تسجيل الدخول明乃の目は鋭く、真っ直ぐに義正を射抜いた。「高田さん、どうやらお門違いのようです。こちらもまだ用事がありますので、今日はこの辺で失礼していただけますか」それは一言で相手に帰るよう促す言葉だった。義正は静かに彼女を見つめた。オフィスには二人の呼吸の音だけが響いていた。長い沈黙の後、彼は微かに頷くと、皺一つないスーツの裾を整えながら立ち上がった。「安藤さんの言葉、肝に銘じておきますよ」その口調は相変わらず淡々として、感情を読み取らせない。「では、失礼します」ドアが静かに閉められた。オフィスは、完全な静寂に包まれた。明乃はその場に立ち尽くしていたが、張り詰めていた力が一気に抜けたように膝の力が折れ、よろめきながらソファの背もたれを掴んでようやく体を支えた。俯いて、小刻みに震える自分の指先を見つめる。心臓にぽっかりと大きな穴が開き、そこから冷たい風が容赦なく吹き込んでくるようだった。義正が、少しでも希望をくれるんじゃないかと思っていた……けれど今、その僅かな希望さえも消え去った。明乃はゆっくりとソファに体を丸め、膝を抱えて顔を埋めた。肩が微かに震えていたが、声が漏れることはなかった。……義正がオフィスのドアを開けると、その足が入り口で僅かに止まった。ドアの向かいの壁に、陸が寄りかかっていた。長い片脚を曲げ、かかとを壁に預けている。指の間には火のついていないタバコを挟み、それを弄びながら、金髪の下の瞳で義正を冷酷に睨みつけていた。氷のように冷たく鋭い視線が、ナイフのように義正に突き刺さる。「話は終わったか?」陸が低く、掠れた声で聞いた。義正は眼鏡の奥の瞳を凪いだまま、落ち着き払った動作で袖口を整えた。「何か用か?」陸は体を起こした。義正より少し背の高い彼が歩み寄ると、周囲に威圧的な空気が立ち込める。「お前が昔、兄貴とどんな死闘を繰り広げてようが知らないが……」彼は義正を凝視し、顎のラインを硬く強張らせた。「彼女には一切関係ねえことだ」親指で、背後の半開きになったドアを差す。その向こうのソファには、丸まった人影が透けて見えた。「警告しておくが、彼女に近づくな」一触即発の空気が漂っていた。義正の顔から、いつもの穏やかな仮面が剥がれ落ち、瞳の奥に薄い嘲笑が浮かんだ。「どんな立場でそん
明乃の呼吸が一瞬、止まりかけた。鼓膜に血が駆けのぼる音が聞こえるようで、指先は無意識にデスクに白い跡を刻んでいた。「陸さん」長い沈黙の後、ようやく絞り出した声はひどく掠れていた。「……ちょっと席を外してもらえますか?」陸は動かなかった。彼はその場に立ち尽くし、金髪に隠れた瞳で義正を睨みつけた。「こいつが何者か分かないのか?何を企んでるかもしれないぞ」義正はその敵意に気づかないふりをして、眼鏡の奥の穏やかな眼差しを明乃だけに向けた。「外してください」明乃が繰り返した。視線は義正を射抜いたまま、声には拒絶を許さない決然とした響きがあった。陸の胸が激しく上下し、額に青筋が浮かび上がる。彼は義正を食い殺さんばかりに睨みつけると、ついに乱暴に背を向けた。「バン!」オフィスのドアが叩きつけられ、ガラスが震えるほどの轟音が響いた。大きな物音に明乃のまつげがかすかに震えた。だが彼女は振り向かず、視線だけは義正に据えたままだった。室内には二人だけが残り、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど空気が張り詰めている。「高田さん」明乃は必死に冷静さを保とうとしたが、爪は掌に深く食い込んでいた。「藤崎さんのことって、何を知っていますか?彼のことを何かご存じですか?」義正は、焦燥でわずかに赤らんだ彼女の頬を静かに見つめ、応接ソファへ歩み寄ると、ゆったりと腰を下ろして足を組んだ。「安藤さん、冗談はやめてください。湊の行方なんて、知るはずがないでしょう……」彼は淡々とした口調で、感情を悟らせずに眉を上げた。「もし湊が夢にでも出てきたら、真っ先に安藤さんにお教えしますよ」明乃は息が詰まった。今の自分の一挙手一投足がどれほど滑稽か、痛いほど分かっていた。けれど、抑えられない。彼女はどうしても、湊がもういないなんて信じられなかった。この叶わぬ願いだけが、彼女が生き続けるための希望のように思えた。彼女は深く息を吸い、自分を落ち着かせた。「……それで、高田さんが私を訪ねてきた用件は何かしら?」「実は……」義正の指先が、膝の上でトントンと軽く跳ねた。「湊が事故に遭う前に、何度か接触がありましてね……」明乃は息を呑み、彼を食い入るように見つめた。「湊は能力が卓越しています。手段も……並大抵ではありません」義正の声は平坦だ。
一度吹っ切れた思いは、もう抑えがきかなくなる。陸は一刻も早く明乃に会いたかった。彼女が確かにここにいると、確かめたかった。そして……消えたはずの影の中から、彼女を完全に引き上げたかった。「チーン――」エレベーターのドアが開く。事務所の同僚たちが挨拶してきたが、陸は耳にも貸さず、迷わずオフィスのドアまで歩み寄ると、力任せにノックした。「トントントン!」「どうぞ」明乃は目を上げ、パソコンの画面から入り口の大きな人影に視線を移した。陸はそこに立っていた。黒のライダースを羽織り、下にはしわくちゃの黒Tシャツ。金髪は乱れ、体からは外の冷気と、かすかなタバコと汗の匂いが漂っていた。「この数日、どこに行ってたのですか?」明乃は微かに眉をひそめた。陸は背後のドアを閉め、外の騒がしさを遮断した。彼はデスクの前まで歩み寄り、両手をポケットに突っ込んで、顎のラインを硬く強張らせた。「……用があったんだ」彼はぶっきらぼうに応え、明乃の顔をじっと見つめた。酷く痩せて顔色も悪いが、その瞳だけは驚くほど爛々と輝いている。氷のように冷たく、それでいて火のように燃えている。陸の喉仏が上下に動く。急に、なんて切り出せばいいか分からなくなった。「何か用ですか?」明乃が不思議そうに尋ねた。陸は唇を噛み、さらに顎に力を込めた。「俺は……」一言漏らしたその時、ドアが軽くノックされた。明乃が入り口を向く。「どうぞ」徹が困り果てた顔でひょっこり顔を出した。「ボス、お客さんっす」「今は手が離せないって伝えて」明乃の声は低かった。「あなたが対応して」徹は何か言いかけたが、その背後から一人の男が彼を追い越し、ずかずかと中へ入ってきた。「安藤さん、突然お邪魔して失礼いたします」現れたのは三十代か四十代くらいの男だった。仕立ての良いダークグレーのスーツに金縁の眼鏡。上品な雰囲気を纏い、口元には穏やかな笑みを浮かべている。男はオフィスを見渡し、不機嫌そうな陸をやり過ごして、最後に明乃を捉えた。明乃はその顔を見て、わずかに息を呑んだ。見覚えがある。どこかで会ったことがある気がする。男は笑みを浮かべ、落ち着いた口調で言った。「自己紹介をさせてください。高田義正と申します」高田義正!?明乃は胸がどきりとして、はっ
嵐士は陸の顔色をうかがい、今日は口を割らないと悟った。そこで話題を切り替え、界隈で最近出回っている汚い揉め事や下世話な噂話をネタに、適当にしゃべりはじめた。「なあ陸、お前がいない間に天都じゃ面白い騒ぎがあったぜ」嵐士はタバコの灰を落とし、ニヤつきながら続けた。「斎藤家は知ってるだろ?あの斎藤盛人(さいとう もりと)、今じゃ一族を完全に手中に収めてるんだ。それでどうなったと思う?あいつ、義姉とデキちゃって、おまけに孕ませたらしいぜ」陸がタバコを挟んだ指が一瞬止まり、瞼を上げて嵐士を見た。嵐士はその微かな反応に気づかず、面白おかしく話し続けた。「彼の親父は卒倒しかけたらしいが、今さらどうにもならないだろ。今の斎藤家は、盛人が仕切ってんだ。誰が逆らえないんだ。それに、若くして死んだ兄の嫁だろ。家に馴染む前に夫が逝っちまったんだからさ」陸は喉仏を小さく上下させた。煙にやられた声が、低く掠れる。「……それ、近親相姦じゃないのか?」「近親もクソもねえよ!」嵐士は鼻で笑い、気にする様子もなかった。「血も繋がってなきゃ、正式な身分もない。夫は早死だし、式だってまともに済んでない。昔なら兄が死んで弟が嫁を継いで家を守るなんて当たり前だろ。今じゃ世間の聞こえが悪いってだけ。盛人が気にすると思うか?表向きは、誰が本人の前で陰口なんか叩ける?」陸は黙ってタバコを吸い込み、立ち昇る煙がその瞳に渦巻く感情を覆い隠した。嵐士の言葉は、淀んだ水面に投げ込まれた石のように、彼がこれまで怖くて深く考えられずにいたところへ、幾重もの波紋を広げていった。血の繋がりがない……名目上の関係……もう死んだ……必死に抑え込んできた思いが、今や檻を破った獣のように理性を激しく突き上げていた。そうだ。兄はもう死んだ。二人はただ婚約しただけだ。自分はそうする権利だって……その考えが芽吹いた瞬間、驚くべき速さで膨れ上がり、陸の呼吸のすべてを奪い去った。「陸?何ボーっとしてるんだ?」嵐士がしばらく黙り込んでいる陸の肘を小突いた。陸はハッと我に返ると、指先に力を込めてタバコを灰皿に押し潰した。彼は立ち上がり、椅子の背にかけてあった上着を掴むと、汗ばんだ体に乱暴に羽織った。「帰る」声は掠れていたが、そこには重い決意が宿っていた。「え?もう帰るの
画面の冷たい光が青白い顔を照らし、その集中力はどこか冷酷ささえ感じさせた。「亮さんは凡庸で、藤崎グループでもずっと実権を握れていなかった。芳子さんに至っては、一族の資産のことしか頭にないわ……」彼女は淡々と分析を口にする。口調は穏やかだが、その論理は明快だった。「あの二人の頭じゃ、いくら野心があったとしても、これほど周到な計画を立てる能力はないはずよ」徹は彼女を見て、少し驚いた。今の明乃は、胸の奥の悲しみをすべて凍らせて、氷のような鋭さだけを残した。そんなふうに見えた。「もし……」明乃が顔を上げ、徹を真っ直ぐに見た。「彼らの背後に誰かがいるとしたら?藤崎さんのやり方を熟知している人物が知恵を貸しているか……あるいは、自ら手を下したか」彼女の脳裏に、賢人が口にしていたあの薬瓶が浮かんだ。そして、あの日の芳子の不自然な様子も……断片的だった疑念が、徐々に形を成していく。「陸さんは?」明乃が唐突に尋ねた。「どこへ行ったの?」徹は首を振った。「分からないっす。電話してきたきり姿を消して、今は電話もつながりません」明乃はパソコンを閉じた。その瞳に、冷徹な光が宿る。……「ドン――!」サンドバッグを叩く鈍い音が、人気のない地下に佇むジムに響き渡る。一発、また一発――どれもが、命知らずの荒々しさを帯びていた。陸は上半身裸で、黒のスポーツショーツはすでに汗でびっしょりと濡れている。浮き出た筋肉のラインを汗が伝い、床に黒ずんだ水溜りを作っていた。濡れた金髪が額に張り付き、その目元を覆っているが、瞳の奥に渦巻く自虐的なまでの殺気は隠しようもない。トレーナーは傍らに立ち、息をするのも憚られる様子だった。これで三人目の交代だ。どのトレーナーも、彼の相打ち覚悟のような攻撃に押し込まれ、防戦一方だった。目の前のサンドバッグを憎い敵に見立てているのか、全力で殴り続ける。腕や手の甲は赤く腫れ、皮が剥けて血が滲んでいるというのに、陸は痛みすら感じていないようだった。「陸、もういいだろ……」様子を見ていた高嶺嵐士(たかみね あらし)が、たまらず声をかけた。彼はこのジムのオーナーであり、陸が数少ない本音を話せる悪友の一人だ。陸は耳を貸さず、さらに重い一撃を叩き込んだ。サンドバッグが激しく揺れ、吊り下げているチェーンが悲鳴の
再び意識を取り戻したとき、明乃は体の芯から熱くてたまらず、喉はからからに渇いて今にもひりつきそうだった。重い瞼をこじ開けると、ぼやけた視界に見知らぬ天井が映り込む。「目が覚めたか?」少し掠れた声が傍らから聞こえた。彼女は首を巡らせたが、目の前の影はゆらゆらと揺れて判然としない。「熱がある。丸一日寝込んでたんだ……」コップが唇に当てられる。「水を飲め」明乃は差し出された手にすがるように、温い水を一口ずつ啜った。乾いた喉が潤い、ようやく少し人心地つく。だが、高熱のせいで意識は混濁したままで、視界も一向に晴れない。目の前に立つ人影は、すらりとしていて、どこか見覚えのある冷徹な輪郭をしていた……「藤崎さん……」無意識にその名が漏れた。弱々しく、縋るような声だった。水を飲ませていた陸の動きが、ぴたりと止まった。明乃は、まるで救いにすがるように、熱に浮かされた手を伸ばし、そっと彼の手首をつかんだ。指先から伝わる熱が電流のように、一瞬で陸の肌を駆け抜ける。「帰ってきたのね……」彼女は焦点の合わない瞳で彼を見つめた。「分かってたわ……私を置いていったりしないって……」陸の体は完全に凍りつき、コップを握る指に力がこもって指関節が白く浮き出た。彼は、ベッドの上で頬を赤らめた彼女を見つめた。その瞳は、自分ではなく別の男を見ている。そこにあるのは、縋るような想いと、断ち切れない未練だった……これまで味わったことのない感情が、胸の奥を激しく揺さぶった。胸がきゅっとして、どこか苦くて……それでも、理由もなく鼓動だけが早まっていく。陸はすぐにその手を振り払い、人違いだと冷たく突き放すべきだった。兄の女に、良からぬ感情など抱いていいはずがない。だが、彼は動かなかった。彼は身じろぎもせず座ったまま、彼女の熱い指が自分の手首に触れるのを、ただ受け入れていた。「行かないで……」明乃の手を握る力が強まる。手を離せば、目の前の男が消えてしまうとでもいうように。「湊、会いたかった……」陸の喉仏が激しく動いたが、結局手を引き抜くことはなかった。彼は強張った体のままベッド脇に座り、彼女が縋りつくに任せた。空いた方の手を、ためらいながらも汗ばんだ彼女の額に伸ばし、前髪をそっと払う。その動きは不器用で、自分でも気づかないほ
香織は病床にもたれ、顔色にはまだ病弱な蒼白さが残っていた。彼女はベッドの端で泣きじゃくる美優の手を軽くたたき、優しい声で言った。「もう泣かないで、泣いても問題は解決しないわ。岳に電話したから、すぐ来るはずよ……」香織はティッシュを抜き取り、美優に手渡した。「お母さんに話してごらん、いったいどうしたの?最近岳があなたに冷たくなったのは?」美優は泣き腫らした目を上げ、崩れかけたメイクのまま唇を尖らせ、この間の出来事を大げさに話し始めた。明乃がどんな手を使ったか、岳がどれほど惑わされたか、そして自分という幼なじみをどれだけ蔑ろにしているかを強調した。「……お母さん、知らないでしょ。岳
湊たちと別れた後、明乃は一人でタクシーを拾い、予約しておいたホテルへ直行した。「安藤様ですね。お待たせいたしました。お部屋のご用意が整っております。こちらがルームキーで、お部屋は28階でございます、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」フロント係の女性は職業的な笑顔でルームキーを差し出した。「ありがとう」明乃がキーを受け取った瞬間、振り返った先に、夜のように深い瞳が、不意に視界に飛び込んできた。「藤崎さん?」彼女は一瞬呆然とした。「どうしてここに……」その時、賢人が自然な流れでフロントに近づき、別のルームキーを受け取っていた。明乃はカードに「プレジデンシャルスイート」と書か
十数分後。会場から最も近い別荘の入口では、連絡を受けた医師と二人のお手伝いさんが、すでに待機していた。湊がスーツに包まれたもがき続ける女性を抱いて車から降りるのを見ると、医師はすぐに駆け寄った。「藤崎様」「薬を盛られている。急いで処置をしてくれ」湊の声は簡潔で、まだ声には消えやらぬ嗄れを帯びていた。彼は明乃をリビングの広いソファに慎重に寝かせたが、明乃の手は依然として彼のジャケットを強く握りしめたまま離さなかった。医師は急いで診察し、初期判断の後、迅速に鎮静剤を準備した。注射は順調には進まず、明乃が激しく抵抗したため、湊は背後から彼女を抱きかかえ、医師が処置しやすい
続いて明乃は、証拠の流れを一つひとつ整理し始めた。監視カメラの映像、スタッフの証言、本人の被害届、体内に残留していた薬物成分を示す検査報告書などなど……この事件を、誰が見ても揺るがない有罪案件に仕上げるためだ。美優には、自分のやったことの代償を、きっちり払わせる。忙しくしていると、時間はあっという間に過ぎていった。明乃が資料の整理を一通り終えた頃、窓の外はすでに街灯が灯り始めていた。彼女は椅子の背もたれに寄りかかり、張ったこめかみを揉んだ。身体の疲労感が波のように押し寄せてきたが、彼女は一種の興奮状態にあった。彼女の視線がふと机の隅に止まった。机の片隅に、上質な