Masuk
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。
木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。
「甘い」
低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。
手のひらが痺れる。
だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。
夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。
本当なら、切ってしまいたい。
もっと短く。
弟のように。そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。
しかし父の一撃は重い。
受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。
乾いた音が庭へ響く。
「……参りました」
膝をつきながらそう言うと、父は小さく息を吐いた。
「動きは悪くない。だが力任せだ」
「はい」
「お前はもっと冷静に相手を見るべきだ」
そう言って父は木剣を下ろす。
厳しい人だ。
だが決して冷たいわけではない。幼い頃から、父は朱璃へ剣を教えてきた。
倭国では、武家の娘も武を学ぶ。
家を守るため。 己を律するため。だが、それはあくまで“娘として”だった。
「兄上ーっ!」
庭へ駆け込んできた小さな影に、朱璃は目を瞬かせた。
淡い桃色の着物を翻しながら飛び込んできたのは、末の妹・琴葉だった。
「兄上、また父上とお稽古してたの!?」
「こら、琴葉」
朱璃は思わず笑う。
「そんな勢いで走ると転ぶよ」
「だって兄上のお稽古好きなんだもん!」
無邪気にそう言って、琴葉は朱璃の腕へ抱きつく。
その後ろから、侍女が困ったように頭を下げた。
「申し訳ございません、姫様。琴葉様、“兄上”ではなく“姉上”ですよ、と何度も――」
「えー」
琴葉は不満そうに頬を膨らませる。
「でも兄上の方がかっこいいもん」
一瞬だけ、空気が止まった。
侍女が困ったように視線を下げる。
父も何も言わない。
朱璃は静かに笑った。
「ありがとう、琴葉」
ただ、それだけ返す。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
誰にも理解されないことがあっても、琴葉だけは、いつも自然に自分を見てくれる気がした。
「姉さん」
不意に声がして、朱璃は振り返る。
廊下の向こうに立っていたのは弟の蒼真だった。
まだ十五になったばかりだが、既に父に似た鋭い目をしている。
次期当主として期待されている弟。
けれど朱璃は知っている。
蒼真が、本当は優しい人間だということを。
「父上、お客様がお見えです」
「……客?」
父が眉を寄せる。
蒼真は小さく頷いた。
「龍蘭帝国からの使者だそうです」
その瞬間、父の表情が僅かに変わった。
朱璃はその空気に気付く。
何かある。
そう思った時には、既に嫌な予感が胸へ広がっていた。
◇
夜。
屋敷の大広間には重たい空気が満ちていた。
倭国の武家らしく質素に整えられた室内。
その中央に、異国の装束を纏った男が座っている。煌びやかな刺繍。
鮮やかな深紅の衣。倭国とは違う空気を纏ったその男は、静かに朱璃を見た。
「こちらが朱璃姫ですか」
値踏みするような視線。
朱璃は僅かに眉を寄せた。
「……初めまして、神凪家長女の朱璃と申します。」
形式通り頭を下げる。
男は満足そうに笑った。
「龍蘭帝国第三皇子殿下のもとへ嫁がれるには、少々武人らしすぎる気もしますが……顔立ちは美しい」
朱璃の指先がぴくりと動く。
父は静かに口を開いた。
「朱璃」
低い声だった。
「お前に縁談が来た」
やはり。
胸の奥が冷えていく。
「相手は龍蘭帝国第三皇子だ。」
朱璃は黙ったまま父を見る。
「お前は後宮へ入ることになる。」
その言葉に、琴葉が目を丸くした。
「こうきゅう?」
「琴葉」
母が優しく制する。
だが朱璃には、周囲の声が遠く感じられた。
後宮。
女たちが、美しさと寵愛を競う場所。
そんな場所へ、自分が?
「……何故、私なのですか」
気付けば口にしていた。
「蒼真がいるでしょう」
空気が変わる。
父が眉を寄せた。
「朱璃」
「僕は――」
その言葉を、朱璃は飲み込む。
違う。
言ってはいけない。
ずっとそうやって生きてきた。
「私は、後宮向きではありません」
「これは国のためだ」
父の声は静かだった。
「龍蘭帝国との関係は重要になる」
「だから僕が行けと?」
「朱璃!」
父の声が鋭くなる。
しまった、と思った時には遅かった。
広間が静まり返る。
朱璃は唇を噛んだ。
今、“僕”と言った。
幼い頃から時々出てしまう癖。
母が悲しそうに目を伏せる。
父は深く息を吐いた。
「……お前は姫だ」
その一言が、胸へ深く刺さる。
「武を学ぶのは良い。だが、それを忘れるな」
朱璃は拳を握り締めた。
分かっている。
父に悪意がないことくらい。
父は家を守ろうとしているだけだ。
それでも。
それでも苦しい。
「……姉さん」
隣で蒼真が小さく呟く。
その声に振り返ると、蒼真は俯いたまま言った。
「姉さんの方が、強いのに」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
けれど、その言葉は確かに朱璃へ届いた。
父は気付いていない。
母も。
誰も。
ただ朱璃だけが、蒼真の苦しさを知っていた。
男として生まれた弟。
その理由だけで、自分より多くを与えられてしまう弟。
「蒼真」
「……ごめんなさい。」
朱璃は目を見開く。
「俺が男に生まれただけで、全部俺のものになってしまう。」
蒼真の拳が震えていた。
「本当は姉さんの方が――」
「やめなさい」
朱璃は静かに笑った。
「そんな顔しないで」
その笑顔が、自分でもひどく弱々しく感じた。
広間の外では、夜風が静かに庭木を揺らしている。
遠い異国の空を思いながら、朱璃はそっと目を伏せた。
――後宮。
そこへ行けば、自分は“姫”として生きるしかないのだろうか。
それとも。
まだ、何かを変えられるのだろうか。
夜の静寂が、重々しく王宮全体を包み込んでいた。 月明かりが石畳を照らす中、巡回を行う近衛兵の靴音や夜警の拍子木が遠くで規則的に響いている。 神凪朱璃(しゅり)は、男装の衣装――『正任近衛・高(ガイ)』の装いに身を包み、堂々とした足取りで通路を歩いていた。王宮全域を守る近衛兵の中でも、見習い時代に第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下が居住する『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』周辺の警備部隊に配属されていた朱璃は、このあたりの巡回ルートや警備の隙を熟知している。さらに正任近衛となった今では、夜間に王宮内を移動していても怪しまれることはない。 すると、前方の角から松明を持った数人の近衛兵が歩いてくるのが見えた。朱璃が足を止めると、その先頭にいた見回り隊の隊長――張文(チャン・ウェン)部隊長が目を留めた。「む、高(ガイ)か。」「張部隊長。夜間の巡回、お疲れ様です。」 朱璃がすっと背筋を伸ばして礼をとると、張部隊長は満足そうに頷き、その肩をぽんと力強く叩いた。「見習いを卒業して正任になったそうだな。お前の腕と判断力なら当然だ。ますますの活躍を期待しているぞ。」「ありがたき幸せにございます。」 部隊長率いる隊がすれ違いざまに去っていくと、その隊の末尾にいた見習い時代の同期――気心知れた見習い近衛の友人二人組が、隊列から少し遅れて朱璃の元へニヤニヤしながら駆け寄ってきた。「おいおい、相変わらず張部隊長からの受けがいいなぁ、漣(レン)!」「本当だよ。正任昇格、おめでとう! さすが漣だな!」 声をかけてきたのは、華やかな顔立ちで優しい**明俊(ミンジュン)と、気さくで明るい永和(ヨンファ)**の二人であった。朱璃は苦笑いを浮かべながら声を潜めた。「声が大きいよ、ふたりとも。……ありがとう。二人もじきに正任になれるさ。」「へいへい。まあ俺たちはボチボチやるよ。……あ、そういえばお前、こんな時間に何してるんだ?」 永和が不思議そうに首をかしげると、朱璃はごく自然な様子で小さく微笑んで見せた。「少し寝つけなくてな。夜風に当たるついでに、散歩がてら見回りをしていたんだ。」「うわー、流石は正任の漣様だねぇ! 俺たちも一回でいいから『散歩がてら見回り』なんて格好いいこと言ってみてぇよ!」「ふふ、でもあの冷静な漣が寝つけないなんて珍しいね。どうか
神凪朱璃(しゅり)の「九等嬪から七等嬪への飛び級昇格」という破格の沙汰は、瞬く間に後宮中を駆け巡った。 「朱璃様。七等嬪への昇格、本当におめでとうございます!」 「ふふ、あの皇帝陛下に認められて飛び級だなんて、後宮の歴史に残る快挙ですわね。」 華やかな彩りに満ちた宮殿で朱璃を迎えたのは、貴妃・蓮華(レンカ)様、賢妃・玲鳳(レイホウ)様、そしてもちろん主である麗華(レイファ)様であった。 二人は朱璃の快挙を心から祝福し、貴妃主催のお祝いの茶会を開いてくれたのだ。テーブルには、最高級のシルクの反物や、朱璃が好みそうな珍しい薬草・極上の茶葉といった豪華な祝いの品々が並べられている。 「お二人からの温かいお心遣い、身に余る光栄にございます。……ですが、私の方が位が下でございますのに、皆様に『朱璃様』と呼ばれるのは少し恐れ多く……。」 申し訳なさそうに遠慮する朱璃に、三人はそれぞれの反応を見せる。 「良いのですよ! あなたの淹れてくださるお茶やお菓子、知識には心から敬意を払っておりますの。私にとっては『朱璃様』ですわ。」 「ええ、位など関係ありません。私もそう呼びたいから呼んでいるだけですもの。」 上品に微笑む賢妃様と貴妃様。すると、横で聞いていた麗華様がパッと扇子を広げ、鼻息を荒くした。 「だ、ダメに決まっているでしょうお二人とも! 朱璃は私の延明宮の妃なのですからね! 私以外が気安くそんな……っ、でも、朱璃がすごいのは本当だから。……ふんっ、今回だけは許してあげますわ!」 相変わらずのツンデレを発揮する麗華様に、貴妃様たちは 「ふふっ。」 と笑い声を漏らす。 「いいのですよ、麗華様。困らせてしまい申し訳なかったわね。……それにしても、あの皇后派の苦々しい顔といったら…。…思い出すだけで胸がすくわ。」 悪戯っぽく微笑む貴妃様。楽しい時間はあっという間に過ぎ――。 「それじゃあ、そろそろお開きにしましょうか。朱璃様、またお茶会にご一緒していただけるかしら?」 「もちろんでございます、貴妃様。光栄に存じます。それでは、失礼いたします。」 朱璃はお暇の挨拶を静かに告げ、麗華様と共に離宮へと戻っていった。 * 離宮へ戻ると、留守番をしていた小鈴(シャオリン)が出迎えた。お祝いの品の豪華さに、
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。 「……見事であった。下がってよい。」 「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は (ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか) と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 * 「朱璃! どうだったの!?」 「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。 口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら 「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」 と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。 「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。 「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、 「はーい……」 と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。 「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出
前夜の極秘の密会を無事に終え、朝を迎えた朱璃(しゅり)。 主である麗華(レイファ)様の元へ向かうと、案の定、麗華様は昨日の貴妃・賢妃との会話を思い出しては、気分が落ち着かないかのようにソワソワしていた。 「もうっ! 今日もあの二人のお姉さま方に朱璃を連れ回されたらどうしましょう。……朱璃は私の延明宮の九等嬪なのですからね!」 「ふふ、麗華様。そんなに怒られず、どうぞお気を鎮めてくださいませ。」 朱璃はくすりと微笑みながら、湯気の立ち上る淹れたてのお茶を麗華様の杯へと静かに注ぐ。 香り高いお茶の匂いが部屋に広がる中、朱璃は言葉を続けた。 「貴妃様と賢妃様お2人ともお茶の伝統や薬効に関心をお持ちなだけですわ。」 「そんなこと絶対にないわ! あの二人も朱璃の魅力に気づいたのよ。……絶対そうよ……!」 お茶を受け取りつつも、「私の朱璃」が他のお姉さま方に奪われてしまうかもしれない焦りから、キッと目を巡らせておこる麗華様。 そんな主の横で、専属侍女の翠蘭(スイラン)が 「まあまあ、麗華様……。朱璃様が他宮のお方からも高く評価されるのは、私共にとっても大変誇らしいことでございますよ。」 と苦笑しながら優しく宥めた。 そんな賑やかな朝のひとときを打ち破るように、宮の外から重々しい足音が近づいてきた。 現れたのは、皇帝直属の太監(たいかん)――侍従長であった。 「――九等嬪・朱璃に、皇帝陛下より勅命である!」 太監の甲高い声が響き渡り、一瞬で延明宮の空気が凍りついた。小鈴(シャオリン)はガタガタと震え出す。 「此度の茶会の噂、陛下の耳にも届いておられる。『泰然(タイゼン)王子を感銘せしめた倭国の茶と菓子を、直ちに御前(ごぜん)にて披露せよ』とのこと。急ぎ道具を整え、謁見の間へ参られたい。」 「えぇっ……。皇帝陛下からのお呼び出しですか!?」 驚く小鈴を余所に、パッと扇子を広げた麗華様は、待ってましたと言わんばかりに誇らしげに胸を張った。 「ふふん、当然ですわ! 朱璃の淹れるお茶やお菓子が世界一なのですから、皇帝陛下がお聞きつけになるのも時間の問題でしたのよ! ほら見なさい、私の朱璃が認められたのですわ!」 パッと扇子を広げて自慢げに胸を張る麗華様。周
「母上! あのような素晴らしいお茶や菓子を作れる朱璃殿が、なぜ九等嬪のままなのですか!? 父上もです! お二人はあの方の凄さを何もお分かりになっておられません!」 茶会が明けた翌日。皇后の宮には、興奮冷めやらぬ第3王子・泰然(タイゼン)殿下の叫び声が響き渡っていた。 「た、泰然……! なにを大声で言い出すのです、おやめなさい!」 「やめません! 私は……私は幼い頃から、倭国の朱璃殿が自分の婚約者になると聞いてずっと楽しみにしておりました! それなのに、いざ後宮へお迎えしてみれば九等嬪の雑用扱いだなんて、あまりに酷すぎます! なぜ私の大切な方をそのような扱いにされるのですか!?」 真っ直ぐな瞳に涙を浮かべんばかりにして、幼い頃からの憧れの姫への情熱と怒りを親にぶつける泰然殿下。 まさか自分の息子からそこまで痛烈に問い詰められるとは思ってもいなかった皇后は、動揺を隠せない。 (くっ……よりによって、この子があの倭国の姫にここまで執着していたなんて……!) 朱璃をハメようと意地悪く罠を仕掛けたはずが、かえって大事な息子の反抗期を引き起こし、隠していた不遇な扱いまで暴露されてしまったのだ。皇后は焦りを隠すように扇を固く握りしめ、厳しく言葉を返した。 「泰然、口を慎みなさい! どのような経緯があろうとも、一度後宮に入宮した者はすべて皇帝陛下の妃なのです。あなたが口を挟むことではありません!」 「ですが――っ!」 「泰然、貴方っ!」 「よい、皇妃。」 親子の激しい喧嘩を制したのは、それまで静観していた皇帝の重厚な声だった。 皇帝はあごに手を当て、どこか感心したように泰然を見つめる。 「ふむ……。そういえば倭国の九等嬪は、元はお前の婚約者として召し出された姫であったな。……泰然がそこまで熱弁を振るうほどのお茶と菓子か。一度、私も味わってみたいものだな」 「あ、えっと……父上……!」 「陛下……!?」 息子の一途な怒りと、それによって「朱璃」という存在に強い興味を抱いた皇帝。 皇后は自らの罠が完全に裏目に出て、息子にも夫にも朱璃の存在感を植え付けてしまったことに、ぐぬぬと唇を噛み締めて歯噛みするしかなかった。 さらに泰然殿下は、その日、同年代の幼い貴族や家臣たちにも 「朱璃殿の『くず餅』と茶は世界一な
後宮という場所は、一筋の風よりも早く噂が駆け巡る場所である。 「ねえ、聞いた? 九等嬪の倭国の姫様が、ご自分で茶会を開かれるんですって」 「まあ……! 御厨の下働きとして召し出されたお立場ですのに、身の程知らずなことですこと。どうせ大恥をかいて終わりですわ。」 絢爛豪華な宮の陰では、位の高い妃たちが扇の影でクスクスと意地悪な嘲笑を漏らしていた。 だがその一方で、日頃から朱璃(しゅり)の優しさに触れてきた下位の宮女や侍女たちの間では、まるで違う会話が交わされていた。 「朱璃様がお茶会を!? 収穫祭のときのお料理も本当に美味しかったもの、どんなお茶を出してくださるのかしら!」 「お優しくてお美しい朱璃様のお茶会だもの、私とっても楽しみだわ!」 そんな交錯する噂が延明宮(えんめいきゅう)の耳にも届き、真っ先に怒りを爆発させたのは麗華(レイファ)様と小鈴(シャオリン)だった。 「キーッ! 何よあいつら、好き勝手言っちゃって! 朱璃の素晴らしさを何一つ分かっていないくせに!」 「そうですとも! 朱璃様をバカにするなんて許せません!」 ぷんぷんと肩をいからせる二人に対し、渦中の朱璃はといえば――。 「ふふ、噂になるのは良いことですわ。それだけ皆様が関心を持ってくださっているということですもの。」 どこ吹く風で穏やかに微笑みながら、優雅な手つきで茶葉の蒸し加減を確かめているのだった。 * そして迎えた茶会当日。延明宮の美しく手入れされた庭園には、色とりどりの華やかな衣装を身にまとった妃嬪たちが集まっていた。 魏淑妃(ぎしゅくひ)は (ふん、侍女に命じてそこらの雑草と……あの毒草を適当に詰め込ませただけの箱よ。あんなゴミ同然の代物で、一体どんな無様な茶会が開かれるのかしら) と、品のない笑みを浮かべて朱璃を眺めていた。 だが、会場の空気が一変したのは、最高権力者である皇后が姿を現した時だった。 「――皇后殿下、お成り。」 重々しい声と共に進み出た皇后の隣には、予期せぬ人物が佇んでいた。高貴な絹の衣装を纏い、どこか物憂げな眼差しを浮かべた青年――第3王子・泰然(タイゼン)殿下である。 「え……っ、なぜ泰然殿下がここに……!?」 「男子のお立ち入りが許されないお茶会に、なぜ王家の方が……?
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は