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#3 雨中の出会い

last update publish date: 2026-08-20 14:13:42

 その日も、雨が降っていた。水入れを待つ田の間を、二人の来訪者が歩く。濡れそぼった、黒い羽織と赤い着物。

「春香さん、私……」

 赤い着物のリズが、がくりと膝をついた。

「ああ、休まなければ、ならないな……」

 応える春香の声も、途切れ途切れだ。別に、飯がなかった訳ではない。魚も獣も、そこら中にいる。だが、燃える故郷を見ると、何も喉を通らなくなるのだ。

 春香はリズを背負い、一歩、また一歩と進む。バシャン、と水溜まりを踏み抜く。そこで、彼も崩れた。

「駄目だ、俺は、進まなくては──」

 少しずつ、意識が手の届かない所へ行こうとしている。転げ落ちたリズは、もう俯いたまま固まっている。

「私たち、これじゃ……」

 終わりか、と二人はどうしようもない諦めを抱き、動かなくなった。それから、暫く。

「なんだ、行き倒れか?」

 そんな声が、降ってきた。二人が顔を上げると、深草色の羽織に傘を差す、茶髪の男が立っていた。

「もう少し頑張れよ、飯くらいなら食わせてやる」

 そう言って、男はリズに手を差し伸べた。背中には長巻。体格は春香と変わらない。目の色は、錆びた銅の色、緑青だ。

 リズを担ぎ上げた男は、今度は春香を引き起こす。

「兄ちゃんには歩いてもらうが、いいか?」

「……ああ、俺は狩人だ。自分の足で歩く義務がある」

「硬い奴だぜ」

 そう言って、男は二人を先導する。春香は今にも折れてしまいそうな脚でそれを追い、やがて簡素な屋敷に辿り着いた。

「おかえりなさいませ、頸創けいそう様」

 頸創と呼ばれた男は、リズを使用人に預ける。

「飯、二人分だ。ありものでいいから、何か食わせてやってくれ。風呂は──」

「先程夜番の者が入ったため、沸いております」

「ならそれでいい。座敷に布団を二組頼む」

「かしこまりました」

 使用人の女は駆け出した。

「風呂入れよ、風邪をひいちまうからな」

 そう促され、二人は体を温めた。

 春香は頸創の、リズは奉公人の着物を借りて、一階の座敷の一つで膳を前にした。

「で、なんで雷業様がこんな所にいるんだよ」

 麦飯、干物。豆腐の味噌汁、漬物。久しぶりのまともな食事だ。春香はがっつきそうになる己の心を抑え、受け答えをしようとする。

「あ、いい。食ってからでいい」

「……すまない。それでは、いただく」

 そっと、彼は合掌する。

「いただきます」

 麦飯は冷えていたが、味噌汁は暖かい。雨に打たれた体には、熱くさえある。ズズッとすすれば、体が芯から温まっていく。涙が、零れた。雷業の象徴たる紅玉の瞳が、潤む。

 涙混じりの食事を終えた、春香は

「ごちそうさまでした」

 とまた合掌した。

「で、聞かせてくれよ。あんたがここにいる理由」

 膳の向こう、胡坐をかいた頸創が言う。

「そうだな、確か──」

頸創けいそうだ。頸を斬るって意味の、縁起のいい名前だ」

 春香は、そっと息を吸う。その隣で、リズがうつらうつらとしていた。

「嬢ちゃんは、先に寝てな。俺はこいつと話すからさ」

「は、はい。そうさせてもらいます」

 リズは使用人に連れられ、隣の座敷で、布団に入った。

「雷天が、滅んだ」

 言葉を弄するのではなく、ただ事実だけを春香は述べる。

「おいおい、悪い冗談はよせよ」

「真実だ。父春成が幽世竈食かくりよへぐいの病に犯され、斃れた所を妖魔の大群に襲われた」

 頸創が、ごくりと唾を呑む。

「あの少女は大陸からの留学生でな、少々込み入った事情がある。故に、伊英に来る兄と合流し……何か情報を持っていないか探る所だ」

「雷天からここまで、歩きで来たのかよ。三日はかかるぜ」

「仕方ない。馬は逃げる者に渡したからな」

 ハアッ、と春香の溜息。

「紅玉の目、つったって病には勝てねえんだな」

 そう言った頸創の声音には、何かから目を逸らすような響きがあった。

「それで、頸創」

 春香は、恩人の名を呼ぶ。

「この恩は、どう返せばいい」

「そうだな、ちっと妖魔狩りを手伝ってくれればそれでいいぜ」

「狩人二人でやるような、妖魔が?」

 頸創の青と緑の混じった瞳が、少し細くなる。

「いるんだよ、龍が」

 龍。妖魔の頂点。

「あるか? 龍を狩った経験は」

 春香は、そっと首を横に振った。

「知識だけなら、ある」

「十分だ。期待してるぜ、雷業の跡取りさんよ」

 恐れは、確かに春香の胸の底にあった。二年前、想い人と共に遭遇したっきり。その時は父に救われた。その父もいない。頼れるは己の肉体と、諸刃の刀だけ。

 やらねばならない。狩人として、雷業として、そして、男として。

「明日の朝に出るとするか。その頃には雨も上がってるだろうしな」

 よっこらせ、と頸創が立ち上がる。

「しっかり休めよ。働いてもらうんだからな」

 そのまま、春香は布団に入った。

 雨の篠突く音に聴覚を支配されながら、暗闇の中で目を開く。眠らなければ、と目を閉ざせば、妖魔と化した侍が蘇る。

(殺すしかなかったんだ、あの時は)

 一度妖魔となった者を救う術はない。龍絶で魂の鎹を砕くしかない。それをわかっていても、枕元の脇差を、腹に突き立てたくなる。

(クィオウ、俺は生きていていいのか?)

 かつての恋人に問いかける。その想いは、もう届かない。

 鶏が鳴いた。春香は、それに意識を戻されることで寝たことに気付く。ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。慣れない空間、己が異物であるように感ぜられる。

(それも、現実か)

 柔らかく暖かい布団に包まれたことで、昨晩までの疲労はどこかに吹き飛んでいた。

 高窓から、陽光が差し込んでくる。

(夜明けを過ぎて起きたのは、いつぶりだろうな)

 二振りの刀を腰に差し、春香は座敷を出る。丁度、リズも出てきた所だ。

「おはようございます、春香さん」

「ああ、おはよう」

 そう言って客間から奥座敷を目指した彼らは、北の台所から出てきた頸創に

「よ、雷業」

 と声をかけられる。

「名前を聞いてなかったな。何て呼べばいい」

「春香だ」

「珍しいな、男にはあんまりいない名前だ」

「そういうこともある」

 頸創の手には、竹皮の包みが二つあった。

「春香、早速行くぞ」

 と言って、彼は春香に片方の包みを渡す。

「握り飯でも食いながら、状況を話してやる」

 リズと視線を交わしてから、春香は玄関へと向かった。土間には、良く磨かれたブーツが二足置いてあった。

「やっぱ、狩人とブーツは相性がいいからな」

 よく晴れた空。田んぼの間を進み、頸創が言う。

「足を守ってくれる」

「それで、何の龍が出ているんだ」

 春香が急かすので、彼はほんの僅かに笑う。青いな、と。

「今回狩るのは、灰鋸龍はいきょりゅう。知ってるか?」

「確か、鋸のような爪と、それが分泌する毒を武器とする龍だろう」

「正解。気を付けろよ、毒を喰らったら三日三晩苦しんで死ぬんだってよ」

 田には、まだ水がない。春も始まったばかりで、桜は花を咲かせていなかった。だが、ほんのり熱を持ち始めた空気で、春香は肺を満たした。

 山に入る。

「村に降りて来てはいないんだろう? そう急がずとも、いいんじゃないか」

 獣道を進みながら、春香が問う。

「俺も、近々ここを離れる。それまで後顧の憂いは断っておきたいのさ……」

「ここの生まれではないんだな」

「ああ。武者修行の帰りさ」

 その答えに、彼は兄を思い出す。もうすぐ会える、あの兄を。

「シッ!」

 そこで、頸創が鋭く声を発する。春香も、何か邪気のようなものを強く感じていた。肌から心臓に入り込み、鼓動を止めてしまいそうなほどの邪気だ。

「いたな……あれだ」

 頸創が指差した先に、彼は灰色の龍を見た。四つ足。前脚の横に翼を生やした蜥蜴、と言った様相だ。

 すらり、二人は得物を抜く。春香、初めての龍狩りであった。

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