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あなたとの愛は、ひとときの夢だった

あなたとの愛は、ひとときの夢だった

By:  向井真Completed
Language: Japanese
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私が神谷裕也(かみや ゆうや)に電話をかけたとき、電話の向こうから、かすかに女の声が聞こえた。 「結婚式の進行案、プランナーがあなたのメールに送ったって。まだ見てないの?」 返事はない。 「あなた……いま何しているの?」 そのとき、衣擦れの音がした。 続いて、裕也が押し殺すように息を漏らす。 電話の向こうで何が起きているのか、聞かなくても分かった。 「今、ちょっと手が離せない。結婚式のことは……また今度、話そう」 「そう」 電話を切ると、私はしばらくスマホを見つめていた。そして、1週間放置していたあのメールを開き、静かに返信した。 裕也は知らない。 もう「また今度」は来ない。 私の結婚式は、別の日に決まった。

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Chapter 1

第1話

私が神谷裕也(かみや ゆうや)に電話をかけたとき、電話の向こうから、かすかに女の声が聞こえた。

「結婚式の進行案、プランナーがあなたのメールに送ったって。まだ見てないの?」

返事はない。

「あなた……いま何しているの?」

そのとき、衣擦れの音がした。

続いて、裕也が押し殺すように息を漏らす。

電話の向こうで何が起きているのか、聞かなくても分かった。

「今、ちょっと手が離せない。結婚式のことは……また今度、話そう」

「そう」

電話を切ると、私はしばらくスマホを見つめていた。そして、1週間放置していたあのメールを開き、静かに返信した。

裕也は知らない。

もう「また今度」は来ない。

私の結婚式は、別の日に決まった。

……

書類を握りしめて社長室のドアを開けると、情事の直後だと分かる空気が室内に漂っていた。

裕也は上半身裸だった。引き締まった胸には、赤い痕がいくつも残っていた。

私を見ると、裕也は満足げな笑みを浮かべ、からかうように言った。

「美緒、そんなに結婚を急いでるのか?結婚式の進行案なんて、今度見ればいいだろ。わざわざ俺の邪魔をしに来たのか?」

私は背を向け、かすれた声で答えた。

「急がないといけないの。おばあちゃんの体調を考えると、そんなに待っていられないから……」

裕也は一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。

「嫉妬じゃないなら、いいや。お前は物分かりがいいからな。夏帆もいつも言ってる。お前なら、俺と夏帆の関係も受け入れて、結婚してもうまくやっていけるだろうって」

私は黙ってうつむいた。胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。

この数年、裕也は私への当てつけのように、女遊びを繰り返してきた。

まるで服を着替えるように、次々と女を替えていた。

彼の腕の中にいたのは、まだ幼さの残る若い女性だった。

明るく華やかで、初々しい美しさをまとっていた。

その女、星野夏帆(ほしの かほ)は裕也の腕から身を起こすと、先ほどまでのか弱そうな表情を消し、挑むような笑みを私へ向けた。

「ねえ、裕也。私の誕生日プレゼント、まだ決めてないって言ってたよね?」

彼女の視線が私の首元で止まった。

「美緒さんが着けてるネックレス、すごく素敵。私、あれが欲しい」

裕也の表情がわずかに変わり、私の前へ一歩出た。

「バカ言うな。もっといいものを買ってやる。人が身につけてる物なんて、汚らわしい」

ーー汚らわしい。

私は首元のサファイアのネックレスにそっと触れる。

目の前の裕也が、あの日の少年と重なって見えた。

あの夏の日。

18歳の裕也は大勢の前で、神谷家に代々伝わるサファイアのネックレスを私の首にかけてくれた。

「今日から美緒は、神谷家の人間だ!美緒をいじめる奴は、覚悟しとけ!」

あの頃、私は両親を亡くし、世間から心ない言葉を浴びていた。彼は、そんな私を絶望の淵から救い出してくれた。

バサッーー

書類が床へ落ちる音で、私は現実へ引き戻された。

裕也は慣れた手つきで書類に署名を終えると、結婚式の進行案を私のほうへ放り投げた。

「何だ?まだ帰らないのか?もしかして、続きを見たいのか?」

その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

私は苦笑し、床の書類を拾い上げた。

私が間違っていた。あの頃の少年は、もうとっくにいなくなっていた。

裕也の母親が私を救おうとして、誘拐犯に崖から突き落とされたあの日を境に、私の知ってるあの裕也は、もうどこにもいない。

社長室を出ると、若い秘書が私のあとを追ってきた。

彼女は声を潜めて、そっと教えてくれた。

「美緒さんが出張している間、社長はあの女に夢中だったんです。社長室だけじゃなくて、給湯室や休憩室、それに……美緒さんのデスクまで使って」

言いにくそうにしながらも、秘書は悔しそうに続けた。

「もう何も言わずに耐える必要なんてないですよ。7年も一緒にいたんです。社長だって、本当は美緒さんのことを……」

泣いて、責めて、すがりついたことは、一度や二度じゃない。

けれど、そのたびに返ってきたのは、さらにひどい仕打ちだけだった。

私は静かに微笑みながら、首の後ろに手を回し、サファイアのネックレスを外した。

そして、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

「もういいの。このネックレス、夏帆に渡してくれる?欲しいならあげるって。それと……私がいない間、裕也の相手をしてくれたお礼だとも伝えて」

秘書は何か言いかけたが、私の表情を見ると黙ってネックレスを受け取った。

会社を出た私は、手にしていた書類を開いた。

裕也が結婚式の進行案だと思い込み、ろくに目も通さず署名した書類。

その表紙には、「婚約解消合意書」と記されていた。

女遊びくらい、好きにすればいい。

裕也はもう、私の婚約者ではない。

他人が誰と何をしようと、私には関係ない。

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第1話
私が神谷裕也(かみや ゆうや)に電話をかけたとき、電話の向こうから、かすかに女の声が聞こえた。「結婚式の進行案、プランナーがあなたのメールに送ったって。まだ見てないの?」返事はない。「あなた……いま何しているの?」そのとき、衣擦れの音がした。続いて、裕也が押し殺すように息を漏らす。電話の向こうで何が起きているのか、聞かなくても分かった。「今、ちょっと手が離せない。結婚式のことは……また今度、話そう」「そう」電話を切ると、私はしばらくスマホを見つめていた。そして、1週間放置していたあのメールを開き、静かに返信した。裕也は知らない。もう「また今度」は来ない。私の結婚式は、別の日に決まった。……書類を握りしめて社長室のドアを開けると、情事の直後だと分かる空気が室内に漂っていた。裕也は上半身裸だった。引き締まった胸には、赤い痕がいくつも残っていた。私を見ると、裕也は満足げな笑みを浮かべ、からかうように言った。「美緒、そんなに結婚を急いでるのか?結婚式の進行案なんて、今度見ればいいだろ。わざわざ俺の邪魔をしに来たのか?」私は背を向け、かすれた声で答えた。「急がないといけないの。おばあちゃんの体調を考えると、そんなに待っていられないから……」裕也は一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。「嫉妬じゃないなら、いいや。お前は物分かりがいいからな。夏帆もいつも言ってる。お前なら、俺と夏帆の関係も受け入れて、結婚してもうまくやっていけるだろうって」私は黙ってうつむいた。胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。この数年、裕也は私への当てつけのように、女遊びを繰り返してきた。まるで服を着替えるように、次々と女を替えていた。彼の腕の中にいたのは、まだ幼さの残る若い女性だった。明るく華やかで、初々しい美しさをまとっていた。その女、星野夏帆(ほしの かほ)は裕也の腕から身を起こすと、先ほどまでのか弱そうな表情を消し、挑むような笑みを私へ向けた。「ねえ、裕也。私の誕生日プレゼント、まだ決めてないって言ってたよね?」彼女の視線が私の首元で止まった。「美緒さんが着けてるネックレス、すごく素敵。私、あれが欲しい」裕也の表情がわずかに変わり、私の前へ一歩出た。「バカ言うな。もっとい
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第2話
夜、珍しく裕也が帰ってきた。カチャッーー私が渡したサファイアのネックレスが、無造作にテーブルの上へ放り出された。裕也は苛立っているらしく、その目は怒りに満ちていた。「美緒、誰が勝手にこのネックレスを人にやっていいと言った?これが何を意味するのか、分かってるだろ」裕也は、私がいつものように泣きわめき、あの女と別れてほしいと懇願するものと思っていただろう。けれど次の瞬間、私は立ち上がると、ためらうことなくネックレスをゴミ箱へ投げ捨てた。「ほかの人が触ったものなんて、汚らわしいわ」それがものであれ、人であれ。裕也は一瞬、呆気に取られたように固まった。だが意味を理解すると、その目にかすかな喜びが浮かぶ。彼は手を伸ばし、私の髪にそっと触れた。「怒ってるのか?夏帆のことなら、俺たちの邪魔はさせないって言っただろ。それに、お前が望んでいた結婚式だって、ちゃんと挙げてやる。結婚式の日は、昔からの知り合いもみんな招いている。お前のおばあちゃんだって、俺たちの結婚式を楽しみにしてるんだろ……」私の手は怒りで小刻みに震えていた。そう。彼はすべて分かっている。分かっていながら、気づかないふりをしている。私は冷ややかな笑みを浮かべ、裕也を見た。「私と結婚して、夏帆とはそのまま続けるつもり?家には妻、外には愛人。裕也は、本当に欲張りだね」裕也は、平然と私を見た。「美緒。お前が夏帆に意地悪さえしなければ、俺も約束どおり結婚式には出てやる。何しろ……おばあちゃんには、もうあまり時間が残されていないんだろ?」そのとおりだった。両親を亡くしてから、私には祖母しかいなかった。長年、病を患っている祖母の唯一の願いは、私が結婚し、幸せな家庭を築く姿をその目で見ることだった。裕也は、祖母のことを持ち出せば、私が必ず折れると思っている。けれど彼は知らない。私が結婚する相手は、彼でなくてもいいということを。そのとき、スマホにメッセージが届いた。送り主は、1週間も返事を待たせていた、海外にいるあの人だった。【明後日の未明に到着する。今さら後悔しても、もう遅いからな】画面を消し、私は自信満々の裕也を見た。そして何事もなかったように、笑ってうなずいた。結婚式はもちろん、予定どおり行う。ただし、新郎
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第3話
その瞬間、時間が止まったようだった。避ける暇もなかった。轟音とともにシャンデリアが落下し、鋭いクリスタルの破片が辺り一面に飛び散った。その一部が私を直撃し、私は衝撃で床に倒れ込んだ。額から温かい血が流れ落ちた。店内に悲鳴が響いた。裕也は青ざめ、とっさに腕の中の夏帆を突き放すと、私のもとへ駆け寄ってきた。そのときだけは、彼も動揺を隠せなかった。彼はその場で立ち尽くし、震える手を強く握り締める。そして私を抱き起こそうと腰をかがめた、そのときーー夏帆が悲鳴を上げた。「痛っ……!裕也……足が……!」裕也は迷うことなく身を翻し、夏帆のもとへ駆け戻った。そして何も言わず、彼女を抱き上げる。夏帆は彼の袖をつかみ、震える声で言った。「裕也、美緒さんが血を流してる!私は大丈夫だから、美緒さんを助けてあげて……」裕也の視線が、もう一度私へ向いた。彼は足を止め、私の表情を探るように見つめた。私が助けを求めるのを待っていたのだろう。けれど私は、最後まで歯を食いしばったまま、一言も声を上げなかった。裕也はすぐに視線をそらし、鼻で笑った。「演技だ。美緒みたいな計算高い女が、シャンデリアを避けられないはずがない。そんなに演技を続けたいなら、そのまま寝ていればいい」軽く言い放ったその一言が、胸を深くえぐった。胸の中が冷え切るのを感じながら、私は裕也が夏帆を壊れ物でも扱うように抱きかかえ、大股で店を出ていく姿を見つめていた。もう耐えきれなかった。私の意識は、そこで完全に途切れた。……病院で目を覚ますと、ベッド脇にいた裕也は、張り詰めていた表情をわずかに緩めた。彼は手を伸ばし、私の額へ触れようとした。私はそっと顔をそむけ、その手を避けた。「夏帆は足をくじいたんでしょう?私のところにいるより、あの子のそばにいてあげたら?」裕也はあっさりと手を引っ込め、鼻で笑った。「夏帆は気遣いのできる子だからな。俺がいなくても文句ひとつ言わない。それより、その芝居もいい加減にしろ。お前が運ばれたせいで、店は大騒ぎになったんだ。事情を知らない人間が見れば、夏帆が何かしたと思うだろ。あの子は気が弱いんだ。あんなふうに責められたら、耐えられるわけがない。お前は昔、崖から落ちたときでさえ、大した怪我はしな
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第4話
裕也が出ていくのを待って、私は点滴の針を抜き、パーティー会場へ向かった。神谷グループの祝賀会。その準備を取り仕切ったのは、ほかでもない私だった。それが今では、裕也が夏帆を恋人として公然とお披露目する場になっている。私の姿を見つけるなり、裕也は怒りをあらわにして歩み寄ってきた。張りつめた声で言う。「美緒、どういうつもりだ。声明を出せと言ったのに、勝手に結婚式を明日に変更したな。新郎の俺が最後に知るなんて、どういうことだ」脅すような口ぶりに、私は小さく笑った。「裕也。私を脅す暇があるなら、あなたの彼女を助けてあげたら?」少し離れた場所では、夏帆が酒を無理強いすることで有名な社長たちに囲まれ、逃げ場を失っていた。テーブルの上には酒がずらりと並んでいる。裕也は私の腕を骨がきしむほど強くつかみ、そのまま夏帆のもとへ引っ張っていった。夏帆はグラスを手にしたまま、助けを求めるような目で私を見つめた。そして、何気ない口調で言った。「美緒さん、ごめんなさい。このお酒……代わりに飲んでもらえませんか?裕也さんと妊活中で、お医者さんからお酒は控えるように言われているんです」妊活?私は口元をゆがめ、皮肉な笑みを浮かべた。私と裕也がまだ若く、お互いを激しく求め合っていた頃のことを思い出した。あれほど激しく求め合っていても、裕也は必ず避妊だけは欠かさなかった。私が不満を漏らしたこともある。そのたびに彼は、きっぱりと言った。「だめだ。俺は子どもなんて欲しくない。美緒、我慢してくれ。子どもができて、お前が子どもばかり見るようになったら、俺は嫌だから」違ったのだ。裕也は子どもが嫌いだったわけじゃない。私との子どもが欲しくなかっただけだ。私が黙っていると、夏帆は裕也の袖をつまみ、今にも泣きそうな顔をした。「美緒さんなら、お酒は平気ですよね?裕也、美緒さんに代わってもらっていい?」裕也は軽く笑った。「助けてやれ。お前なら酒くらい平気だろ。昔は取引先の社長たちの酒にも散々付き合ってきたじゃないか」そう。あの頃の私は、仕事を取るために何杯も酒を飲まされ、何度も頭を下げ、屈辱に耐えながら必死にやってきた。その苦しさも屈辱も、裕也はきれいさっぱり忘れてしまった。私は鼻で笑い、グラスを手に取った
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第5話
裕也は目を虚ろにしたまま、その場に抜け殻のよう立ち尽くした。電話の向こうから聞こえる友人の大声が、いつまでも耳の奥に響いている。「裕也、お前、美緒さんといったいどうなってるんだよ?美緒さんがほかの男と結婚するところを、この目で見るまで、俺だって信じられなかったぞ!しかも相手は、あの水谷家の御曹司だ。あれだけの立場にいる男なのに、美緒さんを見る目が本気でさ……俺まで緊張したくらいだ」裕也の隣にいた夏帆が、甘えるような声で口を挟んだ。「裕也、美緒さんって、本当に手の込んだことをするのね。あなたを焦らせるために、あんな大勢の人を巻き込んで芝居を打つなんて。わざと突き放して、あなたに追いかけさせるつもりなんだわ」電話の向こうが一瞬、静まり返った。次の瞬間、友人の怒鳴り声が飛んできた。「裕也、親友だから知らせてるんだぞ。こんなときまで、その女に流されてどうするんだ!美緒さんを失ってもいいなら、勝手にしろ。来るかどうかは、お前が決めろ。あとで後悔しても知らないからな!」友人がそのあと何を言ったのか、裕也の耳にはもう入っていなかった。周囲の景色は、厚いすりガラス越しに見ているようにぼやけていた。その瞬間、裕也の中で何かが音を立てて崩れた。彼は夏帆を押しのけ、車のキーをつかんで大股で外へ出た。ベンツは、雨の夜道を猛スピードで駆け抜けた。裕也は、無理やり気持ちを落ち着かせようとした。結婚式の段取りも、招待客の手配も、短期間でできるものではない。美緒は、ずっと前から別の男と結婚するつもりだったのか。その考えが浮かんだ瞬間、裕也は息ができないほど苦しくなった。美緒は、いつからこのことを計画していたのだろう。あの日、社長室で美緒が自分の手元へ差し出し、署名を求めた書類は、いったい何だったのか。そんなはずはない。あれほど自分だけを信じていた美緒が、自分を裏切るような真似ができるはずがない。どれほど無茶をしても、どれほど身勝手なことをしても、美緒はいつも最後には許してきた。美緒は神谷家に、命を救われた恩があるからだ。7年前、美緒と裕也の母親は、裕也を脅すための人質として連れ去られた。あのとき、慌てて駆けつけた裕也が目にしたのは、縄が外れ、断崖にかろうじてぶら下がっている美緒の姿だった。そして、裕
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第6話
会場を包んでいた祝福の声が、一瞬で静まり返った。大勢の視線が集まる中、私は静かに裕也へ目を向けた。彼は狼狽し、怒りに顔を歪めながら口を開いた。しかし、何ひとつ言葉が出てこない。いつもは冷静で感情を表に出さないその目も、今は戸惑いと焦り、そして信じられないという表情に変わっていた。私は隣に立つ水谷俊一(みずたに しゅんいち)の手をそっと握り、穏やかに微笑みながら言った。「お忙しい中、お越しいただきありがとうございます。神谷さんにも見届けていただけたのですから、私たち2人はきっと幸せになります」裕也はなお何か言おうとしたが、私はそれ以上相手にするつもりはなかった。そのまま背を向けて歩き出した。すると若い秘書が一歩前へ出て、裕也の行く手を遮った。「神谷社長。今日は美緒さんの晴れの日です。これ以上騒ぎを起こせば、美緒さんが恥をかくだけですよ」裕也は背筋をぴんと伸ばしたまま、苦しげな声を絞り出した。「美緒が恥をかく?俺の婚約者が、何も言わずに別の男と結婚したんだぞ。一番惨めなのは誰だ?」秘書は少しもひるまず言い返す。「そんなふうに自分だけを被害者みたいに言わないでください。浮気したのは社長でしょう?若い女性と会社で何度も関係を持ち、何回も結婚式を延期したのも、全部社長なんです。社長とあの愛人は、美緒さんをあれだけ傷つけておいて、それでもまだ足りないんですか?」裕也の指先が小刻みに震えた。秘書はそのまま、最前列に座る1人の女性へ視線を向ける。車椅子に座る白髪の祖母が、涙を浮かべながら、私を見つめていた。「今日という日は、美緒さんのおばあさまがずっと楽しみにしてきた日なんです。それでも壊すつもりですか?」そう言うと、秘書は思い出したように付け加えた。「あ、それから神谷社長。私も美緒さんについていくことにしました。美緒さんのような上司についていきたいんです。退職届は明日の朝、メールでお送りしますので、ご確認ください」裕也が何かを叫んでいた。けれど、もう私の耳には届かなかった。会場では、何事もなかったかのように披露宴が進んでいく。私は、祖母が一針一針縫ってくれたドレスへ静かに視線を落とした。俊一との結婚を決めたのは、勢いだったのかもしれない。それでも、激しい感情だけではないからこそ、長
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第7話
半年は、あっという間に過ぎた。結婚と新会社の設立を機に、私はそれまで暮らしていた北の街を離れ、俊一とともに南の街へ移り住んだ。南の街は気候が穏やかだった。私は若い秘書とともに新たな事業を始め、自分の会社を設立した。俊一は何をするにも私の意思を尊重し、私の望みなら、何でも聞いてくれた。そんな日々を過ごすうちに、北の街での出来事は少しずつ私の記憶の奥へ沈んでいった。裕也と再会したのは、ある商談を終えた日のことだった。どうやって知ったのか、彼はカフェの前で待ち構えていた。その姿は、まるで自分こそ裏切られた被害者だと言わんばかりだった。この半年、私に会えなかった彼は、祖母の療養先にまで何度も押しかけ、そのたびに追い返されていたという。それでも諦めず、ついにはこうして私の居場所を突き止めたのだ。そんな彼を目の前にしても、不思議と怒りは湧いてこなかった。今の私は、驚くほど冷静だった。「裕也、少し話しましょう」時間というのは、不思議なものだ。あれほど痛かった傷も、いつしか癒えていた。かつて味わった苦しみは、梅雨どきに疼く古傷のように、彼と再会すればまた痛み出すのだと思っていた。けれど、再び裕也を目の前にしても、私の心は少しも揺れなかった。「どうしてだ?なぜ、あいつと結婚した?」裕也は私の手首を強くつかんだ。思いのほか強い力で締めつけられ、腕を引いてもびくともしなかった。私はまっすぐ彼を見返した。「好きだから。それじゃ駄目?」裕也の顔色が変わる。彼は怒りを押し殺すような低い声で言った。「美緒、お前は恩知らずだ。神谷家に一生かけても返しきれない恩があるくせに、よくも他の男と結婚できたな」私は顎を上げ、負けじと睨み返した。「裕也。いつまでそんなふうに、自分が世界の中心だと思っているの?あなたがいなくても地球は回るし、私の世界だって、いつまでもあなたを中心に回っているわけじゃない。確かに、神谷家には恩がある。でも、この7年で返せるものは全部返したわ」裕也は唇を固く結び、私の手首を握る力をさらに強めた。その目には怒りが宿っていた。私は力いっぱい手を振りほどこうとしたが、やはりびくともしない。「信じるかどうかは、あなたの勝手よ。でも、あなたのお母さんが崖から落ちた件について、私は何一つ後ろめた
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第8話
すれ違いざま、裕也が私の服の裾をつかんだ。まるで壊れ物に触れるような、弱々しい手つきだった。けれど、その目に宿っているのは、狂おしいほどの執着だけだった。「それでも、俺はお前を愛してる!俺はどうすればいいんだ?俺たちの未来はどうなる?」その言葉を聞いても、私には滑稽にしか思えなかった。「裕也。私たちの間に、まだ愛が残っていると本気で思ってるの?覚えてる?私は前に言ったわよね。ほかの女に触れた男なんて、汚らわしいから無理だって。あなたが私への仕返しで、初めて浮気したときに決めたの。何があっても、あなたを一生許さないって」裕也の中で、最後の理性の糸がとうとう切れた。その目は真っ赤に血走り、もはや何も見えていなかった。「お前の口から言え!もう俺を愛していないと言えたら、二度とお前の前には現れない!美緒、言えないだろ!」私は足を止め、裕也をまっすぐ見つめた。そして、一言ずつはっきりと告げた。「裕也。私はもう、あなたを愛していない」そう言い残し、私は迷うことなくその場を去った。もう二度と、振り返らなかった。……邸宅の庭で、私はブランコに座り、ぼんやりしていた。大きく温かな手が、そっと私の頭に触れた。振り返ると、俊一が立っていた。会社から戻ったばかりらしく、まだスーツ姿のままだった。それでも、声は優しかった。「美緒、何を考えているの?」私は俊一の手を取り、自分の太ももの上に置いた。「あなたは、いったいいつから私を知っていたの?」俊一は少しだけ目を細めた。「おばあちゃんの水ようかん」私が首をかしげると、俊一は懐かしそうに笑った。「美緒、君は子どもの頃、大きくなったら俺のお嫁さんになるって言ってたよ。まさか、俺のことを忘れるとはね。覚えている?おばあちゃんが作ってくれた水ようかん。俺は何年も、あの味を忘れられなかった」その言葉をきっかけに、幼い頃の記憶が一気によみがえった。あの頃、私はまだ幼かった。近所には、両親にも大切にされず、厳しい家の中で、毎日のように家政婦からいじめられているかわいそうな御曹司がいると聞いた。子どもながらの正義感だったのだろう。怖いもの知らずだった私は、その家へずかずか入っていき、その少年の手を引いて自分の家へ連れて帰った。両親は仕事で
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第9話
ここ数日、北の街の神谷家をめぐる噂が絶えなかった。会社の給湯室では、社員たちがその話で持ちきりだった。「ねえ、聞いた?」「神谷グループの社長、最近おかしくなったらしいよ。会社にもほとんど顔を出さないし、毎晩クラブやバーをふらついてるのに、酒も飲まず、ただぼんやり座ってるだけなんだって」「知らないの?婚約者に逃げられたからよ。自業自得じゃない」「あのかわいがってた子も大変みたいよ。会いたくても会えないのに文句も言えなくて、神谷家に居座って『絶対に結婚する』って騒いだらしいわ。でも結局、警備員にそのまま外へつまみ出されたんだって。笑っちゃうわよね」私はその話を耳にしても、ただ笑って聞き流した。そして、そのことはすぐに頭の片隅から消えていった。仕事を終えると、私は俊一が会食をしているホテルへ向かった。いつもは俊一が私を迎えに来てくれる。だから今日は、私が彼を迎えに行きたかった。ホテルに着き、ロビーへ足を踏み入れたところで、私は思わず足を止めた。少し先では、久しぶりに見る裕也が俊一の前に立ちはだかり、酒に酔った勢いで絡んでいた。どれほど挑発的な言葉を浴びせられても、俊一は微動だにしない。「俺の記憶が正しければ、あなたたちはもう別れたはずです。裕也さん。美緒は誰の所有物でもありません。あなたが好き勝手に呼びつけたり、追い払ったりできる存在でもありません」裕也は鼻で笑った。「男同士だろ。何をきれいごと言ってる。調べはついてるんだ。美緒がお前と慌てて結婚したのは、彼女のおばあちゃんを安心させるためだろ。俺があいつを傷つけなければ、お前に出番なんてなかった。そんな結婚に、本当に愛があるのか?契約結婚みたいなものだ。結婚式も形だけ。美緒が本当に愛してるのは、お前じゃない。俺だけだ」俊一は眉をわずかに上げると、落ち着いた口調で答えた。「張り合いたいなら、ご自由に。ですが、でも、今のあなたに美緒を幸せにできるものが、本当にありますか」俊一は裕也を静かに見据えた。「一つだけ、はっきりしていることがあります。俺と美緒は、もう夫婦です。今のあなたがしていることは、既婚女性につきまとっているのと変わりません。それが本当に、彼女のためになると思っているんですか?」俊一が言葉を重ねるたび、裕也の表情は険しくなっていく
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第10話
夜は静まり返っていた。私の声は決して大きくはなかった。それでも、一言一言がはっきりと響いた。隣では、俊一が私の手を強く握っている。その手が小さく震えていた。感情を抑えきれないのだろう。「もうここまでよ。これ以上つきまとわないで」そう言って背を向けた瞬間、背後から女性の悲鳴のような叫び声が響いた。いつの間にか、夏帆がそこに立っていた。夜の店の派手な衣装を身にまとい、濃い化粧をした姿は、かつての清楚で控えめな面影をすっかり失っていた。彼女は私を指差し、取り乱したように叫ぶ。「高梨美緒、全部あんたのせいよ!あんたさえいなければ、裕也さんが私を捨てるはずなかったのに!」私は肩をすくめ、ただ呆れるばかりだった。「そう?私はてっきり、あなたは望んでいた幸せを手に入れたんだと思ってたわ」夏帆は声を張り上げ、裕也を指差した。「あんたがいなくなってから、この人はおかしくなったの!食事もろくに取らず、毎日、あんたが暮らしていた部屋に閉じこもってた。あんたとの思い出を何度も振り返って、ブライダルサロンの事故まで調べ始めた。そうよ。シャンデリアに細工したのは私!あんたを傷つけるつもりなんてなかった。ただ、この人がどっちを選ぶのか知りたかっただけ。でも、賭けに負けた。あんたが倒れたあと、この人は結局私を置いて病院へ行って、一晩中あんたに付き添った。あとになって分かったの。この人は私を当て馬にして、あんたが自分をまだどれくらい愛しているのか試していたのよ!」私は少し意外だった。夏帆が、ここまで裕也を愛していたとは思わなかった。目の前の彼女は、心の底から傷つき、絶望しているように見えた。「幸せですって?確かに、この人は私を大事にしてくれているように見えた。でも違った。この人の前で、あんたの悪口を言うことなんて絶対に許さなかった。それどころか、私をあんたそっくりに仕立てて……ベッドの中で呼ぶ名前まで、いつもあんただった!私はただの身代わりだったのよ!」そう言うと、夏帆は取り乱し、私の首を絞めようと飛びかかってきた。だが俊一が腕を払うと、彼女はあっさりとはじき返された。私は反射的に俊一の腕をつかんだ。ほっとした途端、全身から力が抜け、目の前が真っ暗になった。次に目を開けたとき、私は病院にいた。産婦
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