LOGIN帝王切開の翌日、私・早川知夏(はやかわ ちか)は離婚専門の弁護士を病院に呼んだ。 担当として来たのは、夫・五十嵐仁(いがらし じん)の実の妹、五十嵐玲央(いがらし れお)だった。 彼女は呆然としたまま、しばらく私を見つめる。顔には信じられないという表情が浮かんでいた。 「何考えてるの?昨日、やっと兄さんの子を産んだばかりじゃない!」 私は淡々と答えた。 「あなたのお兄さん、私が出産を終えるのも待たずに、志舞と一緒に船で海に出たの。 そんな夫と、まだ一緒にいるつもり?」 玲央は数秒黙り込んだあと、それでも兄を庇うように口を開いた。 「志舞さんは、離婚したばかりでひどく落ち込んでるの。兄さんは医者だから、放っておけなかったんだと思う。 責任を感じて、少し様子を見に行っただけだよ。そこまでして離婚することないじゃない。 子どもは生まれたばかりなのに……父親がいなくなってもいいの?」 私は冷めた目で彼女を見て、言葉を遮った。 「子どもに父親がいないんじゃない。父親のほうが、先にこの子をいらないと言ったのよ」 玲央の顔から血の気が引いた。彼女はおずおずと私の手を取った。 「お義姉さん……兄さんが志舞さんを気にかけてるのは確かだけど、それは小さい頃から一緒に育ってきた情があるからで…… 兄さんが愛してるのはお義姉さんだって、みんな分かってるよ。だから……離婚するの、やめない?」 期待に満ちた彼女の目を見つめ、私は口元をわずかに歪めた。そして手を引き抜き、法律事務所へ電話をかける。 「そちらの弁護士は、あまり腕がよくないようなので、別の弁護士に替えてください」
View Moreそう言いながら、彼の膝がゆっくりと折れていった。私は声をかけて止めた。「仁、跪かなくていい。何度跪いたって、もう何の意味もない」彼はその場で固まり、目を赤くして私を見つめた。「私はあなたに3回、チャンスをあげた」私は彼を見つめ、波一つない静かな口調で言った。「そのたびに、あなたは他の人を選んだ。そのたびに、次はもうしないと言った。でも、次になれば、また同じことを繰り返した。今になって、志舞がどんな人間なのか分かった。ようやく私のことを大切に思うようになった。でも、もう私はそれを必要としてない」私は腕の中ですやすや眠る赤ちゃんを見下ろし、静かだけれど揺るぎのない声で続けた。「昔の私は、いつもあなたのプライドを気にしてた。昇進のための評価も、研究プロジェクトを取る時も、全部父が裏でこっそり手を回してくれてた。でも、私はそのことをあなたに一度も言えなかった。あなたが自分の面子を潰されたと思うのが怖かったから。でも、あなたはどうだった?可哀想なふりをする他人の言葉は信じても、何年もあなたと苦労を共にしてきた私のことは信じなかった。仁、あなたが馬鹿だったわけじゃない。最初から、あなたにとって私と子供は一番じゃなかった。それだけよ」彼は口を開いた。けれど、一言も出てこなかった。ただ涙だけが頬を伝って流れ落ちていく。私は背を向け、マンションのエントランスへ歩き出した。背後から、彼が掠れた声で呼び止める。「じゃあ、子供は?あの子は俺の息子だ。君は俺に会わせないつもりなのか!」私は足を止めた。けれど、振り返らなかった。「この子が『パパ』って呼べるようになったら、会わせる。でも、復縁は絶対にない」建物の中へ入ったその瞬間、背後から押し殺した嗚咽が聞こえてきた。私は子供を抱いたまま、一歩ずつ階段を上っていった。心の中に、復讐を果たしたような快感もなかった。別れを惜しむ悲しさもなかった。ただ、ふっと小さく息を吐いた。……半年後、仁の昇進審査の結果が出た。ほぼ確実だと思われていた副医長の枠を、彼は結局手にすることができなかった。病院側の理由は「私生活上の品行に問題があるため、審査を延期する」。それだけではなかった。彼が長い間狙っていたポストも、別の人間に渡った。周囲では、彼
「やっぱり、あなたはよく考えてるわね」歩美は声を潜めた。「離婚さえ成立すれば、あの子のマンションだって、どうしたって半分はもらえるでしょう。そうしたら、あなたがまたあの子との間に子供を一人作ればいい。この家のことは、結局私たちが好きにできるもの」病室の外に立っていた仁は、全身の血が凍りついたような感覚に襲われていた。ずっと、志舞は本当にか弱くて頼る相手もいないのだと思っていた。自分はただ恩返しをしているだけ。姉弟として果たすべき責任を果たしているだけだと。まさか、最初から最後まで、すべてが周到に仕組まれた嘘だったなんて。しかも、自分の実の母親が、その嘘の片棒を誰よりも熱心に担いでいた。仁は足でドアを蹴り開けた。中の笑い声が、ぴたりと止まった。歩美が手にしていたティーカップが「ガシャン」と床に落ち、顔面が真っ青になった。「仁くん……どうしてここに?」志舞はいち早く反応した。目元を瞬時に赤く染め、涙をぽろぽろとこぼす。「仁くん、聞いてたの?私……あなたを騙すつもりなんてなかった。本当にあなたのことが好きなの。あの時、あなたが水に落ちたのを助けた日から、ずっと好きだったの!」彼女は駆け寄り、仁の腕を掴もうとした。だが、仁は彼女の手を乱暴に振り払った。あまりに強い力だったため、志舞はよろめきながら少し後退し、ベッドの脇に倒れ込んだ。「俺はずっと、君を姉だと思ってた。命を救ってくれたことにも感謝してた。10年間、君に頼まれれば何でも応じてきた」仁の声は激しく震えていた。その目には、抑えきれない怒りと失望が渦巻いている。「母さんが愚かだったのは分かる。でも、君まで俺を騙して利用するのか?知夏が病室で死にかけてたっていうのに、二人してここで、どうやってあいつのものを奪うか相談してたのか?」「仁くん、あなたを愛しすぎてたから、こんなことを……」志舞は泣きながら弁解した。「黙れ」彼が彼女にこんな冷たい声を向けたのは、初めてだった。「今日から、俺たちは完全に縁を切る。入院費はもう全部払った。介護士の手配も済ませてある。これからは、二度と俺を頼るな」仁は、青ざめた顔で立ち尽くす歩美に視線を向けた。「それから、母さん。明日、俺が母さんを実家に帰す。これから俺の許可なく志舞さんと連絡を取る
以前なら、仁はとっくに心を動かされていたはずだ。けれど今回は、眉間に深い皺を寄せたまま、これまでにないほど硬い口調で言った。「志舞さん、妻がついさっき救命処置を受けたばかりで、そばを離れるわけにはいかない。怖いなら介護士を呼んで。どうしても駄目なら警備員を頼ればいい」電話の向こうの泣き声が一瞬止まった。そして、すぐにもっと悲しげな声が返ってくる。「仁くん、どうしてそんな言い方するの……?今まで私にそんなふうに怒ったこと、一度もなかったのに」彼女は鼻をすすり、再び柔らかな声になった。その口調には、これでもかというほど「聞き分けのいい女」を演じる響きがあった。「もしかして、知夏ちゃんが怒ってるの?ごめんなさい、私が悪いの。こんな時に邪魔しちゃいけなかったよね。知夏ちゃんは出産したばかりで体も弱ってるんだから、喧嘩なんてしないでね。体に障ったら大変だもの。私が何もできないせいで、いつも仁くんに迷惑ばかりかけて……これからはもう、こんなことしないから」あまりにも巧妙な言い回しだった。柔らかな言葉の裏に棘を忍ばせ、一言一言、私に「聞き分けのない女」というレッテルを貼りつけていく。以前の仁なら、きっと彼女の言葉に乗せられて、逆に私に「もっと大人になれ」と諭していた。けれど今日は、ただ顔を曇らせ、さらに冷たい口調で言った。「それが分かったならいい。ほかに用がないなら切る」「待って」志舞が焦ったように声を張り上げた。「もし本当に私に何かあったらどうするの?仁くん、私を放っておけないでしょう?」仁はもう何も答えなかった。そのまま通話を切った。病室は、しばらく静まり返っていた。彼が私を見る目には、複雑な感情が入り混じっていた。罪悪感もあれば、ようやく今になって何かに気づいたような戸惑いもあった。けれど、私はもう彼が何を考えているのか推し量る気にもなれなかった。志舞に男女の情があるわけではないのかもしれない。けれど、彼が彼女を際限なく甘やかしてきたことこそ、すべての元凶だ。私が彼を愛していることをいいことに、彼は何度も私に譲歩させ、我慢させ、私の引いた一線を少しずつ後ろへ追いやってきた。そんな関係は、もういらない。私はベッド脇の引き出しから、ずっと前に用意しておいた離婚協議書を取り出し、彼の前に差し出
保温容器がタイルの床に落ち、熱々のスープが床一面に飛び散った。鼻を刺すような薬膳の匂いが、あたりに広がる。仁はその場に凍りついた。顔色が青ざめたかと思えば、今度は赤みを帯び、しばらくしてようやく一言を絞り出した。「知夏、さっきまで救命処置を受けてたんだ。体も弱ってる。そんなことで意地を張るなよ」「意地を張ってる?」私は枕に寄りかかっていた。笑うことさえ、今の私には力が要る。「仁、私があなたに与えた3回のチャンス、覚えてる?」私はゆっくりと指折り数えながら、彼に聞かせた。声は風に乗るほどか細かった。それでも、一言一言が彼の胸に重く突き刺さっていく。「1回目。産後3日目の深夜。傷口が痛んで冷や汗が止まらず、胸も張って体が硬直するほど熱が出ていた。あなたは急患が入ったと嘘をついて、実際は志舞の家で6時間も彼女についていた。2回目。私は乳腺炎で39度まで熱が上がって、赤ちゃんは吐き戻したものを喉に詰まらせて顔が紫色になった。あなたは屋上にいる志舞を説得して連れ戻すために、私と赤ちゃんを病室に置き去りにして、電話一本にも出なかった。3回目。産後の痙攣から誤嚥性肺炎を起こして、3時間も救命処置を受けた。あなたは志舞の元夫の対応に行って、最後まで一度も顔を見せなかった」私は顔を上げ、何の感情も映さない目で彼を見つめた。「3回とも使い切ったわ。仁、まだ何か言うことがある?」彼は喉を大きく鳴らした。一歩近づいて私の手を握ろうとしたが、私は身を引いて避けた。「でも、全部特殊な状況だったんだ!志舞さんの元夫は刃物を持ってたんだぞ。もし本当に人が死んだらどうする?あいつは子どもの頃から俺の命を救ってくれたんだ。何か起きるのを黙って見てるなんて、俺にはできない……」話すほどに彼の声は小さくなり、最後にはほとんど自信を失っていた。「じゃあ、彼女の命は大事なんだけど、私と赤ちゃんの命は後回しにされて当然なの?」私は彼の言葉を遮った。声にはもう、何の感情もなかった。「あなたにとっては、全部たいしたことじゃないんでしょう?」彼は口を開きかけたものの、反論することはできず、眉を寄せて言った。「これからは変わる。約束するから……」「変えられないわ」私は静かに首を横に振った。人の心に