เข้าสู่ระบบ神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。
つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。
代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。
玄関先には、両親が並んで立っている。
父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。
――家を、売る。
朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。
倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。
頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。
「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」
父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。
朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。
「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」
顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。
蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。
「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」
朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。
「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う、誇り高き次期当主よ。私の分まで、この倭国を……神凪の地を守り抜いて」
「姉さん……」
「大丈夫。私なら、どこへ行ってもやっていけるわ。私の強さは、お前が一番よく知っているでしょう?」
そう言って不敵に笑ってみせるが、自分の声がどこか遠い他人のように響く。
その時、屋敷の奥から空気を切り裂くような、幼く高い泣き声が響いてきた。
「姉様ぁっ! お兄様、行かないでぇ!」
淡い桃色の着物を大きく翻しながら、末の妹の琴葉が雪崩れ込んでくる。侍女たちが「姫様、いけません!」と慌てて止めようとするが、朱璃はそれを片手で制して、泣きじゃくる妹を力いっぱい腕の中に抱きしめた。
柔らかな髪の匂い。生きている温かい体温。これが、明日からはもう、触れることすら許されない「故郷の光」になる。
「琴葉、いい子だから。……ほら、これをあげる」
朱璃は自分の長い黒髪に挿していた、木製の古びた櫛を抜き取り、妹の小さな手の中にそっと握らせた。それは、かつて朱璃が初めて剣の試合で勝った際、父から贈られた数少ない「娘としての品」だった。
「毎日、これで髪を梳かして。そうすれば、私がいつか必ず帰ってくるってわかるから」
優しい嘘をついた。
海を渡れば、二度とこの神凪の門をくぐることはないだろう。
「琴葉を頼みました」
朱璃はすがりつく琴葉を優しく、しかし確実に引き剥がし、控えていた侍女へと託した。そして、一度も振り返ることなく、目の前に構えられた異国の馬車へと飛び乗った。
バタン、と重い扉が閉まる。
格子の隙間から見える倭国の瑞々しい景色が、車輪の動きと共に、音もなく遠ざかっていった。
◇
馬車の中で、朱璃は膝の上で拳を強く握り締めていた。
窓から見える景色は、見慣れた緑豊かな山々から、港を経て、海を渡り、次第に龍蘭帝国の広大で険しく、乾いた大地へと変貌していく。空気の匂いすら、倭国の木々の香りとは違い、土埃と、嗅ぎ慣れない濃厚な香料の匂いが混じり合っていた。
(僕は、本当に後宮に入るのか……)
誰もいない車内で、ふと、自分の中に潜む“僕”という言葉が顔を出す。
本当の自分は、剣を握り、泥にまみれて稽古したあの夕暮れに置いてきてしまった。故郷の匂いが、胸が締め付けられるほど恋しい。
(……いや。泣くな。国のため、家族のためなら。僕は……私は、どんな泥水でも飲んでやる)
朱璃はゆっくりと目を閉じ、心の中で幾度も自分に呪文をかけた。私は姫だ。私は、神凪の家を守るための、美しく従順な姫なのだ、と。
しかし、その覚悟は、旅の途中で合流した他国の姫たちとの「淑女教育」の場で、さらに残酷に削られることとなる。
龍蘭帝国の帝都へ向かう中継地の大広間。集められたのは、周辺の属国や同盟国から集められた、後宮入りの候補たる姫君たちだった。彼女たちはみな、絹のドレスをまとい、蝶のように華やかだった。その中で、武家育ちの朱璃の存在は、あまりにも異質だった。
「あら、あれが倭国の神凪の姫様?」
一人の姫が、細い指先で金色の扇を広げ、口元を隠してクスクスと笑った。彼女は南方の小国から来た、贅沢に育てられた姫だった。
「歩き方が少し、大股ではありませんこと? まるで市場を歩く兵卒のようですわ」
その言葉に、周囲の姫たちやその侍女たちが一斉に冷ややかな視線を朱璃に注ぐ。朱璃は背筋を伸ばしたまま、ただ静かに視線を落とした。
「……長旅の疲れで、不調法をいたしました」
形通りの謝罪を口にするが、彼女たちの嫌がらせはそれで収まるほど甘くはなかった。夕食の席、朱璃が箸を取った瞬間に、隣の席の姫がわざとらしく自分の長い袖を翻した。
「すり」と、朱璃の肘に鋭い衝撃が走る。
彼女の指の動きなら、その程度の細工は容易にかわせた。だが、ここで完璧な身のこなしを見せれば「やはり可愛げのない武人気質だ」とさらに目を付けられる。朱璃はあえてそのまま膳を受け止めたが、衝撃で汁物の椀がひっくり返り、朱璃の衣装の裾を赤黒く汚した。
「まあ! ごめんなさい。でも、お箸の持ち方も随分と武骨ですもの、手が滑ってしまわれたのかしら?」
「ふふ、武芸がお好きだなんて野蛮な噂を聞いたけれど、本当のようですわね。手のひらも硬くて荒れていらっしゃるし。後宮の舞には、もっとしなやかで柔らかい身体が必要なのに。そんな泥臭い身体で、タイラン殿下のお心を惹けると思っているのかしら」
クスクスと響く、鈴の鳴るような、しかし毒の混じった笑い声。
朱璃は表情ひとつ変えず、静かに膝をつくと、手元にあった布で黙々と床と衣装の汚れを拭き取った。
怒りではない。ただ、この狭い箱庭の女たちの間で、感情を爆発させることに何の意味もないと知っているだけだ。しかし、彼女たちにはそれが「言い返すこともできない、臆病で無能な落ちこぼれの姫」に見えたようだった。
嫌がらせは日ごとに陰湿さを増した。朝起きれば衣装に墨が飛び散っていたり、淑女としての歩き方を指導される際、わざと足元に簪(かんざし)を落とされたりした。
けれど、朱璃はすべてを無表情で耐え抜いた。掌の皮膚が割れ、血がにじむほど、自分の爪を肉に突き立てて、心の中の「獣」を抑え込んだ。
◇
やがて、旅の終着点である帝都の中心、巨大な朱色の門が目の前に現れた。
龍蘭帝国――後宮。
それは、数千人の美女が一生をかけて一人の皇帝、あるいは皇子の寵愛を奪い合う、絢爛豪華な人間たちの鳥籠。
到着した翌日、朱璃をはじめとする新入りの姫たちは、広大な宮殿の最奥へと通された。
そこに鎮座していたのは、帝国の頂点に立つ女性、皇后であった。
皇后は、年齢を感じさせない圧倒的な美貌を持ち、その身体には数え切れないほどの宝石と、本物の金糸で織られた龍と鳳凰の刺繍を纏っていた。彼女がただそこに座っているだけで、周囲の空気が重圧で押し潰されるかのような錯覚を覚える。
並べられた姫たちが一斉に床へ平伏する中、皇后の冷徹な、すべてを見透かすような瞳が、一人一人を品定めするように移動していった。その視線が朱璃の頭上で止まる。
「……倭国の、神凪の娘か」
地を這うような、低く静かな声が響いた。朱璃は額を床につけたまま、息を潜める。
「聞き及べば、故郷では男に混じって剣を振るっていたとか。龍蘭の後宮は、血を流す戦場ではない。男の真似事などという、醜い野蛮な悪癖は今この場で捨て去りなさい」
皇后の言葉は、朱璃のこれまでの人生そのものを根底から否定するものだった。周囲の姫たちが、小さく勝ち誇ったような息を漏らすのがわかる。
皇后は冷ややかに、しかし絶対的な命令を告げるように、全姫君たちに向けて言い放った。
「お前たちに求められるのは、ただ一つ。この後宮という大いなる庭の美しさを損なわぬ、従順な『花』であること。色香を競い、世継ぎを残すことだけが、お前たちの存在意義。牙を持つ獣など、この美しき檻には不要なのです」
牙を持つ獣は不要。
その言葉が、朱璃の胸の奥に冷たく突き刺さる。
――ここには、やはり「僕」の居場所など、ひとかけらもないのだ。
「……御意にございます。皇后陛下」
朱璃は声を押し殺し、完璧な後宮の礼をもって答えた。
◇
その夜。
新しく案内された、息が詰まるほど豪華な離宮の寝所で、朱璃は一人、窓の外に浮かぶ冷たい月を見上げていた。
昼間、女官たちによって着替えさせられた衣装は、きらびやかな宝石が重いほど散りばめられ、身体の自由を奪うようなデザインだった。頭には、首が折れそうなほど重たい金の冠が乗っている。
「……鬱陶しい」
朱璃は、誰もいないことを確認すると、その重い冠を乱暴に外して床へ投げ捨てた。絹の帯を解き、華美な上着を脱ぎ捨てて、下着同然の姿のままで姿見の前に立つ。
大きな鏡の中に映っているのは、青白い月光に照らされた、自分の姿だ。
顔立ちは確かに美しい「姫」のそれかもしれない。しかし、その肩の筋肉、刀を握り続けたことでできた指先の硬いタコ、そして何より、その瞳の奥にある光は、決して「従順な花」のものではなかった。
カチャリ、と遠くで離宮の重厚な扉に外から鍵がかけられる音が響いた。
夜の間、妃たちはこの部屋から一歩も出ることを許されない。ここはまさしく、美しい監獄だ。
朱璃は、床に転がった金の冠を冷たい目で見下ろした。昼間、自分を嘲笑った他国の姫たちの顔、そして自分を野蛮だと切り捨てた皇后の言葉が、脳裏をよぎる。
「……見ていなさい。あなたがたが私に強いるこの『姫の仮面』、私がこの手で、必ず剥ぎ取ってやる」
闇夜に溶けるような低い声で呟き、朱璃は暗闇の向こうに広がる巨大な宮殿を睨みつけた。
私はここで、ただ美しく枯れていく花になるつもりはない。
この檻を、私の戦場に変えてみせる。
朱璃の瞳に、かつて倭国の夕暮れの庭で、父の重い一撃を睨み返していた頃のような、鋭く、そして決して折れない闘志の火が、静かに、しかし激しく灯っていた。
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。 倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。 頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」 父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。 朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」 顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。 蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」 朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は小さく息を吐いた。「動きは悪くない。だが力任せだ」「はい」「お前はもっと冷静に相手を見るべきだ」 そう言って父は木剣を下ろす。 厳しい人だ。 だが決して冷たいわけではない。 幼い頃から、父は朱璃へ剣を教えてきた。 倭国では、武家の娘も武を学ぶ。 家を守るため。 己を律するため。 だが、それはあくまで“娘として”だった。「兄上ーっ!」 庭へ駆け込んできた小さな影に、朱璃は目を瞬かせた。 淡い桃色の着物を翻しながら飛び込んできたのは、末の妹・琴葉だった。「兄上、また父上とお稽古してたの!?」「こら、琴葉」 朱璃は思わず笑う。「そんな勢いで走ると転ぶよ」「だって兄上のお稽古好きなんだもん!」 無邪気にそう言って、琴葉は朱璃の腕へ抱きつく。 その後ろから、侍女が困ったように頭を下げた。「申し訳ございません、姫様。琴葉様、“兄上”ではなく“姉上”ですよ、と何度も――」「えー」 琴葉は不満そうに頬を膨らませる。「でも兄上の方がかっこいいもん」 一瞬だけ、空気が止まった。 侍女が困ったように視線を下げる。 父も何も言わない。 朱璃は静かに笑った。「ありがとう、琴葉」 ただ、それだけ返す。 胸の奥が少しだけ温かくなる。 誰にも理解されないことがあっても、琴葉だけは、いつも自然に自分を見てくれる気がした。「姉さん」 不意に声がして、朱璃は振り返る。 廊下の向こうに立っていたのは弟の蒼真だった。 まだ十五になったばかりだが、既に父に似た鋭い目をしている。 次期当主として期待されている弟。 けれど朱璃は知ってい







