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第2話

Author: 浮島
松木家、広々としたリビング。

蒼空は自分のまだ幼い手を見つめて、ようやく確信した――

自分は生まれ変わったのだと。

ソファの中央、松木家の当主・松木敬一郎(まつぎけいいちろう)は鋭い視線を彼女に向け、低く枯れた声で尋ねる。

「お前は本当に瑛司と一緒に数井市へ出張に行くのか?」

蒼空の睫毛がかすかに震えた。

思い返せば、まさにこれが前世の分岐点だった。

表向きは出張とされていたが、実際には瑛司は初恋の恋人・瑠々に会うために数井(かずい)市へ向かったのだ。

それを知った彼女は、どうしても一緒に行きたいと駄々をこねた。

彼女の父は松木家の運転手であり、敬一郎を庇って亡くなった。

その恩返しとして、松木家は彼女を引き取って育て、ほとんど本当の令嬢のように扱ってくれていた。

だからこそ、敬一郎も彼女の同行を認めたのだった。

彼女は敬一郎の隣に目を向けた。

瑛司は黒の高級スーツを隙なく着こなし、脚を組んで無造作に座っていた。

額にかかる前髪がその鋭く冷たい目元と、常に引き結ばれた薄い唇を隠している。

彼の姿を目にした瞬間、蒼空は呼吸が止まりそうになった。

過去の記憶が鮮明に脳裏に蘇り、心臓が止まりそうになる。

身体中の血が凍るような感覚――

あの男は、彼女を支配し、まるでゴミのように扱った人間だった。

彼女は彼を心の底から憎んでいた。

骨の髄まで。

夜ごと夢に見るのは、彼に拒絶され、踏みにじられる自分だった。

瑛司の表情には、明らかな倦怠が滲んでいた。

膝の上で指先がリズムを刻む――

それは彼の苛立ちのサインだった。

彼はどうせ、いつものように彼女がしつこく同行を求めてくると確信していたに違いない。

だが、生まれ変わった以上、同じ過ちは繰り返さない。

彼女が口を開く前に、後ろにいた母・関水文香(せきみずふみか)が先に口を挟んだ。

「行きます行きます!うちの蒼空は松木社長と仲が良いんですから、どこへでも――」

「結構です」

蒼空が静かに、その言葉を遮った。

その瞬間、リビングにいた全員の視線が彼女に向けられた。

ただひとり、瑛司だけはいつも通り無表情。

蒼空は顔を上げ、澄んだ目で敬一郎にまっすぐ向き合い、落ち着いた声で言った。

「おじいさま、私はもうすぐ大学入試があります。勉強に集中したいので、瑛司さんの仕事の邪魔はしたくありません」

敬一郎の目にわずかな驚きが浮かぶ。

文香は焦って歯ぎしりし、彼女の手首を引っ張りながら低い声で言った。

「敬一郎様、蒼空は混乱してただけです。ほんとはどれだけ行きたがってるか、皆さんもお分かりでしょう?」

「お母さん、」

蒼空は手を引き抜き、「私は本気で勉強したいの」

文香には見えなかったが、彼女には見えていた。

敬一郎は一見優しく見えるが、実際には彼女のことなどどうでもいい存在として養っていただけ。

前世で彼女が倒れたときも、一度も顔を見にすら来なかった。

実の孫である咲紀のことさえ、彼は目に留めようとしなかった。

だから蒼空は、もう一度はっきりと告げた。

「おじいさま、瑛司さん、前は私が未熟でした。今は、瑛司さんが忙しいことも分かってますから、邪魔にならないようにします」

敬一郎が口を開く前に、瑛司がイラついたように立ち上がった。

彼の冷ややかな黒い瞳が彼女を一瞥し、低く無機質な声を発する。

「勝手にしろ」

瑛司は無言で立ち去った。

敬一郎もそれ以上は追及せず、手を振って彼女たちを部屋に戻らせた。

蒼空は心の中で安堵の息を吐いた。

松木家の外、マイバッハの中。

アシスタントの林卓(はやしすぐる)は慎重にバックミラー越しに瑛司の様子を伺っていた。

彼は松木家の事情をある程度把握しており、今回の帰宅も、どうせあの「面倒な養女」がまた何か騒ぎを起こしたに違いないと思っていた。

瑛司がその養女を嫌っていることも知っている。

いや、ほとんど憎悪していたと言ってもいい。

だからこそ、松木家に入って以来、彼の眉間にはずっと皺が寄ったままだった。

しかも今は、来る前よりさらに機嫌が悪い。

卓は、どうせまたその養女が図々しく同行を頼んだんだろうと推測していた。

窓の外をちらりと見たが、いつものようにまとわりついてくる少女の姿は見当たらない。

そこで彼は思い切って言った。

「松木社長、はっきり断ってやればよかったと思います。関水さんには一度思い知らせるべきです」

だが次の瞬間、瑛司は冷たい声で一言。

「黙れ。運転しろ」

卓は口をつぐみ、急いで車を発進させた。

しばらくしてから、瑛司が疲れたように眉間をつまんだ。

「どうした」

卓はそっと尋ねた。

「関水さん、来ないんですか?いつもなら絶対に付いてくるのに......」

今日は週末、関水さんは学校も休みで、いつもなら会社でも私宅でもついて回っていたはずだった。

瑛司は無言で唇を引き結び、黒い瞳が何気なく大宅の門をちらりと見やった。

門の前には、ただ使用人たちが行き来しているだけで、あの少女の姿はどこにもなかった。

この突然の変化に、彼の眉がわずかに寄る。

「放っておけ。さっさと運転しろ」

卓は「はい」と答え、車を走らせた。

本当に関水さんは松木社長を怒らせたようだ――

そう思った。

瑛司は気だるそうにシートにもたれかかり、目を閉じる。

だが、ふと蒼空の言葉が脳裏によぎった。

邪魔にならないように?

どう見ても、遠回しにすぎない手段。

退いて見せて相手を引き込もうとする、拙いやり口だと感じた。

文香は胸を叩き、地団駄を踏む。

「なんで行かなかったのよ!瑛司が誰に会いに行くか、分かってるでしょう?」

蒼空は冷静に答える。

「ええ」

「ならなんで行かないのよ!?彼と元カノがヨリを戻すのを黙って見るの?そのときが来たら、蒼空の居場所なんてもうないのよ!」

「ないなら、それでいい」

蒼空の顔には冷たい無表情が浮かんでいた。

「お互い好きなら、放っておけばいいじゃない」

文香は娘の言葉を全く聞き入れず、無理やり耳をつまんで怒鳴り散らした。

「ダメよ!私の言うことを聞きなさい!絶対に敬一郎様にお願いして、出張に行かせてもらうんだから!」

蒼空はもう取り合わなかった。

文香はまだ、彼女が瑛司の妻になる夢を見ている。

けれど、時間が経てば目が覚めるだろう。

彼女は棚から問題集を取り出した。

前世では松木家の庇護のもと、瑛司に相応しい存在になろうと、昼夜問わず勉強していた。

学業を疎かにしたことはなかった。

だが、大学入試の前日に事件が起こり、試験を受け損ねた。

それ以降、浪人もせず、大学にも通わなかった。

今世では、絶対にチャンスを無駄にせず、松木家からも瑛司からも遠く離れた大学に進学して、新しい人生を歩むんだ。

ただし、前世の恨みは決して忘れない。

忘れてはいけない。

咲紀を傷つけた人間たちには、必ず代償を払わせる。

夜になって、文香が急に部屋に入ってきた。

スーツケースを引きながら、行き先をまとめる様子。

蒼空はスーツケースを取り上げた。

「何をするつもり?」

文香は彼女の額を指で軽く突きながら、笑顔で言った。

「敬一郎様が、出張同行を許可してくれたのよ。さっさと荷物をまとめなさい。それと、今度はちゃんと瑛司に優しい言葉をかけるのよ。今日みたいに怒らせちゃダメよ」

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