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袋を握ったまま、私は言った。「ありがとう」「あと……」理玖は少し言いよどんだ。「俺たちの写真、消してない」何も言わずに理玖を見る。「前は、周りに言わないほうが一花のためだと思ってた。変に噂されたりしないようにって」理玖は少し苦く笑った。「でも違ったんだよな。俺が勝手に、一花はずっとそばにいるって思い込んでただけだった。だから、関係をはっきりさせなくても、いちいち説明しなくても平気だって思ってた」声が低くなる。「でも、一花だって、ちゃんと言葉にしてほしかったし、大事にしてほしかったんだよな」少し間が空いた。「ずっと」私は理玖を見つめ、最後に一言だけ返した。「理玖。もう終わったことだよ」理玖はうなずいた。「分かってる」「理玖も、これからは自分のこと大事にして」「うん」もう一度、搭乗案内のアナウンスが流れた。私は振り返り、保安検査場へ向かった。ゲートを通る前に、1度だけ後ろを見る。理玖はまだそこにいた。追いかけてはこなかった。ただ、こちらに向かって小さく手を振っていた。……それからの1年、理玖から連絡が来ることはほとんどなくなった。たまに年末なんかに、『体に気をつけて』と短いメッセージが届く。私は、『ありがとう』とだけ返した。蒼士に告白されたのは、翌年の春だった。論文発表を終えた日。階段に腰を下ろし、資料を足元に置いていると、蒼士がペットボトルの水を差し出した。「常温だよ」受け取る。「ありがとう」蒼士も隣に座った。「一花、話したいことあるんだけど」「うん」「好きだよ」手の中で、ペットボトルが小さく音を立てた。蒼士は私ではなく、まっすぐ前を見ている。両手は膝の上に置いたままだった。「一花が誰かに世話してもらわなきゃいけないからじゃない。こっちで1人なのがかわいそうだからでもない」少し間を置く。「自分でちゃんと道を探そうとする一花が好き」私は黙って聞いていた。「一花が嫌じゃなければ、これからは隣で一緒に探したい」手元のキャップを見つめた。「蒼士」「うん」「私、すぐには付き合えないかもしれない」「いいよ」「まだ昔のこと、全部整理できたわけじゃない」「知ってる」「すご
理玖から、もう1件メッセージが届いた。『前に言ってたよな。初雪は一緒に見ようって』返事はしなかった。数分後、今度は音声メッセージが届く。『一花。今日、前によく行ってた鍋焼きうどんの店に行った』少し間があった。『店の人、まだ一花のこと覚えてたよ。「いつもの女の子は?」って聞かれた。一花が好きだった鍋焼きうどん、三つ葉抜きで頼んだ』そこで、理玖の声が一度途切れた。『半分くらい食べたところで、やっと思い出した。もう一花、ここにいないんだって』少しだけ息を吐く音がする。『俺、なんでずっと、一花はどこにも行かないって思ってたんだろうな』そこで再生を止めた。向かいにいた蒼士が聞く。「元カレ?」私は首を振った。「違う」「じゃあ、何?」少し考えた。「昔から、いるのが当たり前だった人」蒼士は軽くうなずいた。「当たり前って、変わるもんだよ」「うん」「俺も前は、変えられないと思ってたことがあったし」「どんな?」「夜更かしするとか、朝飯食べないとか」少し間を置いて、笑う。「1人のほうが楽だって思ってたのも、そうかな」「今は?」「ある人に会って変わった」私は本へ目を落とした。「その人、大変そう」「うん。かなり」蒼士も笑った。「来たばっかりで道に迷うし、放っておくとパンばっか食べてるし」冬休みに入る前、1度国内へ帰った。空港には両親が迎えに来ていた。母は私を見るなり抱きしめ、背中を軽く叩いた。「痩せたんじゃない?」父がキャリーケースを受け取る。「向こう、飯ないのか?」「あるよ」「じゃあ、なんで痩せるんだ」「勉強が大変だから」すると父が、何気ない調子で言った。「そういや理玖、少し前まで毎日のように来てたぞ」母がすぐに父を睨んだ。父は口を閉じる。私はマフラーを巻き直しながら聞いた。「今も来るの?」「前ほどじゃないわ」父が鼻を鳴らした。「来たって入れないけどな」帰国した翌日。醤油を買いに家を出て、近所のコンビニまで行くと、店の前に理玖が立っていた。手には、焼き芋の入った紙袋を提げている。私を見ると、理玖はその場で固まった。「一花」軽くうなずく。「久しぶり」目元がみるみ
私は理玖を見た。「私が怖がりなのも、胃が弱いのも、夜道が苦手なのも覚えてるよね」理玖は黙っている。「でも、何か選ばなきゃいけないときは、いつも私に我慢させた」「一花なら分かってくれるって思って、説明もしなかった」「私が離れないって思ってたから、後回しにしても平気だと思ってた」理玖が唇をきつく結んだ。「違う」「違わないよ」自分でも驚くほど、声は静かだった。「理玖が私のことを好きなのは分かってる。でも、私がずっと同じ場所にいるって決めつけてた」理玖は何か言おうと口を開いたものの、言葉は出てこなかった。私はノートパソコンのバッグを持ち上げた。「もう帰って」「帰らない」「じゃあ、好きにして」翌日、SNSに写真を1枚投稿した。青い屋根のメイン棟を撮った写真だった。添えた言葉は短い。【新生活1週目】投稿して1分もしないうちに、理玖から「いいね」がついた。けれど、すぐに消えた。そのあと、DMが届く。『あの男に撮ってもらったの?』『通りすがりの人』そう返すと、すぐにまた通知が来た。『一花。俺、しんどい』前なら、理玖が具合悪いと言えばすぐに駆けつけていた。薬と白湯、それから理玖が好きなシュガーレスのミントタブレットを持って。今は一言だけ返した。『病院行って』返事はすぐに来た。『前はそんなこと言わなかっただろ』それ以上は返さなかった。夜になると、茉白からフォローリクエストが届いた。承認すると、長いメッセージが送られてきた。『一花ちゃん、ごめんね。私、本当に理玖を取ろうと思ってたわけじゃないの。ただ、理玖って優しいし、一緒にいると安心できて、それでだんだん何でも頼るようになっちゃった。一花ちゃんが嫌がってるのも途中から分かってた。でも、何も言わないから、勝手に大丈夫なんだって思ってた』数分後、またメッセージが届いた。『理玖が一花ちゃんを追いかけて行って、やっと分かった。理玖がずっと好きだったのは、一花ちゃんだったんだね』『知ってる』そう返した。画面には何度も「入力中」と表示されては消えた。しばらくして、ようやく届く。『それなら、理玖のこと許す?』私は画面を見つめた。そして返した。『許さない』……
理玖が蒼士を見た。「俺たちのことだから、他人は口出さなくていい」蒼士は理玖には目を向けず、私だけを見ていた。私は理玖の手を振りほどく。「大丈夫」理玖の手が力なく下がり、指先がきゅっと丸まった。蒼士にスープジャーを差し出す。「昨日、スープありがとう」蒼士はそれを受け取った。「午後のグループワーク、忘れないでね」「分かった」蒼士がその場を離れると、理玖が低い声で聞いた。「グループワークって、あいつと同じグループなの?」「そう」「一花、俺に当てつけてる?」「ここで授業受けてたら、グループ組むくらい普通でしょ」「でも、前のお前なら……」「前ならしなかったこと、今はいっぱいしてるよ」理玖は私を見たまま、しばらく何も言わなかった。やがて、小さく聞く。「……俺、どうしたらいい?」「帰って」「それ以外で」「ないよ」長い沈黙のあと、理玖は足元に保温バッグを置いた。「俺が来たのは無駄だったってことでいい。せめて焼き芋だけは持ってって。このまま持って帰りたくない」私は袋を見つめた。結局、かがんで持ち上げる。「みんなに分けるね」理玖の口元がわずかに歪んだ。「好きにすれば」午後のグループワークでは、焼き芋を食べやすい大きさに分けてテーブルに置いた。みんながそれぞれ手を伸ばしていく。蒼士も1切れ取ろうとして、私を見た。「糸賀さんは食べないの?」「甘すぎるから」蒼士は伸ばしかけた手を引っ込めた。「じゃあ、俺もいいや」……理玖は大学の近くにホテルを取り、それから毎日のようにメッセージを送ってきた。『朝はちゃんと温かいもの食べろよ』『今日は冷えるから、いつもより厚着して』『前に好きだって言ってたスープ買った。寮の受付に預けてある』どれにも返事はしなかった。しばらくして、寮の受付から連絡が入った。取りに行くと、預けられていたスープはまだ温かかった。受付の人が私を見て聞く。「これ、彼氏さんから?」私は首を振った。「違います」受付の人は少し意外そうな顔をした。「そうなの?じゃあ、次からは受け取らないほうがいい?」「すみません。次からは断ってもらえますか?」その夜、寮の前には理玖がいた。図書館か
母がスマホを取り返した。『ちゃんと夕飯食べた?』「パン買った」『またパン?』「明日は学食行くよ」『そう。今日は早く寝なさい』少し間が空いた。『あと、情に流されちゃだめよ』「うん」電話が切れても、私はしばらく寮の前に立ったままだった。すぐに理玖からメッセージが届く。『俺、そっちに行くから』パンの袋をきゅっと結んだ。ちょうどそこへ、蒼士が通りかかった。スープジャーを2つ持っている。私を見ると、足を止めた。「夕飯、まだ?」「これから」蒼士の目が、私の手元へ落ちる。「パン?」「うん」すると、スープジャーを1つ差し出してきた。「作りすぎたから、こっち食べる?」「いいよ」「ほんとに余ってるんだって」そう言って、スープジャーを1つ私の手に押しつける。「明日、容器だけ返して」容器越しに、じんわり熱が伝わってきた。その温かさに、思わず手元へ目を落とした。……理玖は、本当に来た。講義棟を出たところで姿を見つけたとき、私の手には蒼士へ返すスープジャーがあった。黒いジャケットを着た理玖は、長い移動のせいか、後ろの髪が少し跳ねていた。私を見るなり、ふっと笑う。けれど、その笑みはすぐに消えた。「一花」私は足を止めた。「なんでここが分かったの?」「彩葉もおばさんも教えてくれなかったけど、青凪大学の留学プログラムを片っ端から調べた。時期と期間で絞ったら、ここしかなかった」そこまで言ってから、少し声を落とす。「別に困らせたいわけじゃない。ただ心配だったんだよ」私はスープジャーを握り直した。「でも、こういうことされると困る」理玖の表情が止まった。「困るって……俺、10時間以上かけてここまで来たんだぞ」「来てって頼んでない」理玖は一度目を伏せた。もう一度顔を上げたとき、目元が赤くなっていた。バッグから小さな箱を取り出す。「胃薬、持ってきた。それと、一花が好きなはちみつ飴も」手は伸ばさなかった。「もう食べないよ」「じゃあ、焼き芋は?」理玖は保温バッグを開いた。「こっちで見つけた。冷めないようにしてたから、まだ温かい」袋を開くと、焼き芋の甘い匂いがふわりと漂った。冬になると、理玖はよく校
「俺の傘だから。今は貸すだけ」そう言って、男の子は傘を差し出した。「弓削蒼士(ゆげ そうし)。よろしく」「糸賀一花です」「いとか……?」どうやら、名字を聞き間違えたらしい。「いとが。最後、濁るの」私が言い直すと、蒼士もゆっくり繰り返した。「いとが……一花、ね」ふいに理玖のことを思い出した。理玖は、私の名前を聞き間違えたことなんて1度もない。でも今は、理玖が呼んでも、私はもうそこにはいない。……スーパーでパンを選んでいると、電話の向こうから理玖の声がした。『一花、切るなよ』画面に表示されていたのは母の番号だった。出てみれば、母が理玖にスマホを渡したらしい。「うちに何しに行ったの?」『おばさんが、今日一花から電話くるって言ってたから』「それで待ってたの?」『声、聞きたかっただけ』手にしていたパンをかごへ入れた。「もう聞いたでしょ」『今どこ?』「大学」『どこの大学?』「理玖」『どこって聞いてるんだよ』声が低くなる。「聞いても意味ないよ」『なんでだよ。場所が分かれば行けるだろ』「来なくていい」『1人で外国にいて、体調崩したらどうすんの?道に迷ったら?夜、寮まで1人で帰れるの?』ヨーグルトを手に取り、表示に目を落とした。「自分でなんとかする」『できないだろ』すぐに遮られた。『昔からそうじゃん。家の鍵だって3回なくしただろ。一花、無理すんなよ』ヨーグルトを棚へ戻した。「あれ、小学生のときでしょ」『でも俺の中じゃ、ずっとそうなんだよ』「だから離れたの」電話の向こうが静かになった。聞こえるのは、かすかな息遣いだけ。しばらくして、理玖がようやく口を開いた。『一花。俺が悪かった』私は何も言わなかった。『みんなの前で妹みたいなもんだって言ったのも、雨の中待たせたのも、ピーナッツアレルギー忘れてたのも。茉白のことばっか優先して、一花に我慢させてたのも』少し間が空く。『帰ってきて。今度はみんなの前で、ちゃんと話すから』「もういいよ」『何がいいんだよ』「もう欲しくないから」『一花。そんな簡単に、いらないって言うなよ』レジでパンのバーコードが読み取られた。スマホを肩と耳の間に挟み