LOGIN春香は、一人になった。頸創が茂みに隠れながら、灰鋸龍の反対側に移動したのだ。翼のある前脚には、鋸のような形状をした、細長い爪が生えている。
それが、灰鋸龍と呼ばれる所以だ。爪から滴り落ちた毒液が、足元の草花を瞬時に枯らす。春香は静かに唾を呑み込んだ。喰らえば、生きられぬ。
何丈あるか、という尾は一歩進むごとに木の幹を打ち、メシリ、と細やかな苦しみの声を上げさせる。
向こうの茂みで、頸創が手を挙げた。俺に合わせろ──別れる直前、彼はそう春香に言っていた。
ガサッ、と二人は同時に茂みを出た。途端、龍の野太い咆哮が響く。ビリビリと、木の幹でさえ震える。
まず、爪は頸創を狙った。彼は鞘を捨てながら素早く跳躍。風の龍絶を纏った刃を、背中へと突き立てる。暴れた灰鋸龍に振りほどかれ、彼の体は宙に踊る。
「春香!」
「あいわかった!」春香の肉体が、雷を帯びる。刹那、彼は龍を挟んで反対側に移動していた。次いで、龍の首からどっと血が溢れた。その刃は、赤い血を滴らせている。
(俺でさえ視認できない高速移動! これが雷業家の天津震電流ってわけか!)
風の力で落下を緩やかにしつつ、頸創は彼の速度に驚嘆した。
そして、春香の体はまだ止まらない。切り抜けたと同時に、右足を軸として反転。左足で踏み込み、またも斬撃を浴びせた。一瞬のうちに、真向切り、一文字切り、逆袈裟切りの三連撃だ。
水風船を割ったような勢いで、灰鋸龍の首から血が飛び散る。内臓まで突き刺さるような悲鳴を上げながら、龍は爪を振り上げる。
機敏にも後ろに跳んだ春香は、眼前で地面がひっくり返されるのを目撃した。その抉ることの深さ、長さは彼の身長にも等しい。
それが、ズドンズドンと叩きつけられた。春香の体は徐々に後退し、茂みの中へと追いやられる。背中が木にぶつかる。しまった、と思うのも束の間。真っ直ぐ、爪が突き出された。
龍絶の力を身に纏わせ、縮地にも似た速度で龍の下を駆け抜ける。今しがた離れた木の幹は、一撃を以て圧し折られていた。
頸創が戻ってくる。鞘を捨てつつ長巻を横に構え、体を地面と平行にするように飛ぶ。回転しながらの斬撃で龍の背中を切り刻み、その先にあった木を蹴って舞った。
「来いよ、デカブツ!」
その挑発に乗ったのか、灰鋸龍は空の頸創へと狙いを定める。前脚についた翼を広げ、飛翔した。
だが、その一瞬後に頸創は着地していた。空中で爪を振り抜いた灰鋸龍。不格好で隙だらけの姿勢を見せる相手へ、彼の指が向けられる。
「
指先に集められた『気』が、風の刃となって走り出した。数瞬で龍へと到達した風の塊は、片翼を斬り落とす。
「とどめは任せたぜ、雷業さんよ!」
墜ち行く灰色の巨体に、春香は全神経を注ぐ。血を吸った刃に稲妻を走らせ、霞の構え。顔の横で、切っ先を相手に向けるような構えだ。その五尺八寸の体に気が廻れば、落下の様は、羽がそうなるように遅く見えた。
「
浴びせるのは、一太刀。それで全てを終わらせる。
「
まるで夜明けがもう一度訪れたかのような、激しい光が刃を包み込む──だけではない。気によって構成された刃が、刃渡りをぐんと伸ばす。
須臾ほどの時間が過ぎた。数町の距離を、春香の肉体は詰めてしまう。そこから繰り出された一振りが、魂の鎹を打ち砕いた。
龍を追い越した春香は、落下に入る。頸を刎ねられた灰鋸龍は、鈍い音を立てながら墜落した。少し遅れて、彼も地面に戻ってくる。血は流れず、焼き鏝を当てたような断面を見せる。
血振りはしない。刀が血を吸うに任せ、彼は納刀した。そこへ、喝采が送られる。
「すげえよ、これが雷業の跡取りの実力なんだな」
「すまない、羽織を血で汚してしまった」予想外の返事に、頸創は固まった。
「いや、羽織のことは気にするなよ。命のやり取りしてんだから」
「それもそうか……」 「で、あれが天津震電流ってやつか?」こくり、春香が頷いた。
「それをちょっと俺に教えてくれたりは──」
「天津震電流を教えられるのは、当主だけだ。俺にその権限はない」 「親父の亡骸を見るまでは、か?」 そう、彼もわかっていた。父が
「……帰ろう」
龍の返り血に濡れた羽織は、少し重かった。
「あの嬢ちゃん……名前忘れちまった。ここらで育った人間じゃないだろ?」
「リズだ。リズ・ユヤデオナ」 「ユヤデオナ? 随分と名家じゃねえか」山を下りながら頸創は事情を把握しようとしていた。
「ユヤデオナといやあ、大陸で歴史書の編纂を主導してる家だぜ。そんないい所の嬢ちゃんが、なんだって
既に日は高く昇っていた。
「なるほどな、それで嬢ちゃんを帰さなくっちゃあならないのか」
「ああ。その通りだ」しかし、頸創は顎を撫でていた。
「兄貴と合流する、とも言ってたな、お前は。ただの留学生なら、兄貴を待たずに船を手配すればいい。雷業ならそう難しいことじゃないだろ」
「……これは、大きな声では言えないのだが」と、春香は足を止める。
「周りに人の気は感じねえ。話していいぜ」
厄介ごとに巻き込まれる、とわかっていても、頸創はこの少年を切り捨てられなかった。
「不死、なんだ」
「……はァ?」頸創の口から、気の抜けた声が出る。
「胸を刺されても死ななかった。俺は、確かに見た」
彼は、出会った時を思い出す。確かにリズの着物の胸には穴が開いていたし、血の染み込んだような汚れもあった。
「なるほど、筋は通ってる……お前が嘘を吐けるような奴には思えないしな……」
いや、しかしと思いつつも、彼は深い吐息と共に事実を受け入れることにした。
「不死なんてものを試す気はねえが、信じるぜ。一度一緒に命を懸けたんだ、俺たちは、ダチだ」
「ダチ?」 「友達ってことだよ、言わせんな」そう言って、頸創は右拳を突き出す。少しの迷いの末、春香はその手を両手で包み込んだ。
「違う、こうだ」
彼の左手が、春香に拳を作らせる。それから、ぶつけ合わせた。
「これがダチの挨拶だ。覚えとけよ」
「そうか、ダチ……」ダチ、という言葉の響きを反芻するように、春香は歩きながら小声で何度も繰り返した。村に戻ってくる。
「んだよ、そんなに嬉しいか?」
「初めてなんだ。友達、と認めてくれたのは」その発言に頸創は戸惑いながら、こう応じる。
「ま、名家ってのはそういうこともあるか。これからもよろしくな、春香」
「これから?」 「ああ。俺は伊英に帰る」そう、頸創が言いきった時、バシャン、と水音が鳴った。振り向けば、春香の左足が用水路に嵌っている。
「おいおい、ダサいことすんなよ。ほら、手」
引き上げられた春香。ブーツは酷く濡れている。
「こりゃ、帰ったら風呂だな」
表情を緩めながら、彼はまた歩く。だが、背後から視線を感じる。
「何が可笑しい」
小さな声が頭に入り込んで、飽和していく。がくり、と膝から落ちた春香。
「おい、どうした! まさか毒を喰らってたのか⁉」
「いや、気にしないでくれ。毒ではない……」何も救えなかった人間に、笑う資格はあるのか。いや、ないと頭の中で声が繰り返す。
どっこらせ、と頸創はそんな春香を担ぎ上げる。
「熱い風呂に入って、美味い飯を食う! そうすりゃ晴れることもあらあよ」
妖魔と化した侍の喉を貫いた、あの感触が春香の掌に返ってくる。そうするしかなかったとしても、目を逸らせない。静かに、棘だらけの風呂敷が彼の心臓を包んでいた。
「それで、巨人を狩った、と」 離れの座敷、その一つで、頸創と春香は話していた。前者は布団の上で胡坐をかき、後者は刀を差したまま壁に凭れている。「ああ。腕に強い結界を纏わせて、防御にも攻撃にも使える武器にしてたんだ。俺の気を龍絶で染み込ませて、内側からぶっ飛ばせばどうにかなったがな」「つまり、殺すなら腕以外を狙えばいい、と?」 頸創は少し苦い顔を見せた。「あんたの速さなら、それでもいけるかもしれねえが……俺はあんたほどの速度を何度も出せねえからな、地道に浸透させるしかねえ」「浸透?」 その問いかけに、あまり重みはなかった。「ああ。鎌風家……というか、風張家のそれから派生した龍絶は、防御されても当たりさえすれば、自分の気ってのを相手の中に染み込ませる。そいつを爆発させれば、防御の内側から相手はやられるってわけだ」「だが、それほどの術、負荷も大きいだろう」「まあな。久しぶりに使ったせいで、俺もかなり疲れちまった」 フウッ、と頸創は溜息を吐いた。「何発食らわせたんだ。結界を内側より破壊するだけの気、そうそう浸透させることもできないだろう?」「夕べは、二発。カミハテが使うことを前提としてるせいで、俺じゃ扱いきれねえんだ」「カミハテ……父は、それが何故そう呼ばれるか、教えてくれなかった」 はあッ、と彼は呆れた声を発した。「ま、数えで十五なら知らねえかもな……」 そのまま、その手は春香を招いた。二人は胡坐で向かい合う。「まず、あんたが知っ
早朝。若い女が、鎌風屋敷のある丘を駆け上っていた。やがて、門番の待つ表門に至る。二人の門番は、槍で彼女の行く先を遮った。「何者か」「奉行所の者です。生天目町奉行から、鎌風様に届けたい手紙がある、とのことで」 門番二人は視線を交わす。「武器も邪気もない。通れ」 片方が、石突で地面を突きながら言った。「えっ、その、お金の方は……」「俺は取らん主義だ」 そうして、女は屋敷の敷地へ足を踏み入れた。「た、たのもーう」 あまり覇気のない声が、母屋に響く。応対で現れたのは、頬に十字傷のある少女。佳代子だ。「これを、鎌風様に届けるよう託かりまして」 一通の封筒。真っ白な紙に、西方語で差出人が書いてある。裏には蝋で封がされていた。だが、妙だった。佳代子は胸がざわつくような違和感を覚える。「……はい、受け取りました。確かにお渡しします」 その手紙を、頸創は食事を終えてから手に取った。「ゲルカルナ、か」 差出人の名前を、彼はさらりと読み上げる。春香の目は、不思議とその手紙に引き寄せられていた。「リズ、どういう意味なんだ」 春香は、リズと指を絡ませて、問う。「西方語で、『冒涜する者』を意味します。そんなものを名乗るなんて……」「封蝋までしてやがる……春香、脇差貸してくれ」&n
ひょろりとした喜林、ずんぐりとした真薙。二人の足軽は、警邏に出ていた。喜林の左手には電気提灯。腰には刀。真薙の方には、灯りはなかった。「最近、暑くなってきたよなあ」 真薙が太い声で言った。「水風呂に入りたいぜ、全く」 喜林は芯の無い声で言うと、大きく欠伸をした。そんな二人の耳に、ヒタ、ヒタと足音が聞こえてきた。「裸足か」 二人は、顔を見合わせて刀を抜いた。凡そ酔っ払いの類だろう、と思いつつ、彼らの間には弓の弦めいた緊張が走っていた。 足音は、少しずつ近づいてくる。音は路地の方からだ。そこに、ピチャン、と水音が混じった。「なんだ……?」 喜林がそう呟いた時、『それ』は現れた。 左手に、生首。真っ白な肌。月明かりに輝く裸体。その顔は、虚ろだった。だらんと開いた口と、光の無い瞳。「何奴!」 誰何をしつつも、二人は相手が己の範疇を超えている存在であることを、理解していた。それでも、逃げるという選択肢はない。奉行所から任された夜警の仕事だ、果たさぬわけにはいかない。「ア オ ア」 その、この世の果てから呼びかけてくるような声音。ゾッ、と二人は背筋が凍り付くのを感じた。が、役割は役割。歯車としてやらねばならないことがある。「真薙、行くぞ!」 喜林は、提灯を腰にかけて走り出した。彼の頭目掛けて、生首が投じられる。もろに食らってふらついた。そこへ、全裸の女は獲物を見つけた蛇とさえ思える俊敏さで、彼の懐に入った。
「あれが例の船かい?」 南の桟橋を望む、牛鍋屋。その二階に、何十人もの客が詰め掛けていた。「何でも死体がたっぷり載せてあるとか……」 その見分を一目見よう、という彼らの視線は、夜の色をした総髪の、若い狩人に注がれていた。「雷業様、お越しになりましたか」 侍の一人が、リズを伴う春香に向けてそう言った。桟橋の東には、腕木で区切られた検問所がある。そこから飛ぶがやがとした声も、彼らにはあまり聞こえていなかった。「状況は」「まず、あの船」 その侍は、桟橋に付けた一隻の黒い蒸気船を指差す。「四代目鴉羽丸、と船長は名乗っておりましたが、入港許可を出した船の名簿に、その名前がないのです」「つまり、未登録の船……積み荷は」「人間も含め、様々な動物の死体が四十体ほど。細かいことは、まだわかりませんが」「死体、か……リズ、死体を持ち込んだ目的は何だと思う」 リズは暫し悩んでから、「死霊術師」 と言った。「死体や死者の魂を扱う、禁忌の分野です。大陸ではその歴史に関する研究のみが認められ、死霊術そのものの研究・発展は禁じられています」「つまり、龍仕人か?」 春香の問いかけに、彼女は一つ頷いた。「勿論、篝人の方々がその特権を使って研究している、というのも否定できないですけどね。あの人たちは、禁忌であっても触れられますから」「だが、篝人はまず山奥から出ないんだ
「鎖閂式の鉄砲を人攫いが、ねえ」 書斎にて、頸創が春香に向けて言った。清然もいる。「最新式の連発銃……さぞ力のある龍仕人が後ろについているのやもしれんな」 清然は、腕を組んで、考え込みながら口を開いた。「力のある、か。カガリの言っていたフザンとやらか?」 胡坐で顎を撫でる春香の問いかけに、頸創は「否定はできねえ。フザンがどれほどのものかは、俺も掴めちゃいないが」「百術の頸創と雖も、か?」「やめてくれ、こそばゆいんだよ。春香に言われると」 チチチッ、と小鳥が植木に停まる。それから、昼空に向けて飛び立った。「確かに、俺は龍仕人の集団をぶっ潰したさ。でもな、あいつらは独立した組織を無数に作って、あちらこちらで悪さをしてやがる。まるで土竜だぜ。一つ穴を埋めたって、また別の穴を作っちまう」「終わりのない戦いになるな……」 清然の一言で、三人の男は沈痛な空気に包まれた。「雷天に、西の港町菅谷。二つを乗っ取って拠点にしているなら……どこかで、狩らねばならない」「お勧めはできねえよ」 右拳を作った春香に、頸創が制止の声をかける。「かなり時間が過ぎてる。今から戦いを挑めば、伊英の侍全員合わせたって二月は戦争することになるぜ」 ギッ、と春香は奥歯を噛み締めた。「で、戦った感想はどうだ。怖いだろ? 連発銃ってのは」 頸創の声は、少し無理を
伊英の街から出た蒸気船が、大陸の街に入った。そこから降りた背広に柳色の目──ピジョは、ガラス戸で区切られた公衆電話に銅貨を入れた。交換手と会話してから、繋がる。「フザン様、大福を送らせました。大福屋もそちらにいるでしょうが……坐天島の大福屋はどうなさいますか?」「腕のいい大福屋が必要だ。一人くらい、雇ってもいいだろう」 落ち着いた声を聴いた彼は口端を吊り上げ、頷いた。「では、そのように……」 電話を終えて、彼は手袋の位置を直す。また銅貨を入れて、坐天島、雷天から西に行った港町に繋げた。「雨男です。大福屋を一人、雇ってきてください」「あいよ。いつもの送り方でいいか?」「ええ。日持ちがしないので、気を付けてくださいね」 そこで、電話は切れた。端的な会話だ。だが、ピジョはそれでよかった。あまり話せば悟られる。大福という、金鎚龍の骨が必要だ、という事実を。(ルルヤの死霊術師の準備ができるのも、そう遠くはないでしょう……) 公衆電話が並ぶ空間。ガラス戸を開いて、後にした。◆「ドルク・ババス」 三日目。まだ日も昇り始めたばかりの森で、春香は右手の中に稲光を生み出した。「龍の継承。空の果て、輝けるものよ」 呪文が進むにつれ、その光は龍の顎を成していく。「今この手に来りて、討つべきものを撃ち抜け」 球でも投げるような動作──右手を引いて、結界







