ログイン橘と理央の話し声が遠ざかってからも、綾香はしばらく扉の前に立っていた。
『気にかけることと、詮索することは違うよ』
橘は理央を庇わなかった。
むしろ、はっきりと止めていた。
(分からない……)
母の木箱。
屋根裏部屋。
理央。
橘。
何かが繋がっているように思えるのに、肝心なところだけが見えない。
母の手紙には、こう書かれていた。
『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』
綾香は引き出しを開け、古い鍵を取り出した。
「自分で確かめるしかないのよね」
まずは貸金庫だ。
◇◆◇
翌日。
綾香は必要な書類を揃えるため、父に声をかけた。
「お父様、ちょっとお願いがあるんだけど」
「何だ?」
「お母様の銀行のことで、確認したいことがあるの。必要な
「自分の部屋に置いていたものが、少しずつ動いている気がするって」 綾香は息を呑んだ。 自分も同じことを感じている。 屋根裏部屋に残された母の遺品。 なくなった木箱。 そして、夜中に屋根裏部屋へ入っていた理央。「お母様は……誰かが部屋に入ってると思ってたんですか?」「そうみたい。でも、最初は自分の勘違いかもしれないって言ってたわ」「誰かを疑ってたんですか?」「その頃は、名前までは聞かなかった」 女性は首を振った。「私も、あまり深刻に考えてなかったの。家政婦さんが掃除の時に動かしたんじゃないかとか、そんな話をして」「……そうですよね」 それだけなら、綾香だってそう考える。「でも、そのうち相談の内容が変わってきた」「どういうふうに?」「体調のことを話すようになったの」 綾香の表情が変わる。「体調……」「眠気がひどいとか、急に気分が悪くなるとか。日によって違ったみたいだけど」 九条先生から聞いた話が頭をよぎる。 母は薬について調べていた。「病院には?」「行ってたわ。でも、原因は分からなかったみたい」 女性はカップに手を伸ばした。「それで、ある時から食べたものや飲んだものを記録するようになったの」「どうして?」「何か共通するものがないか調べるためだって」「記録……」「ええ。体調が悪くなった日だけじゃなくて、何を食べたか、何を飲んだか、薬を飲んだ時間まで」 綾香は眉を寄せた。「その記録は?」「私も見たことはないわ」「じゃあ……」「たぶん、木箱の中じゃないかしら」 綾香の胸が大きく鳴った
翌日。 綾香は約束の時間より少し早く、ホテルのラウンジへ着いた。 理央には会わなかった。 橘には「少し出てくる」とだけ伝えたが、やはり行き先は聞かれなかった。(大丈夫……誰にも知られてない) そう思いながらも、落ち着かない。 案内された席に座り、周囲を見回す。 人は多い。 宿泊客らしい家族連れや、仕事の話をしている人たち。 ここなら、何かあっても人目がある。 母の友人がこの場所を選んだ理由が、少し分かった気がした。「……綾香ちゃん?」 声に振り返る。 昨日、写真で見た女性が立っていた。 写真より当然年齢は重ねている。 けれど、面影は残っていた。「はい」「やっぱり。お母さんに似てるわね」 女性は綾香の向かいへ座った。「昨日は突然電話して、すみませんでした」「いいの。驚いたけど……いつか連絡が来るかもしれないとは思ってたから」「私から?」「ええ」 綾香は眉を寄せた。「どうしてですか?」 女性はすぐには答えず、注文を済ませた。 飲み物が運ばれ、店員が離れてから、ようやく口を開く。「まず、聞いてもいい?」「はい」「私の電話番号を、どうやって知ったの?」「お母様の貸金庫です」 女性の表情が変わった。「貸金庫?」「緊急連絡先に、あなたの名前と電話番号がありました」「……そう」 女性はしばらく黙り込んだ。「やっぱり、あの貸金庫は残ってたのね」「知ってるんですか?」「ええ」 綾香は身を乗り出した。「中に何があるかも?」「それは知らない」「……そうですか」「でも、あなたのお母さんが何かを保管していたことは知ってる」 綾香の胸が大きく鳴った。「木箱ですか?」 女性の手が止まった。 その反応だけで分かった。「知ってるんですね」「……綾香ちゃん。その箱のこと、どこで知ったの?」「お母様が残した手紙に書いてありました」「手紙?」「九条先生に預けていたんです」 女性が目を見開く。「九条先生に……」「それと、箱の鍵も見つけました」「鍵まで?」「はい。でも箱がないんです」 女性はしばらく何も言わなかった。 やがて、小さく息を吐く。「そういうことだったのね」「何がですか?」「昔、あなたのお母さんから預かったものがあるの」 綾香は息を呑んだ。「預かったもの?」「三年前。
『もし御影の家にいるなら、今は何も話さないで』 綾香はスマートフォンを握りしめた。「……どうしてですか?」『今は答えられないわ』 女性の声は低い。 さっきまでとは明らかに違っていた。『綾香ちゃん、今、一人?』 綾香は反射的に屋根裏部屋の扉を見る。「一人です」『そう』 女性が小さく息を吐く。『でも、そこで話すのはやめましょう』「待ってください。お母様のこと、何か知ってるんですよね?」『知ってるわ』 即答だった。 綾香の胸が大きく鳴る。「だったら――」『会って話しましょう』「会って?」『ええ。電話では話したくないの』 綾香は黙った。 相手が母の古い友人であることは確認できた。 自分のことも知っていた。 けれど、それだけで信用していいのだろうか。 母の手紙が頭をよぎる。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』「……どこで会いますか?」 女性は少し考えてから答えた。『人の多いところがいいわね』 指定されたのは、都内のホテルのラウンジだった。 綾香も名前を知っている場所だ。『明日の二時でどう?』「大丈夫です」『分かった。私はあなたの顔が分かるから』「私も写真を見つけました」『写真?』「お母様のアルバムに、あなたと一緒に写ってる写真がありました」 電話の向こうが静かになる。『……そう』 その声が少しだけ柔らかくなった。『まだ残してくれてたのね』 綾香はアルバムの写真へ目を落とした。 若い母と、隣で笑う女性。
銀行を出た綾香は、近くのカフェに入った。 窓際の席に座り、スマートフォンを取り出す。 画面には、先ほど控えた女性の名前と電話番号。 何度見ても、名前に覚えはない。(お母様の友達……?) けれど、それなら一度くらい会ったことがあってもよさそうなものだ。 母が亡くなった時にも、この名前を聞いた記憶はない。 綾香は名前を検索してみた。 同姓同名の人物がいくつか表示される。 けれど、どれが母の知人なのか判断できるような情報はなかった。「やっぱり、これだけじゃ分からないわね……」 スマートフォンを置く。 電話をかけるのが一番早い。 けれど、相手が何者なのか分からないまま、自分の名前を名乗ることには抵抗があった。 母は『誰を信じるか自分で決めて』と残している。 だからこそ、慎重にならなければならない。(でも、どうやって調べればいいの?) 考えているうちに、一つだけ思いついた。 母の昔の知人なら、父が名前を知っているかもしれない。 ただし、直接聞けば理由を尋ねられるだろう。 それなら――。◇◆◇ 帰宅した綾香は、屋根裏部屋へ向かった。 母の遺品の中には、アルバムがいくつも残されている。 昔の友人と写った写真があるかもしれない。 棚からアルバムを取り出し、一冊ずつ確認していく。 家族旅行。 綾香が幼かった頃の写真。 父と母がまだ若い頃の写真。 知らない人たちと並んでいるものもある。「この人たちの誰か……?」 けれど、写真だけでは名前が分からない。 何冊目かのアルバムを開いた時だった。「あ……」 写真の下に、母の字で短い書き込みがあ
橘と理央の話し声が遠ざかってからも、綾香はしばらく扉の前に立っていた。『気にかけることと、詮索することは違うよ』 橘は理央を庇わなかった。 むしろ、はっきりと止めていた。(分からない……) 母の木箱。 屋根裏部屋。 理央。 橘。 何かが繋がっているように思えるのに、肝心なところだけが見えない。 母の手紙には、こう書かれていた。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』 綾香は引き出しを開け、古い鍵を取り出した。「自分で確かめるしかないのよね」 まずは貸金庫だ。◇◆◇ 翌日。 綾香は必要な書類を揃えるため、父に声をかけた。「お父様、ちょっとお願いがあるんだけど」「何だ?」「お母様の銀行のことで、確認したいことがあるの。必要な書類を用意するの、手伝ってもらえる?」 父は少し驚いたようだった。「この前の貸金庫か?」「ええ」「気になっているのか」「うん。お母様が使ってたものなら、何が入ってたのかなって」 木箱のことは言わない。 九条先生から受け取った手紙のことも。 父は少し考えたあと、頷いた。「分かった。必要なものを教えてくれ」「ありがとう」「私も一緒に行こうか?」「大丈夫。自分で行ってみたいの」「そうか」 父はそれ以上言わなかった。 綾香は少しだけ胸が痛んだ。 父を疑っているわけではない。 けれど、母がわざわざ自分だけに残したものなら、まず自分で確かめたかった。◇◆◇ 数日後。 綾香は銀行の窓口にいた。 用意した書類を提出し、担当者が確認するのを待つ。「お待たせい
翌朝。 綾香が目を覚ましてスマートフォンを見ると、理央からのメッセージがもう一通届いていた。『昨日のメッセージ見た?』 画面を見つめる。 以前なら、返事をしなければと思っただろう。 怒らせたくない。 心配させたくない。 そんな理由で、聞かれたことに全部答えていた。 けれど今は。(答えたくない) 綾香は通知を閉じた。 今日は、それより確かめたいことがある。◇◆◇ 朝食を終えると、自室へ戻り、昨日撮影した書類の写真を開いた。 そこに記されていた銀行の支店名を確認する。 まずは電話で聞いてみよう。 そう思ったものの、すぐに手が止まった。(何て聞けばいいのかしら) 母はすでに亡くなっている。 自分が娘だからといって、簡単に教えてもらえるとは思えない。 それでも、何が必要なのかくらいは聞けるだろう。 綾香は銀行へ電話をかけた。 何度か案内を経て、担当者へ繋がる。「亡くなった母が、そちらで貸金庫を利用していたみたいなんです」『お母様が、ですか』「はい。古い書類を見つけて……今、その契約がどうなっているのか確認したいんですけど」『恐れ入りますが、ご契約の有無を含めまして、お電話ではお答えできかねます』「そうですよね」『相続人の方からのお問い合わせでしたら、必要書類をご用意いただいた上で、窓口で確認させていただくことになります』「必要なものを教えてもらえますか?」 綾香は言われたものをメモしていく。 すぐに中身を確認できるわけではない。 けれど、調べる方法はある。「分かりました。ありがとうございます」 電話を切る。 綾香はメモを見つめた。(まずは書類を揃えないと)







