LOGIN第75章アリーナ視点ようやくタクシーが止まったのは、古びた二棟の建物の間に挟まれるように建つ、小さなホテルの前だった。看板の明かりがちらちらと点滅している。まるで、光り続けることにすら疲れてしまったかのように。ここでいい。そう自分に言い聞かせながら、スーツケースを引きずり出した。腕は痛かった。気力は、それ以上に擦り減っていた。今にも雨が降り出しそうな空を背に、ホテルの中へ入る。そして、空いている中で一番安い部屋を頼んだ。受付の男は、面倒そうな顔すらしなかった。ただ、退屈そうだった。「身分証を」言われるまま、カードをカウンターの上に滑らせる。男はそれを手に取り、ちらりと確認した。そして、動きを止めた。視線が目の前の画面へ戻る。その顎がわずかに強張った。「申し訳ありません」カードがこちらへ押し戻される。「お部屋をお貸しすることはできません」眉をひそめた。「どうしてですか?」「法律で決まっていますので」男は淡々と答えた。「お引き取りください」「何の法律ですか?」落ち着いて話そうとした。それでも、声は震えた。「お金なら払います。迷惑もかけません。ただ、今夜泊まれる部屋が必要なだけなんです」そのとき初めて、男が私を見た。本当の意味で、私を見た。そして、その目を見た瞬間に分かってしまった。知っている。私が誰なのか。そして。私を蔑んでいる。「出ていっていただけない場合は」男が声を落とした。「警備員に退去してもらうことになります」喉の奥が焼けるように痛んだ。何も言わずに身分証を取り上げ、そのままホテルを出た。大丈夫。そう自分に言い聞かせる。一軒のホテルに断られただけ。それくらい、どうってことない。二軒目は、もっとひどかった。受付の女は、嫌悪感をほとんど隠そうともしなかった。三軒目では、身分証を見せる前から首を振られた。「満室です」駐車場は半分も埋まっていなかった。五軒目に着く頃には、手が震えすぎてスマホをまともに持つことすらできなくなっていた。七軒目では、もう理由を尋ねることもしなかった。八軒目。とうとう、中へ入ることすらできなかった。通りの向かい側に立ったまま、ホテルを出入りする人々を眺める。自動ドアが開くたび、楽しそうな笑い声が外へ漏れてくる。中からこぼれる暖か
第74章アリーナ視点「やっぱり、とんだ尻軽女だったのね」大家の女が吐き捨てた。その声は、肌を切り裂けそうなほど鋭かった。「私の屋根の下で、次から次へと男をとっかえひっかえして。あんたなんか、情けをかけてもらう価値すらないわ」私は何も感じられないまま、その場に立ち尽くしていた。両手は力なく体の横に垂れ下がっている。説明したところで意味はない。懇願したところで無駄だ。たとえ喉から血が出るまで真実を叫び続けたとしても、彼女の私を見る目は変わらないだろう。まるで、どういうわけか呼吸することを覚えてしまった汚物でも見るような目。「出ていきます」静かに言った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「できるだけ早く」女は笑った。短く、冷たい、笑いとも呼べないような声だった。「できるだけ早く?」呆れたように首を振る。「三十分よ」心臓が沈んだ。「……三十分?」思わず聞き返す。「三十分」女は冷たく繰り返した。「それまでに出ていかなかったら、こいつに荷物を全部放り出させるから」そう言って、背後に立つ大柄な男を顎で示した。男は腕を組み、無表情のまま立っている。私を人間として見ているようには思えなかった。彼にとって私は、ただ片づけなければならない仕事の一つにすぎないのだ。女は踵を返すと、そのまま歩き去った。ドアは開け放たれたまま。まるで、それ自体が私への非難であるかのように。私はしばらく、誰もいなくなった戸口をぼんやりと見つめていた。そしてようやく、現実が容赦なく襲いかかってくる。三十分。部屋を見回した。私のアパート。私の家。ここで暮らした。ここで泣いた。ここで夢を見た。そして、私の人生と同じように、少しずつ崩れていった場所。荷造りなんて、何一つしていなかった。箱一つすら用意していない。次から次へと降りかかる災難から逃げることに必死だった。ビザを追いかけ、決して訪れなかった奇跡に縋ることに必死だった。手近にあったスーツケースを掴む。途端に、両手が震え始めた。服。畳むこともせず、構わずスーツケースへ押し込んでいく。ドレスとジーンズが絡まり合い、トップスにはひどい皺が寄った。指だけが焦ったように素早く動く。けれど頭の中は鈍く、霧がかかったようで、体の動きについていけなかった。十分が過ぎ
第73章エドリック視点頭蓋骨をハンマーで殴られたような激しい音に、眠りから無理やり引きずり出された。一瞬、それが本当に聞こえている音なのか、それとも昨夜浴びるほど飲んだ安酒のせいで、頭の中が割れそうになっているだけなのか分からなかった。こめかみがズキズキと脈打つ。口の中は苦く、胸の上に石でも載せられたまま眠っていたかのように重い。バン。バン。バン。呻きながら、どうにか目をこじ開けた。視界に入った天井に、違和感を覚える。低すぎる。あまりにも殺風景だ。シャンデリアもなければ、見慣れた装飾もない。ヴェイル邸の馴染んだ匂いもしなかった。ゆっくりと、残酷なほどゆっくりと意識が現実に追いつき、心臓が大きく跳ねる。ここは、私の部屋じゃない。ドアを叩く音は止まない。それどころか、苛立ちをぶつけるように、ますます激しくなっていく。顔を横に向けた瞬間、私は凍りついた。ベッドから少し離れたところに、彼女が立っていた。薄いガウンを身にまとい、ほどけた髪は乱れ、顔は恐怖で青ざめている。ほんの一瞬だけ、私の頭はあり得ない名前を浮かべた。アリア?違う。違う。アリーナだ。「……くそっ」掠れた声が漏れた。次の瞬間、記憶が一気に押し寄せてきた。鋭く、容赦なく。バー。酒。怒り。行く当てもなく歩き続けた夜道。滲んで流れていく街灯。そして、その先を歩いていた彼女。疲れ切った様子で、私の存在にも気づかずに。私は彼女の後をつけた。神よ。本当に、彼女の後をつけたのだ。彼女の部屋のドアを押し開けたことも覚えている。驚愕に染まった顔も。私の名前を呼んだ声も。そして。彼女にキスをしたことも。最悪なのは?自分がそれを望んでいたことまで、はっきり覚えていることだ。その事実を認めた途端、胃の奥が捩れた。恥を感じられる程度には酔いが醒めた今でさえ、胸の奥には歪んだ欲望の残滓が燻っている。昨夜、ほんの一瞬だけ。醜いほど短い一瞬だけ、あれほど激しかった怒りが薄れた。彼女のそばにいるだけで。それだけで、怒りが鈍ったのだ。そして今、朝が来た。現実が、昨夜の代償を取り立てにやってきた。「隠れて」アリーナが切羽詰まった声で囁き、ドアへ視線を走らせる。「お願い。バスルームに隠れて」叩く音がさらに激しくなり、その衝撃でドア枠までガタガタ
第72章アリナの視点彼の唇が、私の息を奪うほどの必死さで重ねられた。一瞬、私は固まった。こんなの嫌だった。こんな形でも、今でもない。けれど、頭で考えるより先に体が反応してしまった。ショックだったのかもしれない。二人を隔てるものの重みのせいかもしれない。あるいは、まるで自分を繋ぎ止める最後の何かに縋るように震える、彼の手のせいだったのかもしれない。すぐに突き放さなかった自分が嫌でたまらなかった。彼のキスは優しくなかった。すべてが現実離れしていて、儚く、美しかったあの島での、あの柔らかく丁寧なものとは違っていた。荒々しく、切迫していて、痛かった。離したら私が消えてしまうとでも恐れているかのように、彼の両手は当てもなく私の腕や腰を掴んだ。「エドリック」私は囁き、それから声を強めた。パニックが胸に忍び寄る。「エドリック、やめて」彼はやめなかった。胸に掌を押し当てて引き剥がそうとしたが、まるで壁を押しているようだった。アルコールと怒り、そして心の奥深くに抱えた破滅的な何かに突き動かされた彼は、私よりも遥かに強かった。「お願い」声が裏返る。「酔ってるわ」私が抵抗すればするほど、彼の力は強くなった。荒い息遣いが肌に吹きかかり、ついに冷たく麻痺するような恐怖が全身を駆け巡った。これは私の知っている男ではない。私を大切な存在として見つめてくれていた、あの男ではない。「エドリック!」私は残された体力を振り絞って彼を押しのけ、叫んだ。口元に激痛が走った。息を呑み、鋭い痛みに後ずさると、唇から温かい血が滲み出てくるのが分かった。噛まれたのだ。その瞬間、私の中で何かがプツリと切れた。私は恐怖、屈辱、怒りのすべてを込めて、彼を強く突き飛ばした。彼はバランスを崩し、鈍い音を立ててベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。考えるよりも先に、手が勝手に動いていた。平手打ちの音が狭い部屋に響き渡った。彼の首が横に跳ねた。直後、静寂が訪れた。私は胸を大きく上下させ、衝撃で指先を痺れさせながら、その場に立ち尽くしていた。唇が鶉(うずら)のように腫れて痛み、血の味が広がる中で、視界が涙で滲んだ。「正気なの!?」声の震えを抑えきれずに問いただす。「どうしちゃったのよ!?」一瞬、彼は動かなかった。それからゆっくりと、痛々しいほどゆっくりと、頭をこちらに向けた。その瞳は焦
第71章アリア視点どれだけ豪華な場所に座っていても、実際には私のものではないと思うと、何の意味もないように感じた。エドリックは、まだ私のものではない。少なくとも、私が望んでいる形では。私は一人でリビングルームに座り、両手をお腹に重ねながら、壁に掛けられたアンティーク時計のゆっくりとした秒針の音を聞いていた。一秒ごとに、その音が大きくなっていくように感じる。すでに夜は深まり、ヴェイル邸はいつもの冷たい静寂に包まれている。それなのに、エドリックはまだ帰ってこなかった。まただ。考えすぎないように、と自分に言い聞かせる。彼は忙しい。いつだって忙しい。でも、それが分かっていても、待つことが楽になるわけではなかった。「もしかしたら、今夜はペントハウスに泊まるかもしれないわね」ハンナが何気ない口調で言いながら部屋に入ってきた。そして、私の前のテーブルに紅茶を置く。「会社にも近いでしょう?」私は奥歯を噛みしめた。エドリックの従姉妹であるハンナは、いつものように笑っていた。礼儀正しすぎる笑顔。作り物めいた笑顔。まるで同じ部屋にいてくれるだけで、私に恩を売っているかのようだった。まるで、ここにいてくれることに感謝しろと言わんばかりに。「赤ちゃんのためにもいいことよ」そう付け加えながら、彼女は紅茶のカップを少し私のほうへ押した。「リラックスしないと」その一言一言が、私の神経を逆撫でする。私は彼女が嫌いだった。この家の人間がみんな、私を壊れやすいガラス細工のように扱うことも嫌いだった。まるで声を荒らげたり、私と意見が食い違ったりしただけで、私が壊れてしまうとでも思っている。妊娠したからといって、突然何もできない子供になったわけじゃない。それに、私がこの結婚にこぎつけたとき、こんなふうに家族全員と一緒に暮らすことになるなんて思ってもいなかった。エドリックが私のために、私だけの邸宅を用意してくれると思っていた。でも、構わない。息子が生まれれば、すべては私のものになる。「紅茶はいらないわ」私は素っ気なく言った。ハンナの笑顔がわずかに崩れる。「アリア、あなた、あれからほとんど何も食べていないでしょう……」「あなたの存在もいらないわ」私はようやく顔を上げ、彼女を見た。「出ていって」部屋に沈黙が落ちた。ほんの一瞬。
ALINA視点こんな彼を見たことは、一度もなかった。島で一緒に過ごした一か月の間でさえ、一度も。それ以前にも、もちろん。エドリックは、まるで顔だけを借りた別人のように、私の部屋の入口に立っていた。髪は乱れ、前髪が目にかかっている。いつもならきちんと整えられているシャツも皺だらけで、ボタンはいくつか外れていた。彼がいつも自然に纏っていた、鋭く、揺るぎない雰囲気は消えている。そこにあったのは、むき出しの何かだった。不安定で、危うい何か。安い酒の匂いがした。それだけで、すべてを悟るべきだったのかもしれない。でも、本当に恐ろしかったのは、彼がひどい姿をしていることじゃない。酒の匂いが、まるでもう一枚の皮膚のように彼にまとわりついていることでもない。ただ一つ。彼が、ここにいるという事実だった。私の部屋に。私の住所を知って。「どう……」唇が動いた。けれど、言葉は出てこなかった。どうして……私がどこに住んでいるのを知っているの?心臓が激しく鼓動し、目眩がするほどだった。私はその場に凍りついたまま、身体に巻きつけたタオルをさらに強く握りしめ、彼を見つめていた。瞬きをすれば、彼が消えてしまうんじゃないかと思った。けれど、彼は消えなかった。そして、私が招き入れるのを待つこともしなかった。私が動かないと分かると、エドリックは肩でドアを押し開け、そのまま無理やり部屋の中へ入ってきた。「エドリック、何してるの?」叫びながら、私は後ずさった。背後でドアが大きな音を立てて閉まる。彼は答える代わりに呻き、顔を手で乱暴に撫で下ろした。何を言っているのか分からない言葉を呟きながら、ふらつく足取りで部屋の奥へ進んでいく。まるで、ここが自分の家であるかのように。胸の奥に、じわじわと恐怖が這い上がってきた。「エドリック」もう一度、今度はもっと大きな声で呼んだ。「出ていって」その瞬間だった。彼が笑った。冷たく、苦々しい笑い声。背筋を悪寒が走った。「出ていけ?」エドリックは嘲るように繰り返し、突然こちらを振り向いた。「お前に俺が何をするか指図する権利なんてない」言葉を重ねるたび、声が大きくなっていく。抑えきれない怒りが、次々と溢れ出していた。「お前が俺の人生をめちゃくちゃにした!」彼が怒鳴った。「分かってるのか? 自







