Share

第294話

Author: つき酔
「尚南……」

琴音は眉をひそめ、弁解しようとした。

「母さんは、そういう意味で言ったんじゃないのよ」

尚南は表情を消したまま言った。

「母さんの言いたいことは、もう十分にわかっている。

俺にはまだ処理しなければならない仕事が山ほどある。帰ってくれ」

琴音は何か言いたげに尚南を見た。だが結局、言葉にはせず、バッグを手に取って背を向けた。

しかし、数歩歩き出したところで、彼女はふいに足を止めた。

「もし、私に隠れて……」

何かを思い出したように深く息を沈めると、彼女は声を低くして凄みを利かせた。

「自分から破滅に突き進むようなこと、していないならいいんだけどね」

母が退室していく後ろ姿を見つめながら、尚南の瞳は暗く沈んだ。

琴音は、何かを隠している。

だが、今の尚南にはそんなことはもうどうでもよかった。

尚南は視線を戻した。デスクの上に置かれた写真立てが目に入る。そこには莉奈の写真が飾られていた。

尚南は手を伸ばして写真立てを引き寄せ、写真の中で微笑む莉奈の顔を、愛おしげに指先でなぞった。

「承也は倒れた。これで、君も俺を見るしかなくなったはずだ」

片手で
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第500話

    「社長はもう奥様をお連れになって上へ戻られました」悠斗はそう告げると、長居する気はないとばかりに歩き出した。真央も後ろについていき、あくびの合間に声をかける。「そうだ、佐藤さん。私たち、ずっと前に会ったことがあるよね?」今度のあくびは本物だった。悠斗が横目で見ると、真央の目は涙で潤み、眠気に負けそうになっていた。「はい」悠斗は昔から記憶力が良く、一度会った人間の顔を忘れたことはない。莉奈の同僚として身辺調査まで済ませているのだから、なおさらだ。当然、真央のことも覚えていた。真央は心の中で舌打ちをした。普通なら、彼が「覚えていない」と答えたところで、「初対面は椎名グループで、莉奈の代わりに椎名社長を取材した時だった」と話をつなぐつもりだったのだ。そうすれば自然に会話を広げられると思っていたのに。まさか、最初から覚えているなんて。準備していた話題は空振りになってしまった。それでも、悠斗が自分を覚えていてくれたという事実だけで、真央は思わず口元が緩みそうになる。彼女はわざと咳払いをし、平静を装って小さく笑った。語尾を少し甘く伸ばす。「覚えてくれてたんだ。意外だわ」悠斗は何の反応も示さず、そのまま外へ歩いていった。「こんな時間から、まだ仕事?」真央が尋ねると、悠斗は平坦な声で答えた。「人を殺しに行きます」悠斗は、これで真央も引き下がるだろうと思った。彼女は真っ当な家庭で育ち、法を守って生きる善良な市民だ。こういう女性なら、物騒な言葉を投げかければ遠ざけられるはずだった。ところが、真央は怯えるどころか、逆に眉を上げて目を輝かせたのだ。「それなら私に任せて!子どもの頃から母の仕事についていって残業にも付き合ってたし、解剖だって数え切れないくらい見てきたの。遺体の扱い方なら分かるから、手伝えるよ」悠斗は黙り込んだ。目の前の女が乗り気な態度を見せているのは、悠斗が本当に人を殺しに行くなどとは微塵も信じていないからだと、彼には分かっていた。莉奈と承也が上へ戻ったと伝えた後も、真央はその場を離れず、彼の後を追って外へ出ようとしていた。――莉奈がここにいないことも、最初から知っていたのだろう。彼女が下りてきた目的は、どう考えても私なのだ。なるほど、そういうことか。悠斗は真央にこれ以上余

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第499話

    莉奈は承也の顔から目を離し、もう一度スマホの画面を見た。右上のバッテリー表示が赤く点滅している。彼女の目尻に残る赤みと、同じ色だった。バッテリー低下の警告が表示され、動画は小槌が首をかしげてカメラに笑いかける場面で自動的に止まっていた。小槌に会いたい。その画面を見つめる莉奈を前に、承也の目は夜より深い色を帯びた。スマホを握る指に力がこもる。モバイルバッテリーを持ってこさせたい衝動を、彼は必死で抑えていた。莉奈は朝から一度もまともに休んでいない。もう部屋へ戻して、眠らせるべきだ。数秒黙ってから、莉奈は声を落とした。「起きたら、また見せてくれる?」承也が最初から残量の少なさを知りながら、わざと動画を見せたことくらい分かっている。スマホの電池が切れそうなのを理由に、彼女を休ませるつもりなのだ。小槌の姿を少しでも長く見ていたい莉奈の気持ちを、承也は知っている。それでも、まずはきちんと休んでほしいのだろう。「八時間眠ったら、見せてやる」承也は譲歩するように条件を出した。やがて画面が暗くなり、莉奈のまつげがかすかに震えた。「分かった」悠斗は近寄らなかった。承也が莉奈を連れてこちらへ歩いてくる間、暗がりに身を置いたままだった。二人がエレベーターへ入り、扉がゆっくりと閉じるのを確認してから、角の陰から姿を現した。夜は更け、空気にはひんやりとした湿気が漂っていた。悠斗は無人のロビーに立ち、表情を変えずに暗がりへ声を投げた。「前半のシフトの者は、もう上がって休め」隠れていた人影がいくつか揺れた。次の瞬間には、角は元どおり静まり返っていた。風が一筋通り抜けたような、素早い動きだった。悠斗がロビーを横切ってエレベーターへ向かった時、承也たちが乗ったのとは反対側のエレベーターの扉が開いた。彼は足を止め、冷めた目をそちらへ向けた。パジャマの上に上着を重ねた真央が、眠そうに目を細めながら出てきた。――また彼女か。悠斗の眉がわずかに動いた。莉奈が病室からいなくなったことに気づき、探しに下りてきたのだろう。髪は耳にかけただけで整える暇もなかったらしく、足元はスリッパのままだった。歩きながら、しきりにあくびをしている。悠斗は視線を外した。真央が顔を上げて自分に気づく前に、先ほどの暗がりへ戻ろうと身を翻し

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第498話

    彼女はゆっくりと廊下を歩き、頭上の電子掲示板を見た。午前二時。夜明けまで、まだこんなにも時間がある。廊下はあまりにも静かだった。ナースステーション周辺の明かりがいくつか消されており、廊下の照明はそれほど眩しくなかった。明かりの間隔が広くなり、彼女の影を長く引き伸ばしていた。彼女は柔らかい靴底の靴を履き、ゆっくりと歩いていたため、足音はほとんど立たなかった。承也は廊下の角の窓辺でタバコを吸っていた。細長い影が壁際に伸びてきた瞬間、灰を落とそうとしていた手を止め、視線を上げて影の先を見た。視線が交差すると、莉奈が何か反応するよりも早く、承也はタバコを揉み消した。タバコを消すと、彼は半分しか開かない窓を最大限まで開け放った。煙が夜風に乗って散っていく。莉奈はそこで初めて、承也の目が少し赤くなっていることに気づいた。午前二時、彼がここでタバコを吸っている理由は、彼女が眠れない理由と全く同じなのだ。彼女と承也の間にはもう何の関係もない。だが、二人は同じ子供の親なのだ。「どうしてまだ起きてるんだ?」静まり返った廊下に、承也の声が響いた。タバコを吸ったばかりの彼の声は、ひどく掠れていた。床に落ちた二人の影が重なり合っている。莉奈は無言で彼を見つめ、数秒経ってからようやく口を開いた。「……眠れないの」煙が完全に散った後、承也は莉奈が薄い病衣しか着ていないのを見て、窓を閉めた。東安市の冬はすでに去っていたが、真夜中の風はまだ肌寒かった。「少し下に降りて歩くか?」莉奈が何も答えないでいると、彼は階段の暗がりへ向かって言った。「上着を持ってこい」「はい」暗闇から背の高い人影が現れ、角を曲がって消えたかと思うと、やがて二着の上着を手に戻ってきた。一着は承也のもの、もう一着は莉奈のものだった。承也が莉奈に上着を羽織らせようとしたが、莉奈は言った。「自分で着るわ」服を持った手がほんの一瞬だけピタリと止まったが、承也の表情は変わらなかった。真夜中の病棟の外は、水のせせらぎしか聞こえないほど静まり返っていた。承也は莉奈を一瞥し、彼女の上着のフードを引き上げて頭に被せた。莉奈が尋ねる前に、彼のほうから説明した。「夜露が降りる」莉奈は何も言わなかった。承也を気にする様子もなく、景観灯に照らされた植え

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第497話

    医療スタッフは誰一人として、この家族三人の短い別れの時間を邪魔しようとはしなかった。数日前に赴任してきた晴子を除けば、ここにいる全員が小槌が生まれた時から彼を見守り、深い愛情を注いできたのだ。彼が世界で一番勇敢な子供だとは言えないかもしれない。苦難を強いられ、この年齢まで生きられなかった子供も数え切れないほどいるからだ。しかし、小槌は、彼らが日々我が子のように成長を見守ってきた子供だった。彼が耐えてきた苦痛をずっと目の当たりにしてきたからこそ、彼らも心を痛めていた。血の繋がらない自分たちでさえこれほど胸を痛めているのだから、両親の辛さは想像を絶する。莉奈の深い母性愛を目にする前から、彼らは承也の不器用ながらも深い父性愛に胸を打たれる一方で、その姿を痛ましく思い、この家族三人が歩んできた険しい道のりをよく理解していた。小槌は莉奈の言葉を理解したかのように、手のひらで防護服越しに彼女の頬を優しく撫でた。そして、彼女に触れようとするかのように、一生懸命に頭を持ち上げた。莉奈はすぐに身をかがめて小槌の額に触れた。すると、子供の甘えるような声が聞こえた。「ママ……パパ……」小槌は顔を向け、承也に向かって小さな手を伸ばした。承也はその細い指を自分の手のひらでそっと包み込み、小槌の目を見て低い声で言った。「パパとママが一緒に待ってる。お前が元気になって、無事に帰ってくるのを待ってる人が、ほかにもたくさんいるんだぞ」片方の手のひらはママの頬に触れ、もう一方の手の指はパパの手のひらに包まれていた。体温こそ違えど、どちらからも同じように温かな想いが小さな体へと流れ込んでくる。小槌はそれを分かっているのかいないのか、ニコニコと二人を見つめていた。莉奈は、すでに消毒されて医療用の無菌袋に入れられた綺麗な蝶々結びがあしらわれたお守りを取り出した。彼女はそのお守りを小槌に見せて言った。「これはね、直哉おじさんが一生懸命作り方を覚えて結んでくれたお守りよ。願いを叶えてくれる縁起のいいお守りなんですって。小槌をきっと守ってくれるわ」直哉は不器用ながらも、ようやく綺麗な蝶々結びを覚えた。彼は小槌の前処置が始まると聞くやいなや、飛行機で霊峰山の薬師堂へ向かい、機内でこの赤いお守りを結び上げると、一晩中祈りを捧げて持ち帰ってきてくれ

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第496話

    承也は胸の奥がわずかに揺れるのを感じながら彼女のそばへ歩み寄り、思わず彼女の手首へ視線を向けた。ガーゼは昨日の不格好な結び目のままで、交換されていなかった。彼女はあれから、自分を傷つけてはいなかったのだ。「行こう」莉奈はうなずいた。「ええ」無菌アイソレーターの中で、小槌は今日これからどれほど辛い治療を受けることになるのか、まだ分かっていなかった。昨日パパが何かを言っていたが、まだ幼い彼に理解できるはずもなかった。今朝目が覚めた時、体が痛くて力が入らず、いつもより苦しいと感じていた。だが、それをどう伝えればいいのか分からなかった。彼はママに会いたくて、一生懸命目を開けて入り口の方を見つめていた。ベッドの上で何とか身体を起こして座り、ここ数日と同じように、ママが抱っこしに来てくれるのを静かに待っていた。ついに、防護服を着た二人の姿が同時に無菌アイソレーターへ入ってくるのが見えた。小さな瞳が、ぱっと輝いた。――パパとママだ。小槌のその様子を見た瞬間、莉奈は水野先生が言っていた通り、彼が自分を待っていたのだと直感した。そう思うと胸が締め付けられるように痛み、彼女は慌てて小槌のそばへ駆け寄り、そっと抱き上げた。「小槌ちゃん、ママが来たよ」彼女は小槌の頭を自分の胸に優しくもたれさせ、うつむいて防護服越しにその小さな手を握り、柔らかな声で言った。「ママを待ってるの。ずっとそばにいるからね」看護師が小槌のために粉ミルクを作ろうとした時、承也が歩み寄り、看護師から哺乳瓶を受け取った。彼はポットからお湯を適量注ぎ、粉ミルクの缶を開けて専用のスプーンで数杯すくい入れた。キャップを閉め、調乳用のシェイカーにセットして数秒間回した。ミルクの入った哺乳瓶を手に、彼はベッドの端に座る莉奈のそばにしゃがみ込み、乳首を小槌の口元へ運んだ。「お腹空いたな」小槌は力を振り絞って口を開き、乳首をくわえて一生懸命にミルクを吸った。承也は哺乳瓶を持ったままの姿勢を保ち、ミルクを飲み干すまでじっと待っていた。昨日、ドクター・キャメロンから小槌の朝のミルクは少なめにするよう言われていた。満腹の状態で前処置を受けさせないためだ。そのため、小槌はいつもより短い時間でミルクを飲み終えた。「偉いぞ」承也は低い声で褒め、防護服越しに小槌

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第495話

    夜も更け静まり返った結城邸で、車のドアが閉まる音が響いた。浩平は腕の中の女を抱きかかえたまま、大股で母屋へ向かった。母屋のリビングには明かりが灯っていたが、使用人たちはすでに休んでいた。物音を聞きつけた執事が、慌てて眼鏡をかけながら出てきた。浩平に抱きかかえられている黎が目に入ったが、彼女の様子を確かめる間もなく、浩平の鋭い視線に射すくめられた。「その目玉、えぐり出されたいか?」執事は眼鏡をかける手をピタリと止めた。浩平は彼をそれ以上相手にせず、黎を抱いたまま二階へ上がっていった。二階のドアが蹴り開けられ、再び乱暴に閉められる音を聞き、執事は仕方なくため息をついて首を横に振った。まったく、なんという業の深さか。夜がさらに深まる中、明かりのついていない部屋から、女の咽び泣く声が途切れ途切れに漏れ聞こえてきた。やがてその声は夜の闇に溶け込み、まるで芳醇な酒のように、男はその声に酔いしれていた。東の空が白み始めた頃、浩平は気を失っている腕の中の女をさらに強く抱き寄せ、うっすらと汗をかいた額に愛おしげにキスを落として、ベッドを降りてバスルームへと向かった。部屋から出てきた時の彼はすっきりとした顔つきで、徹夜したとは到底思えなかった。車に乗り込むとすぐに仕事モードに切り替わり、秘書にいくつかの提携プロジェクトの進行を厳しく監視するよう指示を出した。病院に着く頃には、仕事もあらかた片付いていた。車を降りる直前、彼は秘書に言った。「黎がよそに持ってるあの部屋、売りに出せ」鍵を替えたというのは黎への嘘だったが、あんな逃げ場所、残しておいても目障りなだけだ。ドアを押し開け、彼は続けた。「それから、結城家から配当が振り込まれる彼女の口座を凍結しろ。給与口座だけ残しておけばいい。自由に使える金を減らせば、無駄な抵抗も減るだろうからな。あと、あの男のところへ何人か向かわせて、少し痛めつけておけ」「かしこまりました」病院に入ると、浩平はまっすぐ承也の病室へ向かった。承也は彼を一目見ただけで、その満ち足りた表情から何かを察した。余計なことは言わず、ただ「失せろ」とだけ口にした。「嫉妬するなよ」浩平は命知らずにも、病床の向かいにあるソファに腰を下ろした。今日がどんなに重苦しい日かは分かっていたため、あえて深刻な空

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status