تسجيل الدخولそのとき、悠はようやく、紬が本気で関係を終わらせようとしているのだと実感した。自分にはやり直す余地すら残されていない。悠は家に残っていた自分の荷物をすべて箱に詰めた。けれど、そこにはもう紬の痕跡がなかった。彼女は何一つ残さず、きれいに悠のもとを去っていた。悠はまるでその場に取り残された子犬のように、未練を断ち切れずにいたが、どうすることもできなかった。3年間暮らした家を出たものの、どこへ行けばいいのかさえ分からなかった。当てもなく、人混みの中を歩き続けた。大きな喪失感にのみ込まれ、胸にぽっかり穴が開いたようだった。……次に悠と会ったのは、数日後の夕方だった。仕事を終えて会社から出ると、悠が正面玄関の前に立っていた。どれほど待っていたのか分からない。シャツの背中は汗で濡れ、長い間、日差しの下にいたのだろう。警備員が私に近づき、声をかけた。「この人、日陰に入ろうともしないで、ずっとここに立ってたんですよ。何を考えてるんだか……」私は悠に視線を向ける。目の下には濃い隈が浮かび、ひげも伸びている。以前の悠とは、まるで別人だった。私を見つけた途端、悠の顔が明るくなった。悠は急いで駆け寄り、私の手をつかもうとする。私は触れられる前に身を引いた。「紬、ずっと捜してた。今回は俺が悪かった。美月と2人きりで旅行に行くべきじゃなかった。本当にごめん」「もう喧嘩は終わりにしよう。な?」悠は今も、これをただの喧嘩だと思っている。それがたまらなくおかしかった。「美月の連絡先はブロックして削除した。もう二度と関わらないって約束する。だから、前みたいに戻ろう?」「紬はもともと傷つきやすいだろ。俺と別れて、お前に耐えられる男がほかに……」失言に気づいた悠は、途中で口をつぐんだ。「違う。そういう意味じゃなくて……」その言葉を聞いても、私の心は少しも揺れなかった。私は憔悴した彼の目をまっすぐ見つめ、一言一句はっきりと告げた。「今の言葉こそ、私が悠と別れた理由だよ」「悠は、自分がその気になって私をなだめれば、何もかもなかったことにできると思ってるんでしょ?」「悠は自分を買いかぶりすぎてる。心の底では、私があなたなしでは生きられないと思ってる」「あなたの愛は、いつも施しみたい
悠から電話がかかってきたとき、私は本社の会議中だった。1度着信を切っても、すぐにまたかかってくる。何度も続くため、私はスマホの電源を切った。ゆっくりと暗くなっていく画面を見つめながら、3年前のことを思い出した。あのころは、私の表情が少し曇らせるだけで、家へ帰ったあとに悠から何度も電話がかかってきた。私が出なくても、応じるまで悠はかけ続けた。1人で余計なことを考え、気落ちする時間を、悠は少しも与えなかった。あのころの悠は、本当に人を安心させるのがうまかった。自分には愛される価値がないと思い込み、9回も恋に破れた私でさえ、本当の愛と救いは存在すると信じられたほどだ。ただその愛は、手を伸ばした途端、消えてしまう幻のように、あまりにも短かった。会議が終わったあと、私は結局、悠からの電話に出た。電話の向こうでは、悠が長い間、何も言わなかった。聞こえてくるのは、重く乱れた呼吸だけ。このまま何も話さないのかと思ったそのとき、ようやく掠れた声が響いた。「母さんから、紬が結納式を中止にしたって聞いた。どういうことなんだ?」問い詰めるような口調を聞き、思わず笑いが漏れた。「延期するって私を脅したのは悠でしょ?だったら、いっそ全部取りやめようと思ったの。あのとき、ちゃんと伝えたよね?」「悠は何も言わずに、そのまま美月と北陵高原へ行った。旅行は楽しかった?」悠の声には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。「紬、いい加減にしてくれないか?美月とはただの友達だ。こんな些細なことで、俺たちの関係まで壊すつもりか?」私はスマホを強く握りしめ、赴任先の澄みきった青空を見上げた。どこまでも続く広い空。かつての私には、望むことすらできなかった広い世界が、今は目の前に広がっている。海外赴任への応募については、以前、悠にも話したことがある。けれど当時の私は、自分が悠のそばを離れられるとは思えなかったのだ。悠も、どうせ私が辞退すると思い込み、気に留めていなかった。私はずっと、誰かに愛されることで、自分の価値を確かめようとしていた。けれど、信じるたびに裏切られ、何度も傷ついて、ようやく気づいた。自分を支えられるのは自分しかない。自分の価値を証明するために、誰かの愛や承認を求め続ける必要などない。そ
悠と美月は、半月にわたる北陵高原への旅行を終え、ようやく帰ってきた。飛行機が着陸すると、美月は名残惜しそうに言った。「今度、また一緒に北陵高原へ行ってくれる?本当にきれいだったよね。次は何か月か滞在して、思う存分楽しみたいな」本当は、美月はまだ帰りたくなかった。それでも帰ってきたのは、悠が事前に帰りの便を予約し、結納式に間に合うよう日程を組んでいたからだ。美月は不満そうに唇を尖らせたが、ふと何かを思い出したように声を上げる。「そうだ。今夜、みんながバーでお帰りなさい会を開いてくれるって」悠は上の空で、ぼんやりした表情をしている。スマホを何度も操作し、紬とのトーク画面をじっと見つめている。旅行へ出てから半月も経つのに、紬からは1通もLINEが届いていなかった。まるで人間蒸発でもしたかのようだった。以前なら、毎日のように日常の出来事を送ってきた。面白かったことや嬉しかったことを伝え、時にはいつ帰ってくるのかと不満をこぼすこともあったのに。もともと紬は、人に甘えることができないタイプの人間だ。悠が時間をかけて距離を縮め、ようやく素直に甘えてくれるようになったのだ。今はとにかく、一刻も早く家へ帰って紬の様子を確かめたかった。このところ、紬を放っておいた自覚はちゃんとある。もし紬が素直に謝ってくるなら、今回のことはもう責めなくてもいいと思った。そう考えた悠は、美月に手を振った。「先に行っててくれ。少し用があるから、一度家に戻る」帰る途中、悠はわざわざ遠回りをした。向かったのは、いつも1時間以上並ばなければ買えない人気店だった。喧嘩のあとのご機嫌取りには、このケーキを渡すのが1番効果的だった。箱を目の前に置くだけで、紬はいつも大粒の涙を流した。そして悠が謝れば、最後には必ず許してくれた。紬の機嫌を取るのは大して難しくない。悠が自分から歩み寄り、ひと言謝れば、いつも受け入れてくれる。今回もきっと同じだ。悠が期待しながら家へ戻ると、中はがらんとしていた。誰もいない。玄関に並んだスリッパの位置さえ、旅行へ出発した日のままだった。テーブルには埃が積もり、半月の間、誰も暮らしていなかったことが分かる。紬は帰ってきていない。けれど、紬がこれほど長く出張したことは1度もない
悠のスマホの画面が明るくなった。確認しようとした瞬間、美月が不満そうに頬を膨らませた。「私と一緒にいるときくらい、ちゃんと集中してよ。旅行の計画、まだ半分しか決まってないんだから」その言葉を聞いた悠は、一瞬ぼんやりした。紬と付き合い始めたばかりのころも、彼女を安心させるため、一緒にいる間はほとんどスマホを見なかった。紬はいつも、「私は大丈夫だから、用事があるなら気にせず仕事をして」と言っていた。それでも悠は、紬が余計なことを考えないよう、自分からスマホの電源を切っていた。そして彼女を抱きしめ、こう言った。「これからは、紬がそばにいるとき、このスマホなんてただの鉄くずだ」あのころの紬は、そんな言葉だけで頬を真っ赤にしていた。けれど今、美月と北陵高原への旅行計画を立てている悠の心は、どこか上の空だ。自分でも無意識のうちに、テーブルの端に置かれたスマホへ視線が向かってしまう。すべての予定を決め終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。そこでようやく、悠はスマホを手に取る。画面に表示されていたのは、紬が乗った便の離陸通知だった。今回の出張先が海外だと知り、悠は眉をひそめる。胸の奥に、説明のつかない不安がかすかに広がっていく。けれど、その理由は自分でも分からない。悠は、これまで紬と喧嘩したときのことを思い出した。口論になると、紬は決まって何も言わなくなる。1人で部屋にこもり、しばらく考えたあと、自分の悪かったところを見つけて謝ってくる。自分に自信のない人間は、問題が起きると、最初に自分を責めるものらしい。それを思い出すと、悠は少し安心した。今回もきっと同じだ。ただ、今回はいつもより少し意地を張り、海外まで行って気持ちを整理しているだけ。数日もすれば、おとなしく戻ってきて、自分に謝るだろう。悠は紬とのトーク画面を開いたが、途中で手を止めた。【無事に着いたか?】しばらく画面を見つめ、入力した文章をゆっくりと消していく。これ以上、紬を甘やかすべきではない。ここで自分から折れれば、次はもっとわがままになり、もっと理不尽なことを言い出すかもしれない。そう考え、悠はスマホの電源を切った。そして、旅行を楽しみにしている美月を連れ、夕食へ出かけた。……一方、海外へ到着
あの日、私たちは気まずいまま別れた。さすがの悠も、美月をここに住まわせることは諦めただろうと思っていた。ところが、海外赴任の手続きを終えた矢先、父の奥村正志(おくむら まさし)から電話がかかってきた。受話口から聞こえる声には、疲れと戸惑いがにじんでいる。「紬、父さん、迷惑をかけたかもしれない。来週は結納式だろ?少しでも手伝おうと思って早めに来たんだけど、家にお客さんがいるなんて知らなくて……」胸が大きく跳ねた。私は会社を飛び出し、自宅へ向かった。状況が変わり、私は来週に予定していた結納式を中止にしていた。けれど、遠い故郷にいる父に知らせるのをすっかり忘れていたのだ。家に着くと、背中を丸めた父がリビングに立っていた。父が身にまとっているのは、古くてもきれいに手入れされ、丁寧にアイロンがかけられたスーツ。手には大きなビニール袋が提げられていた。父は所在なさげに立ったまま、ソファに座る美月へ何度も頭を下げていた。「すみません。でも、この袋に入っているのは、私が漬けた漬物なんです。こんな袋ですけど、中身は汚くありませんから」父の視線をたどる。美月はクローゼットにしまってあった私のシルクのパジャマを着て、嫌そうな顔で鼻を押さえていた。「悠、早くお金でも渡して帰ってもらってよ。この人、なんか汚いんだけど」父の痩せた背中が強張り、さらに深く腰を曲げる。「私はお金が欲しくて来たわけではありません。悠君、紬は……」それ以上、見ていられなかった。目頭が熱くなるのをこらえながら父のそばへ行き、その手を握った。「お父さん、どうして急に来たの?」私はそのまま、ソファのそばで美月のためにお茶を淹れている悠へ目を向けた。2人は勝手に私の家へ入り込み、まるで自分たちが家主であるかのように振る舞っている。その一方で、父は居心地悪そうに立たされていた。込み上げる怒りを必死に抑え、低い声で問いかける。「どうして勝手に私の家へ入ったの?」悠は私の肩を抱き、気まずそうに答えた。「言っただろ。美月はしばらくここで暮らすだけだ。もともと軽いパニック障害があるから、1人でいると余計なことばかり考えるんだよ」悠の視線が、父の持つビニール袋に留まった。「美月は家を汚されたくなかったから、座らせなかっただけだ。そ
病院でやけどの薬を受け取り、家に戻ると、誰もいなかった。真っ暗な部屋を見て、今日が金曜日だったことを思い出した。この1か月、電気設備の工事で、毎週金曜日はマンション全体が停電している。暗闇が苦手な私のために、悠はどれほど忙しくても早く帰り、冗談を言って笑わせてくれた。けれど、今夜は私1人だった。マンションの住民用LINEには、最近、停電に乗じて酔っ払った男が夜中にドアを叩いて回っているという注意喚起が流れていた。広い部屋に1人でいると、次第に怖さが込み上げてきた。気づけば、腕には鳥肌が立っていた。迷った末、悠に電話をかけた。なかなか出なかったが、ようやくつながると、向こうからは相変わらず大勢の話し声が聞こえてきた。私は乾いた声で、最後の望みを託すように切り出した。「悠、今日は金曜日だよ。この部屋に1人きりは怖いの。私、夜盲症だから……」言い終わらないうちに、冷たい声で遮られた。「紬、そんなに自分勝手にならないでくれるか?お前がさっき途中で帰ったとき、周りの気持ちを考えたか?」「美月はお前のせいで、ずっと自分を責めてたんだぞ。今回は本当にやりすぎだ」「暗いのが怖いなら、いい加減慣れろ。少しくらい我慢すれば済む話だろ。いちいち大げさなんだよ」電話を一方的に切られ、私は膝を抱えて床に座り込んだ。3年前にも、悠から慣れるように言われたことがある。ただ、あのときの彼は私を抱きしめ、優しく囁いた。「俺は一生紬のそばにいる。だから、俺に大切にされることに慣れてくれ」3年前の言葉と今の言葉が頭の中で重なり、胸の奥にかろうじて残っていた最後のぬくもりまで、音もなく引き裂かれていった。そのとき、スマホに上司からメッセージが届いた。【3日後のフライトです。乗り遅れないように】結局、私は眠れないまま朝を迎えた。家の中を片付け始めると、細々としたものが数え切れないほどあることに気づいた。私は悠のお金に頼ろうとしなかった。そのため、悠は毎年、私がウィッシュリストに入れた商品をこっそりすべて買ってくれていた。ソファに置かれたクマのぬいぐるみ。テーブルに並ぶペアマグ。洗面所に置かれた、おそろいの電動歯ブラシ……昨日の歓迎会で、誰かが悠に、美月への帰国祝いは何を用意したのかと尋ねていた。悠は笑いな