Masuk並んで出てきた私たちを見るなり、陸人は露骨に顔を曇らせた。慎は陸人にちらりと目をやると、少し身をかがめて私に言った。「俺は先に帰る。また明日。何かあったら、すぐ電話して」慎が立ち去ると、陸人がこちらへ歩いてきた。「綾香には、もう責任を取らせた。俺が悪かった。綾香の言うことばかり信じて、お前を傷つけた。どうしたら許してくれる?何でもする。だから、もう一度だけやり直すチャンスをくれないか?」私は陸人を見返した。「本当に、何でもするの?」陸人はすぐにうなずき、私の返事を待つように見つめた。「じゃあ、二度と私の前に現れないで」陸人の体がぐらりと揺れ、声が震えた。「9年も一緒にいたんだぞ。そんな簡単に、全部なかったことにできるのかよ。俺は本当にお前を愛してるんだ!」そう言うと、陸人は何かを思い出したように、慌ててポケットから鍵を取り出した。そこには、以前私が贈ったトラのチャームが付いていた。「彩香、ほら。これ、また付けたんだ」陸人は鍵からチャームを外し、私に差し出した。受け取ってみると、チャームにはうっすら埃がついていた。「一度外したものは、あとから付け直したって、前と同じにはならないよ」そう言って、私はチャームをごみ箱へ投げ入れた。「あなたは私を愛してるんじゃない。私が何をされても離れないと思ってただけ。本当に離れたら、今さら惜しくなっただけでしょ。もう帰って。二度と私の前に現れないで。9年一緒にいたからって、あなたのところに戻るつもりはない」陸人は目を赤くし、すがるように声を絞り出した。「最初に名前を間違えられたとき、俺がその場でちゃんと違うって言ってたら……俺たち、こんなことにはならなかったのかな」「そうかもね」「でも、あなたは何も言わなかった」私は陸人の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。背後から、陸人の押し殺した泣き声が聞こえた。それでも、私は振り返らなかった。それから2年がたった。いつものように残業していると、慎が差し入れの入った紙袋を提げ、妙に真剣な顔でやってきた。「彩香、俺、今かなり怒ってるんだけど」私は驚いて顔を上げた。「どうしたの?」慎は少し拗ねた声で言った。「今日は付き合って1年の記念日だろ。ご飯を
私は転職先の近くに、新しい部屋を借りた。持ってきたのは最低限の服だけで、陸人にもらったものはほとんど置いてきた。新しい職場の同僚は感じのいい人ばかりで、私もすぐに馴染めた。それからしばらくして、残業をしながらデータを確認していると、スマホが鳴った。画面に表示されたのは、以前の同僚の名前だった。「彩香、本当に雲ヶ丘グループに移ったの?」「うん」「聞いた?社長、河村さんを刑事告訴したんだって」マウスを握る手が止まった。「河村さん、競合会社からお金を受け取って、わざと今回の案件を潰したらしいよ。実刑2年だって。それに、会社からもかなりの額の損害賠償を請求されてるらしい。今まで河村さんの実績になってた仕事も、全部彩香の実績に戻したみたい。本当に、もう戻る気はないの?」自分でも驚くほど、落ち着いた声で答えた。「うん。もう戻るつもりはない」通話を終えると、私はそのまま作業に戻った。そのとき、目の前にコーヒーが差し出された。顔を上げると、慎が立っていた。「もうとっくに定時を過ぎてるぞ。入ったばかりなのに、社長の俺より遅くまで残るつもりか?」私はコーヒーを受け取った。「せっかく声をかけてもらったんです。期待外れだったと思われたくありませんから」もう一度マウスに手を伸ばそうとすると、慎は有無を言わせずノートパソコンを閉じた。「心配しなくても、君の実力は分かってる。最初からそんなに飛ばすな。ほら、帰るぞ。君が残ってると、俺まで帰りづらい」私は思わず笑い、慎と並んでオフィスを出た。「昨日、高瀬から連絡があった」私は足を止めた。「何て言ってたんですか?」「君が私情で高瀬たちを案件から外したって」「それで?」「俺が見るのは、君の仕事ぶりだけだ。ほかの話は関係ないって言っておいた」実を言えば、あの案件はデータの不備が見つかった時点で、すでに白紙になっていた。雲ヶ丘グループに入ったあと、私は慎に、今回だけはあの案件の対応を自分に任せてほしいと頼んだ。自分の手で、きちんと決着をつけたかった。私は改めて慎に礼を言った。「慎さん、本当にありがとうございました」慎は冗談めかして言った。「やっと『慎さん』って呼んでくれたな。仕事中は『社長』でいいけど、二人きり
陸人は椅子に座ったまま動けず、膝の上で拳を握りしめていた。綾香は納得がいかない様子で、声を荒げた。「こんなの、ただの仕返しじゃないですか。仕事に私情を持ち込むなんておかしいです!陸人さん、古賀社長だって事情を知ったら、黙ってないですよ」その言葉に、陸人ははっとした。そうだ。雲ヶ丘グループ社長の古賀慎(こが しん)なら、事情を知れば、彩香の好き勝手を許すはずがない。彩香が個人的な恨みで自分たちとの取引を断ったのだと、慎に伝えればいい。雲ヶ丘グループをクビになれば、彩香も今度こそ自分を頼るしかなくなる。……ビルを出ると、外は気持ちよく晴れ渡っていた。胸の奥に溜まっていたものを、ようやく吐き出せた気がした。雲ヶ丘グループの案件が始まった頃、先方の社長と初めて顔を合わせた。その人が、大学時代の慎先輩だと知ったときは、さすがに驚いた。それ以来、慎からは何度も「うちに来ないか」と誘われていた。条件もかなりよかったが、私はそのたびに断っていた。陸人があの人事通知を全社チャットに流したあと、初めて私から慎に電話をかけた。懲戒解雇の件をどう説明しようか迷っていると、慎は笑って私の言葉を遮った。「4か月も一緒に案件を進めてきたんだ。君の仕事ぶりなら、俺がよく知ってる。あんな噂を真に受けるほど、俺も馬鹿じゃない。うちに来てくれるなら、大歓迎だ」その言葉に、肩の力が抜けた。けれど同時に、どうしようもなくむなしくなった。仕事で関わったのは、たった4か月だった。それでも慎は、私の仕事ぶりを疑わなかった。なのに、9年一緒にいた陸人は、事情を確かめようともせず私を悪者にした。私は小さく首を振り、それ以上考えるのをやめて車へ向かった。ドアに手をかけた瞬間、後ろから手首をつかまれた。「彩香、少し落ち着け。今日は一緒に帰って、家でちゃんと話そう」思わず笑ってしまった。「家?もう引っ越したけど。気づいてなかったの?」陸人は一瞬、言葉を失った。「引っ越したって……いつ?」私は答えなかった。手首をつかむ陸人の指に、さらに力が入った。「引っ越したことも、転職したことも、どうして俺に黙ってたんだよ。俺たちは明日、婚姻届を出すはずだっただろ!」私はその手を振りほどいた。
陸人は足を止め、スマホを取り出して彩香にメッセージを送った。【明日の午後、婚姻届を出しに行くぞ】ここまで言えば、さすがに機嫌も直るだろう。今回のことは、もう責めないつもりだった。だが、いくら待っても返信は来なかった。陸人はスマホを机に置き、綾香と雲ヶ丘グループの案件資料を見直し始めた。作業が終わった頃には、すっかり夜も更けていた。陸人はそのまま会社に泊まった。翌朝。雲ヶ丘グループから指定されたのは、都心の高層ビルの最上階にある、会員制ビジネスラウンジのミーティングルームだった。陸人と綾香は、約束の時間より少し早く着いていた。綾香は落ち着かない様子で、何度も手元の資料に目を通していた。「陸人さん、先方の新しい責任者って、どんな方なんでしょう。前の方より厳しい人だったら、私……」陸人は安心させるように、綾香の手の甲に軽く触れた。「心配するな。若い女性で、俺たちと同じ大学の出身らしい。同じ大学なら、そこまで身構えなくてもいいだろ」そう言った直後、ミーティングルームの扉が開いた。入ってきた人物を見た瞬間、陸人は息をのんだ。彩香だった。隙のないスーツ姿で、長い髪を低い位置でひとつに結んでいた。迷いのない足取りで入ってきた彩香は、陸人の知る姿とはまるで違って見えた。綾香の笑顔がこわばり、勢いよく立ち上がった。「彩香さん、どうしてここにいるんですか?会社を辞めたのに、まさかまだこの案件を諦めてないんですか?」その言葉を聞き、陸人は内心ほっとした。返事をしなかったのは、ここで自分と顔を合わせるつもりだったからか。やはり彩香は、会社も自分も手放せないのだ。そう思うと、陸人は眉をひそめ、咎めるような目を彩香に向けた。このタイミングでわざわざ現れたのは、先方の前で自分の立場を訴え、案件を取り戻すためだろう。陸人はそう決めつけた。「いい加減にしろ。こんな真似をしても、俺の決定は変わらない。先方に迷惑をかける前に出ていけ」けれど彩香は陸人を見ようともせず、テーブルの奥に用意された席へ進み、静かに腰を下ろした。一緒に入ってきた雲ヶ丘グループの社員が、陸人たちに一礼した。「高瀬社長、お待たせいたしました。ご紹介いたします。こちらが、今回の案件を統括する当グループ
社内チャットに人事通知を流し終えると、陸人は眉間を押さえ、深く息を吐いた。綾香はうつむいたまま、まだ泣き止んでいなかった。「今回の件はこれで終わりだ。次からは、送る前に自分でもきちんと確認しろ。人から渡されたデータを、そのまま使うな」綾香はまだ何か言いたそうに、陸人を見上げた。「陸人さん……」「もういい。戻れ」陸人は片手を上げ、話を切り上げた。綾香が社長室を出ていっても、陸人の気分は晴れなかった。彩香が社長室を出る間際、何も言わずにこちらを見たときの目が、頭から離れなかった。まるで自分が本当に彼女を追い詰めたようで、妙に居心地が悪かった。そもそも、先に手を出したのは彩香だった。あの場で綾香だけを止めていたら、社長が婚約者をえこひいきしたと、今度は社内で噂になっていたかもしれない。それでも最後には、自分が何とかしてやるつもりだった。そのくらい、彩香も分かっていると思っていた。今回はただ、少し頭を冷やしてもらいたかっただけだ。この数年、彩香は着実に実績を積み、主要な取引先との関係も、社内外の人脈も築いていた。会議では、彩香の反応をうかがってから発言する社員までいた。そのうえ今回は、会社を辞めるだの別れるだのと、極端なことまで言い出した。そんなことを言えば、いつでも自分が折れると思っているのだろう。いつまでも自分の思いどおりになると思うなと、そろそろ分からせる必要があった。会社も自分も失えば、さすがに強がってはいられない。もう思いどおりにはならないと分かれば、彩香のほうから謝ってくるはずだ。そうしたら、会社に戻してやってもいい。婚姻届を出して、雲ヶ丘グループの案件が片づいたら、負担の少ない仕事に回してやればいい。そうすれば、今までのように無理をする必要もなく、家のことにも少しは目を向けられる。陸人はスマホを手に取り、画面を確認した。彩香からの連絡はなかった。少し時間を置いてもう一度確かめても、何も届いていなかった。綾香に一言謝りさえすれば、今回のことは水に流してやるつもりだった。それなのに、いつまで待っても連絡は来なかった。陸人は眉をひそめ、スマホを机の上に放った。それからしばらくして、社長室のドアが静かに開いた。目を赤くした綾香が、仕事の報告に来た
陸人は体を起こすと、小馬鹿にしたように笑った。「彩香、もういい加減にしろ。お前が俺と9年も付き合ってきたことは、周りもみんな知ってる。それに、もう若くないだろ。今さらお前を選ぶ男がいると思うか?会社も俺も失ったら、お前には何も残らない。自分でも分かってるだろ」それが陸人の本音だった。もう諦めたつもりだったのに、胸の奥が鈍く痛んだ。喉の奥に込み上げたものを飲み込み、私は口を開いた。「意地を張ってるんじゃない。もう婚姻届を出すつもりも――」言い終わらないうちに、陸人のスマホが鳴った。電話に出た途端、その声がやわらかくなった。「どうした、綾ちゃん。雲ヶ丘の件、どうなった?」電話の向こうから、綾香の涙声が聞こえた。陸人の顔つきが変わった。通話を切るなり、玄関へ向かった。「婚姻届はまた今度でいいだろ。雲ヶ丘の件でトラブルがあったみたいだ」私の返事も待たず、陸人は慌ただしく出ていった。乾いた笑いがこぼれた。綾香のこととなると、陸人はいつもこうだった。しばらくして、私はスーツケースを取り出して荷物を詰め、残りの退職手続きを済ませるため会社へ向かった。会社に着くと、オフィスは妙に静まり返っていた。若手社員のひとりが周囲をうかがいながら近づき、声を潜めた。「彩香さん、雲ヶ丘グループの案件、まずいことになってるみたいです。先方に送った資料の重要な数値にミスがあって、かなり怒ってるって……」思わず足を止めると、奥から綾香が出てきた。「彩香さん、陸人さんが呼んでます」綾香はかすかに笑っていた。嫌な予感がした。社長室に入ると、陸人は険しい顔で私を見た。「彩香、わざとやったのか?」思わず聞き返した。「何のこと?」綾香は今にも泣き出しそうな顔で、陸人に訴えた。「陸人さん、私、彩香さんから受け取ったファイルをそのまま先方に送っただけなんです。中身には何も手を加えてません。どうしてこんなファイルを渡されたのか、私にも分からなくて……私のことが嫌いだからって、会社まで巻き込まなくてもいいじゃないですか」あまりの白々しさに、かっとなった。私は陸人を見た。「本気で私が間違ったデータを渡したと思ってるの?」陸人は何も答えなかった。けれど、その沈黙が何よりの答