LOGIN『もし御影の家にいるなら、今は何も話さないで』 綾香はスマートフォンを握りしめた。「……どうしてですか?」『今は答えられないわ』 女性の声は低い。 さっきまでとは明らかに違っていた。『綾香ちゃん、今、一人?』 綾香は反射的に屋根裏部屋の扉を見る。「一人です」『そう』 女性が小さく息を吐く。『でも、そこで話すのはやめましょう』「待ってください。お母様のこと、何か知ってるんですよね?」『知ってるわ』 即答だった。 綾香の胸が大きく鳴る。「だったら――」『会って話しましょう』「会って?」『ええ。電話では話したくないの』 綾香は黙った。 相手が母の古い友人であることは確認できた。 自分のことも知っていた。 けれど、それだけで信用していいのだろうか。 母の手紙が頭をよぎる。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』「……どこで会いますか?」 女性は少し考えてから答えた。『人の多いところがいいわね』 指定されたのは、都内のホテルのラウンジだった。 綾香も名前を知っている場所だ。『明日の二時でどう?』「大丈夫です」『分かった。私はあなたの顔が分かるから』「私も写真を見つけました」『写真?』「お母様のアルバムに、あなたと一緒に写ってる写真がありました」 電話の向こうが静かになる。『……そう』 その声が少しだけ柔らかくなった。『まだ残してくれてたのね』 綾香はアルバムの写真へ目を落とした。 若い母と、隣で笑う女性。
銀行を出た綾香は、近くのカフェに入った。 窓際の席に座り、スマートフォンを取り出す。 画面には、先ほど控えた女性の名前と電話番号。 何度見ても、名前に覚えはない。(お母様の友達……?) けれど、それなら一度くらい会ったことがあってもよさそうなものだ。 母が亡くなった時にも、この名前を聞いた記憶はない。 綾香は名前を検索してみた。 同姓同名の人物がいくつか表示される。 けれど、どれが母の知人なのか判断できるような情報はなかった。「やっぱり、これだけじゃ分からないわね……」 スマートフォンを置く。 電話をかけるのが一番早い。 けれど、相手が何者なのか分からないまま、自分の名前を名乗ることには抵抗があった。 母は『誰を信じるか自分で決めて』と残している。 だからこそ、慎重にならなければならない。(でも、どうやって調べればいいの?) 考えているうちに、一つだけ思いついた。 母の昔の知人なら、父が名前を知っているかもしれない。 ただし、直接聞けば理由を尋ねられるだろう。 それなら――。◇◆◇ 帰宅した綾香は、屋根裏部屋へ向かった。 母の遺品の中には、アルバムがいくつも残されている。 昔の友人と写った写真があるかもしれない。 棚からアルバムを取り出し、一冊ずつ確認していく。 家族旅行。 綾香が幼かった頃の写真。 父と母がまだ若い頃の写真。 知らない人たちと並んでいるものもある。「この人たちの誰か……?」 けれど、写真だけでは名前が分からない。 何冊目かのアルバムを開いた時だった。「あ……」 写真の下に、母の字で短い書き込みがあ
橘と理央の話し声が遠ざかってからも、綾香はしばらく扉の前に立っていた。『気にかけることと、詮索することは違うよ』 橘は理央を庇わなかった。 むしろ、はっきりと止めていた。(分からない……) 母の木箱。 屋根裏部屋。 理央。 橘。 何かが繋がっているように思えるのに、肝心なところだけが見えない。 母の手紙には、こう書かれていた。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』 綾香は引き出しを開け、古い鍵を取り出した。「自分で確かめるしかないのよね」 まずは貸金庫だ。◇◆◇ 翌日。 綾香は必要な書類を揃えるため、父に声をかけた。「お父様、ちょっとお願いがあるんだけど」「何だ?」「お母様の銀行のことで、確認したいことがあるの。必要な書類を用意するの、手伝ってもらえる?」 父は少し驚いたようだった。「この前の貸金庫か?」「ええ」「気になっているのか」「うん。お母様が使ってたものなら、何が入ってたのかなって」 木箱のことは言わない。 九条先生から受け取った手紙のことも。 父は少し考えたあと、頷いた。「分かった。必要なものを教えてくれ」「ありがとう」「私も一緒に行こうか?」「大丈夫。自分で行ってみたいの」「そうか」 父はそれ以上言わなかった。 綾香は少しだけ胸が痛んだ。 父を疑っているわけではない。 けれど、母がわざわざ自分だけに残したものなら、まず自分で確かめたかった。◇◆◇ 数日後。 綾香は銀行の窓口にいた。 用意した書類を提出し、担当者が確認するのを待つ。「お待たせい
翌朝。 綾香が目を覚ましてスマートフォンを見ると、理央からのメッセージがもう一通届いていた。『昨日のメッセージ見た?』 画面を見つめる。 以前なら、返事をしなければと思っただろう。 怒らせたくない。 心配させたくない。 そんな理由で、聞かれたことに全部答えていた。 けれど今は。(答えたくない) 綾香は通知を閉じた。 今日は、それより確かめたいことがある。◇◆◇ 朝食を終えると、自室へ戻り、昨日撮影した書類の写真を開いた。 そこに記されていた銀行の支店名を確認する。 まずは電話で聞いてみよう。 そう思ったものの、すぐに手が止まった。(何て聞けばいいのかしら) 母はすでに亡くなっている。 自分が娘だからといって、簡単に教えてもらえるとは思えない。 それでも、何が必要なのかくらいは聞けるだろう。 綾香は銀行へ電話をかけた。 何度か案内を経て、担当者へ繋がる。「亡くなった母が、そちらで貸金庫を利用していたみたいなんです」『お母様が、ですか』「はい。古い書類を見つけて……今、その契約がどうなっているのか確認したいんですけど」『恐れ入りますが、ご契約の有無を含めまして、お電話ではお答えできかねます』「そうですよね」『相続人の方からのお問い合わせでしたら、必要書類をご用意いただいた上で、窓口で確認させていただくことになります』「必要なものを教えてもらえますか?」 綾香は言われたものをメモしていく。 すぐに中身を確認できるわけではない。 けれど、調べる方法はある。「分かりました。ありがとうございます」 電話を切る。 綾香はメモを見つめた。(まずは書類を揃えないと)
「お嬢様」 橘の声に、綾香は一瞬息を止めた。「何?」「旦那様から、書類をお探しになっていると伺いましたので」 扉の向こうから、いつもと変わらない落ち着いた声が返ってくる。「ええ。今探してるところ」「お手伝いいたしましょうか」「大丈夫よ。もう少しで見つかりそうだから」「承知いたしました」 それだけ言って、橘の足音が遠ざかっていく。 綾香はしばらく動かなかった。 完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐く。(……何を慌ててるのよ) 父に頼まれて書類を探していただけだ。 貸金庫の書類を見たところで、何も後ろめたいことはない。 それでも、橘には知られたくないと思ってしまった。 綾香はもう一度ファイルを開いた。 先ほどの書類を確認する。 母の名前。 銀行名。 貸金庫利用料。 間違いない。 綾香はスマートフォンを取り出し、書類を撮影した。 それから父に頼まれた書類を探し出す。「これね」 目的の書類を手に部屋を出る。 廊下にはもう誰もいなかった。◇◆◇ 父へ書類を届けてもらうよう橘に頼み、綾香は自室へ戻った。 すぐに先ほど撮った写真を開く。「この銀行……」 名前には見覚えがある。 御影家が昔から取引している銀行の一つだ。 ただ、貸金庫を契約していたのは母個人らしい。(まだ残ってるのかしら) 母が亡くなって三年。 契約がどうなったのか、綾香には分からない。 解約されているかもしれない。 中身があったとしても、すでに父へ渡されている可能性もある。 そこまで考えて、綾香は首を傾げた。(でも、それならお父様が知ってるはずよね) 父のファ
綾香は家政婦の言葉を聞きながら、胸のざわつきを抑えていた。「その時のこと、もう少し覚えてない?」「もう三年も前ですので……」「何でもいいの。いつもと違ったこととか」 家政婦はしばらく考え込んだ。「そうですね……奥様は、ずいぶん急いでいらしたように思います」「急いで?」「はい。午前中に突然、午後から出かけるのでタクシーを呼んでほしいと」「帰ってきたのは?」「夕方だったと思います」「一人で?」「はい」 綾香は考える。 数時間の外出。 それだけでは、どこへ行ったのか見当もつかない。「帰ってきた時も、鞄は持ってた?」「そこまでは……申し訳ありません」「ううん。ありがとう」 これ以上聞いても、新しいことは出てこないだろう。 綾香は家政婦と別れ、自室へ向かった。◇◆◇ 机の前に座り、ノートを開く。 母が九条先生へ薬について相談した。 その後、手紙を預けた。 亡くなる一、二か月前には、橘にも行き先を告げずタクシーで外出した。 そして、今は木箱がなくなっている。「……どこに行ったの?」 綾香はペンを置いた。 三年前のタクシーを今から探すなんて無理だろう。 母自身も、行き先を残してはいない。(他に何か……) ふと、思い出す。 母は一人で外出することが多い人ではなかった。 買い物なら運転手がいた。 誰かと会うなら、父や橘に予定を伝えていたはずだ。 それなのに、その日だけタクシーを使った。 知られたくなかったのだとすれば――。(家とは関係のない場所?)