Se connecter碧山村へと続く道のりは、記憶の中のそれよりもずっと走りやすくなっていた。新しく舗装されたアスファルトの道が、かつてのひどく揺れる泥濘んだ砂利道に取って代わり、山々の奥深くへと平坦に伸びている。隼人は車の窓ガラスに顔を押し付けるようにして、見覚えのある景色を指差し、興奮を抑えきれない声を上げた。「お母さん、見て!ゾウさんの形をした岩、まだあったよ!陸斗さん、あっち見て!前に健太たちと木苺を摘んだの、あの坂のところだよ!」陸斗はハンドルを握りながら、笑って相槌を打った。「よく覚えてるな。じゃあ後でテストだ。和代おばあちゃん家にはどうやって行く?」「もちろん覚えてるよ!」隼人は得意げに胸を張った。「新しい橋を渡って左に曲がって、三軒目の、家の前に大きなクルミの木があるところ!」助手席に座る雪乃は、はしゃぐ隼人の横顔を見つめながら、無意識のうちに唇をほころばせた。あれから二年。村を離れた時はまだ春の冷え込みが身に沁みる頃だったが、再び戻ってきた今は、暦が巡ってまた深い秋を迎えていた。車はその新しい橋を渡り始めた。鉄筋コンクリート造りの頑丈で幅の広い橋で、欄干には地元の山並みをイメージしたモダンな装飾が施されている。橋のたもとには小さな石碑が建てられ、竣工時期と寄付を行った企業名が刻まれていた。車は村役場前の小さな広場に停まった。降りるやいなや、隣の小学校からひときわ賑やかなざわめきが聞こえてきた。今日は週末だというのに、学校はいつも以上に活気づいているようだ。真新しい三階建ての校舎の前には、【碧山村手芸協同組合初出荷記念式典】と書かれた横断幕が掲げられていた。広場にはすでに多くの村人たちが集まっており、雪乃たち一行の姿を認めるなり一瞬静まり返り、次の瞬間には割れんばかりの歓声が上がった。「雪乃さんが帰ってきたぞ!」「雪乃さんと隼人だ!」「陸斗さんも一緒だ!」人々がわっと押し寄せてくる。見慣れた顔が次々と視界に飛び込んできた。和代が孫に支えられながら先頭を歩いており、村長は満面の笑みを浮かべている。村の子供たちは誰よりも早く駆け寄り、あっという間に隼人を囲み込んだ。「隼人!本当に帰ってきたんだな!」「都会のパズル持ってきてくれるって言ってたけど、持ってきた?」遊び仲間たちにもみくち
「白石雪乃さんでいらっしゃいますか?黒川蒼真さんをご存じでしょうか。今、私どもの店にいらっしゃるのですが、どうも様子がおかしくて、ずっと白石様のお名前をうわ言のように呼んでおられまして……」雪乃が川沿いにあるバーに駆けつけた頃には、雨足はさらに強まっていた。蒼真は一番奥のボックス席に一人で座っていた。目の前のテーブルには、空になった酒瓶が何本も転がっている。うつむいた彼の前髪は雨で濡れて額に張り付き、仕立ての良いスーツのジャケットは傍らに無造作に放り出されていた。全身から、彼には似つかわしくないほどのひどい憔悴が漂っている。案内してくれたウェイターが、声を潜めて言った。「蒼真さんはずいぶん前からいらして、ずっとお一人で飲まれていたんです。その後、どうも具合が悪そうになられたので、どなたかご連絡先をと伺ったところ、雪乃さんのお名前とかつての勤め先だけを口にされました。私どもでテレビ局に問い合わせ、ようやく今の連絡先を伺った次第です」雪乃は歩み寄り、彼の向かい側のソファに腰を下ろした。人の気配に気づいたのか、蒼真がゆっくりと顔を上げる。「雪乃」その声はひどく掠れていた。恐る恐る探るような響きが混じっている。「飲みすぎよ。タクシーを呼ぶわ。それとも、あなたの運転手に連絡する?」雪乃はバッグからスマートフォンを取り出した。「やめてくれ……」蒼真は無意識に彼女の手を止めようと腕を伸ばしたが、指先が触れる直前でふっと硬直させ、力なく引っ込めた。充血した赤い目で、ただ雪乃をすがるように見つめる。「行かないでくれ……ほんの少しでいい。頼む」その瞳に、かつてのような冷ややかな嘲笑や、人を見下すような傲慢さは微塵もなかった。あるのは濃密な苦痛と迷い、そして哀れなほどの懇願の色だけだった。そんな蒼真の姿はひどく見知らぬ他人のようで、雪乃は思わず言葉を失った。雪乃はスマートフォンをしまい、黙ってそれに応じた。「海市大学に行ったんだ……何度も」蒼真が唐突に口を開いた。彼の視線は雪乃ではなく、テーブルの上で揺れるキャンドルの炎に注がれていた。「桜並木、図書館裏の石段、昔よく一緒に行ったあの湖畔……必死に思い出そうとした。少しずつ記憶の映像は鮮明になっていくのに、お前の顔だけが、はっきりと見える時もあれば、霧がかかったように霞ん
授賞式を終えた海市は、深秋の気配に包まれていた。だからといって、一つのトロフィーが雪乃の生活を劇的に一変させるようなことはなかった。彼女は舞い込む商業的な依頼やインタビューの大半を辞退し、テレビ局のドキュメンタリーチームからの依頼のみを受け入れ、「特別企画兼コンテンツ顧問」に就任した。新しいオフィスは、テレビ局のビルでも比較的閑静な別館に用意された。窓の外にそびえるプラタナスの古木は、今まさにその葉を幾重にも黄金色に染め上げているところだった。再び仕事へと向かう彼女の心境は、三年前とはまるで違っていた。どこから飛んでくるか分からない監視の目や悪意に神経をすり減らす必要はない。言葉尻を捕らえられまいかと、一つの表現に何度も頭を悩ませる必要もなかった。彼女はただひたすらに企画書に目を通し、映像素材をチェックし、チームと撮影の切り口について議論を交わし、明晰で鋭いアドバイスを出すことだけに集中できた。「雪乃さん。この都市部の介護問題に関する企画なんですが、少し切り口が重すぎるんじゃないかと……」若いディレクターがおずおずと企画書を差し出した。雪乃はじっくりと目を通した後、あるページの端を指先で軽く叩いた。「テーマが重いこと自体は問題じゃないわ。重さだけを見せてしまうことが問題なのよ。介護の苦境は現実だけど、その困難の中にある人間の逞しさ、助け合い、あるいは苦しさの中に光る温かい瞬間にこそ、テーマの壁を越えて視聴者と繋がる鍵がある。ここをもう少し深掘りしてみて」口調はどこまでも穏やかだが、彼女は常に的確に本質を突いた。チームの若手たちは、当初こそ彼女の過去の「悪名」からどこか距離を置いていたが、あっという間に彼女の圧倒的なプロ意識と集中力に心服していった。仕事の合間を縫って、彼女は新たに手にした影響力と発言権を意識的に使い、碧山村、ひいてはさらに広域にわたる貧しい地域のために橋渡しを行い始めた。本気で実務に取り組む財団の責任者に連絡を取り、信頼できる企業のCSRプロジェクトを吟味し、村が切実に求めている道路の補修、校舎の修繕、医療設備の更新などのために各所を奔走した。もちろん、すべてが順風満帆というわけではない。プロジェクトそのものではなく彼女の「話題性」に目をつけ、支援を別の形の「売名行為」にすり替えよう
海市大劇場は、まばゆいばかりの光に包まれていた。メディア界の頂点を決める年間アワードの授賞式が、今まさに執り行われている。「年間最優秀ドキュメンタリー賞」の発表が迫ったとき、会場にほんの一瞬、微妙な静寂が落ちた。少なからぬ人々の視線が、後方の席に座る雪乃へと向けられていた。彼女はシンプルなパールホワイトのサテンドレスに身を包み、長い髪を無造作に束ねている。周囲の煌びやかな装いとはどこか不釣り合いだったが、彼女の佇まいには、それ自体が揺るぎない静謐な力強さを放っていた。「本年度、最優秀ドキュメンタリー賞に輝いたのは――」プレゼンターが意図的に言葉を長引かせる中、巨大なスクリーンにはノミネート作品のハイライトが次々と映し出された。「群山の木霊」の映像――和代が震える手でランドセルを縫い繕う特写、古い槐の木の下で地面に字を書いて笑う子供たち、そして深夜の山村にぽつりと灯る、微弱だが温かい明かり。それらが連続してスクリーンにフラッシュすると、客席からは早くも、自発的でまばらな拍手が沸き起こり始めた。「――『群山の木霊』、白石雪乃チームです!」拍手は突如として潮騒のようにうねりを上げ、熱狂的に、そして長く会場に響き渡った。カメラが雪乃を捉える。彼女は一瞬だけ虚を突かれたように瞬きをした後、唇の端に極めて薄い弧を描き、その瞳の奥で微かな光を揺らした。彼女が立ち上がると、隣にいた剛志と蓮也が感極まった様子で泣き笑いの表情を浮かべ、彼女を抱きしめた。スポットライトが彼女を追う。壇上へと続くその長い花道は、泥にまみれた山道からこの煌びやかな舞台へと至る、彼女の道のりそのものを凝縮したかのようだった。拍手は鳴り止まない。そこにはもう、かつてのような悪意は微塵も混ざっていなかった。あるのは純粋な称賛と敬意だけだった。プレゼンターからずっしりと重いトロフィーを受け取った時、その冷たいクリスタルの感触は、かえって彼女に確かな温もりを感じさせた。雪乃がマイクの前に立つと、会場は次第に静けさを取り戻していった。「ありがとうございます」スピーカーを通した彼女の声が響く。「この賞は、『群山の木霊』のレンズの向こう側にいる、すべての人々のものです。和代おばあちゃん、あぜ道で遠くを見つめていたすべての子供たち、その肩で橋
その夜、雪乃は珍しく寝付けなかった。彼女は外へ出て、息を呑むほど広がる星空を見上げていた。やがて背後から足音が近づいてきた。陸斗だった。「どうかしたか?」彼はそう言って、温かいお茶の入ったコップを差し出した。「なんでもないわ」雪乃はそれを受け取った。「ただ……どれだけ遠くへ離れても、どうしても逃避できないものがあるんだなって、そう思っただけよ」「なら、逃げるなよ」陸斗は星空を見つめたまま、不意に口を開いた。「この作品が完成したら、海市に戻れ。そして、お前自身のやり方で、言うべきことを全部はっきりさせてこい」雪乃はわずかに目を見開き、彼の横顔を見つめた。陸斗はどこか照れくさそうに鼻を掻いた。「俺が言いたいのは……ありのままのお前も、お前が記録してきたこの映像も、世間に知ってもらう価値があるってことだ」雪乃は何も答えず、ただ静かに温かい茶をすすった。……もしかすると、彼の言う通りなのかもしれない。三年という月日は、本当にあっという間だった。最後の映像素材をアーカイブし、最後のナレーション録音を終える。粗編集が終わった映像のラストに「全編終」のテロップを入れた時、窓の外はすでに白々と夜が明け始めていた。彼女はマウスを握りしめたまま机に突っ伏し、泥のように眠りに落ちた。隼人がそっと部屋に入ってきて彼女の肩に上着を掛け、そのまま傍らにちょこんと座り、眠る母親を静かに見守っていた。作品は「群山の木霊」と名付けられ、テレビ局の審査へと回された。結果を待つ間、雪乃は隼人を連れて、この三年の間に足を運んだすべての集落をもう一度巡り歩いた。それは、彼女なりの真摯な別れの儀式のようだった。村人たちは大事に取っておいた卵や、もぎたての果物を二人の腕にいっぱいに押し付けてきた。子供たちは隼人を囲み、ボロボロと大粒の涙をこぼした。和代は雪乃の手を両手でぎゅっと握りしめ、「絶対に戻ってきてね。また隼人くんを連れて、顔を見せにくるんだよ」と、何度も何度も繰り返した。村を去る日、役場前の小さな広場は、見送りに駆けつけた村人たちで埋め尽くされていた。多くを語ることはなかった。ただ、荒れた分厚い手で力強く握手を交わし、不器用ながらも温かい抱擁を交わすだけだった。車がエンジンをかけ、ゆっくりと動き出すと、多くの者が目頭を熱
二年半という歳月は、山奥での暮らしの中で、あっという間に過ぎ去っていた。雪乃のレンズからは、この地に撮影に訪れたばかりの頃の観察者のようなよそよそしさはとうに消え失せ、今では村の炊煙と土の匂いが深く染み込んでいた。それは黙々と記録し続けている。和代が、震える手で孫の通学カバンを繕う姿。村の入り口にある古い槐の木の下で、子供たちが小石を使って歪な「大学」の二文字を地面に描く様子。そして、豪雨で丸木橋が流された時、村中の老若男女が総出で木材を担ぎ上げ、半日もかけずにより頑丈な橋を架け直したあの日の一幕……隼人はずいぶんと背が伸び、肌も健康的な小麦色に焼け、今では流暢な地元の方言を操り、すっかり村の子供たちの「ガキ大将」になっていた。薬草の見分け方を覚え、どこの沢の水が一番甘いか、どこの野いちごが一番赤く熟すかを知り尽くしている。かつて、父親が表彰式に来てくれなかったと落胆していたあの幼い少年は、今では屈託のない、晴れやかな笑顔を見せるようになっていた。彼の逞しい成長は、雪乃にとって、カメラに収められた映像以上に何よりもかけがえのない宝物だった。ある時、一行はさらに深い山奥でポツンと独り暮らしをしている老人を撮影しに行った。帰路で突然の濃霧に見舞われ、コンパスも狂い、危うく道を見失うところだった。その時、大人たちを正しい道へと導いたのは隼人だった。彼は老人が語っていた「根元がくっついた三本松」や「鷹の巣がある断崖」といった目印を記憶に刻んでおり、それを頼りに無事に元の道へと歩き通した。陸斗の変化は、さらに劇的だった。かつて白米と質素な味噌汁に絶望していたあの道楽息子は、今や顔色一つ変えずに焚き火で焼いた芋をかじり、村の男たちとあぜ道にしゃがみ込んでは、標準語混じりのなまりで談笑している。肌は黒く焼け、体つきも逞しくなった。あの高価なマウンテンパーカーはとうに袖口が擦り切れ、今では村人と同じような素朴な作業着を羽織っている。さらには、「お坊ちゃん」時代に培った機械いじりの道楽の知識を活かし、長年放置されていた村の小型水力発電機を修理してのけた。そのおかげで、十数軒の家々に、夜、初めて安定した電灯の明かりが灯ったのだ。明かりが灯った瞬間、子供たちは歓声を上げて飛び跳ね、老人たちは目を細めて笑った。陸斗は人だか