結婚式当日、新郎である高瀬悟志(たかせ さとし)が突然、式を中止した。 理由は、樋口寧々(ひぐち ねね)がSNSに【帰国しました】と投稿したからだ。 悟志は自らデザインした結婚指輪を置くと、教会を駆け出していった。 ウェディングドレス姿の私は立ち尽くした。私を支えてくれた兄――梅澤拓巳(うめざわ たくみ)も手を離した。 「遥香、お前は昔から強い子だからな。一人で何とかできるってわかってる。今は寧々のほうがお前より俺を必要としてる」 そう言うと、彼も去っていった。 二人は同じ女のために私を置き去りにしたのだ。 夜、結婚式の後始末を終えた後、寧々から写真が届いた。 写真には、拓巳と悟志が寧々のベッドに寄り添う姿が映っていた。 悟志が自ら作り、私に贈るはずだったネックレスが、今は寧々の首元に光っている。 拓巳が私のためにデザインし、仕立て上げたドレスが、寧々の身体を包んでいる。 それらはすべて、本来は私のものだった。 ついに私は諦め、涙ながらに電話をかけた。 「お父さん、お母さん……気が変わった。家に帰りたい」
View Moreウエディングドレスを試着したあの日、北原一成が付き添ってくれていた。ギプスをはめている手でドレスの着脱は難しい。彼は少しも嫌な顔を見せず、そばで手伝ってくれた。何着も試着を重ね、最後に目に留まったのは「ナイトスター」というドレス。それは私が大学生の頃にデザインしたものだった。後に売り払い、そのお金を拓巳と悟志の起業資金にしたのだ。まさかこのブライダルショップで再会するとは思わなかった。ここは北原家の経営する店だった。あの時の謎の買い手は、北原家だったのか。「これ、気に入った?」一成がドレスを丁寧に取り下ろし、私の背中にファスナーを上げてくれた。それから白いベールを探し出し、ショールのように私の肩にかけてくれた。ギプスを隠すためだ。彼がうつむいて、ドレスの裾を整えてくれる姿は、本当に真剣で、心を込めていた。まるで大切な宝物を扱うように、私をそっと守ってくれている。やっとわかった。前に母が私を見つけ出し、婚約の話をした理由を。彼らは、北原一成が信頼して人生を託せる男だと知っていたからだ。あの頃の私は、高瀬悟志に夢中で、婚約なんて考えも及ばなかった。それでも今、私は彼を逃さずに済んだ。やがて婚礼の日が訪れた。兄の俊介が婚礼の車を運転し、式場のあるホテルへと私を送ってくれた。少し緊張していた。窓を開けて外気を吸い込んだその時、隣の車に乗っているのが、どうやら拓巳と悟志らしいと気づいた。「遥香!」拓巳が叫び、車窓から首を突き出した。「知り合い?」と一成が尋ねる。私は首を振った。知らない、と。もう一台の車の中では、拓巳と悟志が今見た光景について言い争っていた。結局、二人は目を疑っただけだと結論づけた。式場に着き、壇下から俊介に手を取られて私がレッドカーペットを歩く姿を見るまで、二人はようやく我に返ったのだ。私は、彼らが小さい頃から知っていた、あの遥香だった。「梅澤遥香さん、あなたは北原一成さんを生涯の伴侶とすることを誓われますか?」「いやだと言え!」「遥香、誓うな!」私の言葉は遮られた。拓巳と悟志が駆け寄ろうとしたが、警備員に止められた。「はい、誓います!」私は嬉しそうにそう言った。そして、一成と結婚指輪を交換した。式が終わり、拓巳と悟志はホテルの入り口に立ってい
悟志は眉をひそめ、ちらりとそれを見た。「同じ名前の別人だろ?」「新井家の令嬢はずっと海外留学しているし、何より今や新井グループは世界トップ500社の一角だ」「もし遥香の本当の両親が新井家の人なら、とっくに彼女を探しにきているはずだ」と悟志は言い終えると、拓巳は確かにその通りだと納得した。しかし、心の奥底で妙に不安が募る。まるで大切な何かが、指の間からこぼれ落ちていくような感覚だった。一方、新井家では、私が実の両親と食事を共にしていた。「叔母さん、本当にこんなに……」お椀に山盛りにされたご馳走を見て、私は呆気にとられると同時に胸が熱くなった。「まだ『叔母さん』なんて呼ぶの?」新井夫人は、わざとらしく悲しそうなふりをして私を見た。私は我に返り、顔を赤らめた。「…………お母さん」「ええ、そうこなくちゃ!あなた、痩せすぎよ。もっと食べなさい」新井夫人は嬉しそうに私を見つめ、突然お椀を持ち上げた。「寧々、お利口さん、あーんして」傍らで兄の新井俊介が黙々と私のステーキを切り分け、目の前にそっと置いてくれた。叔父さん……いや、もう『お父さん』だ。彼はわざわざ誰かに頼んでストローを取ってこさせてくれた。私は顔を上げて感謝の笑みを浮かべた。拓巳や悟志のもとを離れたら、きっと落ち着かないだろうと思っていた。新井家のようなお金持ちの家では、たとえ実の娘が戻ってきたとしても、そう簡単には馴染めないだろうと思っていた。でも、現実はまったく違った。夕食後、俊介が私を自分の部屋に案内してくれた。私は息をのんだ。室内は私の一番好きなオレンジ色を基調にした内装。部屋中にディズニーのプリンセスや、さまざまな限定版のぬいぐるみが飾られていた。「気に入った?」彼は少し緊張した様子で尋ねた。「お母さんが君はオレンジ色が好きだって言うから、そうデザインしてみたんだ。もし気に入らないところがあったら、すぐに改装し直すから……」鼻の奥がツンと熱くなった。泣きそうになりながら、笑顔で叫んだ。「ありがとう……兄さん」俊介は照れたように笑った。実家に帰ってきて数日、家族の温もりを身に染みて感じていた。結婚式の日が近づくにつれ、私は結婚式場の手配や披露宴の準備に忙しくしていた。ところが、私のその兄はというと、こっそりと多くの栄養士に相談し
私は壁にぐったりともたれ、痛みに声も出せず、絶望の涙がこぼれ落ちるのを感じた……あの時、豪華客船で寧々が私に言ったあの言葉が、蘇る。【ねえ、あの二人にとって、大事なのはあんた?それとも私?】今、答えはわかった。寧々なんだ。私は、どうでもいい、大切じゃない存在なんだろう。しばらくすると、救急医が整形外科の医師も呼んできた。医者はもう十分だ。順番なんて関係ない。私と寧々は同時に手術室へ運ばれた。拓巳が私の手を握った。「ごめん、遥香……俺たち、お前の腕のことが……」私はその手を振りほどき、顔を背けた。彼が私を叩いたあの一発も、もういい。これで、今まで育ててくれた恩には、報いたことにする。私は目を閉じた。もう二度と、会うことはない。手術が終わり、病室で目を覚ました。悟志がベッドの傍に立っている。「医者の話じゃ、腕の方は大丈夫らしい。きちんと治せば後遺症もなく、ピアノも絵筆も持てるそうだ」「足も動くなら、となりの病室へ行け。寧々に謝ってこい」「お前が船の上で彼女を突き飛ばしたせいだ。頭に縫合が必要で、髪は全部刈られた。女の子が髪のない姿は、どれだけ惨めかわかるか!」「私が突き飛ばしたんじゃないって、信じてくれる?」「寧々がわざと転んだのよ。私には何の関係もない!」「私、悪くない!」私の声は、感情を排していた。悟志は眉をひそめた。「遥香、お前が嘘をつくようになるなんてな。過ちは仕方ない、大事なのはそれを認めて改めることだ!」「謝らないなら、結婚式は取り消しだ!」悟志はそう言うと、ドアを蹴るようにして出ていった。彼の背中を見ながら、私は小さく呟いた。悟志、私はもう離れるつもりだから、結婚なんて当然、考えてもいない。腕にギプスを固定された翌日、私は退院の手続きをした。家に帰る。もう、ここに未練など何ひとつない。私の傷ついた姿を見て、両親は胸を痛め、涙をぬぐった。「君も不注意だなあ、こんなことなら言ってくれれば迎えに行ったのに」実の兄である新井俊介(あらい しゅんすけ)は、私の治療のために家庭医を呼び、メイドにはリハビリ食を作らせた。「大丈夫、大したことないの。痛くないよ」私は笑顔で彼らをなだめた。「そうだ、お父さん、お母さん。この方は?」私は目の前の見
私は荷物をまとめると、幼い頃を過ごした孤児院へ向かった。院長先生にお別れを言うためだ。ジョーンズママの白髪が少し増えていた。私は何年分か前もって用意したプレゼントを渡し、彼女をぎゅっと抱きしめた。「ジョーンズママ、ここを離れるの。すごく遠いところへ行くから、長い間、帰ってこられないと思う」ジョーンズママは私の頬をつんとつまんだ。「遥香、誰かにいじめられたの?何か嫌なことでもあった?兄の拓巳と高瀬悟志はどうしたの?あの二人がちゃんと守ってくれなかったの?見たところ、すごく元気がないわよ」私はかすかに笑った。「いじめなんてないよ。ただ、本当の家族が見つかったんだ。祝福してね」孤児院を後にすると、父と母から電話がかかってきた。私の誕生日を祝ってくれているという。彼らの祝福と同時に、私の銀行口座に数百万ドルが振り込まれたのを確認した。振込名義にはこうあった――【娘へ、誕生日おめでとう!】父と母は、私が家に帰ったら、改めて盛大な誕生パーティーを開くとも言った。私は一人、街をぶらぶらと歩いた。一日中、拓巳と悟志からの連絡はなかった。悲しかった。あの二人は、今までずっと、誰が一番に祝福できるか競い合っていたのに。小さな人形でも、ケーキの一切れでも、とにかく私の誕生日を逃すことなんてありえなかった。でも今は、もうすっかり日が暮れているというのに、何の知らせも入らない。ふと顔を上げると、なぜか砂浜に出ていた。砂浜は人でいっぱいで、一艘の豪華客船が何かのパーティを開いているようだった。離れようとしたその時、寧々が駆け寄って私の手を掴んだ。「遥香さん!」「今夜、流星群が見えるって聞いたから、悟志さんと拓巳くんがこの船に連れてきてくれたの!一緒にどう?」彼女は楽しそうに私の手を引っ張り、船のデッキへ上がった。そして、耳元にすり寄って、挑発するように囁いた。「ねえ、あの二人にとって、大事なのはあんた?それとも私?」私はただただ困惑していた。すると突然、彼女が恐怖の表情を浮かべ、私の手を離すと、「遥香さん、やめて、やめてよ……」と叫んだ。そう言い終えると、彼女はくるりと背を向け、後ろへ倒れ込むようにしながら、「遥香さん、お願い、もう許して!」と大声で叫んだ。拓巳と悟志の目には、まるで私が寧々を突き落としたように
気持ちを整理して、私は悟志との家に戻った。結婚式の後、悟志と一緒に住むために、私自身が内装までこだわって準備した家だ。ドアを開けると、寧々が綺麗な新しいワンピースを着て、ソファで果物を食べている姿が目に入った。部屋の中は、私が愛していたものが置き換えられていた。私の大好きだった茉莉の花は、ゴミ箱に枯れた姿で投げ捨てられている。大切にしていたマグカップは、ゴミ箱の中で粉々に割れていた。そして、お気に入りのクッションも、ラグも、全てが寧々好みのものに変わっていた。「あら、遥香さんお帰り?私、骨折の手術が終わったばかりで療養が必要だから、悟志さんがこっちに住むようにって。ホテルより家の方が快適だって言うのよ」寧々は得意げに笑った。「知ってるでしょ、私、花粉症なの。だからお花は捨てるしかなかったのよ」「それと、このマグカップね。お水を飲んでいた時に、うっかり落としちゃったの」あのマグカップには小さな子犬のイラストが描かれていて、悟志が初めてくれた贈り物だった。普段は使うのも勿体なくて飾っていたのに。今は無惨な破片だ。私が怒っているのを見て、寧々は笑いながら言った。「怒る必要ないでしょう。ただのマグカップじゃない」私は思わずゴミ箱に駆け寄り、中の破片をかき集めようとした。粘着剤で直せるか?まだ組み立てられるだろうか?私が何もしていないのに、寧々はわざとらしく二歩よろめいて、床に倒れ込むふりをした。その瞬間、拓巳と悟志がドアを開けて入ってきた。拓巳は烈火のごとく怒っていた。「遥香!また寧々をいじめてるのか!?寧々がここに住むのは俺が決めたことだ。お前に寧々に当たる権利なんてない!」悟志は私を一睨みすると、寧々を助け起こした。「遥香、君は本当にわかってないな。寧々は病気なんだ。そんな風に押すなんてありえないよ?」「寧々には身寄りがいないんだ。ここに一緒に住むのは、ちょうど世話がしやすいからだ」人の態度が、どうしてこんなにも急変するのだろう?以前、拓巳と悟志がこの家を私にくれた時は、ここは永遠に私の家だと言っていたのに。かつて寧々がしばらく住んでいた時も、彼女は「卒業したばかりでアパート代がない」と言い、私は哀れに思って住まわせてあげた。しかし彼女は、私のアクセサリーやお金を盗み、お酒に
実の両親に電話をかけると、二人はとても驚き、喜んでくれた。母は、私の声のトーンに隠れた落胆を察し、慰めの言葉をかけてきた。「遥香、お母さんはやっぱり言うわね。もし辛いことがあったら、忘れないで。あなたには帰る場所があるのよ。お母さんもお父さんも、いつだってここで待っているから。ずっとね」「うん、お母さん。こっちの仕事、辞める手続きや引き継ぎにあと五日くらいかかるから、それで帰るね!」「わかった。お父さんとお母さんが航空券の手配をするわ。この数日、お兄さんたちともちゃんとお別れしておいてね」「遥香、何があってもお父さんとお母さんはあなたの味方よ。守るし、支えるから!」涙がこぼれた。昔、拓巳も、悟志も言ってくれた。『ずっと守る』『お前の永遠のよりどころだ』って。悟志は特に、『大人になったらお前を嫁にもらう。一生一緒にいる。離れるなんて、一分一秒も考えられない』とまで言っていた。だからこそ、実の両親が現れた時、彼らには話さなかった。実家に戻るよう言われた時も、断ったのだ。この町で育ち、愛する人も、私を愛してくれる人も、この町にいた。離れられるはずがない。寧々が現れるまで、それが間違いだったとは気づかなかった。寧々は児童養護施設で育った。地方からこの町の大学に入学し、学校に来たばかりの頃は、いつもぽつんと一人でいた。転校したばかりで大学生活に馴染めないんじゃないかと心配になり、家に招いたのがきっかけだった。それからというもの、祝日があるたびに彼女は我が家にやってくるようになった。拓巳と悟志が私の誕生日を祝ってくれた時のこと。突然、寧々が泣き出した。「遥香さんのことが羨ましい。私の誕生日を祝ってくれる人なんて、誰もいなかった。プレゼントをくれる人もいなかった」と。後日、私が手作りのバースデーケーキを持って、拓巳と悟志を引っ張り、寧々のために誕生パーティーを開いた。彼女を本当の妹のように大切にしていた。――あの日、悟志の机の引き出しに、寧々が書いたラブレターを見つけるまでは。私は寧々に言った。悟志とは婚約しているんだ、もうラブレターはやめてほしい、と。その時の会話は、口論で終わった。その後、彼女は病気療養のため、海外へと旅立った。私たち全員にメールを一通残した。【遥香さんのことが羨ましい
Comments