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婚約パーティーで元カノを選んだ男を捨てました

婚約パーティーで元カノを選んだ男を捨てました

By:  果林Kumpleto
Language: Japanese
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婚約パーティーが始まる3時間前。 榊原瑛司(さかきばら えいじ)は私の婚約指輪を手に取り、元恋人・篠崎美梨(しのざき みり)の指にはめた。 「美梨は指が細いから、緩くないか試してもらっただけだ」 抗がん剤治療を終えたばかりの母・雨宮和恵(あまみや かずえ)は、帽子をかぶって招待客の席に座り、親戚に笑顔で話していた。 「琴乃ちゃんにも、やっと大切にしてくれる人ができたのよ」 ところが控室では、美梨が手を上げ、指輪を明かりにかざした。 「瑛司、やっぱり私のほうが似合うと思わない?」 瑛司は眉をひそめたが、指輪を外せとは言わなかった。代わりに、低い声で美梨をなだめた。 「わがまま言うなよ。今日は俺たちの婚約パーティーなんだぞ」 美梨はみるみる目を潤ませた。 「最初の指輪は、私にくれるって言ったのに」 瑛司は少し黙ったあと、手を伸ばして美梨の涙をぬぐった。 私はドアの前に立ったまま、昨夜のことを思い出した。 母は私の手を握り、こう言った。 「琴乃ちゃん、もう長くは一緒にいられないかもしれない。せめて琴乃ちゃんが家庭を持つ日だけは、この目で見届けたいの」 だから、私は耐えた。 二人のもとへ歩み寄り、指輪を返してほしいと手を差し出した。すると美梨は突然、瑛司の胸元へ逃げるように身を引いた。 その拍子に美梨がシャンパンタワーにぶつかり、指輪がその指から滑り落ちた。 積み上げられたグラスが大きな音を立てて崩れ、指輪も破片の中へ転がっていった。破片の中の指輪を拾おうと手を伸ばした瞬間、ガラスで手のひらを切った。 瑛司は血のにじむ私の手には目もくれず、真っ先に美梨をかばった。 「琴乃、こんな日に何やってるんだ?」 手のひらに目を落とすと、傷口から血が流れていた。 指輪は割れたグラスの破片に埋もれ、もう輝きを失っていた。 そこで初めて気づいた。一度でもほかの誰かの指にはまったものは、もう私のものではない。

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第1話
「琴乃、今は怒ってる場合じゃないだろ?」瑛司の低い声には、かすかな苛立ちがにじんでいた。美梨を背後にかばったまま、床に散らばったガラス片に目を落とした。私はまだ血の滴る手のひらを見つめたまま、何も答えなかった。美梨は瑛司の背後から、泣きそうな声で言った。「瑛司、ごめんなさい。わざとじゃないの。琴乃さんに指輪を返そうとしただけなのに、急に手を伸ばしてきたから、びっくりして落としちゃって」そう言いながら、瑛司のスーツの袖をそっと引いた。瑛司は美梨のほうへ向き直ると、ポケットからハンカチを取り出し、シャンパンのついた手を丁寧に拭いた。「大丈夫だ。怪我がなくてよかった」怯えた子どもをなだめるような、優しい口調だった。美梨の手を拭き終え、瑛司はようやく私に目を向けた。手のひらから流れる血に気づくと、わずかに眉をひそめた。「化粧室で洗ってきたほうがいい。このあと人前に出るんだから」痛くないかとも聞かず、医者を呼ぼうともせず、ただこのあとの予定を淡々と告げただけだった。私は小さくうなずき、化粧室へ向かった。「待て」背後から瑛司の声がした。足を止めたが、振り返らなかった。「指輪は割れたグラスの破片に埋もれている。探すのに時間がかかるし、縁起も悪い。秘書に、下のジュエリーショップで間に合わせのリングを買ってこさせる。どうせ形だけの儀式なんだ。そんなにこだわるなよ」鏡に映る自分の青白い顔を見つめた。あのピンクダイヤの指輪は、半年かけて自分でデザインし、何度も工房へ足を運んでようやく完成させた特注品だった。内側には、二人の名前の頭文字も刻まれている。それなのに、瑛司は適当な指輪で間に合わせればいいと言う。「わかった」小さな声で答えた。言い争いもせず、問い詰めもしなかった。私があっさり引き下がると、瑛司は満足そうに近づき、頭を撫でようと手を伸ばした。「今日はずいぶん聞き分けがいいな。美梨は最近、気持ちが不安定なんだ。少しくらい大目に見てやってくれ」私は顔を背け、その手を避けた。瑛司の手が宙で止まり、その目がわずかに曇った。「まだ怒ってるのか?」「怒ってない」蛇口をひねり、傷口に冷たい水を流す。「早く済ませたいだけ。お母さんが外で待ってるから」母の話をすると、瑛司の
Magbasa pa
第2話
会場はきらびやかな光に包まれている。ドレスの裾を持ち上げ、入口で司会者の合図を待っている。隣に立つ瑛司は、うつむいてカフスを整えている。「手、まだ痛むか?」何気ない口調だった。「もう痛くない」前を向いたまま答えた。母は最前列のよく見える席に座っている。抗がん剤治療で抜けた髪を、ワインレッドのニット帽で隠している。顔色は悪いが、とても嬉しそうに笑っている。隣にいる親戚の腕を取り、ステージを指さしながら何か話している。何を話しているのか、だいたい想像がつく。きっと、琴乃もようやく幸せになれると話しているのだろう。瑛司は私の視線を追って母を見ると、小さくうなずいた。「今日はお母さんの調子がよさそうだな。パーティーが終わったら、専門の先生にもう一度詳しく診てもらえるよう、俺が手配する」瑛司はいつもそうだ。散々傷つけたあとで、決まって優しくする。以前の私は、そのわずかな優しさだけで、美梨ばかりを優先する瑛司を何度も許してきた。けれど今は、ただ疲れている。「必要ない。今は体に負担の少ない治療を続けるしかないって先生に言われてるから」静かに断った。私のそっけない返事が意外だったのか、瑛司は一度こちらを見ると、何も言わずに腕を差し出した。「行こう。もう入場の時間だ」瑛司と腕を組んだ。音楽が流れ、大きな扉がゆっくりと開いた。スポットライトを浴びながら、笑顔を崩さず、一歩ずつステージへ向かう。会場のいちばん前にあるテーブルを通りかかったとき、美梨の姿が目に入った。そこは本来、主賓のために取っておいた席だった。今は美梨が座り、赤ワインのグラスを手に、薄く笑いながらこちらを見ている。その視線が、私の薬指で止まった。サイズの合わないリングを見て、美梨はほんの一瞬、勝ち誇ったような目をした。席に着くと、料理が次々と運ばれてきた。メニューはすべて私が決め、最後のデザートには瑛司がいちばん好きなチョコレートケーキを頼んでいた。ところが、運ばれてきたのはマンゴームースだった。一瞬、固まった。瑛司は当たり前のようにマンゴームースを受け取り、美梨の前に置いた。「美梨、これ好きだろ」美梨は照れたように笑い、スプーンですくってひと口食べた。「ありがとう、瑛司。覚えててくれたんだ」瑛
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第3話
席を立ち、ドレスの裾を持ち上げてステージへ向かうと、瑛司も後ろからついてきた。会場中の視線が、私たちに集まっている。司会者はマイクを手に、笑顔で立っている。「婚約の証を交換する前に、まずはお二人で、お祝いのケーキにナイフを入れていただきましょう!」5段の大きなケーキが運ばれてきた。瑛司は私の手を取り、銀色のケーキナイフを握った。瑛司の手のひらは熱いのに、私の手は冷え切っている。「琴乃、さっきは悪かった。俺の不注意だった」瑛司が耳元で声を潜めた。「終わったら、琴乃がいちばん好きな店に連れていく」手を振りほどかず、ただケーキを見つめた。「いい。早くお母さんと病院に戻りたい」私が素直に喜ばないのが気に入らないのか、瑛司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わず、ナイフを握る手に力を込めた。ケーキにナイフを入れようとした、そのときだった。会場のどこかから突然、声が上がった。「美梨、どうしたの?」振り向くと、美梨が胃のあたりを押さえ、血の気の引いた顔で椅子に倒れ込んでいる。そばにいる親戚たちは、すっかり取り乱している。瑛司の動きが止まり、銀色のケーキナイフが音を立ててワゴンの上に落ちた。次の瞬間には、迷いなく私の手を離し、ステージから飛び降りて美梨のもとへ駆け寄っていた。「どうした?」焦りを隠そうともしない声だった。「わからない。急にお腹が痛いって言い出して、もう耐えられないって……」瑛司は美梨を抱き上げた。「控室へ連れていく」美梨を抱いたまま、大股で控室へ向かっていった。会場がしんと静まり返った。みんなは顔を見合わせたまま、どうしていいかわからずにいる。司会者もステージの上で固まり、マイクを持ったまま次の言葉が出てこない。最前列の母は顔から血の気が引き、肘掛けを強く握ったまま、小さく震えている。私はステージに立ったまま、瑛司が美梨を抱いて廊下の奥へ消えていくのを見つめた。スポットライトが私一人だけを照らしている。ひどく滑稽な光景だった。「雨宮様、これは……」司会者が、気まずそうに私を見た。ワゴンに落ちたケーキナイフを拾い、紙ナプキンで柄を拭った。「大丈夫です。私一人で切ります」ケーキナイフを握ると、表情を変えず、迷うことも手を止めることもなく、大き
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第4話
会場の空気が、どこかおかしい。瑛司はなかなか戻ってこない。みんながひそひそと話し始めている。私は席に座り、水を一口ずつ飲んでいる。額に汗をにじませた司会者が、慌てて駆け寄ってきた。「雨宮様、このあとの指輪交換について、進行表の最終確認をお願いいたします。問題がなければ、こちらにサインをいただけますか」差し出されたのは、金色で縁取られた進行表だった。ペンを受け取り、進行表に目を落とした。【榊原瑛司様ご挨拶】と書かれた欄の横に、ボールペンで小さな文字が書き足されている。【思い出ムービー上映】ペンを持つ手が、一瞬止まった。私が決めた流れに、こんな演出は入っていない。「これは何ですか?」その文字を指さして尋ねた。司会者は額の汗を拭った。「こちらは、先ほど榊原様から追加するように言われまして。篠崎様がお二人の婚約祝いに編集された映像を、スクリーンで流してほしいとのことです」顔を上げ、正面のスクリーンを見た。スクリーンが一瞬暗くなり、すぐに軽快な曲が流れ始めた。写真が次々と映し出される。最初の1枚は、大学のキャンパスで撮った瑛司と美梨の写真だった。白いワンピース姿の美梨が、明るく笑っている。瑛司は隣で少し顔を伏せ、愛おしそうに美梨を見つめている。画面には、二人でスキーに行ったときの写真が映る。続いて、美梨の誕生日に瑛司が彼女の鼻先へケーキのクリームをつけた写真へと切り替わる。……100枚を超える写真は、どれも瑛司と美梨の思い出ばかりで、私が写っているものは1枚もない。会場は一瞬で静まり返り、気まずい空気が広がった。母は全身を震わせながら、スクリーンを指さした。「これは……いったい何なの?瑛司くんはどういうつもりなの!」母の手を押さえ、そっとたたいた。「お母さん、怒らないで。体に悪いよ」振り向くと、瑛司が控室から出てきた。スクリーンの写真に気づいたのか、その表情に一瞬、驚きがよぎった。それでも止めようとはせず、私のそばまで来て声を落とした。「美梨も俺たちの婚約を祝いたいって言うから、任せただけだ。写真くらい、気にするなよ。やっとお腹の痛みが治まったところなんだ。まだ気持ちも不安定だし、今は刺激したくない」当然のような顔で話す瑛司を見つめた。瑛司は、私を物分か
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第5話
母の体を支え、会場の出口へ向かった。背後から瑛司が私を呼び止めた。その声は自信に満ちていた。「琴乃、このまま出ていったら、後悔しても知らないぞ!」瑛司は、私が意地になっているだけで、10メートルも歩かないうちに戻ってくると思っている。けれど今度は、足を止めなかった。重い扉を押し開けると、冷たい風が吹き込んできた。コートを母の肩にかけ、その体を支えながら夜の街へ出た。……病院に戻ると、母をベッドに寝かせ、掛け布団を整えた。「琴乃ちゃん」母が弱々しく私の手をつかんだ。「瑛司くんと、いったい何があったの?」やつれた母の顔を見つめると、胸の奥が急に空っぽになった。「何でもないよ、お母さん」無理に笑ってみせた。「ただ、前ほど好きじゃなくなったみたい」母はため息をつき、私の手を握り返した。「私はもう年を取って、琴乃ちゃんの力になってあげられない。でも、琴乃ちゃんには幸せでいてほしいの。つらいなら、結婚なんてしなくていい。最期に見たいのは、琴乃ちゃんの笑顔なの」こらえていた涙が手の甲に落ち、私は母の手のひらに顔を埋めて、声を殺して泣いた。「うん。結婚しない」母を落ち着かせ、眠るのを見届けてから病室を出た。ポケットの中で、スマホが何度も震えている。取り出して画面を見ると、瑛司から届いたラインのメッセージがいくつも並んでいた。【琴乃、いつまで意地を張るつもりだ?】【みんなお前を待ってるんだぞ。勝手に帰って、どういうつもりだ?】【今戻ってくれば、何もなかったことにしてやる】【いい加減にしろ】どのメッセージも、私が従って当然だと言わんばかりだった。瑛司は、私がこんな真似をして、彼のほうから折れるよう仕向けていると思っている。瑛司のプロフィールを開くと、画面の上で指が一瞬止まった。右上のメニューを開き、瑛司をブロックした。そのまま連絡先から削除し、電話番号も着信拒否に設定した。スマホの電源を切り、窓辺に立った。冷たい夜風に当たるうちに、混乱していた頭が少しずつ冴えてきた。その頃、会場では、瑛司がいくら待っても既読にならないメッセージを見つめ、こめかみに青筋を立てながらネクタイを乱暴に緩めた。「よくも俺を無視しやがったな!」司会者がそばで、おそるおそる尋ねた
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第6話
翌朝、看護師の足音で目が覚めた。「雨宮さん、お母様の容体がまた悪化しています」カルテを手にした担当の先生の表情は険しい。「がんの転移が進んでいます。今の治療も効きにくくなっています。かなり厳しい状態です。今後のことも考えておいてください」酸素マスクをつけてベッドに横たわる母を見つめると、胸の奥が冷たくなった。「先生、ほかに方法はありませんか?分子標的薬は?」「分子標的薬を使うことはできます。ただ、費用が高く、必ず効くとは限りません」「それでも、お願いします」迷いはなかった。「お母さんが少しでも楽になるなら、いくらかかっても払います」担当の先生はうなずき、薬の手配に向かった。私も病室を出て、不動産会社の佐久間直人(さくま なおと)さんに電話をかけた。「佐久間さん、あのマンションに内見の申し込みはありましたか?」「雨宮さん、ちょうどこちらからお電話しようと思っていたところです」電話の向こうから、弾んだ声が返ってきた。「購入を希望している方がいます。現金一括払いですが、価格を10%下げてほしいそうです」「その条件で売ってください」それだけ答えた。「すぐに手続きを進めてください。急いで現金が必要なんです」電話を切り、窓の外に目を向けた。日差しが、やけにまぶしい。その頃、瑛司は広いマンションのダイニングで朝食を取っている。がらんとした食卓を見つめ、眉間に深いしわを寄せた。いつもなら、私が温めた牛乳と焼きたてのトーストが目の前に並んでいる。今朝、家政婦がテーブルに置いたのは、コーヒーだけだ。「琴乃はまだ戻ってないのか?」「はい。雨宮様は昨夜からお戻りになっていません」家政婦がおそるおそる答えた。瑛司は鼻を鳴らした。「ずいぶん生意気になったな」立ち上がり、着替えるためにウォークインクローゼットへ向かった。扉を開けた瑛司は、琴乃の服もバッグもスキンケア用品も、何一つなくなっていないことに気づき、一瞬目を止めた。瑛司は嘲るように口元を歪めた。「荷物も持たずに、家出したつもりかよ」それを見てすっかり安心し、琴乃は病院で母に付き添っているだけで、怒りが収まれば自分から帰ってくると決めつけた。スーツに着替え、家を出ようとしたところで、インターホンが鳴った。
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第7話
その後の3日間、私はずっと病院にいた。分子標的薬の副作用は強く、母は毎晩、夜通し痛みに苦しんだ。私はベッドのそばを離れず、汗を拭き、むくんだ脚をさすった。不動産会社の対応は早く、売却代金はすぐに口座へ振り込まれた。病院の会計で治療費を支払い、口座の残高を確認すると、少しだけ肩の力が抜けた。4日目の午後、病室のドアが開いた。仕立てのいいスーツを着た瑛司が、高級フルーツの詰め合わせを手に、ドアの前に立っている。やつれた私の顔を見るなり、眉をひそめた。「もう何日も意地を張ったんだ。そろそろ気は済んだだろ?」口ぶりは相変わらず上からだった。自分から迎えに来ただけで、十分に譲ってやったつもりなのだ。立ち上がると、瑛司には目も向けず、母の布団の端を整えた。「何しに来たの?」眠ったばかりの母を起こさないよう、声を抑えた。瑛司は病室へ入り、高級フルーツの詰め合わせをベッド脇の棚に置いた。「お母さんのお見舞いに来た」中には、アメリカンチェリーやキウイ、ぶどうが詰められている。「持って帰って」静かに言った。「何?」瑛司の動きが止まった。「お母さんは抗がん剤治療中で、胃腸が弱ってる。先生から、生の果物、特に皮や種のあるものは避けるように言われてるの」瑛司をまっすぐ見た。「瑛司、お見舞いに来るなら、少しくらい相手のことを考えられないの?」瑛司は一瞬、顔をこわばらせた。恥をかかされたとでも思ったのだろう。「秘書に買わせたんだ。そこまで気が回らなかったんだろ」苛立たしげにネクタイを緩めた。「琴乃、いちいち責め立てるなよ。わざわざ迎えに来てやったんだ。もう意地を張るな。荷物をまとめて帰るぞ」瑛司が手首をつかもうと手を伸ばしてきた。後ろへ下がり、その手をかわした。「帰らない」伸ばした手が、宙で止まった。私を見据える瑛司の視線が、少しずつ冷たくなっていく。「まだあの日のことで怒ってるのか?美梨は妹みたいなものだって言っただろ。あんな写真、何の意味もない。いつまでそうやって拗ねてるつもりだ?」当然のような顔でそう言う瑛司が、急に可笑しく見えた。「呼びさえすれば、私が尻尾を振って戻ってくるとでも思ってるの?」瑛司は否定しなかった。目を見れば、本気でそう思って
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第8話
その日の深夜、外では激しい雨が降り始めた。強い風が病室の窓を叩き、耳障りな音を立てている。突然、心電図モニターが鋭い音を響かせた。「ピーーーー」モニターの波形は、一直線になっていた。飛び起きて、ベッドへ駆け寄った。「お母さん、お母さん!」先生と看護師たちが病室へ飛び込み、すぐに蘇生処置を始めた。痩せ細った母の胸には除細動器のパッドが貼られ、何度も電気ショックが加えられる。私は看護師に病室の外へ連れ出され、冷たい壁にもたれたまま、全身を震わせていた。30分後、先生がドアを開け、マスクを外して静かに首を横に振った。「雨宮さん、残念ですが……お母様はお亡くなりになりました」涙は出なかった。病室へ戻り、穏やかに目を閉じている母の顔を見つめながら、タオルで口元の汚れを少しずつ拭き取った。午前3時、私は一人で死亡診断書を受け取り、必要な手続きをすべて済ませた。病院の霊安室は、骨の芯まで冷えるほど寒い。生前、何より寒さを嫌がっていた母を、いつまでもここに置いておきたくなかった。葬儀場まで運んでくれる寝台車を探したが、暴風雨の影響ですぐに来られる車が見つからず、誰かの伝手を頼るしかなかった。スマホを取り出し、連絡先を順に見ていく。最後に、瑛司の名前で指が止まった。瑛司には、葬儀社の知り合いがいる。以前、祖父を亡くしたときも、葬儀の手配はすべて瑛司がしていた。大きく息を吸い、瑛司のブロックを解除して電話をかけた。呼び出し音が長く続き、ようやく電話がつながった。「もしもし」瑛司の声には、眠気と苛立ちが混じっている。電話の向こうから、甘えるような美梨の声がかすかに聞こえた。「瑛司、誰?こんな時間に」胸の奥が強く締めつけられ、息をするたびに血の味がした。「瑛司」自分の声は、ひどくかすれていた。「葬儀社の高橋さんに連絡してくれない?寝台車を手配してほしいの。お母さんが……」「琴乃」瑛司が容赦なく私の言葉を遮った。「正気か?こんな夜中に、今度は何のつもりだ?俺が折れるまで、こんな嫌がらせを続けるつもりか?」電話の向こうで、瑛司が鼻で笑った。「そんな嘘までついて同情を引こうとするな。こっちは忙しいんだ。くだらない芝居に付き合ってる暇はない」瑛司は一方的に電話を切った。ス
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第9話
瑛司がその写真を受け取ったのは、朝の会議中だった。何気なくスマホの画面に目を落とした。次の瞬間、目を見開いた。写真には、飾り気のない白い骨壺と、医師の署名が入った死亡診断書の控えが写っている。そこには、【雨宮和恵】とはっきり記されている。瑛司は勢いよく立ち上がった。椅子が床をこすり、甲高い音を立てた。「社長?」報告していた部長は、不意に立ち上がった瑛司に驚いた。瑛司は答えず、車のキーをつかむと、会議室を飛び出した。「これはどういうことだ?琴乃、お母さんまで巻き込んで、こんな嘘をつくのか?」走りながら、何度も私に電話をかけた。「おかけになった電話は、現在つながりません……」またブロックされている。スマホを握る手が、勝手に震え始めた。一昨日の深夜、自分で切った電話を思い出すと、琴乃のかすれた声と、途中で遮った頼みの言葉が耳によみがえった。「ありえない。そんなはずない……」信号を3つ無視し、車を飛ばして病院へ向かった。病室のドアは開いており、看護師がベッドまわりを整えていた。「琴乃は?ここにいた患者は?」看護師に駆け寄り、かすれた声で尋ねた。看護師は、突然のことに驚いた。「こちらに入院していた雨宮和恵さんは、一昨日の深夜に亡くなりました。ご遺体は昨日の朝、娘さんの付き添いで、葬儀社の安置施設へ搬送されました」瑛司は息をのみ、その場に立ち尽くしたまま、頭の中が真っ白になった。そこで初めて、瑛司は琴乃が冗談を言っていたわけでも、駆け引きをしていたわけでもないと気づいた。琴乃は本当に、たった一人の家族を失ったのだ。琴乃がいちばん心細く、瑛司を必要としていたとき、彼は美梨のそばにいた。瑛司は病院を飛び出し、そのまま火葬場へ車を走らせた。……火葬場に着くと、私は骨壺を抱えて建物から出るところだった。「琴乃!」目を赤くした瑛司が駆け寄り、私に触れようとした。一歩後ろへ下がり、冷たい目で見返した。瑛司は伸ばした手を宙で止め、血の気を失った私の顔を見て、声を震わせた。「どうして言わなかった?どうして俺に何もさせてくれなかったんだ?一昨日の電話で、どうしてちゃんと話さなかった!」今さら取り乱す瑛司の姿が、ひどく滑稽に見えた。「瑛司、私に最後まで話させてくれた?
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第10話
その日は、激しい雨が降っていた。瑛司は火葬場の外で、雨水のたまった地面に膝をつき、私を乗せたタクシーが遠ざかるのを見ていた。追ってはこなかった。一度壊れたものは、もう二度と元には戻らないと、ようやく気づいたのかもしれない。母の遺骨を地元へ持ち帰り、父が眠る墓に納骨した。すべてを終えたあと、瑛司のマンションへ一度だけ戻った。荷物を取りに戻ったのではなく、私が暮らしていた痕跡を、あの部屋からすべて消すためだった。クローゼットに残っていた服をすべてまとめ、近くの古着回収ボックスに入れた。洗面台に置いてあったスキンケア用品は捨て、壁に飾っていた二人の写真も、一枚ずつ剥がして細かく切った。瑛司が帰ってきたとき、私は最後の鍵をローテーブルに置くところだった。瑛司はがらんとした部屋を見回し、その目に隠しきれない怯えを浮かべた。「何してるんだ?どこへ行くつもりだ?」抱きしめようと駆け寄ってきた瑛司を、ためらいなく押し返した。「瑛司、私たちはもう終わったの」リュックを背負い、玄関へ向かった。「嫌だ。俺は認めない!」瑛司はポケットからベルベットの箱を取り出し、慌てて蓋を開けた。中には、ピンクダイヤの指輪が入っていた。以前、私がデザインしたものよりも大きく、まばゆく輝いている。「見てくれ。新しく作らせたんだ。琴乃が好きなデザインにした。もう一度、俺とやり直してくれ。これからは琴乃だけを見る。美梨とは二度と関わらない。約束する」瑛司は縋るような声で懇願し、こぼれた涙が指輪の上に落ちた。輝くピンクダイヤを見つめても、心は少しも動かなかった。「もう遅い」ドアを開け、振り返ることなくエレベーターへ乗り込んだ。……1か月後、空港のロビーでスーツケースを押し、搭乗口へ向かっていた。海外で暮らすためのビザも取った。知らない土地で、一からやり直すつもりだ。「琴乃!」背後から、聞き慣れた声がした。瑛司はひどく痩せ、無精ひげを生やし、目は充血している。どうやって知ったのか、瑛司は私の乗る便を調べ、空港まで追ってきたらしい。ピンクダイヤの指輪を強く握りしめ、聞き取れないほどかすれた声を絞り出した。「行かないでくれ……頼む。行かないでくれ。琴乃がいなくなったら、俺はどうしたらいいんだ?」
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