LOGIN私が神谷裕也(かみや ゆうや)に電話をかけたとき、電話の向こうから、かすかに女の声が聞こえた。 「結婚式の進行案、プランナーがあなたのメールに送ったって。まだ見てないの?」 返事はない。 「あなた……いま何しているの?」 そのとき、衣擦れの音がした。 続いて、裕也が押し殺すように息を漏らす。 電話の向こうで何が起きているのか、聞かなくても分かった。 「今、ちょっと手が離せない。結婚式のことは……また今度、話そう」 「そう」 電話を切ると、私はしばらくスマホを見つめていた。そして、1週間放置していたあのメールを開き、静かに返信した。 裕也は知らない。 もう「また今度」は来ない。 私の結婚式は、別の日に決まった。
View More夜は静まり返っていた。私の声は決して大きくはなかった。それでも、一言一言がはっきりと響いた。隣では、俊一が私の手を強く握っている。その手が小さく震えていた。感情を抑えきれないのだろう。「もうここまでよ。これ以上つきまとわないで」そう言って背を向けた瞬間、背後から女性の悲鳴のような叫び声が響いた。いつの間にか、夏帆がそこに立っていた。夜の店の派手な衣装を身にまとい、濃い化粧をした姿は、かつての清楚で控えめな面影をすっかり失っていた。彼女は私を指差し、取り乱したように叫ぶ。「高梨美緒、全部あんたのせいよ!あんたさえいなければ、裕也さんが私を捨てるはずなかったのに!」私は肩をすくめ、ただ呆れるばかりだった。「そう?私はてっきり、あなたは望んでいた幸せを手に入れたんだと思ってたわ」夏帆は声を張り上げ、裕也を指差した。「あんたがいなくなってから、この人はおかしくなったの!食事もろくに取らず、毎日、あんたが暮らしていた部屋に閉じこもってた。あんたとの思い出を何度も振り返って、ブライダルサロンの事故まで調べ始めた。そうよ。シャンデリアに細工したのは私!あんたを傷つけるつもりなんてなかった。ただ、この人がどっちを選ぶのか知りたかっただけ。でも、賭けに負けた。あんたが倒れたあと、この人は結局私を置いて病院へ行って、一晩中あんたに付き添った。あとになって分かったの。この人は私を当て馬にして、あんたが自分をまだどれくらい愛しているのか試していたのよ!」私は少し意外だった。夏帆が、ここまで裕也を愛していたとは思わなかった。目の前の彼女は、心の底から傷つき、絶望しているように見えた。「幸せですって?確かに、この人は私を大事にしてくれているように見えた。でも違った。この人の前で、あんたの悪口を言うことなんて絶対に許さなかった。それどころか、私をあんたそっくりに仕立てて……ベッドの中で呼ぶ名前まで、いつもあんただった!私はただの身代わりだったのよ!」そう言うと、夏帆は取り乱し、私の首を絞めようと飛びかかってきた。だが俊一が腕を払うと、彼女はあっさりとはじき返された。私は反射的に俊一の腕をつかんだ。ほっとした途端、全身から力が抜け、目の前が真っ暗になった。次に目を開けたとき、私は病院にいた。産婦
ここ数日、北の街の神谷家をめぐる噂が絶えなかった。会社の給湯室では、社員たちがその話で持ちきりだった。「ねえ、聞いた?」「神谷グループの社長、最近おかしくなったらしいよ。会社にもほとんど顔を出さないし、毎晩クラブやバーをふらついてるのに、酒も飲まず、ただぼんやり座ってるだけなんだって」「知らないの?婚約者に逃げられたからよ。自業自得じゃない」「あのかわいがってた子も大変みたいよ。会いたくても会えないのに文句も言えなくて、神谷家に居座って『絶対に結婚する』って騒いだらしいわ。でも結局、警備員にそのまま外へつまみ出されたんだって。笑っちゃうわよね」私はその話を耳にしても、ただ笑って聞き流した。そして、そのことはすぐに頭の片隅から消えていった。仕事を終えると、私は俊一が会食をしているホテルへ向かった。いつもは俊一が私を迎えに来てくれる。だから今日は、私が彼を迎えに行きたかった。ホテルに着き、ロビーへ足を踏み入れたところで、私は思わず足を止めた。少し先では、久しぶりに見る裕也が俊一の前に立ちはだかり、酒に酔った勢いで絡んでいた。どれほど挑発的な言葉を浴びせられても、俊一は微動だにしない。「俺の記憶が正しければ、あなたたちはもう別れたはずです。裕也さん。美緒は誰の所有物でもありません。あなたが好き勝手に呼びつけたり、追い払ったりできる存在でもありません」裕也は鼻で笑った。「男同士だろ。何をきれいごと言ってる。調べはついてるんだ。美緒がお前と慌てて結婚したのは、彼女のおばあちゃんを安心させるためだろ。俺があいつを傷つけなければ、お前に出番なんてなかった。そんな結婚に、本当に愛があるのか?契約結婚みたいなものだ。結婚式も形だけ。美緒が本当に愛してるのは、お前じゃない。俺だけだ」俊一は眉をわずかに上げると、落ち着いた口調で答えた。「張り合いたいなら、ご自由に。ですが、でも、今のあなたに美緒を幸せにできるものが、本当にありますか」俊一は裕也を静かに見据えた。「一つだけ、はっきりしていることがあります。俺と美緒は、もう夫婦です。今のあなたがしていることは、既婚女性につきまとっているのと変わりません。それが本当に、彼女のためになると思っているんですか?」俊一が言葉を重ねるたび、裕也の表情は険しくなっていく
すれ違いざま、裕也が私の服の裾をつかんだ。まるで壊れ物に触れるような、弱々しい手つきだった。けれど、その目に宿っているのは、狂おしいほどの執着だけだった。「それでも、俺はお前を愛してる!俺はどうすればいいんだ?俺たちの未来はどうなる?」その言葉を聞いても、私には滑稽にしか思えなかった。「裕也。私たちの間に、まだ愛が残っていると本気で思ってるの?覚えてる?私は前に言ったわよね。ほかの女に触れた男なんて、汚らわしいから無理だって。あなたが私への仕返しで、初めて浮気したときに決めたの。何があっても、あなたを一生許さないって」裕也の中で、最後の理性の糸がとうとう切れた。その目は真っ赤に血走り、もはや何も見えていなかった。「お前の口から言え!もう俺を愛していないと言えたら、二度とお前の前には現れない!美緒、言えないだろ!」私は足を止め、裕也をまっすぐ見つめた。そして、一言ずつはっきりと告げた。「裕也。私はもう、あなたを愛していない」そう言い残し、私は迷うことなくその場を去った。もう二度と、振り返らなかった。……邸宅の庭で、私はブランコに座り、ぼんやりしていた。大きく温かな手が、そっと私の頭に触れた。振り返ると、俊一が立っていた。会社から戻ったばかりらしく、まだスーツ姿のままだった。それでも、声は優しかった。「美緒、何を考えているの?」私は俊一の手を取り、自分の太ももの上に置いた。「あなたは、いったいいつから私を知っていたの?」俊一は少しだけ目を細めた。「おばあちゃんの水ようかん」私が首をかしげると、俊一は懐かしそうに笑った。「美緒、君は子どもの頃、大きくなったら俺のお嫁さんになるって言ってたよ。まさか、俺のことを忘れるとはね。覚えている?おばあちゃんが作ってくれた水ようかん。俺は何年も、あの味を忘れられなかった」その言葉をきっかけに、幼い頃の記憶が一気によみがえった。あの頃、私はまだ幼かった。近所には、両親にも大切にされず、厳しい家の中で、毎日のように家政婦からいじめられているかわいそうな御曹司がいると聞いた。子どもながらの正義感だったのだろう。怖いもの知らずだった私は、その家へずかずか入っていき、その少年の手を引いて自分の家へ連れて帰った。両親は仕事で
半年は、あっという間に過ぎた。結婚と新会社の設立を機に、私はそれまで暮らしていた北の街を離れ、俊一とともに南の街へ移り住んだ。南の街は気候が穏やかだった。私は若い秘書とともに新たな事業を始め、自分の会社を設立した。俊一は何をするにも私の意思を尊重し、私の望みなら、何でも聞いてくれた。そんな日々を過ごすうちに、北の街での出来事は少しずつ私の記憶の奥へ沈んでいった。裕也と再会したのは、ある商談を終えた日のことだった。どうやって知ったのか、彼はカフェの前で待ち構えていた。その姿は、まるで自分こそ裏切られた被害者だと言わんばかりだった。この半年、私に会えなかった彼は、祖母の療養先にまで何度も押しかけ、そのたびに追い返されていたという。それでも諦めず、ついにはこうして私の居場所を突き止めたのだ。そんな彼を目の前にしても、不思議と怒りは湧いてこなかった。今の私は、驚くほど冷静だった。「裕也、少し話しましょう」時間というのは、不思議なものだ。あれほど痛かった傷も、いつしか癒えていた。かつて味わった苦しみは、梅雨どきに疼く古傷のように、彼と再会すればまた痛み出すのだと思っていた。けれど、再び裕也を目の前にしても、私の心は少しも揺れなかった。「どうしてだ?なぜ、あいつと結婚した?」裕也は私の手首を強くつかんだ。思いのほか強い力で締めつけられ、腕を引いてもびくともしなかった。私はまっすぐ彼を見返した。「好きだから。それじゃ駄目?」裕也の顔色が変わる。彼は怒りを押し殺すような低い声で言った。「美緒、お前は恩知らずだ。神谷家に一生かけても返しきれない恩があるくせに、よくも他の男と結婚できたな」私は顎を上げ、負けじと睨み返した。「裕也。いつまでそんなふうに、自分が世界の中心だと思っているの?あなたがいなくても地球は回るし、私の世界だって、いつまでもあなたを中心に回っているわけじゃない。確かに、神谷家には恩がある。でも、この7年で返せるものは全部返したわ」裕也は唇を固く結び、私の手首を握る力をさらに強めた。その目には怒りが宿っていた。私は力いっぱい手を振りほどこうとしたが、やはりびくともしない。「信じるかどうかは、あなたの勝手よ。でも、あなたのお母さんが崖から落ちた件について、私は何一つ後ろめた