Mag-log inエドモンドの顔から、血の気が引いていった。「……何をした?」「何もしていない。あんたが征之に端末を構えさせ、征之が画面に気を取られた。その隙に俺の部下が裏から入った。それだけのことだ」 俺は金属の小箱の蓋を開け、自分の端末を取り出した。画面には楢崎からの短いメッセージが届いていた。『お嬢様を保護いたしました。お怪我はございません。征之を押さえました』 膝から力が抜けそうになるのを、俺は卓に手をついてこらえた。 エドモンドが立ち上がった。「だが、それがどうした。子供を取り返したところで、私が関わったという証拠はどこにもない。征之が勝手にやったことだ。私はただ、ここで君と話をしていただけだ」「そうだな。あんたがここで話していたことは、全部残っている」 俺は天井の隅を指差した。 エドモンドがその視線を追い、石壁の継ぎ目に取り付けられた黒い箱を見つけた。箱の脇で赤い小さな光が点滅している。「議長の命令だ。昨日の休会のあと、この部屋への侵入を調べるために取り付けられた。この部屋で起きたことは、評議会の名において、すべて記録されている」 エドモンドの口が、わずかに開いた。「あんたは娘が保護されたと言った。誰が預かっているかは言えないが、署名すれば今日中に帰れるよう口添えすると、子供一人取り込めば当主の理性など崩れる、とも言った」 隼人は一拍おいて、続けた。「そして、娘の顔を見せろと言ったら、あんたは自分の端末で日本の征之に繋いだ。誘拐の実行犯にな。この館の端末は誰がどこへ繋いだか、すべて記録に残る。そう教えてくれた人間がいるんだ」 エドモンドは石壁の黒い箱を見上げたまま、動かなかった。 三百年、子供を取り込んで家々を従わせてきたという評議会の手口。それを評議会自身の記録装置が評議会の審問官の口から記録した。「明日の聴聞で、議長にこの記録を見てもらう。辞退届はそのとき、あんたが自分で読み上げるといい」 エドモンドはしばらく黙っていた。やがて、肩の力を抜くように、ふっと息を吐いた。「子供を取り返して、記録を握って、勝ったつもりかね」 エドモンド。はニヤリと笑った。そして、扉の方へ歩きながら、肩越しに振り返った。「一つ、教えてあげよう。あの別荘の場所や鍵のことは、私は何一つとして知らなかった。日本の山奥の古い家のことなど、私にどうして分
楢崎からの連絡は、こちらの深夜二時を回った頃に届いた。『お嬢様の居場所が分かりました。凜様が監禁されていた、あの山の別荘です。中に征之がおります』 征之……。 半年前、凜に横領の濡れ衣を着せ、あの別荘で凜を鎖で繋いだ男だ。一族から切り捨てられ、二度と表には出てこないはずだった。 端末を握る手に知らず力がこもった。だが、ここで声を荒らげれば、中庭で係員に詰め寄った夜と同じことになる。俺は一度だけ深く息を吐き、楢崎に告げた。「まだ踏み込むな。征之は一人で事を運ぶ男じゃない。必ずエドモンドに報告を入れ、指示を仰ぐ。エドモンドは俺の顔が歪むところを自分の目で見たがる男だ。だから今夜、あいつは必ず俺のところへ来る」『隼人様のところへ、ですか』「来たら、征之に繋がせて、結衣を見せびらかすだろう。征之が端末を構えて、画面に気を取られた瞬間が合図だ。その時、元掃除屋の真柴に裏から回らせろ」 地下の監視棟にいる男の名を俺は初めて口にした。かつて黒川の下で清掃屋を率い、凜に刃を向けた男。今は償いの機会を待ち続けている。『……承知いたしました。真柴にも、そう伝えます』 通話を切ったあと、俺は部屋の天井の隅に目をやった。 石壁の継ぎ目に小さな黒い箱が取り付けられている。昨日の休会のあと、議長の命令で係員が設置していったものだ。聴聞対象者の部屋への侵入を調べるため、評議会の名において、この部屋で起きることはすべて記録される。 エドモンドは、そのことを知らない。議長の命令で、昨日から書記室に立ち入りを禁じられているからだ。 *** 扉が叩かれたのは、それから二十分後だった。 開けると、エドモンドが一人で立っていた。昼間、議長に一喝されて表情を失っていた男とは別人のように、口元に余裕の笑みを浮かべている。「夜分に失礼。少し、話がしたくてね」 俺が身を引くと、エドモンドは断りもなく部屋に入り、窓際の椅子に腰を下ろした。「端末を、そこの箱に入れてもらおう。お互いのためだ」 俺は黙って端末を金属の小箱に落とし、蓋を閉めた。エドモンドはそれを見届けてから、満足げに頷いた。「日本は今、朝の十時半か」 エドモンドは窓の外の闇に目をやった。「先ほど、日本から知らせがあってね。お嬢さんは今朝、ある方に保護されたそうだ。当主の資格が揺らいで
七条の立体駐車場は、古いコンクリートの壁に囲まれた薄暗い建物だった。 三階の奥に白いワゴン車が停まっていた。後ろの扉は開け放たれ、中には誰もいない。座席の下に、小さな端末が一つ転がっている。結衣の持ち物の子ども用の携帯電話だ。画面は割られ、電池が抜かれている。 楢崎はそれを拾い上げ、掌の中で強く握った。「楢崎さん」 傷の男が、柱の陰を指差していた。 コンクリートの柱の、ちょうど子どもの目の高さに赤いものが貼られていた。 苺のシールだ。 楢崎は膝をついて、そのシールを見つめた。結衣はいつも、苺のシールの台紙をポケットに入れて持ち歩いている。凜に渡したお守りも、その台紙から一枚剥がしたものだった。「お嬢様は、気づいておられたんだ」 楢崎は呟いた。 家政婦の手を握って、エレベーターに乗るまでは信じていたのだろう。だが、車の中で携帯電話を取り上げられたとき、何かがおかしいと思ったのだ。 だから、自分が通った道に印を残した。まだ七つの子どもが怖さをこらえて、後から追って来る大人たちが追いかけてこられるように…… 楢崎は奥歯を噛みしめた。目の奥が熱くなるのを、どうにか押し戻す。泣くのは、あの子をこの腕に抱いてからだ。 シールは、それから二枚見つかった。一枚は出口の精算機の脇。もう一枚は出口の前の歩道のガードレールの裏側—— 三枚目のシールが貼られていた場所から、隼人の追跡の連中が付近の防犯カメラを洗い直した。 十分後、灰色のセダンが一台、浮かび上がった。後部座席に小さな頭が一つ映っているのを確認することができたのだ。 セダンは京都の市街を抜け、北の山あいへ向かう県道に入っていった。 地図を覗き込んだ元清掃屋の男の顔が見る見るこわばる。「……この道の先は」 男は地図の上の一点を指で押さえた。「凜さんが閉じ込められていた別荘です」 楢崎の背筋に冷たいものが走る。 一条本家の保養所として、ごく一部の人間にしか存在を知らされていない場所。重蔵の配下が凜を鎖に繋いだ場所だ。あの事件のあと閉鎖されたはずの建物を、なぜエドモンドの協力者が知っているのか。 答えは一つしかない。 協力者は本家の内側にいる人間だ。 *** 山あいの別荘は、半年前と変わらない姿で木立の奥に建っていた。 正門の前に灰色のセダンが停ま
暗転した画面の前で、楢崎はエレベーターの呼び出しボタンから指を離した。 待っている暇はない。非常階段の扉を蹴るように開け、地下へ駆け下りる。六十を過ぎた膝が悲鳴を上げたが、それで構わなかった。 監視画面を一斉に落とせるのは、警備室の中から操作した者か、建物の配電盤に細工を仕込んだ者だけだ。どちらにせよ、今朝の手はずは一夜で組まれたものではない。家政婦が入ってきた先週から、いや、それよりずっと前から、このペントハウスは内側から少しずつ食い荒らされていたのだ。 地下二階の扉を押し開けると、排気の匂いがまだ残っていた。 白いワゴン車の姿は、もうどこにもない。マンションの出口の遮断機が跳ね上がったまま止まっていた。 楢崎は端末を取り出し、海の向こうの番号を押した。指が言うことを聞かず、一度押し損ねた。『楢崎か』 隼人の声だった。向こうはまだ夜のはずだ。「隼人様。お嬢様が連れ去られました」 言葉にした途端、喉の奥が焼けた。 重蔵の影として三十年、楢崎は数えきれない人間を闇へ沈める手伝いをしてきた。その報いが巡ってくるのなら、自分の身に来ればいい。なぜ、よりにもよってあの子なのか。 受話口の向こうで、ほんの一瞬だけ息を呑む気配がした。だが、返ってきた声は乱れていなかった。『経緯を三十秒で話せ』 楢崎は話した。大垣の訪問、家政婦、業務用エレベーター、警備室の場面の暗転、白いワゴン車のことを……『分かった。警察と弁護団には、今から俺が直接連絡を入れる。お前は、あの男を使え。地下の監視棟にいる男だ。この手口は、あいつが一番よく知っている』 元清掃屋。かつて黒川の下で裏社会の掃除を担い、凜に刃を向けた男だ。『それから、俺が別に抱えている追跡の連中を、お前の指揮下に回す。十分以内に、そっちへ連絡が行く』「……隼人様」『楢崎。お前のせいじゃない』 一拍おいて、低い声が続いた。『必ず連れ戻せ』 *** ペントハウスの地下会議室に傷だらけの顔をした男が連れてこられたのは、それから十二分後のことだった。 その元掃除屋の男は楢崎の差し出した二つの端末を受け取った。一つは大垣が持っていた、犯人たちから指示を受けるための使い捨て端末。もう一つは、ワゴン車が出ていく直前までの駐車場の記録映像だ。 男は映像を三度見返し、それか
京都の空は、薄い雲に覆われていた。 楢崎はペントハウスの警備室で、壁一面に並んだ監視画面を見渡していた。エントランス、エレベーターホール、地下の駐車場、屋上へ通じる非常階段。どの画面にも怪しい影は映っていない。 監視画面の一つに、最上階のリビングが映っていた。結衣が朝食のパンケーキを小さく切り分けて、口に運んでいる。幼稚園を休むと告げたとき、結衣は少しだけ唇を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。父親も凜もいない朝に、この子なりに何かを感じ取っているのかもしれない。 結衣のそばには、警備部の男が一人と通いの家政婦が付いている。 家政婦は先週から入った三十代の女だった。前の家政婦が急に辞めることになり、一条家と付き合いの長い紹介所から回されてきた。楢崎自身が経歴を洗い、前の勤め先にも裏を取った。どこにも傷はなかった。 結衣はすぐにこの女に懐いた。女が苺のケーキを上手に焼くからだ。昨日も、凜お姉ちゃんが帰ってきたら一緒に焼こうね、と約束していた。 午前八時二十分。 エントランスの監視画面に一人の男が映った。受付の係に何かを訴えている。背広は皺だらけでネクタイも締めていない。 楢崎は画面に顔を近づけた。 大垣だった。 一昨日から行方の分からなかった男が、ふらつく足取りでペントハウスの受付に立っている。 楢崎は警備室を出て、エレベーターで一階へ降りた。 エントランスの片隅で、大垣は長椅子に崩れるように座り込んでいた。楢崎の顔を見るなり、立ち上がろうとして膝をつく。「楢崎さん……お嬢様は、ご無事ですか」「上におられます。常務、何があったのですか」 大垣の目は赤く濁っていた。何日も眠っていない顔だった。「十日の夜です。家に帰ると妻と娘がいなかった。代わりに男が二人、居間に座っていました」 声がかすれる。「陳述書を書けと言われました。中身は向こうが用意していた。書かなければ、娘がどうなるか分からないと……」 大垣は床に手をついたまま、頭を下げた。「副会長に合わせる顔がありません。留守は私どもが守ると、会長に約束したのに……」「常務、それで、なぜここへ」「昨夜、奴らから新しい指示が来ました。今朝、このペントハウスへ行けと。会長の命令で、お嬢様を安全な場所へ移すことになったと言って、お嬢様を連れ出せと」 楢崎の背筋が強張った。「で
凜からの電話が鳴ったのは、夜の十時を回った頃だった。 議長の命令で端末が戻ってから、まだ半日も経っていない。画面に凜の名前が浮かんだ瞬間、俺は寝台から跳ね起きていた。外出を禁じられているはずの凜が、こんな時刻に何を伝えてくるのか。『兄さん、今から話すことを最後まで聞いてください』 凜の声は、走ってきた後のように息が上がっていた。 地下の通路を抜けて書記室に忍び込み、台帳の原本を撮ったこと。偽の署名は京都ではなく、この館の書記室第三端末で作られていたこと。操作者の欄には梶谷の名前があったこと。そして、その梶谷本人から、手書きの紙を渡されたこと。 これらを凜の口から聞くことができた。「待て。梶谷が、お前に証拠を渡したのか」 楢崎のメッセージにあった名前が頭の中で凜の話と重なった。結衣を撮った男が写真を送った先も、梶谷の名前だった。『兄さんの言いたいことは分かります。私も、あの人を信じたわけではありません』 凜は一つ息を吸った。『でも、あの人は自分の潔白を私たちの手で確かめろと言いました。「十四日の午後、自分はジュネーブの銀行で監査に立ち会っていた。その銀行の入館記録を兄さんのロンドンの財務責任者に照会させろ』と』 自分から逃げ道を塞ぐ男が罠を張るとは考えにくい。少なくとも、確かめる価値はある。『それと、もう一つ。大垣常務の陳述書は先月の十日に作られていました』「十日? 承認は十四日だろう」『はい。まだ起きていない決裁について、四日も前に証言していたことになります』 背中に冷たいものが這い上がった。 大垣は自分の意思で嘘を書いたのではない。書かされたのだ。それも十日より前から何かを握られていた。そして一昨日から、大垣とは誰も連絡がつかない。『最後に、梶谷さんはこう言いました』 凜の声が硬くなった。『エドモンドが日本で雇った協力者は、写真を撮った男だけではない。その者たちが、日本の朝にもう一度動く、と』 時計を見た。こちらの夜十時は、日本では朝六時だ。「凜、録音はあるか」『全部、録ってあります』「俺に送れ。それから、お前は部屋を出るな。今夜はもう、何もするな」 通話を切ると同時に、楢崎の番号を押した。『隼人様』 楢崎は一度目の呼び出し音で出た。眠っていなかったのだろう。「今日、結衣を幼稚園へ行かせるな。家から一歩も出す
「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」 その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。 胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」 俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。 しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。 その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。 明日、あの女
冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ
俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我
夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って