Masuk翌日。空はどんよりと曇っていたが、星乃の気分はむしろ晴れやかだった。朝、彼女はもう一度医者のもとを訪れ、律人の検査結果を確認した。医者によれば、現在は各数値もすべて正常に戻っており、あと二日ほどで退院できるという。見た目にはまだ少し弱々しく感じたが、医者の言葉を聞いて、張りつめていた心はようやく落ち着いた。保温ポットを手に、星乃は病室へ戻る。律人はすでに目を覚ましていて、誰かと電話中だ。本当はドアの外で少し待つつもりだったが、律人に気づかれてしまった。「わかった。また連絡する」そう言って電話を切ると、律人は微笑みながら近づき、星乃の手にある保温ポットに視線を落とした。「毎朝、誰かにご飯を用意してもらえるのを楽しみに起きられるっていいよな。今日は何?」星乃はポットの蓋を開ける。「へえ、今日は梅がゆか。ちょうど食べたい気分だったんだ。やっぱり星乃は僕のことよくわかってるな」律人は目を細めて笑う。またわざと気を和ませようとしているのが、星乃にはわかる。病気の人は体がつらい分、気持ちも沈みがちになると聞いたことがある。だから以前、悠真が体調を崩したときは、どうにかして元気づけようとあれこれ工夫していた。けれど、律人が入院しているこの数日は、まるで逆だった。彼の体調を心配する星乃をよそに、律人のほうが冗談を言っては彼女を安心させようとしてくる。何度もその様子を見ているうちに、彼がまだ怪我や病気の最中だということを、つい忘れてしまいそうになるほどだった。星乃は笑いながら、そっと彼の頬を両手で包む。「だって、あなたのことが好きなんだもの」「じゃあさ、僕がこれからどんなふうになっても、ずっと好きでいてくれる?」「もちろん」星乃は胸を張って言う。「どんな姿になっても、私はあなたを好きでいるよ」「感動した。じゃあこの人生が終わったら、僕、来世でもまた君を探しに来る」「……」星乃は一瞬言葉に詰まった。いいこと言ってるはずなのに、なんだか少しズレて聞こえる。食事を終えると、律人はティッシュで口元を軽く拭った。何気ない仕草なのに、不思議と品がある。けれど今の星乃には、それを眺めている余裕はなかった。どうやって自分の決断を伝えるか、頭の中で考えていた。昨日、悠真から電話がかかってきたとき、ち
「えっ……違う、結衣さん、ここ数年ずっと星乃のことを調べてたの?」花音はようやく我に返った。さっき目にした膨大な情報のせいで、胸の中がぐちゃぐちゃになり、どこから驚けばいいのか分からない。この資料には、彼女がまったく知らなかったこと、想像すらしていなかったことがいくつも含まれていた。結衣が事故を仕組んで星乃を陥れた数々の証拠に加え、もうひとつ、まったく予想していなかった証拠があった。それは、結衣と怜司のチャットの記録だった。結衣【星乃が妊娠したって聞いたけど?】怜司【そうらしいよ。少し前に検診で病院に来てて、担当の医者がもう三ヶ月だって言ってた】結衣【悠真の子?】怜司【うん】星乃が妊婦検診を受けてから間もなく、怜司も子どもの父親が悠真なのか疑って、こっそりDNA鑑定をさせていた。結果は間違いなく悠真の子だった。【でも結衣、誤解しないで。悠真の気持ちはお前だけに向いてるから】【たぶん彼女、子ども使って悠真を縛ろうとしてるだけだと思う。でも安心して、悠真はそんなのに乗らないよ】画面越しでも、怜司の態度はどこか軽かった。この件を大したことだと思っていないのが、はっきり伝わってくる。五分後、結衣が返信した。【数日後に帰国する】怜司【いいね。今回はどれくらい滞在するの?】結衣【住むつもりよ】【本当に?】その後は帰国の話題が続いていた。はっきり言葉にしているわけではないが、やり取りを見れば一目瞭然だった。結衣は、星乃が妊娠していることをとっくに知っていた。そして、帰国した理由さえ、その妊娠にあった。つまり最初から、彼女が狙っていたのは星乃ではなく……この、何の罪もないお腹の子だったのだ。花音は言葉を失った。そっと悠真を見る。おそらく彼は、もうこの事実を知っていたのだろう。表情は落ち着いていて、取り乱す様子はない。「結衣さんが狙ってたのって……星乃のお腹の子なの?どうしてそんなこと……」どれだけ星乃を恨んでいたとしても、子どもに罪はないはずなのに。「それに怜司さんも、星乃がお兄ちゃんの子を妊娠してるって知ってたのに、どうして言わなかったの?このチャット、本当に本物?もしかして偽物じゃ……それとも星乃が……」「星乃は関係ない」花音が言い終える前に、悠真が静
悠真は唇を引き結び、何か言おうとした。だが結局、その言葉を飲み込んだ。それから少し考え、低い声で口を開いた。「当時、星乃が冬川家に嫁いだのは、篠宮家と冬川家で一緒に決めたことだ。それにあの頃、俺たちの関係はすでに崩れかけていたし、別れた原因を全部星乃のせいにすることはできない。本来なら、彼女にはもっといい未来があったはずだ。でもこの数年、冬川家での暮らしは決していいものじゃなかった。父は彼女に冷たく、母は厳しく当たり、花音も君のことでよく彼女と衝突していた。ついこの前には流産して子どもを失った。それに俺も……」悠真は少し言葉を切り、続けた。「俺だって彼女に対するわだかまりは、君に負けてない。この数年、もしおばあちゃんがいなかったら、彼女はとっくに冬川家にいられなかったはずだ」以前はずっと理解できなかった。なぜ星乃が妊娠していたことを自分に隠していたのか。けれど沙耶と出会い、星乃の立場に身を置いて考えてみて、ようやく気づいた。おそらくあの頃には、すでに離婚を決めていたのだと。結衣の原因で、感情的になって離れようとしたわけじゃない。むしろ、その考えはずっと前から、心の中にあったのだろう。「これを言ったのはな、当時のことが彼女のせいじゃないって話だけじゃない。仮に彼女に非があったとしても、君はもう十分すぎるほどやり返したはずだ。もういい、ここで終わりにしろ。大抵のことは、やり直しがきく。これ以上、過ちを重ねるな」悠真の言葉が静かに落ちる。結衣は凍りついたように固まり、唇に残っていたわずかな笑みも消えた。「もう遅い。帰れ」悠真がそう告げる。結衣は車に乗り込み、振り返った。そのとき、悠真はすでに背を向け、屋敷の方へ歩き出していた。これまでなら彼に送られ、振り返ればいつも遠くで見送ってくれていたのに、今はその背中がひどく冷たく感じられる。星乃のために悠真が口を開いたことへの嫉妬よりも、胸に広がっていったのは不安だった。さっきの言葉、何か含みがあった気がする。――まさか、気づかれた?怜司が明日の計画を話した?いや、そんなはずはない。浮かんだ考えを、結衣はすぐに振り払う。悠真はそこまで勘ぐるタイプじゃない。もし本当に計画を知っていたなら、黙っているはずがない。必ず問い詰めて、止めに入るはずだ。そ
このとき、寝室にいた花音は少し機嫌が悪かった。どうして結衣があんなことを受け入れたのか、理解できなかった。自分も母もずっと味方していたのに、彼女が頑として断りさえすれば、悠真だって無理やり謝らせることなんてできなかったはずなのに。それに、たとえあの時、結衣がわざと事故を仕組んだせいで星乃が流産したとしても、結衣は事前に星乃が妊娠しているなんて知らなかったはずだ。せいぜい過失のようなものだし、ここまで大ごとにする必要なんてないだろう。そもそも最初に悠真を奪ったのは星乃のほうで、そのせいで結衣は別れることになった。ここ数年ずっとつらい思いをしてきたのだから、怒りをぶつけたくなるのも当然だ。もし自分だったら、遥生と幸せに付き合っているのに、誰かに邪魔されて引き裂かれたら、きっと同じように怒ってやり返すに決まっている。遥生のことを思い出し、花音はため息をついた。スマホを取り出し、わずかなやり取りしか残っていないチャット画面を見ると、胸の奥が重くなる。最後の数件は全部、自分から送ったメッセージだった。遥生からは一通も返信が来ていない。もともと彼は自分に対してよそよそしかったが、結衣の肩を持つような電話をしてからは、完全に既読すらつけずに無視するようになった。ほんと、腹が立つ。遥生まで星乃の味方をするなんて、この世界はもうめちゃくちゃだ。どうしてもこの苛立ちが収まらず、花音は少し考えてから悠真の書斎へ向かった。もう一度、この愚かな兄を説得するつもりだった。兄がまだ星乃に未練を残しているのは分かっている。けれど未練があるにしても、結衣の好意に甘えてこんなふうに人を踏みにじるのは違う。あとで後悔するくらいなら、今のうちに止めたほうがいい。悠真は結衣を見送りに行ったまま、まだ戻ってきていなかった。花音は手持ち無沙汰に机の上の書類をぱらぱらとめくる。その中の一枚を見た瞬間、思わず手が止まった。……庭では。ライトが明るく灯り、昼間のように照らし出されている。冬川家の運転手が門の前に車を停め、結衣を送る準備をしていた。悠真の表情は冷え切っていた。さっきから一言も口を開かず、外まで見送る足取りもどこか急いでいる。結衣が追いついて声をかける。「顔色が悪いよ? まだ体調戻ってないんじゃない?」軽く
家族の食事会が終わると、登世は使用人に支えられて部屋へ戻った。その道すがら、使用人はどこか腑に落ちない様子でいた。「今日、何かおかしいと思ったでしょ?」と登世が言う。その使用人は気まずそうに笑った。今日の家族の集まりは、どうにも複雑な気持ちにさせられた。星乃は冬川家に嫁いで五年。少し前に妊娠していたのに、家の者は誰も知らず、結局その子は流れてしまった。それなのに、登世と悠真を除いて、皆がまるで示し合わせたかのように加害者をかばった。とはいえ……長年登世のそばで仕えてきた彼女は、どれだけ登世が星乃を可愛がっているかをよく知っている。けれど、悠真は?彼はいつも結衣をかばっていたはずなのに、どうして今日は星乃の味方をしたのか。どうにも理解できない。もっとも、これは冬川家の内情だ。使用人の立場で口を挟むわけにもいかない。使用人は黙っていたが、登世は彼女の考えを見抜いたように言った。「長くここにいるんだもの、もう家族みたいなものよ。遠慮しないで言いなさい」そう言われて、彼女はしばらく考えてから口を開いた。「悠真様と星乃さんは仲がいいとは言えませんが……でも悠真様は根は優しい方ですし、それに流産したお子さんも悠真様のお子さんですから。結衣さんに謝らせたのは理解できます。ただ……まさか、人前で謝らせるとは思いませんでした……」これまでの悠真の結衣への態度は、皆がよく知っている。それが今では、公の場で謝罪させただけでなく、この件をわざわざ家族の席に持ち出した。まるで結衣に逃げ道を残さないようにしているかのようだ。以前の悠真なら、結衣に少しでもつらい思いをさせることなんて絶対にしなかったはずなのに。登世が倒れて運ばれたあのときも、星乃が安心して見舞いに来られるよう、悠真はわざわざ家の者を止めていた。あの様子から、彼が星乃のことを多少なりとも好きだということは分かっていた。それでも、好きだからといって、ここまで結衣に冷たくするとは思えなかった。登世は小さく笑った。「きっと、自分の思い込みが崩れたってことじゃないかしら」使用人は軽く首をかしげる。登世は続けた。「無理やり引き離された恋ほど、あとを引くものなのよ。だから結衣と別れたあと、悠真は自分が彼女にしてしまったことばかり覚えていて、ずっと罪悪感で埋
悠真が結衣を連れて来ると聞いても、冬川家の面々はもう驚きもしなかった。というのも、いま結衣のお腹には冬川家の子どもがいる。佳代もその子のことがあって、結衣の嫁入りに反対しなくなり、登世も大病を患って以来、悠真の結婚にはもう口を出さなくなっていた。あのとき登世が目を覚ました後、佳代が結衣を受け入れるよう説得しようとしたが、登世はただ一言こう言った。「星乃と悠真はもう離婚したんだから、その先の妻が誰になるかは、あなたたちで決めなさい」その意味ははっきりしている。登世にとって、一番の嫁は星乃だけで、それ以外は誰でも構わないということだ。今や瑞原市中が、星乃が律人と一緒にいることを知っている。少し前には、星乃が結衣を訴えた件が大きな騒ぎになり、冬川家は結衣を徹底的にかばった。その時点で、星乃と悠真が復縁する可能性は完全になくなっていた。そのため佳代は、登世が結衣の嫁入りを認めたものと自然に受け止めていた。だから今回の家族の食事会も、佳代が悠真に結衣を呼ぶように言ったのは、結婚の話を進めるためだった。その話を知っていた花音はとりわけ嬉しく、事前に結衣へそれとなく知らせていた。結衣も胸いっぱいに期待を膨らませていた。だが、誰も予想していなかった。食事会が始まって間もない頃、悠真が「明日、冬川家の本家で記者会見を開き、結衣に星乃へ公に謝罪させる」と切り出すとは。その一言で、その場の全員が凍りついた。結衣自身、心の準備はしていた。いつかはこうなるとわかっていたからだ。それでも、あまりにも大きな落差に、どうしても気持ちが沈む。それ以上に、悠真が家族全員の前でこの話を切り出すとは思ってもいなかった。花音は箸をテーブルに叩きつけ、真っ先に反対した。「お兄ちゃん、私は反対よ。冬川家で記者会見なんて開いて、結衣さんに星乃へ謝罪させるの?そんなことしたら、家の面目はどうなるの?結衣さんの立場だってあるでしょ。それに、結衣さんのお腹にはあなたの子どもがいるのよ!もし動揺して体に負担がかかったらどうするの?」悠真はちらりと彼女を見ただけで、考えを引っ込める気配はまったくなかった。淡々とした声で言う。「星乃と、俺の子どもは……あの事故で亡くなった」花音は一瞬言葉に詰まり、小さくぼそっと呟いた。「それでも……裏で謝れば済む話じ