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この命とともに去っていく愛する人

この命とともに去っていく愛する人

By:  冨貴Completed
Language: Japanese
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かつて、黒沢南枝(くろさわ なみえ)は法曹界でその名を轟かせ、誰もが憧れる高嶺の花だった。 名門・雨宮家の御曹司である雨宮舟(あめみや しゅう)は、南枝を妻に迎えるため、身分さえも顧みず跪き、彼女を支える存在になると誓った。 彼は言っていた。南枝の仕事を誰よりも尊重する。いつだって彼女の後ろに立ち、正式に立場を与えられるその日を待っていると。 そして、こうも誓った。南枝を世界で一番幸せな女にしてみせる。生涯、ただ彼女だけを愛し抜くと。 結婚して五年。 舟はその誓いを一度たりとも違えなかった。五年もの間、変わらずに南枝を深く愛し、この上なく甘やかしてきた。 いつだって彼は、彼女を掌中の珠のように大切に扱ってきた。 家庭のこともよく気にかけ、彼女のために面倒ごとを引き受け、社交の場にも必ず寄り添った。 彼女が調査や証拠集めに奔走し、危険も厭わず闇へと踏み込んでいくときには、彼は自ら車を駆り、誰よりも頼れる後ろ盾になってくれた。 彼女が正義を守ろうとし、幾度となく世論の渦中に叩き込まれたときも、彼は彼女の優しさを誉め称え、決して揺るがない支えであり続けてくれたのだ。 だから、南枝は思っていた――私の人生、舟さえいてくれれば、それでいいんだ。 ――なのに今、三輪糸緒(みわ いとお)はこの案件を引き受け、南枝の妹、黒沢蛍(くろさわ ほたる)を辱めた犯人の弁護士として、彼女の前に立ちはだかっている。 そして、舟は――糸緒のために、鷺を烏と言い、南枝と蛍の尊厳を平気で踏みにじた。

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Chapter 1

第1話

黒沢南枝(くろさわ なみえ)は自分が法曹界で最も名を馳せていたあの年、雨宮舟(あめみや しゅう)と誰にも知られず入籍した。

舟との秘密の結婚も、今や五年目に入る。

舟は口元にかすかな笑みを浮かべたまま、スマホを彼女の前に滑らせるように差し出した。

画面のなかでは、南枝の実の妹、黒沢蛍(くろさわ ほたる)が頬を紅潮させている。

犯人の山田剛(やまだ つよし)は、口移しで蛍にワインを飲ませていた。蛍は身を引こうとしているのに、その仕草はどこか拒みきれていないようにも、誘っているようにも見える。

「やめて……お願い……」

男は拒もうとする彼女の手を掴み、いやらしい笑みを浮かべてボトルを揺らす。

「いい子だな。なかなかいい飲みっぷりじゃないか」

舟は南枝の真正面に座り、彼女の顔色が土気色に変わっていくのをじっと見つめていた。それでも彼は、身なりひとつ乱さず、落ち着き払っている。

骨ばった指で、こと、とテーブルを叩く。

「南枝、誰が見たって、これは強姦なんかじゃない。ただの合意の上の愉しみだろ?

考える時間はあと三分だ。証拠を出すか、それとも蛍を世間に晒すか。

トップの女性弁護士は一人でいい。糸緒のキャリアに黒星はつけられない。だから南枝、お前は法曹界から身を引け。これからは俺が養う」

「舟……」彼女の声は震えていた。「蛍は私の実の妹よ。私にとって、一番大事な人なの……あの子は薬を盛られたのよ……」

彼は何でもないことのように、カードを一枚、投げて寄越した。

「大事?ただの遊びだろ。それより、糸緒のほうがずっと大事だ。あの子は気が強いからな。裁判に負けたら、きっと泣く」

南枝は彼をじっと見据えた。そして、ふと、自分がひどく滑稽に思えた。

――ただの遊び、だって?

「実の妹が踏みにじられて、家族も壊れかけている。それが、ただの遊び?

人でなしが許せない罪を犯して、のうのうと外を歩いている。それが、大事ない?

あなたにとっては、三輪糸緒が裁判に負けて泣くかどうかのほうが、そんなに大事なの?トップ弁護士の肩書のほうが、そんなに重要なわけ?」

舟は不快そうに眉をひそめ、わずかに身を乗り出し、苛立ちをあらわにした声で言い放った。

「じゃあ、なんだって言うんだ?はっきり言っておく。糸緒は俺に恩がある。俺の中では、誰もあの子には敵わない。

このカードには一億が入ってる。蛍に渡してやれ。バッグでも車でも、好きなものを買えばいい。若い連中だから、ちょっと羽目を外したのも、別に珍しい話じゃない」

南枝は怒りのあまり体が震え、涙が止めどなくテーブルの上に落ちていく。

どうして舟が、こんな人間になってしまったのか、彼女にはわからなかった。

かつて、南枝は法曹界でその名を轟かせ、誰もが憧れる高嶺の花だった。

名門・雨宮家の御曹司である舟は、南枝を妻に迎えるため、身分さえも顧みず跪き、彼女を支える存在になると誓った。

彼は言っていた。南枝の仕事を誰よりも尊重する。いつだって彼女の後ろに立ち、正式に立場を与えられるその日を待っていると。

そして、こうも誓った。南枝を世界で一番幸せな女にしてみせる。生涯、ただ彼女だけを愛し抜くと。

結婚して五年。

舟はその誓いを一度たりとも違えなかった。五年もの間、変わらずに南枝を深く愛し、この上なく甘やかしてきた。

いつだって彼は、彼女を掌中の珠のように大切に扱ってきた。

家庭のこともよく気にかけ、彼女のために面倒ごとを引き受け、社交の場にも必ず寄り添った。

彼女が調査や証拠集めに奔走し、危険も厭わず闇へと踏み込んでいくときには、彼は自ら車を駆り、誰よりも頼れる後ろ盾になってくれた。

彼女が正義を守ろうとし、幾度となく世論の渦中に叩き込まれたときも、彼は彼女の優しさを誉め称え、決して揺るがない支えであり続けてくれたのだ。

だから、南枝は思っていた――私の人生、舟さえいてくれれば、それでいいんだ。

――なのに今、糸緒はこの案件を引き受け、南枝の妹、蛍を辱めた犯人の弁護士として、彼女の前に立ちはだかっている。

そして、舟は――糸緒のために、鷺を烏と言い、南枝と蛍の尊厳を平気で踏みにじた。

「雨宮……舟……」南枝の声は、ひどく震えていた。「もし、私が折れなかったら、本当に私たちを壊すつもり?」

「なら、試してみればいい」
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第1話
黒沢南枝(くろさわ なみえ)は自分が法曹界で最も名を馳せていたあの年、雨宮舟(あめみや しゅう)と誰にも知られず入籍した。舟との秘密の結婚も、今や五年目に入る。舟は口元にかすかな笑みを浮かべたまま、スマホを彼女の前に滑らせるように差し出した。画面のなかでは、南枝の実の妹、黒沢蛍(くろさわ ほたる)が頬を紅潮させている。犯人の山田剛(やまだ つよし)は、口移しで蛍にワインを飲ませていた。蛍は身を引こうとしているのに、その仕草はどこか拒みきれていないようにも、誘っているようにも見える。「やめて……お願い……」男は拒もうとする彼女の手を掴み、いやらしい笑みを浮かべてボトルを揺らす。「いい子だな。なかなかいい飲みっぷりじゃないか」舟は南枝の真正面に座り、彼女の顔色が土気色に変わっていくのをじっと見つめていた。それでも彼は、身なりひとつ乱さず、落ち着き払っている。骨ばった指で、こと、とテーブルを叩く。「南枝、誰が見たって、これは強姦なんかじゃない。ただの合意の上の愉しみだろ?考える時間はあと三分だ。証拠を出すか、それとも蛍を世間に晒すか。トップの女性弁護士は一人でいい。糸緒のキャリアに黒星はつけられない。だから南枝、お前は法曹界から身を引け。これからは俺が養う」「舟……」彼女の声は震えていた。「蛍は私の実の妹よ。私にとって、一番大事な人なの……あの子は薬を盛られたのよ……」彼は何でもないことのように、カードを一枚、投げて寄越した。「大事?ただの遊びだろ。それより、糸緒のほうがずっと大事だ。あの子は気が強いからな。裁判に負けたら、きっと泣く」南枝は彼をじっと見据えた。そして、ふと、自分がひどく滑稽に思えた。――ただの遊び、だって?「実の妹が踏みにじられて、家族も壊れかけている。それが、ただの遊び?人でなしが許せない罪を犯して、のうのうと外を歩いている。それが、大事ない?あなたにとっては、三輪糸緒が裁判に負けて泣くかどうかのほうが、そんなに大事なの?トップ弁護士の肩書のほうが、そんなに重要なわけ?」舟は不快そうに眉をひそめ、わずかに身を乗り出し、苛立ちをあらわにした声で言い放った。「じゃあ、なんだって言うんだ?はっきり言っておく。糸緒は俺に恩がある。俺の中では、誰もあの子には敵わない。この
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第2話
南枝が「三輪糸緒」という名前を初めて耳にしたのは、一年前の法廷だった。糸緒は被告側の弁護士として出廷し、南枝と法廷で激しく論戦を繰り広げた。糸緒は、気位ばかりが高くて法律知識もさほど深くないくせに、やたらと道徳を振りかざすタイプだった。彼女は、七十を過ぎた男――隣家の幼い少女にわいせつ行為を働いた老人の弁護を引き受けていた。審理が終わったあと、糸緒は感情を昂らせたまま南枝のもとへ来て、開口一番、説教じみた言葉を並べ立てた。「黒沢さんって、少しは思いやりってものを持てないの?彼、もうお年寄りなのよ。寂しさのあまり、ああするしかなかっただけじゃない。彼が刑務所でひとりぼっちのまま人生を終えるのを見て、黒沢さんはそれで満足なわけ?」そのとき、たまたまこの話を耳にした舟は、南枝をぎゅっと抱き寄せながら、冷たい眼差しでぽつりと言った。「分別のない連中だな。南枝、俺が片づけてやろうか?」南枝はそれを断った。でも、まさか半年後に――舟が糸緒を雨宮グループの法務として採用するなんて、思いもしなかった。あのとき彼は、やわらかい声で南枝をなだめたものだ。「南枝、ただ人手が足りなかっただけなんだ。それに、あの性格も案外面白いと思わないか?」それからというもの、糸緒の名前は舟の口からやたらと飛び出すようになった。でも南枝は、舟の愛情にどっぷりと甘えきっていて、糸緒なんて取るに足らない存在だって、まったく気にも留めていなかった。――なのに、今。かつて、もし南枝を裏切ったら針千本飲ますと誓ったはずの舟は、ただ糸緒を笑わせるためだけに、南枝の家族ごと地獄へ突き落とそうとしている。「……わかった。あなたの言うとおりにする」南枝の心は、完全に死んだように静まり返った。彼女は舟が差し出した契約書に素早く署名し、最後の一画を書き終えると、もう彼を一瞥たりともせず、背を向けて足早に立ち去った。だがドアを出た直後、母の黒沢静美(くろさわ しずみ)から緊急の電話が入ったのだ。「南枝、早く病院に来て!蛍が……自殺したの!」南枝は全速力で病院へ駆けつけた。けど、そこで目にしたのは――手首から血を流し続ける妹を抱きしめたまま、医師たちに何度も何度も頭を下げる母の姿だった。「お願いします、どうか娘を助けてください……!まだ体は温か
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第3話
【二時間以内に、スタイリストのところへ行って、糸緒のドレスを受け取れ。そのまま会場まで届けて。住所は、糸緒が送るから】南枝は、怒りのあまり笑いが込み上げてきて、涙がこぼれそうになった。相手をブロックして、削除してしまいたい衝動を、必死にこらえて――ただ、二文字だけを返す。【無理】すると、すぐに舟から返信が届いた。再び送られてきたのは――蛍の、あの映像だった。脅し以外の、何ものでもなかった。南枝はスマホをぎゅっと握りしめ、指の関節が白くなるほど、力を込める。静美も、そのメッセージを見てしまい、感情をもう抑えきれずにいた。「蛍はもう死んだのに……あの人は、まだ何をしようっていうの……!この人でなし……っ、うちの蛍を、死んでまで安らぎを得させないつもりなのか!」南枝は、泣きじゃくりながら、取り乱す母のことを、ぎゅっと抱きしめた。「お母さん、やめて……私が行くから。この七日間だけは、雨宮のクズに、少しでも異変を気づかれちゃだめなの。気づかれたら――私たち、もう、逃げられなくなる」糸緒から送られてきた住所は、ひどく曖昧で――南枝は、汗だくになりながらも急いで向かい、どうにかギリギリの時間で、現地へとたどり着いた。舟は、入口に人を配置していた。南枝は遠くから、門の前に立つ一人の男の姿を見つけた。けど――近づくにつれて、その顔が、はっきりと見えた、その瞬間。心が、一気に、冷たい深淵へと突き落とされた。怒りで、理性が吹き飛びそうになる。目が、真っ赤に染まった。そこにいたのは――ほかでもない、妹を辱めた、山田剛だった。剛も、すぐに南枝に気づいて、だらしない歩き方で、ゆっくりと近づいてくる。その顔には、得意げないやらしい笑みが、べったりと張りついていた。「おっ、黒沢先生じゃないか。三輪先生に頼まれて、わざわざ迎えに来てやったんだぜ。にしてもよぉ、もうちょっと早く来られなかったわけ?こっちは、結構待たされたんだけど」南枝は、指先が掌に食い込みそうなほど、拳を強く握りしめ――込み上げる苦しさと怒りを、必死に、押し殺した。「……あなた、三輪糸緒に、招かれて来たっていうの?」声が、かすれている。剛は、ますます得意げに笑った。「当然だろ。三輪先生ってのは、ほんとにいい人でさ。こういう格式高い場に来
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第4話
南枝は思わず口を開いた。「雨宮、頭おかしいんじゃないの?まさか知らないわけじゃないでしょ、この男が――」けど、南枝が言い終える前に、舟は軽く手を振った。するとすぐにボディガードが動き、南枝を無理やり地面に押さえつける。彼女が抵抗したため、髪を乱暴に掴まれ、そのまま床へと叩きつけられた。――ドンッ!ドンッ!ドンッ!一撃ごとに、鈍く耳障りな音が響き渡る。南枝の額はたちまち血に染まり、視界もぼやけはじめた。舟は、糸緒の表情がわずかに和らいだのを確認してから、ようやく手を止めさせた。拘束を解かれた南枝は、そのまま無様に地面へ崩れ落ちる。屈辱の涙が血と混ざり合い、ぽたり、ぽたりと土の上に落ちていった。舟は彼女の前まで歩み寄り、しゃがみ込むと、白いハンカチを差し出した。口調だけは、またあの穏やかな声音に戻っている。でもその目には、もう何の感情も宿っていなかった。「南枝、この件はもう終わったはずだと言っただろう。それでもまだ食い下がるなんて、お前は糸緒をどこまで追い詰めるつもり?お前は、あまりにも冷酷だな」南枝は必死に体を起こし、彼の手にあるハンカチを思いきり払いのけた。「……好きに思えばいい」かすれきった声でそう言い放ち、彼女はよろめきながら立ち上がる。舟は、少し離れた場所に落ちたハンカチを一瞥し、ほんの一瞬だけ目を曇らせた。けど、すぐに糸緒のもとへ戻り、その腰を抱き寄せる。「屋敷へ戻ろう」糸緒は、何かを思いついたように背後をちらりと見やった。そこには、やつれ果て、打ちひしがれた表情の南枝がいる。わざと声を張り上げて言った。「私を家まで送ってくれないの?」舟は彼女の腰をぐっと引き寄せ、長く深い口づけを落とす。「今日はお前の家には行かない。俺の家に来い」南枝は聞こえないふりをしようとしていたが、その言葉は無数の針みたいに胸へ突き刺さった。鋭い痛みで、呼吸すらできなくなった。遠ざかっていく車のエンジン音を聞きながら、必死に伸ばしていた背筋が、果てしない圧力と屈辱に押し潰されるように、ゆっくりと折れていった。舟は、彼女に一台の車すら残さなかった。南枝が家へ戻ったときには、もう深夜を回っていた。鍵を開けようとしたそのとき、中から、高まったり弱まったりする甘い声が漏れてくる。
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第5話
「黒沢さん、よく見てなさい。あなたたち二人は、とっくに離婚してるんだわ。このサイン、あなたのものだよね。たとえ、あなたが知らないうちに書かされたものだったとしても――私たち、どっちも弁護士でしょ。分かってるはず。契約は有効なの。あなたたちはもう、正式に婚姻関係を解消してるのよ。確かに、舟があなたと離婚したのは、私が愛人なんて受け入れられないって言ったから。でもね、こうしてきちんと伝えたのは、今後あなたに無駄な執着をされないためなの。それに、本来なら今のあなたにこの屋敷にいる資格なんてないけど……まあいいわ。引っ越すくらいの時間はあげるから」南枝は離婚協議書を、最初から最後まで一字一句、丁寧に目を通した。糸緒が嘘をついていないことくらい、すぐに分かった。舟は用心深い男だ。こういう契約の類で、抜かりを見せることなんて絶対にない。もともと南枝は、どうやって舟との婚姻関係を解消しようか、ずっと頭を悩ませていた。でも、今となっては、その心配すら無用だったらしい。胸に残るのは、安堵よりも、苦さのほうがずっと大きかった。五年の結婚生活。どんな苦難だって、二人で一緒に乗り越えてきた。なのに、辿り着いた結末は、これほどまでにみじめで、しかもあまりに静かなものだった。悲しくないわけがなかった。南枝は、なおも得意げな顔をしている糸緒を相手にせず、無表情のまま離婚協議書を丁寧に畳んだ。「……分かったわ。じゃあ、あなたと彼に祝福を。末永くお幸せに」最後のお祝いの言葉は、奥歯を食いしばるようにして絞り出した。部屋に戻ったあと、南枝はほとんど一晩中眠れなかった。どうせ眠れないならと、彼女は素早く自分の持ち物をすべてまとめ始めた。そして翌日、舟と糸緒がどちらも出かけているのを確認すると、すぐに引き取り業者を呼んだ。荷物を受け取りに来た配達員は、箱いっぱいに詰め込まれた高価なドレスや宝飾品を見て、思わず南枝をまじまじと見つめた。驚きのあまり、声が上ずっている。「お、お客様……配送先のご住所、本当にお間違いないですか?ここ、ごみ処理場になってますけど……」南枝は無表情のまま、最後の箱を運び出した。「間違ってません」そう言って、配達員に少し多めのチップを渡した。「全部、焼却炉に入れてください。もう要ら
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第6話
彼女は下唇を噛みしめ、まるで自分こそが被害者だと言わんばかりの顔をした。「黒沢さん、言い方に気をつけてください。私はただ、自分の犬を埋葬したいだけ。あなたに何かした覚えはないけど。それに――」糸緒は、南枝母娘が抱えている骨壷にちらりと目をやった。「またお芝居でもして、舟に同情してもらおうってわけ?いい加減にしたら?まさか、妹さんが死んだなんて言い出すつもりじゃないでしょうね。動画で見た限りじゃ、ずいぶん積極的に見えたけど。そういう手口、もうやめたらどう?安っぽすぎて見てられないわ」その言葉がどんどん下品になっていくのを聞きながら、南枝は、今すぐ頬を張り倒したい衝動を必死にこらえた。深く息を吸い込み、彼女は直接、墓地の管理者に電話をかける。事情を手短に説明すると、幸い話の分かる人物だったらしく、すぐに糸緒へ退去を求めてくれた。「お客様、当社の墓地はすべて事前予約制となっております。お一人のご都合で規則を破るわけにはまいりません。お急ぎでしたら、別の場所をご案内いたしますので」糸緒は顔色をわずかに青ざめさせ、南枝をぎろりと睨みつける。「黒沢さん、あなたってそこまで冷酷なわけ?私の犬が死んだっていうのに、埋葬すらさせないつもり?」南枝は妹の骨壷をそっと墓に納めながら、ちらりとも彼女を見ずに言い返した。「その言葉、あなたにこそふさわしいと思うけど」糸緒は怒りのあまり体をぐらつかせ、次の瞬間、顔からさっと血の気が引き、そのまま気を失って倒れ込んだ。南枝が反応する間もなく、背後から張り詰めた冷たい声が響いた。「墓の中の汚いものを、全部出せ」振り返ると、そこには顔を強張らせ、大股で糸緒のもとへ駆け寄り、彼女を大事そうに抱き上げる舟の姿があった。南枝は思わず拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。彼女はすぐさま、妹の骨壷に手を伸ばそうとするボディガードの前に立ちはだかり、目を真っ赤にして舟を見据えた。「雨宮……中に何が入ってるか、分かってるの?」舟は高いところから冷たく見下ろし、吐き捨てるように言う。「何だろうと、俺には関係ない。南枝、お前は何度も何度も、糸緒に突っかかってきた。今のこの結果は、全部お前の自業自得だ」そう言い終えると、彼は目線だけで合図を送った。ボディガードはすぐに動き、墓から骨壷を力任せに
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第7話
「お母さん、大丈夫。あと四日よ。四日さえ耐えれば、私たちはここを離れられるから」屋敷の中の荷物は、もう全部片づけてあった。南枝は、あの場所へは二度と戻るつもりはなかった。残された数日を、ただ静美と静かに過ごしたい――それだけだった。なのに、それを絶対に許さない人間がいる。――ドンッドンッ!ドアが乱暴に叩かれ、壁まで震えるような音が響く。南枝がドアを開けると、そこに立ちはだかる屈強なボディガードたちの姿があった。顔から、さっと血の気が引いていく。歯を食いしばり、警戒をあらわにして問いかけた。「……何の用?どういうつもり?私はもう、望みどおり出ていくって言ったでしょ。それでもまだ足りないわけ?」先頭に立つ男が、無機質な口調で答える。「社長がお呼びです。三輪さんの誕生日パーティーに、ぜひご出席いただきたいと。お二人は同業で、以前は同じ事務所にもいらしたとか、三輪さんも、ぜひ来てほしいとおっしゃっていまして」南枝は、思わず鼻で笑った。「……断ったら?」男は、即座に手を振る。数人のボディガードが部屋へ踏み込み、白髪混じりの静美を無理やり押さえつけた。「社長のご指示です。もしあなたがお越しにならない場合は、お母様に来ていただくよう、とのことです」その光景に、南枝の目は一瞬で潤んだ。苦しげに声を絞り出す。「やめて……お母さんから手を離して。分かった、行く。行けばいいんでしょ」招待、なんて生易しいものじゃなかった。これは、完全に連行だ。南枝は、まるで犯人みたいに宴会場へと連れて行かれた。入口に着いたその瞬間、人垣の中心でひときわ目を引く、糸緒と舟の姿が飛び込んでくる。糸緒からは、かつての素朴で地味な面影なんて、もう微塵も感じられない。洗練された化粧に、華やかなドレス。舟にエスコートされながら、大物たちの間を、自信に満ちた足取りで渡り歩いている。そして舟のふとした瞬間に彼女へ向ける視線。そこには、隠そうともしない愛情と優しさが溢れていた。まるで、自分の手で大切に育てた花を眺める、みたいに。その眼差しを、南枝はよく知っている。かつて、彼が自分を一番愛していたあの頃――あの二年間、同じ目で自分を見ていた。南枝は着の身着のままだった。簡素な服のまま会場に入った彼女は、人混みの
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第8話
糸緒は南枝に向かって軽く咳払いをし、まるで自分は何も悪いことをしていないと言わんばかりに、平然とした目で言った。「黒沢先生、そんなに怒らないでよ。この件はもう、結果なんて決まったようなものだし。それに、妹さんがあんなことをしたんだから。私の依頼人は何も言ってないのに、あなたが気に病む必要なんてないでしょ?」南枝は怒りで理性が吹き飛び、どこからそんな力が湧いたのかもわからないまま突進し、糸緒の腕を掴んで、思いきり平手打ちを一発食らわせた。糸緒は、そのまま舟の胸へと倒れ込む。舟は、赤く腫れ上がった彼女の頬を見た瞬間――目つきが一気に冷え切った。南枝を睨み据え、今にも人を殺しかねない声で言い放った。「黒沢南枝、正気か?」南枝はまだ完全に落ち着けず、手が震えている。それでも、嘲るように笑ってみせた。「さっき、あの人たちが蛍の映像を流したとき、あなたは何してたわけ?目が見えなかったの?この女が叩かれた途端に、急に目が見えるようになったのね。雨宮、忘れないで。私たちの約束を」これほど激しく感情をあらわにした南枝を見るのは、彼にとっても初めてだったのだろう。舟は、目の冷たさをほんの少しだけ和らげ、上から見下ろすように口を開く。「今日ここにいる連中の口は、俺が封じる。約束も有効だ。だが、もしお前が約束を破るなら――次に流れるのは、お前の母親の映像だと思え」南枝は口のなかに広がる血の味を、何度も何度も飲み込み、必死にこらえた。それでも、涙は止められない。やがて、抵抗するのをやめ、淡々とした声で言った。「雨宮舟……今日のこと、一生忘れない」決別を告げるような、その背中を見て――舟の胸に、ほんのわずかな違和感が走る。けど、腕のなかで糸緒が息も絶え絶えに泣く声を聞いた瞬間、その最後の迷いも、きれいに消え去った。宴会場を出た直後――南枝は突然、頭から袋を被せられ、そのまま近くの路地へと引きずり込まれた。「やめて……これは犯罪!私は弁護士よ……!」何度訴えても、相手は一切、手を止めない。彼らは手際よく南枝を押さえ込み、スマホを構えて撮影の準備を始めた。やがて、一人が前に出て、容赦なく頬を打つ。南枝の頭は大きく揺れ、耳鳴りが響く。けど、間を置かずに、さらに何発も平手が飛んできた。どれだけ続いたのか
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第9話
南枝は、この女は正気なのかと疑った。しかしその直後、蛍を辱めた剛が、ずかずかと中へ入ってくる。南枝は一瞬で理性を失い、飛びかかろうとした。「出て行け!よくもぬけぬけと……消えろ!」でも、剛はまったく動じない。それどころか、得意げに笑ってさえいる。「なんで来ちゃいけねえんだ?これからお前は、俺の嫁になるんだぜ。ここはもう、俺の家だ。お前の妹は、俺と寝たんだ。で、今はどっかへ逃げちまった。だから、誰かが責任を取らなきゃならねえだろ。三輪先生も雨宮社長も言ってたぜ。妹を出せねえなら、お前が責任を取るってな」その言葉を聞いた瞬間――南枝の心は、底の底まで冷え切った。ちょうどそのとき、舟が糸緒を連れて中へ入ってくる。糸緒は、相変わらずの高慢な態度を崩さない。「黒沢先生、理解してください。もうすぐ開廷なのよ。でも、妹さんとは連絡が取れない。この方法を取らなきゃ、私の依頼人はどうすればいいの?妹さんを引き渡すか、それともあなたが彼と行くか――」剛のいやらしい視線を肌で感じながら、南枝は声の震えを抑えきれなかった。「……蛍は死んだのよ。もう現れない。これで満足?」糸緒は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに嘲笑を浮かべた。「まさか……今度は妹さんの命まで使って嘘をつくつもり?負けず嫌いのは分かってる。でも、そこまでする必要あるの?」そう言ってから、彼女は柔らかく視線を上げて、舟を見た。「舟、どうすればいいの?」舟は少しだけ考え――やがて歩み寄ると、南枝の手首を強く掴んだ。「言ったはずだ。この裁判は、糸緒にとって重要なんだ。まだわがままを言うつもりか?」南枝は目を真っ赤にして、一語一語、叩きつけるように言った。「私も言った。妹は死んだの。どうしろって言うの?遺体を法廷に持って行けって言うの!?」その言葉に、舟の黒い瞳には失望の色が浮かんだ。彼は南枝を、無造作に剛のほうへと突き飛ばす。「連れて行け」剛はすぐに、軽薄な口笛を吹いた。静美が涙を流しながら駆け寄ろうとするけど、すぐに押さえ込まれる。南枝は静美に、ほんの一瞬だけ目配せをした――逃げて。そして南枝は、うつむき、もう抵抗する気力もないふりをした。ただ――剛に連れられて外へ出るとき、舟とすれ違いざま、南枝は低く言った。「雨宮舟……あな
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第10話
南枝が連れ去られたあとも、舟はすぐにその場を離れなかった。彼は部屋に取り残された、持ち出されていない荷物を見つめる。胸の奥で、言いようのない不安が急速に膨らんでいく。「……なぜ荷物がある?あいつ、どこへ行くつもりだ?」糸緒が近づき、それをちらりと見やって、目の奥で何かが揺れた。けど、すぐに軽く笑って言う。「たぶん、あなたに見せるためのお芝居だよ。舟、心配しなくていいわ。あなたの力なら、黒沢さんがどこへ逃げたってすぐに見つけられるでしょ?」さらに、彼女は舟の腕にぴたりと寄り添った。「それに、黒沢さんがあなたっていう金づるを、自分から手放すわけないじゃないわ」その最後の一言で、舟の眉間の皺がようやくほんの少しだけ緩んだ。――そうだ。南枝は俺を、俺の金と地位を愛している。「行こう」数歩歩きかけて、舟は振り返り、秘書に指示した。「さっきの親子には、あまり手荒な真似はさせるな。南枝は何と言っても、俺の女だ」秘書はうなずいた。その横で糸緒の目に、一瞬暗い光が走る。舟は会社の用事があったため、糸緒を自宅まで送り届けると、そのまま立ち去った。彼の姿が見えなくなった瞬間、糸緒の笑顔はすぐに消えた。彼女は急いでスマホを取り出し、ある番号に電話をかける。通話がつながるなり、声が一気に鋭くなる。「だから言ったでしょ、気軽に連絡してこないでって。さっきまで舟がそばにいたのよ。もしバレたら、あんたも私も終わりなんだから」電話の向こうから、怯えきった剛の声が返ってくる。「三輪先生……本当にどうしようもなくて……黒沢南枝は……隙を見て、車から飛び降りて逃げちまいまして……」その言葉に、糸緒の瞳が揺れた。怒りで何かを叩きつけたくなるけど、屋敷には使用人もいる。必死にそれを飲み込んだ。「役立たずめ。女ひとりも抑えられないの?」剛は、今にも泣き出しそうな声で言う。「さっき、雨宮社長の側の人間からも連絡があって……半月もかからず、あの女は必ず連れ戻されるって……もし、引き渡せなかったら、俺、どうすればいいんですか……三輪先生、これ、全部あんたの計画ですよね。あんたが俺と母さんを焚きつけて、あの女を嫁にできるって言ったんじゃないですか。なのに今は雨宮社長も手を出すなって言うし、人も逃げちまうし
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