのか、もはや問いただす気にもなれなかった。

どちらにせよ、彼女にとってはもう何の意味もないことだ。

引き出しから卒業証書を見つけると、静奈は踵を返した。

敦子は、テーブルの上に置かれた離婚協議書を見て、息を呑んだ。

彼女は慌てて静奈を追いかけた。

「若様と、離婚なさるおつもりで?」

静奈は、わずかに振り返った。

「見た通りよ。面倒だけど、それを彰人に渡しておいて」

静奈の去っていく背中を見つめながら、敦子は信じられないという表情で立ち尽くした。

あれほど若様に嫁ぎたいと、みっともなくしがみついていたではないか。

やっとの思いで手に入れた「長谷川夫人」の座を、本当に手放すというのだろうか?

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 妻の血、愛人の祝宴   第100話

    静奈は陸の瞳に宿る敵意を感じ取った。彼が、良からぬことを企んでいるのは明らかだった。彼女は陸と湊が幼馴染の仲だから、湊も陸の顔を立てて、断らないだろうと思っていた。だが意外にも、湊は淡く微笑んだ。「遠慮しておく。それほど踊り慣れたお相手はむしろ、お前のような遊び人にこそふさわしいだろう」陸は口を尖らせ、それ以上は食い下がらなかったが、その瞳に浮かぶ嘲笑は一層濃くなった。彼に連れられた赤いドレスの女は機転が利くようだった。とっくに陸の口調から、敵意を読み取っていた。ターンするふりをして、彼女は肘が不意に当たったかのように、静奈の脇腹へとぶつかった。その動きはあまりにも速く、防ぎようがなかった。「うっ……」静奈の体は激しく前へよろめいた。足首に激痛がが走る。彼女は体勢を崩し、倒れそうになった。「危ない!」湊は素早く手を伸ばし、彼女を支えた。その掌は彼女の背中に当てられ、彼女の体が瞬時に強張ったのが、はっきりと伝わってきた。「足を捻ったか?」静奈は痛みで顔色が蒼白になり、額には汗が滲んだ。唇を噛み締め、こくりと頷くことしかできない。湊は慎重に彼女を支え、近くの休憩エリアへと連れて行った。彼はその場にしゃがみ込み、彼女の足首が赤く腫れ上がっているのを見て、眉をひそめた。「病院でレントゲンを撮った方がいい。俺が送る」静奈が怪我をしたのを見て、沙彩は内心、ほくそ笑んでいた。だが、彰人が不意に彼女の手を放し、真っ直ぐに休憩エリアへと歩いていく。沙彩の胸が、きゅっと締め付けられた。彼女は慌てて、その後を追った。彰人は湊の前に立ち、平坦な口調で言った。「お前は今日の主催者側だ。中座するのはまずいだろう。ここは俺が送る」湊は笑った。「彼女は俺の誘いで踊り、怪我をした。筋を通す意味でも俺が責任を持つべきだ」「どう言おうと、こいつは俺の妻だ」彰人の口調はあくまでも平坦だった。「俺が送るのが一番筋が通る」湊は彰人の瞳に宿る頑なさと、青白い顔の静奈を見比べた。最終的に、彼は笑って頷いた。「そうだな。では頼む」「彰人さん!」沙彩が追いついてきた。彰人が静奈を病院へ送ると知り、その声には悲痛な響きが混じっていた。「そしたら、私は?」彰人は彼女を振り返り、いつものように甘やかす口調

  • 妻の血、愛人の祝宴   第99話

    「は、はい」沙彩は微笑み、甘ったるい声を出した。「奇遇ね」彼女は半歩前に出た。「高校以来かしら。あなた、とっくに潮崎市を出て行ったものだと思ってたわ。連絡先、交換しましょうよ。今度お茶でも」希の目に怯えが走った。「わ、私、携帯、持ってなくて……」沙彩はその嘘を見透かしたように笑った。「平気よ。私から追加するわ。LINEのID、教えて?」希の体がビクッと震えた。沙彩の視線に射すくめられ、彼女はしどろもどろに番号を伝えた。沙彩は携帯を振って見せた。「申請、送っておいたわ。ちゃんと承認してね。また今度、お茶に誘うから」沙彩が立ち去った後。希はその場に固まったまま、全身の血液が凍りついたようだった。静奈が湊と提携の詳細を詰め終え、顔を上げると、希が真っ青な顔で立ち尽くしているのが見えた。彼女は立ち上がって、希の元へ歩み寄った。「どうしたの?顔色が真っ白よ」希ははっと我に返ると、慌てて首を振った。「な、何でもありません」彼女は視線を泳がせ、静奈の目を見ようとしなかった。「静奈さん、私、ちょっと、めまいがして。先に失礼してもよろしいでしょうか?」静奈は彼女の様子が確かに優れないのを見て取った。「病院まで付き添いましょうか?」「い、いえ、大丈夫です。家に帰って、少し休めば治りますから」静奈は頷いた。「そう。じゃあ、お先にどうぞ。道中気をつけて。家に着いたら、連絡してくれる?」「はい!ありがとうございます、静奈さん!」希はまるで恩赦でも受けたかのように、バッグを掴むと、足早に戸口へと向かった。その慌ただしい後ろ姿は何かから必死に逃げているかのようだった。希が立ち去って間もなく、バンケットホールの照明が不意に落とされ、ステージと、周囲の柱を照らす、温かい色のスポットライトだけが残った。司会者の声がスピーカーを通して響いた。「これよりはダンスタイムでございます。皆様、どうぞ、ご自由にお楽しみください」ゆったりとしたワルツの旋律が流れ始める。男性たちが次々と、傍らの女性の手を取り、ダンスフロアへと歩み出ていった。湊が静奈に向き直った。「朝霧さん。一曲、踊れないか」静奈は反射的に断った。「申し訳ない。私、あまりダンスは……」「構わないよ。俺がお連れする

  • 妻の血、愛人の祝宴   第98話

    彰人はその場に立ち尽くし、何も言わなかった。彼はグラスの中のウイスキーを一気に飲み干した。焼けつくような液体が喉を滑り落ちたが、胸の奥で渦巻く得体の知れない苛立ちを、それは押し流してはくれなかった。沙彩はドレスの裾を握る指先に力を込めた。静奈の出現は自分にとっての脅威だった。彼女が現れた途端、本来なら自分に注がれるはずだった注目を、すべて奪い去っていった。それが自分にはどうにも我慢ならなかった。彼女は無理やり笑みを作り、わざと軽い口調で言った。「神崎グループと明成バイオは今、提携交渉の真っ最中なんでしょう。湊さんが、提携相手に気を遣うのは当然のことよ」陸が、傍らで鼻で笑った。「だよな。湊は昔、あれほど朝霧静奈のことを嫌ってたんだ。仕事が絡んでなけりゃ、あいつに視線さえ向けねえよ」湊は静奈と談笑していたそこへ、神崎グループの重鎮である、湊の祖父が到着した。「すまない、少し失礼する。祖父に挨拶を」湊は祖父の元へと歩いていった。会場の多くの人々も、次々と湊の祖父の元へ挨拶に集まっていく。その中には目下の者として、彰人や陸の姿もあった。希が会場の隅を指差した。「静奈さん、あちらの席へ行きましょう」静奈は頷いた。「ええ」二人は人混みを抜け、隅のテーブルについた。窓の外に広がるきらびやかな夜景が、ホールの中の喧騒よりも、よほど心を落ち着かせてくれた。希が小声で呟いた。「静奈さん、すごい人の数ですね。私、さっきから、手の汗が止まらなくて」静奈は彼女を安心させた。「大丈夫よ。社会見学だと思えばいいわ」希の視線が少し離れた場所にあるビュッフェ台に注がれ、その目が輝いた。そこには色とりどりの美しいデザートや飲み物が並べられていた。「静奈さん、私、何か食べるものと、飲み物を取ってきますね」湊の祖父は顔見せ程度で、すぐに体調が優れないことを理由に会場を後にした。湊の視線が、人混みの中を何度も巡り、ようやく、隅の席にいる静奈の姿を捉えた。彼は真っ直ぐに彼女の元へと歩み寄り、その向かいの席に腰を下ろした。「すまない、待たせたな」彼はノートPCを二人の間に滑らせた。画面には補足条項の草案が表示されている。「これを見てほしい。何か意見があれば、いつでも。ゆっくりと詰めてい

  • 妻の血、愛人の祝宴   第97話

    彰人が沙彩を伴って入ってくると、瞬く間に会場の視線を独占した。「長谷川社長、沙彩さん、お待ちしておりました!」取引先の一人が、グラスを手に駆け寄ってきた。「沙彩さんの今日のドレス、本当に素晴らしい。長谷川社長とお並びになると、まさに絵に描いたようなお二人ですね!」沙彩は頬を赤らめ、彰人のそばにより一層ぴったりと寄り添った。「高坂会長、褒めすぎですわ。これも、彰人さんのセンスが良いおかげですの。このドレス、彼が私のために特別に誂えてくださったものなんです」彰人は軽く頷き、周囲の挨拶をそつなくこなしていた。業界の人間は皆知っていた。彰人が沙彩を際限なく甘やかし、どのような公の場にも彼女を同伴させ、その顔には「溺愛」の二文字が書いてあるも同然だということを。当然、沙彩に媚びへつらうために集まる者も少なくなかった。陸がシャンパンのグラスを揺らしながら近づいてきた。「沙彩さん、今日はずいぶんとキラキラしているのではないか。また高級車一台分の金と同等するのを身に纏ってるってわけだ」彼は眉を上げ、彰人に視線を向けた。「彰人、お前も本当に甘やかすよな。沙彩さんがお前の最愛の女だって、世間に知らしめなきゃ気が済まないのか?」沙彩は甘えるように彼を軽く睨みつけた。「陸さん、もう、からかわないでよ」数人が談笑していると、湊もやってきた。彼はシルバーグレーのスーツを身に纏っていた。「さっきまでお前らがまだ来てないって思ってたんだ。こんな所に固まってたのか」陸がふざけて言った。「お前こそ、今日の主催者様が忙しそうにしてるから、俺たちは邪魔しちゃ悪いと思ってたのによ」まさにその時、入り口が不意に小さくどよめいた。静奈と希が入ってきた。「マジか」真っ先に気づいた陸は手にしたシャンパンを危うくこぼしそうになった。彼は肘で彰人をつつき、声を潜めた。「おい、お前の『もうすぐ元妻』さん、化粧すると、なかなかイケるじゃねえか。まさか、お前がここに来るって知ってて、お前を誘惑するために、わざわざあんな格好してきたとか?」彰人の視線が静奈に注がれたが、すぐに外された。「考えすぎだ」湊が振り返り、入り口のその姿を認めると、グラスを持った手が不意に止まった。彼は静奈が人混みを抜けてくるのを見つめた。

  • 妻の血、愛人の祝宴   第96話

    静奈は服を着替え、試着室から出てきた。「希さん、これ、どうかしら……」言葉は不意に途切れた。そこに希の姿はなく、代わりに、深く、黒い瞳と真正面からぶつかった。彰人が数メートル離れた場所に立ち、彼女の姿に視線を落としていた。彼女は深い青色のマーメイドドレスを身に纏っていた。胸元のデザインが、彼女の精巧な鎖骨のラインを美しく描き出し、極限まで絞られたウエストラインが、豊かな胸の曲線を一層際立たせている。スカートの裾は体の曲線に沿って滑らかに落ち、足首のあたりでわずかに広がっていた。ドレスから覗く肌は雪のように白く、黒い長髪が滝のように流れ落ちている。彼女はまるで、深海の底から現れた人魚姫のようだった。その美しさは見る者の視線を奪って離さない。彰人の、常日頃、薄氷に覆われているかのような眼差しがその瞬間、彼自身も気づかぬほどに、微かに揺らいだ。視線がが交わった瞬間、空気さえもが凝固したかのようだった。「彰人さん、これ、似合うかしら?」隣の試着室のドアが開き、沙彩があの白いドレスを身に纏って現れた。無数のダイヤモンドが散りばめられたスカートが眩い光を放っている。彰人の視線が静奈から引き剥がされ、沙彩へと向けられた。「似合う」その言葉はあまりにも平坦だった。先ほど、静奈の姿を目にした瞬間の、息を呑むような熱はどこにもなかった。沙彩は隣に立つ静奈の姿に気づいた。深い青色のドレスを纏った姿。自分のドレスほど華美ではない。それなのに、言いようのなく圧倒的な美しさを放っている。沙彩の胸の中に、途端に得体の知れない怒りが込み上げてきた。彼女は口元を吊り上げ、わざと親しげに声をかけた。「奇遇ね、静奈も、ここにいたの」静奈の口調は冷ややかだった。「本当に奇遇ね」沙彩の視線が静奈の全身を舐めるように動いた。「静奈のそのドレス、色は素敵だけど……ちょっと、地味じゃない?見ていて退屈だわ」それは服を批評するふりをしながら、明らかに静奈本人に向けられた攻撃だった。静奈は顔を上げ、沙彩を見つめた。「私は明成バイオの代表として、神崎グループの謝恩会に出席するの。落ち着いた装いをすることは提携先に対する敬意の表れよ」その口調は平坦だったが、鋭い刃を隠し持っていた。「彰人のパート

  • 妻の血、愛人の祝宴   第95話

    彼はしばらく言葉を置き、誠実さを込めた。「それに、率直に言って、俺はお前の専門能力を高く評価している。この謝恩会が、俺たちとのより深い提携への新たな出発点になることも望んでいる。俺にチャンスをくれないか。明成バイオのためにもだ」静奈は彼の瞳に宿る真摯さを見つめ、このプロジェクトの開発がいかに困難だったかを思い返した。この謝恩会は確かに人脈を広げる絶好の機会だ。自分の私情で、会社の利益を損なうわけにはいかない。指先が招待券の上でしばし彷徨う。遂に静奈は頷いた。「神崎さんがそこまで言うのなら、必ず出席するよ」湊の目に、笑みが広がった。「心待ちにしている」静奈は謝恩会の招待券を会社に持ち帰り、昭彦に神崎グループとの提携について話した。昭彦は招待券を指でなぞった。「金曜の謝恩会、僕も一緒に行こうか?ちょうどいい機会だ。神崎グループの役員たちとも顔合わせができる。今後の仕事も進めやすくなるだろう」静奈は微笑んだ。「いえ、お気遣いなく。林さんを連れていきますわ」彼女はデスクの上のスケジュール表を指差した。「社長は金曜日、行政主催の革新医薬シンポジウムにご出席なさるのでは?今後の公的な助成金申請にも関わる、重要な会合だと伺っております」昭彦は眉をひそめた。「だが……」彼は静奈をあのような場に一人で行かせるのが気がかりだった。希はまだ学校を出たばかりの新人だ。不測の事態が起きても、対応などできまい。「ご心配なく。神崎さんは私どもとの提携を重要視してくださっています。私に恥をかかせるような真似はなさらないはずです」静奈の口調は自信満々だ。「行政の会議の方が、よほど重要ですわ。会社の未来の研究開発には公的な支援が不可欠です。この機会は逃せません」昭彦は彼女の瞳に宿る落ち着きを見て、ついに頷いた。「わかった。何かあったら、いつでも僕に電話してくれ」謝恩会の当日の午後。静奈は希を連れて、高級ドレスブティックを訪れた。ずらりと並んだドレスを前に、希は緊張した面持ちで拳を握りしめた。「静奈さん、私たち、本当に、こんなに着飾らないといけないんでしょうか?」「神崎グループの謝恩会よ。いらっしゃるのは業界の大物や、政財界の名士ばかりだわ」静奈は何気なく、深い青色のマーメイドドレ

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status