تسجيل الدخول『もし御影の家にいるなら、今は何も話さないで』
綾香はスマートフォンを握りしめた。
「……どうしてですか?」
『今は答えられないわ』
女性の声は低い。
さっきまでとは明らかに違っていた。
『綾香ちゃん、今、一人?』
綾香は反射的に屋根裏部屋の扉を見る。
「一人です」
『そう』
女性が小さく息を吐く。
『でも、そこで話すのはやめましょう』
「待ってください。お母様のこと、何か知ってるんですよね?」
『知ってるわ』
即答だった。
綾香の胸が大きく鳴る。
「だったら――」
『会って話しましょう』
「会って?」
『ええ。電話では話したくないの』
綾香は黙った。
相手が母の古い友人であることは確認できた。
自分のことも知っていた。
その日の夜。 綾香は自室で、静養先の候補を調べていた。 遥臣に言われた条件を、一つずつ確認していく。 長期滞在ができること。 食事に困らないこと。 仕事ができる環境があること。 近くに医療機関があること。 そして――。(東京から、簡単には来られないところ) これは遥臣には言っていない、綾香だけの条件だ。「箱根は……近すぎるわね」 都内から気軽に行けるのは、本来なら利点だ。 けれど今の綾香にとっては、むしろ欠点だった。 軽井沢も同じだ。 新幹線を使えば、東京からそれほど時間はかからない。「那須は……」 悪くない。 けれど、もっといい場所があるかもしれない。 検索を続けているうちに、候補はどんどん増えていった。 山梨。 長野。 新潟。 東北にも温泉地はいくつもある。(でも、遠ければいいってものじゃないのよね) 父に何かあった時、すぐ病院へ行けなければ困る。 母と同じ目に遭わせないために逃がすのに、体調を崩した時に助けられない場所を選んでは意味がない。「難しい……」 綾香は机に突っ伏した。 しばらくして顔を上げる。「……先に、お父様に聞いた方がいいのかな」 遥臣にも言われた。 結局、本人が嫌がればどうにもならない。◇◆◇ 翌朝。 朝食の席で、綾香は父の様子を窺っていた。「お父様」「ん?」「今年、夏休み取った?」「夏休み?」 父は不思議そうな顔をした。「会社員じゃないんだから、そういう取り方はしてないな」「じゃあ、最近まとまって休んだのは?」「……いつだったかな」「覚えてないの?」「必要があれば休んでるよ」「絶対休んでないでしょう」 綾香が睨むと、父は苦笑した。「何だ、急に」「この前倒れたばっかりなのに、もう普通に仕事してるから」「もう問題ないよ」 予想通りの答えだった。「そう言うと思った」「本当に大丈夫なんだが」「九条先生にも相談したの」 父の手が止まった。「九条先生に?」「うん。少しくらい休ませた方がいいんじゃないかって」「綾香……」「先生も、無理する必要はないって言ってたわ」「それはそうだろうけど」 父は困ったように息を吐いた。 完全に嫌がっているわけではない。 押せばいけるかもしれない。「一か月くらい、どこかでのんびりしない?」「一か月
「そういえば」 帰ろうとしていた綾香は、ふと足を止めた。「静養って、どのくらいさせた方がいいの?」 遥臣が振り返る。「本人の状態による」「それは分かってるけど。二週間くらい?」「それじゃ旅行だろ」「そうなの?」「静養させたいなら、一か月くらいは考えてもいいんじゃないか」「一か月……」 思っていたより長い。 けれど、綾香にとっては都合がよかった。 一か月もあれば、その間に理央から父を守る方法を考えられる。「もっと長くてもいい?」「本人が嫌がらないならな。最初から期間を決めなくても、一か月くらいで様子を見ればいい」「なるほど……」「仕事を全部やめさせる必要もない。量を減らして、生活を整える方が現実的だろ」 それなら父も受け入れてくれるかもしれない。「じゃあ、どこがいいと思う?」「本人の好みだろ」「一般的に。静養するならどういうところがいいの?」「温泉とかじゃないか」「やっぱり温泉?」「年配には受けるだろ」「お父様をおじいちゃん扱いしないで」「年配と言っただけだ」「似たようなものでしょう」 遥臣は気にする様子もなく続ける。「暑いのが嫌なら避暑地でもいい」「軽井沢とか?」「その辺だな」「一か月か……」 綾香は考え込んだ。 一か月も滞在するのなら、いっそ。「海外はどう?」「海外?」「ハワイとか。気分転換にもなるでしょう?」「あまり勧めない」「どうして?」「この前倒れたばかりだ。長時間の移動もある。何かあった時に面倒だ」「今は元気よ?」「静養させ
翌日。 綾香は病院を訪れていた。 昨日からずっと考えていた。 父をどうすれば守れるのか。 一日中そばについていることはできない。 食事も薬も、すべてを綾香が確認するのは現実的ではなかった。 それなら、まず理央から離せばいい。 少なくとも、今よりは安全になる。「遥臣」 診療を終えて出てきた遥臣に声をかける。「何だ」「ちょっと相談があるの」「またか」「何よ、その言い方」「最近多いだろ」「仕方ないじゃない」 遥臣は綾香を見る。「それで?」「お父様のことなんだけど」 遥臣の表情が少し変わった。「また具合悪いのか」「ううん。今は大丈夫」「じゃあ何だ」「少し静養させたいの」「静養?」「この前倒れたでしょう?」「ああ」「今は元気だからって、もう普通に仕事してるの。家に帰ってきても書斎にいるし」 実際、それは嘘ではない。 昨日だって父は遅くまで書斎で仕事をしていた。「だから、少しくらいちゃんと休んでもらった方がいいんじゃないかなって」「本人は?」「絶対、大丈夫だって言うと思う」「だろうな」「でしょう?」 綾香は小さく息を吐いた。「家にいたら仕事するし、普通に旅行へ行こうって言っても、忙しいって断られそうだし……何かいい方法ないかな」「何で俺に聞く」「お医者さんなら、そういうの詳しいかと思って」「雑だな」「でも間違ってないでしょう?」「まあな」 遥臣は少し考える。「別に、どこかに入院する必要はないだろ」「それは分かってる」「仕事から離したいな
電話を切ったあとも、綾香はスマートフォンを握ったまま動けなかった。『可能性の一つとしてはな』 遥臣はそう言った。 母が残した記録だけでは、三年前に何があったのかを証明することはできない。 けれど、綾香には引っかかる言葉があった。 前世で、理央が口にした言葉。 ――母の死の真相。「……まさか」 声が震えた。 これまで、その言葉が何を意味するのか分からなかった。 母の死にも何か秘密があった。 その程度にしか考えられなかった。 けれど今は違う。 母は亡くなる前、自分の体調不良を不審に思っていた。 薬まで疑い、自分で管理した日は症状が出なかったと記録している。 そして、その頃から御影家には理央が出入りしていた。(お母様の死の真相って……) 綾香の指先が冷たくなる。(理央がお母様を殺したってことだったの?)「……ひどい」 母は理央を昔から知っていた。 幼い頃から御影家へ出入りしていた理央を、家族同然に迎えていた。 一緒に食事をしたことも何度もある。 母が理央を邪険にしたところなど、綾香は一度も見たことがない。 それなのに。「なんで……」 自分を陥れた。 御影家を奪った。 父のことまで狙った。 それだけでも許せなかった。 けれど、そのずっと前から。 理央は母にまで手をかけていたのだとしたら。(絶対に許さない) 怒りで身体が震えた。 母はもう帰ってこない。 今さら何が分かったところで、三年前には戻れない。 どれだけ理央を憎んでも、母を助けることはできない。 その時。 綾香の頭に、父の顔が浮かんだ。「……お父様」 心臓が跳ねた。 父はまだ生きている。 今世では、すでに一度倒れている。 あの時、綾香は父の様子がおかしいことに気づいた。 そして薬を遥臣のもとへ持っていき、グレープフルーツとの相互作用が分かった。 誰が仕組んだのか、証拠はない。 それでも綾香は、ずっと理央を疑っている。(もし、お母様にまで手をかけてたなら……) 理央は、綾香が思っていた以上に危険な男だ。 一度失敗したからといって、父を諦めるとは思えない。 それどころか。 自分が父の薬の異変に気づいたことで、次は別の方法を使うかもしれない。「駄目……」 綾香は立ち上がった。 母の死について調べることも大切だ。
『親父にも確認したい』 綾香はそのメッセージをしばらく見つめていた。 遥臣がそう言うということは、何か気になるところがあったのだろう。『分かった』 返信する。 すぐに電話をかけようかとも思った。 けれど、遥臣自身もまだ確認したいと言っている。(今聞いても、分からないわよね) 綾香はスマートフォンを置いた。 焦ってはいけない。 母も、分からないから記録を残したのだ。 今度は自分が、一つずつ確かめる。◇◆◇ 翌日の昼過ぎ。 遥臣から電話がかかってきた。「もしもし」『今、話せるか』「うん」『昨日の検査結果、親父にも見せた』 綾香は姿勢を正した。「何か分かった?」『断定はできない』「……うん」『ただ、何度か肝機能の数値が悪くなってる』「肝臓?」『ああ。そのあと戻ってる時もある』「それって、病気だったってこと?」『それだけじゃ分からない』 遥臣の答えは端的だった。『薬でも変わる。体調でも変わる。検査結果だけ見て原因を決めるのは無理だ』「じゃあ、お母様が赤い線を引いてたのは……」『そこが気になってたんだろうな』 綾香は母の記録を思い出した。 何を食べたか。 何を飲んだか。 何時に薬を飲んだか。 そして、その日の体調。「遥臣」『何だ』「記録の中に、お母様が飲んでた薬の名前もあるの」『ああ』「それを見れば、もう少し分かる?」 電話の向こうで少し間があった。『可能性はある』「じゃあ、見てもらっていい?」『他の書類も見ることになるぞ』「あ……」 綾香は黙った。 昨日は、検査結果以外は見ないでほしいと頼んだ。 けれど、薬の記録は母が残した一覧の中にある。「分かった。薬のことが書いてあるところは見て」『いいのか』「うん」『分かった』 そこで会話が途切れる。 綾香は少し迷ってから尋ねた。「九条先生は何て?」『親父も同じだ。結果だけじゃ分からないって』「そう……」『ただ』「何?」『昔、お前の母親から相談された時のことを、もう一度確認したいらしい』「どういうこと?」『記録にある薬と、当時聞かれた内容が繋がるかもしれない』 綾香の指に力が入る。「今日、分かる?」『診療が終わってから見る』「私も行った方がいい?」『来なくていい』「でも――」『分かったら連絡する
女性と別れた綾香は、そのまま病院へ向かった。 バッグの中には、母が残した封筒が入っている。 電車に乗っている間も、何度か手で確かめてしまった。(大丈夫。ちゃんとある) 三年間、母の友人が守ってくれていたものだ。 自分が受け取ったその日に失くすなんて、絶対に嫌だった。 病院へ着くと、遥臣にメッセージを送る。『着いた』 しばらくして返信が来た。『一階』 ロビーへ入ると、少し離れたところに遥臣が立っていた。「遥臣」「来たか」「仕事中なのにごめん」「少しなら空いてる」 遥臣は綾香の顔を見たあと、その手元へ視線を落とした。「預けたいものって何だ」「これ」 綾香はバッグから茶色い封筒を取り出した。 遥臣が受け取ろうとして、綾香は一瞬手を止める。「……中、見ないでね」「分かった」「聞かないの?」「何を」「何なのか、とか」「見ないで預かれって話だろ」「そうだけど……」 相変わらずだ。 綾香は封筒から手を離した。「大事なものなの」「ああ」「家には置いておきたくなくて」 遥臣の目が綾香へ向く。「何かあったか」「……まだ分からない」「そうか」 それ以上は聞かない。 綾香は少し迷ってから続けた。「それと、お願いがもう一つあるの」「何だ」「この中に、お母様の昔の検査結果が入ってるの」 遥臣が封筒を見る。「検査結果?」「それだけは見てほしい」「さっき見ないでって言っただろ」「だから、全部じゃなくて







