LOGIN数ヶ月ぶりに会った彼の姿は、私と同じくらい酷いものだった。私を見た彼の目には、以前にはなかった恐れと気遣いが混じっていた。「明日香……」「私たちの婚約はもう白紙になった。幼馴染みという情を除けば、もう何の関係もない。どうしてここへ来たの?」私が言い終わるか終わらないかのうちに、修也は私をきつく抱きしめた。私の体を自らの骨肉に溶け込ませようとするかのような、凄まじい力だった。押し殺した泣き声とともに、彼の涙が私の肩を濡らしていった。やがて彼はむせび泣きから声を上げて号泣し始め、途切れ途切れの言葉を紡いだ。「婚約は白紙になんかしない。俺たち、一生一緒にいるって約束したじゃないか!」私はゆっくりと瞬きをし、突然手のひらを返したような彼の態度に、一瞬どう反応すべきか分からなかった。彼が口にした約束は、10年前のことだった。両親がまだ生きていて、私と彼が一番親しかった頃。私と腕を組み、笑いながら「将来は絶対に明日香のお婿さんになる」と言ってくれたあの頃。けれど、10年という歳月はあまりにも長すぎた。多くのものを変えてしまうには十分すぎる時間だった。私は力を振り絞って、彼を突き放した。絶え間ない抗がん剤治療のせいで、私の力は日に日に弱まっていた。医者からは、実質的な死刑宣告を受けていた。私は今年の冬を越せそうになかった。ボトル半分の睡眠薬は、私を確実に死の淵へと追いやるのに十分だったのだ。「修也、私の命はもう長くない。これ以上、私を苦しめる必要なんてない。玲奈と一緒にいればいい。あなたは彼女を愛していて、私への気持ちはただの責任だったでしょ。あなたが選べないなら、私が代わりに選んだだけ。百合子さんにも話してある。彼女もあなたたちのことを認めてくれるはず。あなたはもう、自由よ」どの言葉が修也の逆鱗に触れたのかは分からなかった。彼は声にならない叫びを上げ、私のベッドの傍に崩れ落ちるように跪き、泣きじゃくりながら謝罪の言葉を繰り返した。「ごめん、本当にごめん。お前のせいじゃないって、もう全部知ってるんだ。玲奈とも二度と連絡を取らない。昔みたいに戻ろう、な?31回も台無しにしたなら、俺がお前に31回分の結婚式を挙げてやるから……だから、俺を置いていかないでくれ……」修也は赤く腫れ
だが、百合子は何も答えなかった。その沈黙こそが彼女の返答。修也は全身から完全に力が抜け、足をもつれさせて床に崩れ落ちた。彼は、ふと思い出した。――明日香が自分に金を借りに来た時、俺は一体何をした?玲奈が明日香を侮辱するのを傍観し、ただ腹いせのためだけに、何億円もかけて玲奈に豪華なクルーザーを買い与えたのだ。あの時、明日香はどんな思いだったのか?修也は喉の奥で嗚咽を漏らし、目からボロボロと涙を溢れさせた。「母さん、俺が悪かった。明日香がどこにいるか教えてくれ。一番権威のある医者を探すから、あいつは絶対に死なせない」後悔に打ちひしがれる息子の姿を見て、百合子は静かに首を横に振った。「教えるつもりはないわ。修也、人間は自分が犯した過ちを償わなければならないのよ。この3年間、あの子と婚姻届を出さないためにあなたが起こした数々の事故、あの子が気づいていないとでも思っていたの?あの子はただ自分に嘘をついて、あなたが自分を愛しているのだと思い込もうとしていただけよ。そんな子が、他人を自殺に追い込むような真似をするはずがないでしょう?」結局、修也は百合子に家から追い出された。彼は抜け殻のようにフラフラと道を歩いていた。スマホには、玲奈から絶え間なく着信が入っていた。修也は、自分が取り返しのつかない過ちを犯したことを自覚していた。母の言葉の意味が痛いほどよく分かった。彼はただ、すべての責任を明日香に押し付けていただけだったのだ。婚約と恩返しという名目に縛られていると思い込み、自分を被害者だと信じて疑わなかった。だがそれは、明日香に対しても同じように残酷なことだったのだ……修也は再び病院へと戻った。彼を見た瞬間、玲奈の目はパッと明るく輝いた。彼女は得意げに口角を上げた。「修也さん、私を見捨てたりしないって信じてました」玲奈は彼の手を握ろうと手を伸ばしたが、修也はそれを冷たく躱した。修也は氷のように冷たい視線で彼女を見下ろした。「お前が自殺を図ったのは、明日香に追い詰められたからか?」まさか再び同じ質問をされるとは思わず、玲奈は一瞬言葉に詰まったが、すぐに悪びれる様子もなく言い放った。「そうです。修也さん、あんな女と結婚しちゃダメです……彼女はただの金目当ての寄生虫ですよ。結婚
「私のこと、信じてくれないんですか?」修也は煩わしげにうつむいた。明日香の名前を聞くたび、自分の手から何かが滑り落ちていくような焦燥感に駆られていた。「しっかり治せ。もう二度と馬鹿な真似はするな。俺と明日香の結婚は避けられないんだ。この3年間、お前のために俺はあいつを何度も傷つけてきた。お前がやりたいと言っていたことも、あの1ヶ月ですべて叶えたはずだ。これからは、もう連絡しないでおこう」修也はそれだけを言い捨てると、逃げるように病室を後にした。玲奈は呆然とその場に立ち尽くし、伸ばした手は小刻みに震えていた。……修也は人を増員して明日香の行方を追わせたが、それでも彼女を見つけ出すことはできなかった。そしてついに、彼は自分の母親のもとへと足を運んだ。「母さん、明日香がどこにいるか知らないか?突然いなくなって、どこを探しても見つからないんだ」百合子は彼を冷ややかに一瞥し、淡々と言い放った。「探す必要はないわ。あなたと明日香の婚約はすでに白紙に戻したから。あの子が今どこにいようと、もうあなたには関係のないことよ」その言葉は、修也の胸に重くのしかかった。彼は眩暈を覚えながらも、声を荒げて問い詰めた。「婚約を白紙に?どうしてだよ!この婚約は明日香のお母さんが死ぬ間際に決めたことじゃないか。俺たちは恩返しをするって約束したはずだろ!」百合子は皮肉めいた笑みを浮かべた。「恩返しという言葉を知っていたのね。それなのに、あなたは何をしたっていうの?」修也の喉の奥で言葉が詰まった。彼はギリッと歯を食いしばり、それでも確信に満ちた声で言った。「明日香が婚約破棄に同意するわけがない」そんな修也の姿を見て、百合子は深くため息をついた。「あの子から自主的に婚約を破棄すると言ってきたのよ」リビングの空気は重く沈み込み、彼自身のドクンドクンという心音だけが静寂の中に響いていた。修也の唇は微かに震え、一切の言葉を発することができなかった。明日香が自分から婚約解消を口にするなど、彼は微塵も想像していなかった。もし以前の彼であれば、間違いなく喜んでいただろう。この3年間、彼は31回もの「事故」を仕組んだ。明日香を怪我させ、周りの友人たちにも結婚を反対させるように仕向けた。すべては明日香に現実を悟
「患者さんの命に別状はありません。睡眠薬の服用量も少なかったので、間もなく目を覚ますでしょう」医師のその言葉を聞いて、修也はゆっくりと安堵の息を吐き出した。まだ頭の奥がガンガンと鳴り響いていた。すべてが唐突すぎた。ベッドの上でピクリとも動かない玲奈の姿を見た瞬間、彼は確かに恐怖に支配されていたのだ。しばらくして落ち着きを取り戻し始めた頃――不意に、修也の呼吸がピタリと止まった。自分たちの手で無理やり睡眠薬を飲ませた明日香の存在を、唐突に思い出したのだ。激しい後悔が波のように押し寄せてきた。あの場を離れる時、彼の意識は玲奈を救うことだけで一杯になり、明日香のことなど完全に頭から抜け落ちていた。修也は慌てて振り返り、傍らに控えているボディーガードたちに目を向けた。「明日香はどうした?お前ら、あいつを病院に運んだんだろうな。早く医者に胃洗浄させろ。そうすれば、あの件はなかったことにする」ボディーガードたちは顔を見合わせ、気まずそうに口ごもりながら答えた。「社長……あの時、社長は彼女を病院へ連れて行けとは仰いませんでした。ですから我々はご指示通りに動いただけです。神崎さんは、おそらく今もあの部屋に……」その報告を聞いた瞬間、修也の顔からサッと血の気が引いた。玲奈の処置が終わってから、すでに2時間が経過していた。彼が明日香に無理やり飲ませた睡眠薬の量は、大人の人間を2時間で死に至らしめるのに十分な致死量だった。そう気づいた途端、彼は足をもつれさせながら、周りの人々を乱暴に突き飛ばして走り出した。自らハンドルを握り、玲奈の家へと車を走らせた。道中、修也の心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動していた。あまりにも静かすぎる。スマホには何の通知もなく、明日香に何度電話をかけても、コール音が虚しく響くだけだった。玲奈の家のドアは、彼らが出て行った時のまま半開きになっていた。リビングも相変わらず、足の踏み場もないほど散らかったままだった。だが、床の上に転がっている睡眠薬の空ボトルの他に、明日香の姿はどこにもなかった。修也は荒い息を吐きながら、必死に彼女の名前を叫び続けた。「明日香?」何の返事もなかった。ボトルの半分もの睡眠薬を飲み込まされた人間が、一体どこへ行けるというのか?修也はその場に呆然
彼の理性は跡形もなく消え失せ、その顔にはパニックだけが張り付いていた。「明日香……!よくもこんな真似を!」彼は歯を食いしばって私を睨みつけた。長い付き合いになるが、彼がこんな顔をするのを見たのは初めてだった。修也は私に弁解の隙すら与えず、傍にいたボディーガードに命じて、私を玲奈の家へと無理やり連行させた。室内は足の踏み場もないほど荒らされており、彼と玲奈のツーショット写真が床に散乱していた。玲奈は血の気を失った顔でベッドに横たわり、生命力をすべて失ったかのように、胸の上下の動きすら微塵も感じられなかった。修也は膝から崩れ落ち、這うようにして彼女のもとへ近づいた。震える声で呼びかけながら、玲奈の手を強く握りしめる。「玲奈、俺だ。もう結婚なんてしない。明日香と婚姻届も出さないから……だから、早く目を覚まして俺を見てくれ」玲奈の手元には、半分だけ残った睡眠薬のボトルと、血に染まった遺書があった。彼女は自ら命を絶つ理由を、すべて私になすりつけていた。遺書には私への怨恨と告発がびっしりと書き連ねられていた。修也の瞳孔は極限まで見開き、大股で私に詰め寄ると、狂ったように私の首を絞め上げながら怒鳴り散らした。「明日香、一体なぜこんなことをした!?俺と結婚したいなら、願い通りにしてやっただろうが!なのに、どうして玲奈を自殺に追い込んだ!」「彼女が何をしたっていうんだ!」憎しみに満ちた眼差しが、鋭い刃のように私の胸を突き刺す。修也はいつだって、私を信じてなどくれなかった。「彼女を自殺に追い詰めてなんていないし、あなたと結婚したいとも思ってない。ただ、父の指輪を返してほしかっただけ」私は硬い声でそれだけを釈明した。私が何を言おうと、修也は絶対に信じないということを分かっていたから。バシッ、という乾いた音が響いた。目の前が真っ暗になり、痛みが全身へと広がっていった。修也が渾身の力で私を平手打ちしたのだ。彼は血走った目で私を睨みつけると、乱暴な手つきで指輪を引き抜いた。そして、私の目の前で指を離した。床に落ちた指輪は粉々に砕け散り……父がこの世に遺した最後の形見も、永遠に失われてしまった。床に散らばった破片を見下ろして、修也は冷酷に鼻を鳴らした。「こんな安っぽい指輪、欲しけりゃ自分で
【愛は時に、人に責任を忘れさせる】SNSのタイムラインには、こんなメッセージが投稿されていた。コメント欄では、誰もが修也に【大胆に真実の愛を貫け】とエールを送っている。2億円もあれば、私の今後の治療費をすべて賄うのに十分だ。私は自嘲気味に笑った。目の前が涙で霞み、スマホの画面にぽつりと雫が落ちた。少なくとも、これで私と修也は自由になれるのだ。1ヶ月近く、修也からは一切の連絡がなかった。彼はすべての時間を玲奈に捧げているようだった。めったに更新されなかった彼のSNSには、毎日新しい投稿が上がっていた。まるでタイムリミットを計算しているかのように、彼は玲奈と過ごし、やりたいことをすべて叶えていった。そして最後の投稿は、タキシード姿の彼が、玲奈と一緒に撮ったウェディングフォトだった。投稿には【最後に、愛する人がウェディングドレスを着る姿を見たかった】というキャプションが添えられていた。その投稿の翌日のこと。修也から電話がかかってきた。彼の声は少し掠れていた。「明日香、マイナンバーカードを持って役所へ来い」彼はそれだけを告げると、私の返事も待たずに電話を切った。この3年間で、修也から自発的に婚姻届を出そうと言い出したのはこれが初めてだった。断りのメッセージを送信しようとしたその時。ふと、父が遺した形見の指輪をまだ返してもらっていないことを思い出した。少なくとも、あれをこれ以上彼の手元に置いておくわけにはいかない。私は役所へ向かった。この3年間、何度も歩いた見慣れた道だった。珍しく、今回は何のトラブルも起きなかった。入り口で1時間ほど待っていると、ようやく修也が姿を現した。彼の目の下には濃いクマができ、体から漂うタバコの匂いはいつもより強かった。長く一緒にいたからこそ分かっている。彼は思い悩んでいるときにしかタバコを吸わないのだ。1ヶ月ぶりに私を見た彼は、一瞬だけ言葉を失ったように見えた。「お前、どうしてそんな姿に……」病の苦痛に苛まれ、たった1ヶ月で私は骨と皮だけのように痩せこけてしまっていた。彼に言われなくても、今の自分がひどく醜いことくらい分かっている。私が黙っていると、修也はさらに眉間を寄せた。「今日、俺たちは婚姻届を出すんだぞ。本当にその姿で記念写