Mag-log in私、黒川朝美(くろかわ あさみ)が死んでから5年目、夫・黒川雅人(くろかわ まさと)はようやく私を思い出した。 かつて愛した女性の腎不全が悪化し、再び腎移植が必要になったからだった。 雅人は私の住んでいた家を訪れ、臓器提供の同意書に署名させようとした。 だが、そこにはもう誰も住んでいなかった。 雅人が隣に住む、この家の管理人に尋ねると、男は言った。 「朝美ちゃんのことか?もうとっくに亡くなったよ。腎不全なのに無理やり腎臓を提供させられて、戻ってきて間もなく息を引き取ったそうだ」 雅人は信じなかった。管理人まで私と口裏を合わせ、自分を騙していると思ったのだ。 苛立った雅人は、管理人に言い放った。 「もし彼女に会ったら伝えてください。5日以内に姿を見せなければ、あの女が別の男との間につくった子どもの治療費は、今後一切払わないと」 まるで聞く耳を持たない雅人を見て、管理人は首を振り、その場を離れた。 そして、小さくつぶやいた。 「かわいそうに。あの子も、とっくに飢えて亡くなったのにな……」
view more雅人は会社を神栄グループへ売却した。買収を担当した者は、足元を見て相場を大きく下回る金額を提示した。それでも雅人は一切交渉せず、その場で譲渡契約書に署名した。その後、自分名義の財産をすべて慈善団体へ寄付した。雅人が身辺整理を進めている間に、依奈は腎不全が悪化し、二度も深い昏睡状態へ陥った。それでも、適合するドナーは見つからなかった。今度こそ、命が尽きようとしているのだろう。依奈自身も、すでにすべてを受け入れているようだった。目を覚ましているときは、楽しそうにドラマを見たり、友人と話したりした。透析のために太い針を刺されるときも、依奈はタオルを強く噛みしめ、声一つ上げなかった。すべての手続きを終えると、雅人は弁護士と死後事務委任契約を結び、葬儀を含む死後の手続きまで託した。自分の異変に気づいてもらうため、翌朝、安否確認を求めるメッセージが弁護士へ届くよう送信予約した。家に戻ると、床に残された私と花の跡の隣に、自分の輪郭を描いた。そして、その中へ横たわった。違法に入手した睡眠薬を大量に飲み、私と花を抱きしめるように腕を伸ばした。「朝美、花。今そっちへ行く。これで家族三人、また一緒になれる」雅人の魂が肉体を離れた瞬間、私の体は今までにないほど軽くなった。すべてから解き放たれるとは、こういう感覚なのだろう。私は次の生へ続く光へ向かって飛んだ。背後から、雅人の弾んだ声が聞こえた。「朝美、行かないでくれ。待ってくれ……」それでも私は光だけを目指した。もう二度と、彼を振り返ることはなかった。(おわり)
依奈は顔面蒼白のまま帰っていった。泣いたかと思えば笑い出し、彼女も正気を失ったようだった。雅人は家に戻ると、私と花の骨壺を丁寧に拭き始めた。言い忘れていたが、数日前、雅人は保管されていた私たちの遺骨を引き取ってきた。骨壺には厚く埃が積もっていた。雅人は布で、少しずつ丁寧に埃をぬぐった。この数日、私はもう花を抱き留めることさえできなくなっていた。花はこの世の束縛を完全に振り切り、もうどこへでも自由に行けるようになっていた。けれど私は、まだ雅人の周囲に縛られていた。花に別れを告げるときが来たのだと分かった。その夜、一日中遊んでいた花を胸に抱いた。私は次の生の話をした。その世界では、もう空を漂う透明な幽霊ではない。おいしいものを食べ、友達と楽しく遊び、学校にも通える普通の人間になれるのだと。花の瞳がきらきらと輝いた。「ママ、じゃあ花が先に行って待ってるね!」私は花を強く抱きしめた。「うん。ママも必ず花に会いに行くから」翌日、私は花を迎えに来た案内人へ託した。花はその手を握り、何度も振り返って私に別れを告げた。姿が見えなくなるまで見送った。胸の中をすべてえぐり取られたようで、もう何をする気にもなれなかった。私は心を空っぽにしたまま雅人のそばを漂い、彼が毎日同じことを繰り返す姿を眺めた。雅人は霊園へ行き、隣り合った五つの区画を購入した。山の上にあり、街全体を見渡せる場所だった。そこへ私と花の遺骨を納めた。そして、墓前で独り言をつぶやいた。「朝美、俺はずっと、お前をいちばん愛していた。あの女たちを家に連れてきたのも、ただお前に焼きもちを焼いてほしかったからだ。依奈とは、お前が思っていたような関係じゃなかった。駆け引きばかりの女たちにうんざりして、あいつ一人をそばに置けば、お前を嫉妬させられると思っただけだ。あの日、お前が俺を裏切ったことが許せなくて、必死に金を稼いだ。それなのに、やっと成功したときには、どうしてお前はもういなかったんだ……」雅人の顔は涙で濡れていた。
その夜、雅人は家を出なかった。私と花がかつて使っていた部屋で眠った。何を考えているのか、私には分からなかった。以前は私たち母娘を顧みもしなかったくせに、今さら誰に見せるつもりで、こんな一途な夫を演じているのだろう。翌朝早く、雅人は町へ車を走らせ、鎌などの道具を買ってきた。戻ると袖をまくり、庭の雑草を片づけ始めた。7月の盛夏だった。太陽が容赦なく照りつけ、風は少しも吹いていなかった。それでも雅人はひたすら雑草を刈り、伸び放題になっていたバラとアジサイを一本ずつ整えた。40度近い暑さをまるで感じていないかのようだった。喉が渇けばミネラルウォーターを飲み、腹が減れば町で買ったパンをかじった。5年間放置されていた部屋を、雑巾で隅々まで拭いた。ただし、床に残された私と花の白い印だけは消さなかった。ときどき、その横に寝転び、私と花を抱き寄せるように腕を伸ばした。私はその芝居を黙って眺めながら、体がますます軽くなっていくのを感じていた。なぜ自分がいつまでもこの世を離れられなかったのか、ようやく分かった気がした。おそらく、私と雅人の怨念が、あまりにも深かったからだ。二人がすべてを手放せば、私も次の生へ進めるのだろう。この数日、誰よりも喜んでいたのは花だった。パパが私たちと一緒に暮らしに来たと思い、雅人が作業している間も、ずっとその周りを飛び回っていた。花を縛っていたものは、もうすぐ完全に消える。きっと私より先に旅立つのだろう。今のうちに父親のそばにいたいのなら、止めるつもりはなかった。それにしても、雅人の行動は奇妙だった。これほど暑いのに、電気を再開させようともしなかった。毎晩、蒸し風呂のように暑く、真っ暗な部屋で横になった。夜中に泣いていることもあれば、笑っていることもあった。まるで正気を失ったようだった。庭も部屋もきれいに片づくと、近所の管理人まで気になったらしい。雅人が門の前で呆然としているとき、声をかけた。「この家を売るつもりなのか?でも、ここはいわゆる事故物件だ。なかなか買い手はつかないと思うぞ」雅人は答えず、庭へ戻ると、音を立てて門を閉めた。雅人がこの家に閉じこもって7日目。依奈が訪ねてきた。きれいに整えられた庭を見ると、驚いた顔をした
雅人は夜になるまで、ずっと部屋にいた。5年間、電気料金が払われていなかったため、電気は止められていた。夜になると辺りは真っ暗だった。庭は腰の高さまで伸びた雑草に覆われ、しかもこの家では私と花が亡くなっている。幽霊である私でさえ、薄気味悪く感じた。それでも雅人は何も恐れていないかのように、私のベッドに座り、身動き一つしなかった。突然、着信音が鳴り、私は思わずびくりと身を震わせた。画面を覗き込むと、相手は颯真だった。どこまでもつきまとう男だ。雅人は通話に出たものの、何も言わなかった。先に口を開いたのは颯真だった。「やっぱり、きちんと話しておくべきだと思った。あの馬鹿な女に、死んでからも汚名を背負わせたくない」少し間を置いてから、話を続けた。「あの頃の俺は、お前に酒瓶で殴られた仕返しがしたかっただけだ。お前の将来を潰すと脅したら、朝美は条件を受け入れた。本当に俺を選ぶなら、腹の中にいたお前の子どもごと面倒を見てもいいと思っていた。だが、あの女は呆れるほど一途で、俺には見向きもしなかった。人妻を無理やり奪う趣味もない。寝ている間に刺されでもしたら、割に合わないからな。この数年、お前に苦しめられているうちに、いつか目を覚まして俺のところへ来るかと思っていた。まさか死ぬとはな。それも、お前の愛人に腎臓を提供して死んだ。笑えるだろ?お前、本当に人間か?海外から戻ってきて、朝美が死んでもう5年も経っていると聞かされた俺が、どんな気持ちだったと思う!この人でなしが!」……電話の向こうで、颯真は完全に取り乱していた。私にはやはり、この道楽息子の考えていることが理解できなかった。雅人は通話を切り、颯真の罵声を遮った。私も、今さら苦しむ雅人の芝居を、これ以上見ていたくなかった。死を知って打ちのめされる彼を見れば、少しは胸が晴れると思っていた。けれど、心はもう何も感じなかった。私は家を出た。少し離れた木の枝で眠っている花を見つけ、透き通った体で包み込んだ。眠る小さな頬に、何度も口づけた。この数日、魂が以前よりずっと軽くなっているのを感じていた。未練が少しずつ消えているのだろう。もうすぐ、私も花も次の生へ進み、この人生の苦しみを忘れられるのかもしれない。