Short
死んだはずの夫に、もう愛はなかった

死んだはずの夫に、もう愛はなかった

By:  マリモCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
8Chapters
36views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

実家が破産し、その巻き添えで夫の神谷直人(かみや なおと)は借金取りに川へ沈められ、命を落とした。 借金を返すため、私・水野千紗(みずの ちさ)は闇カジノで殴られ役として働いた。 一発殴られるたびに、もらえるのは1000円。 そんなある日、VIPルームへ酒を運ぶよう命じられた。 わずかに開いたドアの向こうには、死んだはずの直人が上座に座り、高級ワインをゆっくりと傾けていた。 「千紗とはもう3年以上会ってないな。今頃、どうしてるんだろう」 破産したはずの母は、きらびやかな宝飾品を身につけたまま、ため息をつく。 「どうせどこかに身を隠して、何年か泣いて暮らしてるだけよ。そのうち立ち直って、別の人と再婚するでしょ。 とにかく、あなたが死んだとあの子が信じてさえいれば、結衣と安心して暮らせるんだから」 大野結衣(おおの ゆい)は、母と昔の恋人との間に生まれた娘だ。 部屋を見渡せば、そこにいるのは見覚えのある顔ばかりだった。 かつて親友だと思っていた人たち。 そして、直人を死に追いやったはずの「仇」まで、そこにいた。 何もかも、最初から仕組まれていたのだ。 芝居ではなかったのは、地獄のような私の3年間だけだった。 私は20本のビールを載せたトレーを手に、静かに笑い、首を振った。 あと1万円。 骨壺を買う金さえ貯まれば、もうみんな自由だ。

View More

Chapter 1

第1話

いつものように帽子を目深にかぶり、ビールを1ダース、テーブルに置いた。

次の瞬間、冷たい手に手首をつかまれた。

「千紗?」

水を打ったように静まり返った個室で、全員の視線が私に集まった。

反射的にさらに顔を伏せた、そのとき。

帽子を乱暴に取り払われた。

隠していた顔が、あらわになった。

「本当に千紗なのか?なんでこんなところで働いてる?」

直人の視線が痛いほど突き刺さった。

直人の顔を最後に見たのは、3年前だった。

川の中でもがき、必死に水面へ顔を出そうとしていた直人の姿がよみがえる。

借金取りの手からようやく逃れ、私が川へ飛び込んだときには、直人はもう息をしていなかった。

死んだのだと思っていた。

だから毎月どうにか6000円を捻出しては、霊園へ墓参りに通っていた。

それなのに今、直人は何事もなかったかのように目の前にいる。

不思議なくらい、胸の内は静かだった。

私は黙ったままビールを注いだ。

すると母が、いきなり私の腕を引き寄せた。

「何年も家に帰ってこないと思ったら、こんなところで働いてたの?電話の一本くらいできなかったの?」

今でも覚えている。

床に押さえつけられ、殴られていたあの日。

真っ先に母へ電話をかけた。

けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、楽しげなバースデーソングだった。

「結衣、お誕生日おめでとう!」

あの日は、私の誕生日でもあった。

3年。

誰一人、私を捜そうとはしなかった。

私は何も答えず、丁寧に頭を下げてから手を差し出した。

「お客様、ビール代は600円です。お支払いはどうなさいますか?」

直人が固まった。

まるで見知らぬ人を見るような目で、私を見つめている。

無理もない。

3年前までの私は結衣と同じように、高価な服を着て、金の心配など一度もしたことがなかった。

直人が強く私の手首をつかんだ。

眉間に深いしわが刻まれた。

「千紗、この3年で何があった?なんでこんな生活してるんだよ」

何をもって「こんな生活」と言うのか、私にはわからなかった。

ただ、生きるには金が必要だった。

治療費を稼ぎ、いつか帰るための旅費も貯める。

それに毎月、直人の墓参りへ行く金も必要だった。

でも、もうその分はいらない。

これからは全部、自分の薬代に回せる。

少しでもいい薬が買える。

直人はしばらく私を見つめ、やがて手の力を緩めた。

「……お前、俺と結衣のこと、とっくに知ってたんだろ?隠してたのは、お前を傷つけたくなかったからだ。今年中には、ちゃんと話すつもりだった」

母も続けて口を開く。

「二人は本当に愛し合ってるの。仕方がなかったのよ。あなたは思い詰めると何をするかわからないから、取り返しのつかないことになったらって、みんな心配してたの」

直人は結衣の手をしっかり握っていた。

まるで長年寄り添ってきた恋人同士のように。

周りの人たちまで、厄介者を見るような目を私に向けている。

そのとき突然、鼻の奥が熱くなった。

次の瞬間、温かいものがつうっと流れ落ちる。

結衣が甲高い声を上げた。

「お姉ちゃん、鼻血!」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
8 Chapters
第1話
いつものように帽子を目深にかぶり、ビールを1ダース、テーブルに置いた。次の瞬間、冷たい手に手首をつかまれた。「千紗?」水を打ったように静まり返った個室で、全員の視線が私に集まった。反射的にさらに顔を伏せた、そのとき。帽子を乱暴に取り払われた。隠していた顔が、あらわになった。「本当に千紗なのか?なんでこんなところで働いてる?」直人の視線が痛いほど突き刺さった。直人の顔を最後に見たのは、3年前だった。川の中でもがき、必死に水面へ顔を出そうとしていた直人の姿がよみがえる。借金取りの手からようやく逃れ、私が川へ飛び込んだときには、直人はもう息をしていなかった。死んだのだと思っていた。だから毎月どうにか6000円を捻出しては、霊園へ墓参りに通っていた。それなのに今、直人は何事もなかったかのように目の前にいる。不思議なくらい、胸の内は静かだった。私は黙ったままビールを注いだ。すると母が、いきなり私の腕を引き寄せた。「何年も家に帰ってこないと思ったら、こんなところで働いてたの?電話の一本くらいできなかったの?」今でも覚えている。床に押さえつけられ、殴られていたあの日。真っ先に母へ電話をかけた。けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、楽しげなバースデーソングだった。「結衣、お誕生日おめでとう!」あの日は、私の誕生日でもあった。3年。誰一人、私を捜そうとはしなかった。私は何も答えず、丁寧に頭を下げてから手を差し出した。「お客様、ビール代は600円です。お支払いはどうなさいますか?」直人が固まった。まるで見知らぬ人を見るような目で、私を見つめている。無理もない。3年前までの私は結衣と同じように、高価な服を着て、金の心配など一度もしたことがなかった。直人が強く私の手首をつかんだ。眉間に深いしわが刻まれた。「千紗、この3年で何があった?なんでこんな生活してるんだよ」何をもって「こんな生活」と言うのか、私にはわからなかった。ただ、生きるには金が必要だった。治療費を稼ぎ、いつか帰るための旅費も貯める。それに毎月、直人の墓参りへ行く金も必要だった。でも、もうその分はいらない。これからは全部、自分の薬代に回せる。少しでもいい薬が買
Read more
第2話
私は何でもないように鼻の下を拭った。顔から血の気が引いているのが、自分でもわかった。それでも小さく笑い、首を振る。2年前。闇カジノで立て続けに殴られ、私はとうとう意識を失った。倒れていた私を蹴り起こしたオーナーは、こともなげに言った。「医者が言ってたぞ。お前、がんだってな。もう治らないらしい。死ぬ前にせいぜい客の相手でもして、少しは稼いでくれよ」その後、私はオーナーのベッドに送り込まれた。妊娠すれば、流産するまで殴られる。そうして稼いだ金で、痛み止めを買った。最後に残った金は、たぶん骨壺を買うために消える。鼻血を急いで拭い、汚れていないほうの手を差し出した。いつもの作り笑いを浮かべた。「600円です。お支払いはどうされますか?」直人は、ぼろぼろになった私をじっと見つめていた。握りしめた拳に、さらに力がこもる。「お前、いったい……」「まだ私たちのこと、怒ってるんだと思う」結衣が申し訳なさそうに口を挟んだ。そして600円を支払うと、私の手を取った。「お姉ちゃん、もう家に帰ろうよ。お金なら家にいくらでもあるんだから」口元には愛らしい笑みを浮かべながら、指先で私の手を強くつねった。思わず、その手を振り払った。すると直人が、すかさず結衣の前に立った。「何かあるなら俺に言え。結衣には手を出すな」母も、かつて友人だった人たちも、警戒するような目で私を見ている。まるで、私だけが何をするかわからない危険人物みたいだった。一瞬だけ呆然としたあと、私はそのまま個室を出た。背後から、直人の怒鳴り声が飛んでくる。「本当に帰らないつもりか?だったらもう二度と帰ってくるな!」振り返らなかった。医師から告げられた余命は、あと1週間。どこにいようと、同じことだ。翌日も、いつもどおり店へ向かった。だが入り口で、支配人に呼び止められた。「明日から来なくていい。神谷さんが違約金を払った。お前を雇うなってさ」支配人は煙草の煙を吐き出しながら、面倒そうに私を見た。「何やったんだよ。神谷さん、お前のこと相当嫌ってるみたいだぞ。もう適当にどっかで死ぬ場所でも探したら?」私は必死に支配人の服をつかんだ。必死のあまり、声が裏返った。「クビにしないでください。ま
Read more
第3話
「俺が何をしたっていうんだ。どうしてここまで俺を苦しめる?結衣が元に戻るまで、お前には一円も稼がせないからな!」結衣を陥れたつもりなんてない。そう説明しようとした、そのときだった。目の前に黒いワゴン車が横づけされた。闇カジノの男たちが、金属バットを手にこちらへ迫ってくる。「稼げねえくせに、余計な面倒ばっか起こしやがって」「酒運ぶだけの仕事すらクビになるなんて、お前また殴られて客の相手する仕事に戻りたいのか?カジノとの契約違反で600万円だ。さっさと用意しろ」血の気が引いた。「本当に……お金なんてありません……」返ってきたのは、容赦のない暴力だった。拳やバットが身体に叩き込まれる痛みには、もう慣れている。それなのに。どうして今日は、こんなにも痛いのだろう。次に目を開けたとき、私はずっと帰りたいと願っていた家にいた。豪華でありながら、どこか懐かしい室内だった。視界に、母の優しげな顔が映る。思わず手を伸ばした。触れようとした、その瞬間。頬に激しい衝撃が走った。「私を怒らせて、殺す気?直人さんが本当に愛してるのは結衣なのよ。それなのに、どうしてネットであの子を不倫相手みたいに言いふらしたりしたの!あなたを家に連れ戻そうと思ってたけど、もうその必要もなさそうね!」スマホにニュースの通知が届く。【神谷ホールディングス後継者の婚約者に略奪疑惑妻は家を追われ、困窮生活か】違う。そう言おうとした。だがその前に、直人が手にしていたお茶を私の顔へ浴びせた。見下ろしてくる顔は険しく、ひどく冷たい。よく知っているはずの人なのに、恐ろしいほど見知らぬ人に思えた。「その傷、全部メイクなんだろ?そこまでして、結衣を追い詰めたいのか?どうすれば、あいつを放っておいてくれる?」その瞬間。胸の奥で、何かがぷつんと切れた。死ぬことなんて、もうそれほど怖くないのかもしれない。天井を見上げ、力なく笑った。「601万600円。それだけもらえれば、もう二度とあなたたちの前には現れない」部屋が、しんと静まり返った。直人が勢いよく目の前まで来る。襟元をつかまれ、無理やり身体を起こされた。暗く険しい目で、私を睨みつけた。「……今、なんて言った?」直人は長いあいだ
Read more
第4話
配信が始まった途端、コメント欄は私をかばう声で埋め尽くされた。誰もが結衣を、妻のいる男を奪った女だと責め立てていた。それを見た直人の目から、わずかに残っていた私への同情すら消えた。やがて直人は一枚の紙を差し出し、そこに書かれたとおりに読めと言った。【皆さん、申し訳ありません。直人と付き合っていたのは結衣のほうで、私があとから二人の間に割り込んだんです。かわいそうなふりをして同情を集め、結衣の居場所を奪おうとしました】結衣が、いかにも私を気遣うように口を挟んだ。「無理なら、言わなくてもいいよ。私が全部引き受けるから」私は口元だけで笑い、結衣を押しのけた。そして大勢が見守るなか、紙に書かれた文章を一字一句、そのまま読み上げた。さらに床に膝をつき、何度も額を床に打ちつけた。「私が二人の間に割り込んだんです……申し訳ありません」コメント欄の空気は、一瞬でひっくり返った。【あれだけ味方してやったのに、最低すぎる】【人の男を奪っておいて、よく平然としていられるね】【妹さんがかわいそう。こっちの善意まで踏みにじられた気分】……私はひたすら頭を下げ続けた。何度、謝ったのかわからない。やがて額が切れ、床に血が滴り始めた。「もういい!」直人の顔色が変わった。なぜか、先ほどよりも苛立っているように見えた。配信が切られる。私は足を引きずりながら直人の前まで行き、手を差し出した。「お金」数秒、誰も何も言わなかった。「金、金って……俺がお前に金で苦労させたことなんかあったか?いつからそんなに金に汚くなったんだよ!」直人は目を真っ赤にし、珍しく感情をむき出しにして怒鳴った。その言葉が、針のように傷だらけの胸へ突き刺さる。込み上げてきた血の味を無理やり飲み込み、かすれた声で尋ねた。「もし……私がもうすぐ死ぬとしたら?」「なんでそうやって、すぐ死ぬなんて言うんだよ!」直人の目がさらに赤くなる。腕をつかむ手に力が入り、骨まで砕けそうだった。「本当に死んだとしても、その金は全部、お前の葬式に使ってやる。俺は涙の一滴も流さない」「……そっか」私はゆっくり手の力を抜いた。胸の奥で張りつめていたものも、それと一緒にほどけていった。もうすぐ死ぬのなら。誰かに
Read more
第5話
【水野千紗って、本当に不倫してたんだ?かわいそうなふりがうますぎるでしょ。あれだけ心配した人たちの善意を踏みにじるなんて最低】【しかも結衣さんは、最後までかばってたんでしょ?よくそんなことできるよね】パソコンの画面には、千紗を罵る書き込みが延々と並んでいた。直人はもう見ていられなくなり、ノートパソコンを閉じると、眉間を押さえた。そばにいた千紗の母が、ため息をついた。「でも、変ね。あの子、昔はものすごく気が強かったでしょう?それなのに今回は、ずいぶん簡単に自分が悪かったって認めたのね。それに、たった600万円ちょっとのために……昔の千紗なら、そんなお金、気にも留めなかったはずなのに」直人も同じことを考えていた。だが、胸の奥に湧き上がるざわつきを振り払うように首を振った。「……お義母さん。たぶん、あいつも少しは変わったんだよ。俺と結衣のことを受け入れようとしてるんじゃないか」暖炉の炎をぼんやり見つめながら、3年前のことを思い出した。あの夜、直人は酒に酔い、結衣を千紗だと思い込んで関係を持ってしまった。その後、結衣は精神的に不安定になった。悩みに悩んだ末、直人は自分が死んだことにして、千紗に諦めてもらう道を選んだ。そして残りの人生を、結衣への償いに使うつもりだった。けれど、この3年間。千紗のいない毎日で、心安らかに眠れた夜など一度もなかった。ようやく再会できたというのに。どうして千紗は、まるで別人のようになってしまったのだろう。結衣がそばへ寄ってきて、気遣うように直人の肩を揉み始めた。「きっとお姉ちゃんは、まだ私たちがずっと騙してたことを怒ってるんだと思う。お金を渡さなかったのも、結果的にはよかったのかもしれないよ。困れば、そのうち家に戻ってくるかもしれないし」直人は黙って頷いた。千紗が配信で自分の非を認めた一件は瞬く間に拡散され、トレンドの上位にまで浮上した。すると今度は、千紗を知っているという者たちまで次々と書き込み始めた。【この女、闇カジノにいた子じゃない?かなり遊ばれてたよ】【めちゃくちゃ打たれ強かった。前に殴っても全然泣かなかったし、そのあと普通に酒の相手までしてた】【散々苦労したから、今度は金持ちの男を奪って楽したくなったってこと?】直人は画面を見つめた
Read more
第6話
圭吾の姿を見た瞬間、直人はドアをつかむ手に力を込めた。額には青筋が浮かんでいる。「千紗はどこだ?」位置情報が示しているのは、間違いなくこの部屋だった。圭吾は入り口を塞いだまま、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべる。「千紗って、お前の奥さんだろ?それを俺の部屋に捜しに来るって、どういうことだよ。ベッドにいるのは最近売り出し中のモデルだ。お前も混ざるか?」直人は圭吾を睨みつけ、スマホの位置情報を突きつけた。「千紗はここにいるって出てる。今すぐ出せ。あいつに何かしてたら、ただじゃおかない」今にもつかみかかろうとした、そのとき。部屋の奥から、濡れた髪の女性が姿を現した。華やかな顔立ちの若いモデルだった。「あれ、神谷さん?珍しいですね。よかったら一緒にどうですか?」その姿を見た瞬間、直人の張りつめていた表情がわずかに緩んだ。千紗ではない。ほっとしたような、けれどどこか釈然としない顔のまま、直人は乱暴にドアを閉めてその場を離れた。自分が安心しているのか、苛立っているのか。本人にもわからなかった。その足で、直人は闇カジノへ向かった。経営者を呼び出し、単刀直入に尋ねた。「ここに水野千紗って女はいるか?」男はすぐさま腰を低くし、直人の煙草に火をつけた。「はい。確かにうちに水野千紗という女がいました」その言葉を聞いた瞬間、直人は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。「今どこにいる?」男は向かいに座り、気まずそうに口を開く。「それが……もう長くないらしいんですよ。病気がかなり進んでて、たぶん近いうちに死ぬんじゃないですかね」「……何?」直人の目が大きく見開かれた。経営者は病院の検査結果を差し出した。「金のためなら何でもやってたんで、身体を壊したんでしょう。まあ、ああいう金に困ってる女なら、ほかにもいくらでもいますけど。よければ別の――」直人は何も聞いていなかった。目を真っ赤にし、検査結果だけを凝視している。千紗が、あれほど痩せ細っていたことも。あれほど必死に金を求めていたことも。すべて――死が迫っていたからだった。「……そんなはずない。こんなの、あり得ない……」直人の異様な様子を見て、経営者は慌てて部下に事情を尋ねた。次の瞬間、顔から血の気が
Read more
第7話
圭吾の部屋を訪ねたとき、私はもう最悪の覚悟を決めていた。身体と引き換えに金をもらう。せめて最期くらい、少しでもまともな形で人生を終えるために。そんなこと、初めてではなかった。いつものように上着を脱ぎ、シャツのボタンに手をかける。そのまま大きなベッドの端に腰を下ろした。圭吾は少し離れたところで腕を組み、そんな私を面白そうに眺めていた。「本当にいいんだな?」私は目を閉じ、黙って頷いた。次の瞬間。圭吾に手首をつかまれた。けれど、乱暴なことは何もされなかった。それどころか、外したボタンを一つずつ留め直していく。「いくら必要なんだ?必要なだけ言え。もう二度と、こんなことするな」一瞬、何を言われたのかわからなかった。気づけば、涙が頬を伝っていた。「……どうして、私なんかを助けるの?」圭吾は私の隣に腰を下ろし、けだるげに笑った。「水野さんは、ずいぶん記憶力が悪いんだな」私は目を瞬いた。そして、2年前のことを思い出した。行く当てもなくなった私は、一人で闇カジノを訪ねた。とにかく働いて、金を稼ぎたかった。あのときの圭吾は、何人もの女性に囲まれながら、私を見るなり笑って言った。「ここはあんたが来るような場所じゃない。帰れ」けれど私は聞かなかった。頭にあったのは、少しでも早く金を貯めて、家の借金を返すことだけだった。あれから2年。圭吾はまた、行き場を失った私に手を差し伸べてくれた。「ありがとう」と言いかけたところで、圭吾の指がそっと唇に触れた。「お前、意地張りすぎなんだよ。カジノの連中に金を出せって言われたからって、言われるまま払うな。少しは自分のことも大事にしろ」鏡に映る私は、見る影もなく痩せていた。笑う力すら、もうほとんど残っていない。「……知ってるんでしょ?私の病気のこと」圭吾は軽く指を振ると、名刺を一枚差し出した。「治療なら、俺が何とかする。この人のところへ行けばいい」名刺に書かれた名前を見た瞬間、ぼんやりしていた頭が一気に冴えた。「この先生……世界的に有名ながん治療の専門医じゃない。どうやって予約を取ったの?」圭吾は当然のように笑った。「友達なんだよ。予約なんていらない」そう言うと、圭吾は痩せきった私を軽々と抱き上げ、ベ
Read more
第8話
「千紗……お母さんよ。今、身体はどうなの?家も財産も全部手放したっていい。治療費はお母さんが何とかするから……帰ってきて。お願い」電話の向こうで、母が声を上げて泣いていた。こんなに取り乱す母を見たことはない。けれど今さら、遅すぎる心配などいらなかった。「私は元気です。お気遣いありがとうございます」他人行儀な言葉に、母は一瞬黙り込んだ。やがて、さらに声を詰まらせる。「千紗……お母さんにまで、そんな話し方をしなきゃいけないの?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、結衣が電話を奪った。「お姉ちゃん、お母さん、一晩で何歳も老けたみたいになってるんだよ。どれだけ怒ってても、自分のせいでお母さんがこんなに心配してるのに、何とも思わないの?」私は小さく笑った。この3年間。誰に何を言われようと、私は十分すぎるほど頑張ってきた。誰にも、後ろめたいことなんてない。電話の向こうで、結衣がすすり泣く。「直人だって、まだ目を覚ましてないんだよ。お姉ちゃんを捜しに行ったせいで事故に遭ったの。これ以上、私たちを苦しめてどうするの?」スマホを握る手に、少しだけ力が入った。「これからは、それぞれ自分の人生を生きよう。もう連絡してこないで」結衣が何か言い返す前に、通話を切った。そばに立っていた圭吾が、こちらを見て笑った。「本当に変わったな」そうかもしれない。一度、生死の境をさまよった人間が、何も変わらずにいられるはずがない。それからの日々は、少しずつ穏やかになっていった。身体も日に日に回復し、気力も戻ってきた。圭吾はよく、公園の散歩に付き合ってくれた。気分転換だと言って、遊園地のショーに連れ出してくれることもあった。圭吾の友人たちは、面白がってからかう。「千紗と一緒にいるようになってから、お前の周りにいた女、きれいに消えたよな」圭吾は何でもない顔をしていた。けれど、耳だけは真っ赤だった。以前どれだけ遊んでいた人なのか。今の私には、それほど重要ではない。大切なのは――私はこれからも、生きていきたいと思えるようになったことだった。退院の日。荷物をまとめていると、直人がふらつくような足取りで病室へ駆け込んできた。私を見た瞬間、その目から涙がこぼれ落ちた。「千
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status