LOGIN実家が破産し、その巻き添えで夫の神谷直人(かみや なおと)は借金取りに川へ沈められ、命を落とした。 借金を返すため、私・水野千紗(みずの ちさ)は闇カジノで殴られ役として働いた。 一発殴られるたびに、もらえるのは1000円。 そんなある日、VIPルームへ酒を運ぶよう命じられた。 わずかに開いたドアの向こうには、死んだはずの直人が上座に座り、高級ワインをゆっくりと傾けていた。 「千紗とはもう3年以上会ってないな。今頃、どうしてるんだろう」 破産したはずの母は、きらびやかな宝飾品を身につけたまま、ため息をつく。 「どうせどこかに身を隠して、何年か泣いて暮らしてるだけよ。そのうち立ち直って、別の人と再婚するでしょ。 とにかく、あなたが死んだとあの子が信じてさえいれば、結衣と安心して暮らせるんだから」 大野結衣(おおの ゆい)は、母と昔の恋人との間に生まれた娘だ。 部屋を見渡せば、そこにいるのは見覚えのある顔ばかりだった。 かつて親友だと思っていた人たち。 そして、直人を死に追いやったはずの「仇」まで、そこにいた。 何もかも、最初から仕組まれていたのだ。 芝居ではなかったのは、地獄のような私の3年間だけだった。 私は20本のビールを載せたトレーを手に、静かに笑い、首を振った。 あと1万円。 骨壺を買う金さえ貯まれば、もうみんな自由だ。
View More「千紗……お母さんよ。今、身体はどうなの?家も財産も全部手放したっていい。治療費はお母さんが何とかするから……帰ってきて。お願い」電話の向こうで、母が声を上げて泣いていた。こんなに取り乱す母を見たことはない。けれど今さら、遅すぎる心配などいらなかった。「私は元気です。お気遣いありがとうございます」他人行儀な言葉に、母は一瞬黙り込んだ。やがて、さらに声を詰まらせる。「千紗……お母さんにまで、そんな話し方をしなきゃいけないの?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、結衣が電話を奪った。「お姉ちゃん、お母さん、一晩で何歳も老けたみたいになってるんだよ。どれだけ怒ってても、自分のせいでお母さんがこんなに心配してるのに、何とも思わないの?」私は小さく笑った。この3年間。誰に何を言われようと、私は十分すぎるほど頑張ってきた。誰にも、後ろめたいことなんてない。電話の向こうで、結衣がすすり泣く。「直人だって、まだ目を覚ましてないんだよ。お姉ちゃんを捜しに行ったせいで事故に遭ったの。これ以上、私たちを苦しめてどうするの?」スマホを握る手に、少しだけ力が入った。「これからは、それぞれ自分の人生を生きよう。もう連絡してこないで」結衣が何か言い返す前に、通話を切った。そばに立っていた圭吾が、こちらを見て笑った。「本当に変わったな」そうかもしれない。一度、生死の境をさまよった人間が、何も変わらずにいられるはずがない。それからの日々は、少しずつ穏やかになっていった。身体も日に日に回復し、気力も戻ってきた。圭吾はよく、公園の散歩に付き合ってくれた。気分転換だと言って、遊園地のショーに連れ出してくれることもあった。圭吾の友人たちは、面白がってからかう。「千紗と一緒にいるようになってから、お前の周りにいた女、きれいに消えたよな」圭吾は何でもない顔をしていた。けれど、耳だけは真っ赤だった。以前どれだけ遊んでいた人なのか。今の私には、それほど重要ではない。大切なのは――私はこれからも、生きていきたいと思えるようになったことだった。退院の日。荷物をまとめていると、直人がふらつくような足取りで病室へ駆け込んできた。私を見た瞬間、その目から涙がこぼれ落ちた。「千
圭吾の部屋を訪ねたとき、私はもう最悪の覚悟を決めていた。身体と引き換えに金をもらう。せめて最期くらい、少しでもまともな形で人生を終えるために。そんなこと、初めてではなかった。いつものように上着を脱ぎ、シャツのボタンに手をかける。そのまま大きなベッドの端に腰を下ろした。圭吾は少し離れたところで腕を組み、そんな私を面白そうに眺めていた。「本当にいいんだな?」私は目を閉じ、黙って頷いた。次の瞬間。圭吾に手首をつかまれた。けれど、乱暴なことは何もされなかった。それどころか、外したボタンを一つずつ留め直していく。「いくら必要なんだ?必要なだけ言え。もう二度と、こんなことするな」一瞬、何を言われたのかわからなかった。気づけば、涙が頬を伝っていた。「……どうして、私なんかを助けるの?」圭吾は私の隣に腰を下ろし、けだるげに笑った。「水野さんは、ずいぶん記憶力が悪いんだな」私は目を瞬いた。そして、2年前のことを思い出した。行く当てもなくなった私は、一人で闇カジノを訪ねた。とにかく働いて、金を稼ぎたかった。あのときの圭吾は、何人もの女性に囲まれながら、私を見るなり笑って言った。「ここはあんたが来るような場所じゃない。帰れ」けれど私は聞かなかった。頭にあったのは、少しでも早く金を貯めて、家の借金を返すことだけだった。あれから2年。圭吾はまた、行き場を失った私に手を差し伸べてくれた。「ありがとう」と言いかけたところで、圭吾の指がそっと唇に触れた。「お前、意地張りすぎなんだよ。カジノの連中に金を出せって言われたからって、言われるまま払うな。少しは自分のことも大事にしろ」鏡に映る私は、見る影もなく痩せていた。笑う力すら、もうほとんど残っていない。「……知ってるんでしょ?私の病気のこと」圭吾は軽く指を振ると、名刺を一枚差し出した。「治療なら、俺が何とかする。この人のところへ行けばいい」名刺に書かれた名前を見た瞬間、ぼんやりしていた頭が一気に冴えた。「この先生……世界的に有名ながん治療の専門医じゃない。どうやって予約を取ったの?」圭吾は当然のように笑った。「友達なんだよ。予約なんていらない」そう言うと、圭吾は痩せきった私を軽々と抱き上げ、ベ
圭吾の姿を見た瞬間、直人はドアをつかむ手に力を込めた。額には青筋が浮かんでいる。「千紗はどこだ?」位置情報が示しているのは、間違いなくこの部屋だった。圭吾は入り口を塞いだまま、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべる。「千紗って、お前の奥さんだろ?それを俺の部屋に捜しに来るって、どういうことだよ。ベッドにいるのは最近売り出し中のモデルだ。お前も混ざるか?」直人は圭吾を睨みつけ、スマホの位置情報を突きつけた。「千紗はここにいるって出てる。今すぐ出せ。あいつに何かしてたら、ただじゃおかない」今にもつかみかかろうとした、そのとき。部屋の奥から、濡れた髪の女性が姿を現した。華やかな顔立ちの若いモデルだった。「あれ、神谷さん?珍しいですね。よかったら一緒にどうですか?」その姿を見た瞬間、直人の張りつめていた表情がわずかに緩んだ。千紗ではない。ほっとしたような、けれどどこか釈然としない顔のまま、直人は乱暴にドアを閉めてその場を離れた。自分が安心しているのか、苛立っているのか。本人にもわからなかった。その足で、直人は闇カジノへ向かった。経営者を呼び出し、単刀直入に尋ねた。「ここに水野千紗って女はいるか?」男はすぐさま腰を低くし、直人の煙草に火をつけた。「はい。確かにうちに水野千紗という女がいました」その言葉を聞いた瞬間、直人は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。「今どこにいる?」男は向かいに座り、気まずそうに口を開く。「それが……もう長くないらしいんですよ。病気がかなり進んでて、たぶん近いうちに死ぬんじゃないですかね」「……何?」直人の目が大きく見開かれた。経営者は病院の検査結果を差し出した。「金のためなら何でもやってたんで、身体を壊したんでしょう。まあ、ああいう金に困ってる女なら、ほかにもいくらでもいますけど。よければ別の――」直人は何も聞いていなかった。目を真っ赤にし、検査結果だけを凝視している。千紗が、あれほど痩せ細っていたことも。あれほど必死に金を求めていたことも。すべて――死が迫っていたからだった。「……そんなはずない。こんなの、あり得ない……」直人の異様な様子を見て、経営者は慌てて部下に事情を尋ねた。次の瞬間、顔から血の気が
【水野千紗って、本当に不倫してたんだ?かわいそうなふりがうますぎるでしょ。あれだけ心配した人たちの善意を踏みにじるなんて最低】【しかも結衣さんは、最後までかばってたんでしょ?よくそんなことできるよね】パソコンの画面には、千紗を罵る書き込みが延々と並んでいた。直人はもう見ていられなくなり、ノートパソコンを閉じると、眉間を押さえた。そばにいた千紗の母が、ため息をついた。「でも、変ね。あの子、昔はものすごく気が強かったでしょう?それなのに今回は、ずいぶん簡単に自分が悪かったって認めたのね。それに、たった600万円ちょっとのために……昔の千紗なら、そんなお金、気にも留めなかったはずなのに」直人も同じことを考えていた。だが、胸の奥に湧き上がるざわつきを振り払うように首を振った。「……お義母さん。たぶん、あいつも少しは変わったんだよ。俺と結衣のことを受け入れようとしてるんじゃないか」暖炉の炎をぼんやり見つめながら、3年前のことを思い出した。あの夜、直人は酒に酔い、結衣を千紗だと思い込んで関係を持ってしまった。その後、結衣は精神的に不安定になった。悩みに悩んだ末、直人は自分が死んだことにして、千紗に諦めてもらう道を選んだ。そして残りの人生を、結衣への償いに使うつもりだった。けれど、この3年間。千紗のいない毎日で、心安らかに眠れた夜など一度もなかった。ようやく再会できたというのに。どうして千紗は、まるで別人のようになってしまったのだろう。結衣がそばへ寄ってきて、気遣うように直人の肩を揉み始めた。「きっとお姉ちゃんは、まだ私たちがずっと騙してたことを怒ってるんだと思う。お金を渡さなかったのも、結果的にはよかったのかもしれないよ。困れば、そのうち家に戻ってくるかもしれないし」直人は黙って頷いた。千紗が配信で自分の非を認めた一件は瞬く間に拡散され、トレンドの上位にまで浮上した。すると今度は、千紗を知っているという者たちまで次々と書き込み始めた。【この女、闇カジノにいた子じゃない?かなり遊ばれてたよ】【めちゃくちゃ打たれ強かった。前に殴っても全然泣かなかったし、そのあと普通に酒の相手までしてた】【散々苦労したから、今度は金持ちの男を奪って楽したくなったってこと?】直人は画面を見つめた