Mag-log in婚約パーティーが始まる3時間前。 榊原瑛司(さかきばら えいじ)は私の婚約指輪を手に取り、元恋人・篠崎美梨(しのざき みり)の指にはめた。 「美梨は指が細いから、緩くないか試してもらっただけだ」 抗がん剤治療を終えたばかりの母・雨宮和恵(あまみや かずえ)は、帽子をかぶって招待客の席に座り、親戚に笑顔で話していた。 「琴乃ちゃんにも、やっと大切にしてくれる人ができたのよ」 ところが控室では、美梨が手を上げ、指輪を明かりにかざした。 「瑛司、やっぱり私のほうが似合うと思わない?」 瑛司は眉をひそめたが、指輪を外せとは言わなかった。代わりに、低い声で美梨をなだめた。 「わがまま言うなよ。今日は俺たちの婚約パーティーなんだぞ」 美梨はみるみる目を潤ませた。 「最初の指輪は、私にくれるって言ったのに」 瑛司は少し黙ったあと、手を伸ばして美梨の涙をぬぐった。 私はドアの前に立ったまま、昨夜のことを思い出した。 母は私の手を握り、こう言った。 「琴乃ちゃん、もう長くは一緒にいられないかもしれない。せめて琴乃ちゃんが家庭を持つ日だけは、この目で見届けたいの」 だから、私は耐えた。 二人のもとへ歩み寄り、指輪を返してほしいと手を差し出した。すると美梨は突然、瑛司の胸元へ逃げるように身を引いた。 その拍子に美梨がシャンパンタワーにぶつかり、指輪がその指から滑り落ちた。 積み上げられたグラスが大きな音を立てて崩れ、指輪も破片の中へ転がっていった。破片の中の指輪を拾おうと手を伸ばした瞬間、ガラスで手のひらを切った。 瑛司は血のにじむ私の手には目もくれず、真っ先に美梨をかばった。 「琴乃、こんな日に何やってるんだ?」 手のひらに目を落とすと、傷口から血が流れていた。 指輪は割れたグラスの破片に埋もれ、もう輝きを失っていた。 そこで初めて気づいた。一度でもほかの誰かの指にはまったものは、もう私のものではない。
view moreその日は、激しい雨が降っていた。瑛司は火葬場の外で、雨水のたまった地面に膝をつき、私を乗せたタクシーが遠ざかるのを見ていた。追ってはこなかった。一度壊れたものは、もう二度と元には戻らないと、ようやく気づいたのかもしれない。母の遺骨を地元へ持ち帰り、父が眠る墓に納骨した。すべてを終えたあと、瑛司のマンションへ一度だけ戻った。荷物を取りに戻ったのではなく、私が暮らしていた痕跡を、あの部屋からすべて消すためだった。クローゼットに残っていた服をすべてまとめ、近くの古着回収ボックスに入れた。洗面台に置いてあったスキンケア用品は捨て、壁に飾っていた二人の写真も、一枚ずつ剥がして細かく切った。瑛司が帰ってきたとき、私は最後の鍵をローテーブルに置くところだった。瑛司はがらんとした部屋を見回し、その目に隠しきれない怯えを浮かべた。「何してるんだ?どこへ行くつもりだ?」抱きしめようと駆け寄ってきた瑛司を、ためらいなく押し返した。「瑛司、私たちはもう終わったの」リュックを背負い、玄関へ向かった。「嫌だ。俺は認めない!」瑛司はポケットからベルベットの箱を取り出し、慌てて蓋を開けた。中には、ピンクダイヤの指輪が入っていた。以前、私がデザインしたものよりも大きく、まばゆく輝いている。「見てくれ。新しく作らせたんだ。琴乃が好きなデザインにした。もう一度、俺とやり直してくれ。これからは琴乃だけを見る。美梨とは二度と関わらない。約束する」瑛司は縋るような声で懇願し、こぼれた涙が指輪の上に落ちた。輝くピンクダイヤを見つめても、心は少しも動かなかった。「もう遅い」ドアを開け、振り返ることなくエレベーターへ乗り込んだ。……1か月後、空港のロビーでスーツケースを押し、搭乗口へ向かっていた。海外で暮らすためのビザも取った。知らない土地で、一からやり直すつもりだ。「琴乃!」背後から、聞き慣れた声がした。瑛司はひどく痩せ、無精ひげを生やし、目は充血している。どうやって知ったのか、瑛司は私の乗る便を調べ、空港まで追ってきたらしい。ピンクダイヤの指輪を強く握りしめ、聞き取れないほどかすれた声を絞り出した。「行かないでくれ……頼む。行かないでくれ。琴乃がいなくなったら、俺はどうしたらいいんだ?」
瑛司がその写真を受け取ったのは、朝の会議中だった。何気なくスマホの画面に目を落とした。次の瞬間、目を見開いた。写真には、飾り気のない白い骨壺と、医師の署名が入った死亡診断書の控えが写っている。そこには、【雨宮和恵】とはっきり記されている。瑛司は勢いよく立ち上がった。椅子が床をこすり、甲高い音を立てた。「社長?」報告していた部長は、不意に立ち上がった瑛司に驚いた。瑛司は答えず、車のキーをつかむと、会議室を飛び出した。「これはどういうことだ?琴乃、お母さんまで巻き込んで、こんな嘘をつくのか?」走りながら、何度も私に電話をかけた。「おかけになった電話は、現在つながりません……」またブロックされている。スマホを握る手が、勝手に震え始めた。一昨日の深夜、自分で切った電話を思い出すと、琴乃のかすれた声と、途中で遮った頼みの言葉が耳によみがえった。「ありえない。そんなはずない……」信号を3つ無視し、車を飛ばして病院へ向かった。病室のドアは開いており、看護師がベッドまわりを整えていた。「琴乃は?ここにいた患者は?」看護師に駆け寄り、かすれた声で尋ねた。看護師は、突然のことに驚いた。「こちらに入院していた雨宮和恵さんは、一昨日の深夜に亡くなりました。ご遺体は昨日の朝、娘さんの付き添いで、葬儀社の安置施設へ搬送されました」瑛司は息をのみ、その場に立ち尽くしたまま、頭の中が真っ白になった。そこで初めて、瑛司は琴乃が冗談を言っていたわけでも、駆け引きをしていたわけでもないと気づいた。琴乃は本当に、たった一人の家族を失ったのだ。琴乃がいちばん心細く、瑛司を必要としていたとき、彼は美梨のそばにいた。瑛司は病院を飛び出し、そのまま火葬場へ車を走らせた。……火葬場に着くと、私は骨壺を抱えて建物から出るところだった。「琴乃!」目を赤くした瑛司が駆け寄り、私に触れようとした。一歩後ろへ下がり、冷たい目で見返した。瑛司は伸ばした手を宙で止め、血の気を失った私の顔を見て、声を震わせた。「どうして言わなかった?どうして俺に何もさせてくれなかったんだ?一昨日の電話で、どうしてちゃんと話さなかった!」今さら取り乱す瑛司の姿が、ひどく滑稽に見えた。「瑛司、私に最後まで話させてくれた?
その日の深夜、外では激しい雨が降り始めた。強い風が病室の窓を叩き、耳障りな音を立てている。突然、心電図モニターが鋭い音を響かせた。「ピーーーー」モニターの波形は、一直線になっていた。飛び起きて、ベッドへ駆け寄った。「お母さん、お母さん!」先生と看護師たちが病室へ飛び込み、すぐに蘇生処置を始めた。痩せ細った母の胸には除細動器のパッドが貼られ、何度も電気ショックが加えられる。私は看護師に病室の外へ連れ出され、冷たい壁にもたれたまま、全身を震わせていた。30分後、先生がドアを開け、マスクを外して静かに首を横に振った。「雨宮さん、残念ですが……お母様はお亡くなりになりました」涙は出なかった。病室へ戻り、穏やかに目を閉じている母の顔を見つめながら、タオルで口元の汚れを少しずつ拭き取った。午前3時、私は一人で死亡診断書を受け取り、必要な手続きをすべて済ませた。病院の霊安室は、骨の芯まで冷えるほど寒い。生前、何より寒さを嫌がっていた母を、いつまでもここに置いておきたくなかった。葬儀場まで運んでくれる寝台車を探したが、暴風雨の影響ですぐに来られる車が見つからず、誰かの伝手を頼るしかなかった。スマホを取り出し、連絡先を順に見ていく。最後に、瑛司の名前で指が止まった。瑛司には、葬儀社の知り合いがいる。以前、祖父を亡くしたときも、葬儀の手配はすべて瑛司がしていた。大きく息を吸い、瑛司のブロックを解除して電話をかけた。呼び出し音が長く続き、ようやく電話がつながった。「もしもし」瑛司の声には、眠気と苛立ちが混じっている。電話の向こうから、甘えるような美梨の声がかすかに聞こえた。「瑛司、誰?こんな時間に」胸の奥が強く締めつけられ、息をするたびに血の味がした。「瑛司」自分の声は、ひどくかすれていた。「葬儀社の高橋さんに連絡してくれない?寝台車を手配してほしいの。お母さんが……」「琴乃」瑛司が容赦なく私の言葉を遮った。「正気か?こんな夜中に、今度は何のつもりだ?俺が折れるまで、こんな嫌がらせを続けるつもりか?」電話の向こうで、瑛司が鼻で笑った。「そんな嘘までついて同情を引こうとするな。こっちは忙しいんだ。くだらない芝居に付き合ってる暇はない」瑛司は一方的に電話を切った。ス
その後の3日間、私はずっと病院にいた。分子標的薬の副作用は強く、母は毎晩、夜通し痛みに苦しんだ。私はベッドのそばを離れず、汗を拭き、むくんだ脚をさすった。不動産会社の対応は早く、売却代金はすぐに口座へ振り込まれた。病院の会計で治療費を支払い、口座の残高を確認すると、少しだけ肩の力が抜けた。4日目の午後、病室のドアが開いた。仕立てのいいスーツを着た瑛司が、高級フルーツの詰め合わせを手に、ドアの前に立っている。やつれた私の顔を見るなり、眉をひそめた。「もう何日も意地を張ったんだ。そろそろ気は済んだだろ?」口ぶりは相変わらず上からだった。自分から迎えに来ただけで、十分に譲ってやったつもりなのだ。立ち上がると、瑛司には目も向けず、母の布団の端を整えた。「何しに来たの?」眠ったばかりの母を起こさないよう、声を抑えた。瑛司は病室へ入り、高級フルーツの詰め合わせをベッド脇の棚に置いた。「お母さんのお見舞いに来た」中には、アメリカンチェリーやキウイ、ぶどうが詰められている。「持って帰って」静かに言った。「何?」瑛司の動きが止まった。「お母さんは抗がん剤治療中で、胃腸が弱ってる。先生から、生の果物、特に皮や種のあるものは避けるように言われてるの」瑛司をまっすぐ見た。「瑛司、お見舞いに来るなら、少しくらい相手のことを考えられないの?」瑛司は一瞬、顔をこわばらせた。恥をかかされたとでも思ったのだろう。「秘書に買わせたんだ。そこまで気が回らなかったんだろ」苛立たしげにネクタイを緩めた。「琴乃、いちいち責め立てるなよ。わざわざ迎えに来てやったんだ。もう意地を張るな。荷物をまとめて帰るぞ」瑛司が手首をつかもうと手を伸ばしてきた。後ろへ下がり、その手をかわした。「帰らない」伸ばした手が、宙で止まった。私を見据える瑛司の視線が、少しずつ冷たくなっていく。「まだあの日のことで怒ってるのか?美梨は妹みたいなものだって言っただろ。あんな写真、何の意味もない。いつまでそうやって拗ねてるつもりだ?」当然のような顔でそう言う瑛司が、急に可笑しく見えた。「呼びさえすれば、私が尻尾を振って戻ってくるとでも思ってるの?」瑛司は否定しなかった。目を見れば、本気でそう思って