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姉と俺の距離

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-08-01 13:51:01

タクシーの後部座席で、佐山は額を窓ガラスに軽く押し付けた。

深夜の街が、ぼんやりと流れていく。

雨に濡れた路面が、ヘッドライトの光を反射していた。

ワイパーの音が規則的に耳に届く。

車内は妙に暖かくて、その温度が逆に息苦しかった。

目を閉じれば、嫌でも思い出す。

姉と過ごした時間。

遠くなった記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。

両親が離婚したのは、佐山が中学二年のときだった。

母と父の言い争いは日常で、もう慣れているはずだった。

けれど、ある日突然、父が荷物をまとめて出て行った。

母も泣きながら「もういい」とだけ言って、家から父の痕跡をすべて消した。

離婚が正式に決まったとき、佐山は父親に引き取られた。

姉は母親と一緒に残った。

二人とも、泣かなかった。

泣けば余計に惨めになると分かっていたからだ。

それでも、姉の梓は別れ際に、そっと佐山の頭を撫でてくれた。

高校生だった梓の手は、少し冷たかった。

「悠人は大丈夫だよね。お父さんとちゃんとやっていけるよね」

そう言われて、佐山は「うん」と頷いた。

本当は不安でいっぱいだった。

でも、姉の前で弱音を吐きたくなかった。

それから、姉と自分は別々の家で暮らすようになった。

物理的な距離はできたけれど、心の距離は離れなかった。

毎晩のようにLINEをしていた。

「今日は何してたの?」

「ごはん食べた?」

「ちゃんと宿題やってる?」

姉はいつも気にかけてくれた。

父親は仕事で忙しく、ほとんど家にいなかった。

だから、佐山にとって梓は唯一の「家族」だった。

本当の意味での家族。

「姉さんは、俺の帰る場所だった」

そう思っていた。

何があっても、あの人がいれば大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。

たまに会うと、梓はいつも同じことを言った。

「悠人は頭いいね」

「ちゃんと食べてる?」

その言葉に、どれだけ救われたか分からない。

高校に進学しても、大学に入っても、姉は変わらずそう言ってくれた。

だから、自分も変わらないふりをしてきた。

どんなに疲れていても、姉の前では「大丈夫」と笑った。

けれど、今になって思う。

自分だけじゃなかった。

姉も、きっと同じだったのだ。

「俺は、何も知らなかった」

佐山は、唇をかすかに噛んだ。

姉がどれだけ追い詰められていたのか、本当に知らなかった。

知ろうともしなかった。

「大丈夫だよ」

「またね」

その言葉に、安心してしまっていた。

自分も姉も、きっと「大丈夫」と言わなきゃいけないと思っていたのだ。

誰にも頼れないから、強がるしかなかった。

タクシーの運転手が、小さな声で話しかけた。

「お客さん、寒くないですか」

「……大丈夫です」

佐山は、反射的にそう答えた。

「大丈夫」という言葉は、もう口癖になっていた。

でも、本当は全然大丈夫じゃない。

胸の奥は、冷たくて、空っぽだった。

窓の外を見れば、ネオンの灯りが流れていく。

酔っぱらったカップルが笑いながら歩いている。

誰かの人生は、何事もなく続いていく。

でも、自分の世界は止まっていた。

「どうして、気づかなかったんだよ」

小さく呟いた。

タクシーの運転手には聞こえていない。

それでよかった。

梓はいつも、誰にも弱音を吐かなかった。

だから、自分もそれが当たり前だと思っていた。

「疲れた」とか「助けて」とか、言えないのが普通だと。

でも、それは間違いだった。

本当は、助けてって言ってほしかった。

言ってくれれば、何でもしたのに。

でも、言わなかった。

言わせなかったのは、自分だ。

「俺は、姉さんの何を見ていたんだろう」

目を閉じると、梓の顔が浮かぶ。

最後に会ったときの笑顔。

髪を耳にかける仕草。

コーヒーを飲みながら、「ブラックばっかり飲んでると胃が悪くなるよ」と笑った顔。

あれが、最後になるなんて思わなかった。

もっと、ちゃんと話しておけばよかった。

もっと、気づけばよかった。

「姉さん」

声が震えた。

タクシーは夜の道を走る。

行き先は分かっているのに、どこか遠くへ連れていかれるような気がした。

佐山は、ただ窓の外を見つめていた。

自分の心の中が、どうしようもなく空っぽになっていくのを感じながら。

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