LOGIN神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。
つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。
代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。
玄関先には、両親が並んで立っている。
父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。
――家を、売る。
朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。
倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。
頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。
「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」
父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。
朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。
「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」
顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。
蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。
「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」
朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。
「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う、誇り高き次期当主よ。私の分まで、この倭国を……神凪の地を守り抜いて」
「姉さん……」
「大丈夫。私なら、どこへ行ってもやっていけるわ。私の強さは、お前が一番よく知っているでしょう?」
そう言って不敵に笑ってみせるが、自分の声がどこか遠い他人のように響く。
その時、屋敷の奥から空気を切り裂くような、幼く高い泣き声が響いてきた。
「姉様ぁっ! お兄様、行かないでぇ!」
淡い桃色の着物を大きく翻しながら、末の妹の琴葉が雪崩れ込んでくる。侍女たちが「姫様、いけません!」と慌てて止めようとするが、朱璃はそれを片手で制して、泣きじゃくる妹を力いっぱい腕の中に抱きしめた。
柔らかな髪の匂い。生きている温かい体温。これが、明日からはもう、触れることすら許されない「故郷の光」になる。
「琴葉、いい子だから。……ほら、これをあげる」
朱璃は自分の長い黒髪に挿していた、木製の古びた櫛を抜き取り、妹の小さな手の中にそっと握らせた。それは、かつて朱璃が初めて剣の試合で勝った際、父から贈られた数少ない「娘としての品」だった。
「毎日、これで髪を梳かして。そうすれば、私がいつか必ず帰ってくるってわかるから」
優しい嘘をついた。
海を渡れば、二度とこの神凪の門をくぐることはないだろう。
「琴葉を頼みました」
朱璃はすがりつく琴葉を優しく、しかし確実に引き剥がし、控えていた侍女へと託した。そして、一度も振り返ることなく、目の前に構えられた異国の馬車へと飛び乗った。
バタン、と重い扉が閉まる。
格子の隙間から見える倭国の瑞々しい景色が、車輪の動きと共に、音もなく遠ざかっていった。
◇
馬車の中で、朱璃は膝の上で拳を強く握り締めていた。
窓から見える景色は、見慣れた緑豊かな山々から、港を経て、海を渡り、次第に龍蘭帝国の広大で険しく、乾いた大地へと変貌していく。空気の匂いすら、倭国の木々の香りとは違い、土埃と、嗅ぎ慣れない濃厚な香料の匂いが混じり合っていた。
(僕は、本当に後宮に入るのか……)
誰もいない車内で、ふと、自分の中に潜む“僕”という言葉が顔を出す。
本当の自分は、剣を握り、泥にまみれて稽古したあの夕暮れに置いてきてしまった。故郷の匂いが、胸が締め付けられるほど恋しい。
(……いや。泣くな。国のため、家族のためなら。僕は……私は、どんな泥水でも飲んでやる)
朱璃はゆっくりと目を閉じ、心の中で幾度も自分に呪文をかけた。私は姫だ。私は、神凪の家を守るための、美しく従順な姫なのだ、と。
しかし、その覚悟は、旅の途中で合流した他国の姫たちとの「淑女教育」の場で、さらに残酷に削られることとなる。
龍蘭帝国の帝都へ向かう中継地の大広間。集められたのは、周辺の属国や同盟国から集められた、後宮入りの候補たる姫君たちだった。彼女たちはみな、絹のドレスをまとい、蝶のように華やかだった。その中で、武家育ちの朱璃の存在は、あまりにも異質だった。
「あら、あれが倭国の神凪の姫様?」
一人の姫が、細い指先で金色の扇を広げ、口元を隠してクスクスと笑った。彼女は南方の小国から来た、贅沢に育てられた姫だった。
「歩き方が少し、大股ではありませんこと? まるで市場を歩く兵卒のようですわ」
その言葉に、周囲の姫たちやその侍女たちが一斉に冷ややかな視線を朱璃に注ぐ。朱璃は背筋を伸ばしたまま、ただ静かに視線を落とした。
「……長旅の疲れで、不調法をいたしました」
形通りの謝罪を口にするが、彼女たちの嫌がらせはそれで収まるほど甘くはなかった。夕食の席、朱璃が箸を取った瞬間に、隣の席の姫がわざとらしく自分の長い袖を翻した。
「すり」と、朱璃の肘に鋭い衝撃が走る。
彼女の指の動きなら、その程度の細工は容易にかわせた。だが、ここで完璧な身のこなしを見せれば「やはり可愛げのない武人気質だ」とさらに目を付けられる。朱璃はあえてそのまま膳を受け止めたが、衝撃で汁物の椀がひっくり返り、朱璃の衣装の裾を赤黒く汚した。
「まあ! ごめんなさい。でも、お箸の持ち方も随分と武骨ですもの、手が滑ってしまわれたのかしら?」
「ふふ、武芸がお好きだなんて野蛮な噂を聞いたけれど、本当のようですわね。手のひらも硬くて荒れていらっしゃるし。後宮の舞には、もっとしなやかで柔らかい身体が必要なのに。そんな泥臭い身体で、タイラン殿下のお心を惹けると思っているのかしら」
クスクスと響く、鈴の鳴るような、しかし毒の混じった笑い声。
朱璃は表情ひとつ変えず、静かに膝をつくと、手元にあった布で黙々と床と衣装の汚れを拭き取った。
怒りではない。ただ、この狭い箱庭の女たちの間で、感情を爆発させることに何の意味もないと知っているだけだ。しかし、彼女たちにはそれが「言い返すこともできない、臆病で無能な落ちこぼれの姫」に見えたようだった。
嫌がらせは日ごとに陰湿さを増した。朝起きれば衣装に墨が飛び散っていたり、淑女としての歩き方を指導される際、わざと足元に簪(かんざし)を落とされたりした。
けれど、朱璃はすべてを無表情で耐え抜いた。掌の皮膚が割れ、血がにじむほど、自分の爪を肉に突き立てて、心の中の「獣」を抑え込んだ。
◇
やがて、旅の終着点である帝都の中心、巨大な朱色の門が目の前に現れた。
龍蘭帝国――後宮。
それは、数千人の美女が一生をかけて一人の皇帝、あるいは皇子の寵愛を奪い合う、絢爛豪華な人間たちの鳥籠。
到着した翌日、朱璃をはじめとする新入りの姫たちは、広大な宮殿の最奥へと通された。
そこに鎮座していたのは、帝国の頂点に立つ女性、皇后であった。
皇后は、年齢を感じさせない圧倒的な美貌を持ち、その身体には数え切れないほどの宝石と、本物の金糸で織られた龍と鳳凰の刺繍を纏っていた。彼女がただそこに座っているだけで、周囲の空気が重圧で押し潰されるかのような錯覚を覚える。
並べられた姫たちが一斉に床へ平伏する中、皇后の冷徹な、すべてを見透かすような瞳が、一人一人を品定めするように移動していった。その視線が朱璃の頭上で止まる。
「……倭国の、神凪の娘か」
地を這うような、低く静かな声が響いた。朱璃は額を床につけたまま、息を潜める。
「聞き及べば、故郷では男に混じって剣を振るっていたとか。龍蘭の後宮は、血を流す戦場ではない。男の真似事などという、醜い野蛮な悪癖は今この場で捨て去りなさい」
皇后の言葉は、朱璃のこれまでの人生そのものを根底から否定するものだった。周囲の姫たちが、小さく勝ち誇ったような息を漏らすのがわかる。
皇后は冷ややかに、しかし絶対的な命令を告げるように、全姫君たちに向けて言い放った。
「お前たちに求められるのは、ただ一つ。この後宮という大いなる庭の美しさを損なわぬ、従順な『花』であること。色香を競い、世継ぎを残すことだけが、お前たちの存在意義。牙を持つ獣など、この美しき檻には不要なのです」
牙を持つ獣は不要。
その言葉が、朱璃の胸の奥に冷たく突き刺さる。
――ここには、やはり「僕」の居場所など、ひとかけらもないのだ。
「……御意にございます。皇后陛下」
朱璃は声を押し殺し、完璧な後宮の礼をもって答えた。
◇
その夜。
新しく案内された、息が詰まるほど豪華な離宮の寝所で、朱璃は一人、窓の外に浮かぶ冷たい月を見上げていた。
昼間、女官たちによって着替えさせられた衣装は、きらびやかな宝石が重いほど散りばめられ、身体の自由を奪うようなデザインだった。頭には、首が折れそうなほど重たい金の冠が乗っている。
「……鬱陶しい」
朱璃は、誰もいないことを確認すると、その重い冠を乱暴に外して床へ投げ捨てた。絹の帯を解き、華美な上着を脱ぎ捨てて、下着同然の姿のままで姿見の前に立つ。
大きな鏡の中に映っているのは、青白い月光に照らされた、自分の姿だ。
顔立ちは確かに美しい「姫」のそれかもしれない。しかし、その肩の筋肉、刀を握り続けたことでできた指先の硬いタコ、そして何より、その瞳の奥にある光は、決して「従順な花」のものではなかった。
カチャリ、と遠くで離宮の重厚な扉に外から鍵がかけられる音が響いた。
夜の間、妃たちはこの部屋から一歩も出ることを許されない。ここはまさしく、美しい監獄だ。
朱璃は、床に転がった金の冠を冷たい目で見下ろした。昼間、自分を嘲笑った他国の姫たちの顔、そして自分を野蛮だと切り捨てた皇后の言葉が、脳裏をよぎる。
「……見ていなさい。あなたがたが私に強いるこの『姫の仮面』、私がこの手で、必ず剥ぎ取ってやる」
闇夜に溶けるような低い声で呟き、朱璃は暗闇の向こうに広がる巨大な宮殿を睨みつけた。
私はここで、ただ美しく枯れていく花になるつもりはない。
この檻を、私の戦場に変えてみせる。
朱璃の瞳に、かつて倭国の夕暮れの庭で、父の重い一撃を睨み返していた頃のような、鋭く、そして決して折れない闘志の火が、静かに、しかし激しく灯っていた。
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。「……見事であった。下がってよい。」「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は(ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか)と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 *「朱璃! どうだったの!?」「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、「はーい……」と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出している姿があった。「早く茶の準備をしなさい!
前夜の極秘の密会を無事に終え、朝を迎えた朱璃(しゅり)。 主である麗華(レイファ)様の元へ向かうと、案の定、麗華様は昨日の貴妃・賢妃との会話を思い出しては、気分が落ち着かないかのようにソワソワしていた。 「もうっ! 今日もあの二人のお姉さま方に朱璃を連れ回されたらどうしましょう。……朱璃は私の延明宮の九等嬪なのですからね!」 「ふふ、麗華様。そんなに怒られず、どうぞお気を鎮めてくださいませ。」 朱璃はくすりと微笑みながら、湯気の立ち上る淹れたてのお茶を麗華様の杯へと静かに注ぐ。 香り高いお茶の匂いが部屋に広がる中、朱璃は言葉を続けた。 「貴妃様と賢妃様お2人ともお茶の伝統や薬効に関心をお持ちなだけですわ。」 「そんなこと絶対にないわ! あの二人も朱璃の魅力に気づいたのよ。……絶対そうよ……!」 お茶を受け取りつつも、「私の朱璃」が他のお姉さま方に奪われてしまうかもしれない焦りから、キッと目を巡らせておこる麗華様。 そんな主の横で、専属侍女の翠蘭(スイラン)が 「まあまあ、麗華様……。朱璃様が他宮のお方からも高く評価されるのは、私共にとっても大変誇らしいことでございますよ。」 と苦笑しながら優しく宥めた。 そんな賑やかな朝のひとときを打ち破るように、宮の外から重々しい足音が近づいてきた。 現れたのは、皇帝直属の太監(たいかん)――侍従長であった。 「――九等嬪・朱璃に、皇帝陛下より勅命である!」 太監の甲高い声が響き渡り、一瞬で延明宮の空気が凍りついた。小鈴(シャオリン)はガタガタと震え出す。 「此度の茶会の噂、陛下の耳にも届いておられる。『泰然(タイゼン)王子を感銘せしめた倭国の茶と菓子を、直ちに御前(ごぜん)にて披露せよ』とのこと。急ぎ道具を整え、謁見の間へ参られたい。」 「えぇっ……。皇帝陛下からのお呼び出しですか!?」 驚く小鈴を余所に、パッと扇子を広げた麗華様は、待ってましたと言わんばかりに誇らしげに胸を張った。 「ふふん、当然ですわ! 朱璃の淹れるお茶やお菓子が世界一なのですから、皇帝陛下がお聞きつけになるのも時間の問題でしたのよ! ほら見なさい、私の朱璃が認められたのですわ!」 パッと扇子を広げて自慢げに胸を張る麗華様。周りの若手侍女たちも 「そうですとも!
「母上! あのような素晴らしいお茶や菓子を作れる朱璃殿が、なぜ九等嬪のままなのですか!? 父上もです! お二人はあの方の凄さを何もお分かりになっておられません!」 茶会が明けた翌日。皇后の宮には、興奮冷めやらぬ第3王子・泰然(タイゼン)殿下の叫び声が響き渡っていた。 「た、泰然……! なにを大声で言い出すのです、おやめなさい!」 「やめません! 私は……私は幼い頃から、倭国の朱璃殿が自分の婚約者になると聞いてずっと楽しみにしておりました! それなのに、いざ後宮へお迎えしてみれば九等嬪の雑用扱いだなんて、あまりに酷すぎます! なぜ私の大切な方をそのような扱いにされるのですか!?」 真っ直ぐな瞳に涙を浮かべんばかりにして、幼い頃からの憧れの姫への情熱と怒りを親にぶつける泰然殿下。 まさか自分の息子からそこまで痛烈に問い詰められるとは思ってもいなかった皇后は、動揺を隠せない。 (くっ……よりによって、この子があの倭国の姫にここまで執着していたなんて……!) 朱璃をハメようと意地悪く罠を仕掛けたはずが、かえって大事な息子の反抗期を引き起こし、隠していた不遇な扱いまで暴露されてしまったのだ。皇后は焦りを隠すように扇を固く握りしめ、厳しく言葉を返した。 「泰然、口を慎みなさい! どのような経緯があろうとも、一度後宮に入宮した者はすべて皇帝陛下の妃なのです。あなたが口を挟むことではありません!」 「ですが――っ!」 「泰然、貴方っ!」 「よい、皇妃。」 親子の激しい喧嘩を制したのは、それまで静観していた皇帝の重厚な声だった。 皇帝はあごに手を当て、どこか感心したように泰然を見つめる。 「ふむ……。そういえば倭国の九等嬪は、元はお前の婚約者として召し出された姫であったな。……泰然がそこまで熱弁を振るうほどのお茶と菓子か。一度、私も味わってみたいものだな」 「あ、えっと……父上……!」 「陛下……!?」 息子の一途な怒りと、それによって「朱璃」という存在に強い興味を抱いた皇帝。 皇后は自らの罠が完全に裏目に出て、息子にも夫にも朱璃の存在感を植え付けてしまったことに、ぐぬぬと唇を噛み締めて歯噛みするしかなかった。 さらに泰然殿下は、その日、同年代の幼い貴族や家臣たちにも 「朱璃殿の『くず餅』と茶は世界一な
後宮という場所は、一筋の風よりも早く噂が駆け巡る場所である。 「ねえ、聞いた? 九等嬪の倭国の姫様が、ご自分で茶会を開かれるんですって」 「まあ……! 御厨の下働きとして召し出されたお立場ですのに、身の程知らずなことですこと。どうせ大恥をかいて終わりですわ。」 絢爛豪華な宮の陰では、位の高い妃たちが扇の影でクスクスと意地悪な嘲笑を漏らしていた。 だがその一方で、日頃から朱璃(しゅり)の優しさに触れてきた下位の宮女や侍女たちの間では、まるで違う会話が交わされていた。 「朱璃様がお茶会を!? 収穫祭のときのお料理も本当に美味しかったもの、どんなお茶を出してくださるのかしら!」 「お優しくてお美しい朱璃様のお茶会だもの、私とっても楽しみだわ!」 そんな交錯する噂が延明宮(えんめいきゅう)の耳にも届き、真っ先に怒りを爆発させたのは麗華(レイファ)様と小鈴(シャオリン)だった。 「キーッ! 何よあいつら、好き勝手言っちゃって! 朱璃の素晴らしさを何一つ分かっていないくせに!」 「そうですとも! 朱璃様をバカにするなんて許せません!」 ぷんぷんと肩をいからせる二人に対し、渦中の朱璃はといえば――。 「ふふ、噂になるのは良いことですわ。それだけ皆様が関心を持ってくださっているということですもの。」 どこ吹く風で穏やかに微笑みながら、優雅な手つきで茶葉の蒸し加減を確かめているのだった。 * そして迎えた茶会当日。延明宮の美しく手入れされた庭園には、色とりどりの華やかな衣装を身にまとった妃嬪たちが集まっていた。 魏淑妃(ぎしゅくひ)は (ふん、侍女に命じてそこらの雑草と……あの毒草を適当に詰め込ませただけの箱よ。あんなゴミ同然の代物で、一体どんな無様な茶会が開かれるのかしら) と、品のない笑みを浮かべて朱璃を眺めていた。 だが、会場の空気が一変したのは、最高権力者である皇后が姿を現した時だった。 「――皇后殿下、お成り。」 重々しい声と共に進み出た皇后の隣には、予期せぬ人物が佇んでいた。高貴な絹の衣装を纏い、どこか物憂げな眼差しを浮かべた青年――第3王子・泰然(タイゼン)殿下である。 「え……っ、なぜ泰然殿下がここに……!?」 「男子のお立ち入りが許されないお茶会に、なぜ王家の方が……?
東の空がうっすらと白み始め、朝靄(あさもや)が後宮を静かに包み込む頃。 自室の窓から音もなく滑り込むように着地した朱璃(しゅり)は、黒装束の紐を解こうとして――部屋の隅で静かに自分を待っていた人物と目が合った。 「……また、行かれていたのですか、朱璃様。」 朱璃の一番の理解者であり、彼女が抱える『裏の仕事』を知る数少ない存在――春蘭(しゅんらん)であった。 安堵と心配が入り混じった眼差しで見つめられ、朱璃は苦笑いを浮かべながら黒衣を静かに畳む。 「ええ……少し、夜の散歩にね。心配をかけてごめんなさい、春蘭。」 「まったくです。瑛凱(エイガイ)殿下もお人使いが荒いのですから……。お怪我はありませんか?」 慣れた手つきで朱璃の羽織を預かり、身なりを整える手伝いをする春蘭。朱璃にとって、この部屋は後宮の中で唯一、重い兜を脱ぎ捨てられる穏やかな場所であった。 その時、パタンとノックもそこそこに勢いよく扉が開いた。 「朱璃様〜! お目覚めですかー?」 湯気の立つお盆を持った小鈴(シャオリン)が、元気な声と共にひょっこりと顔を覗かせる。だが次の瞬間、春蘭がビシッと表情を引き締め、小鈴に向き直った。 「小鈴! 朱璃様の部屋に許可もなく勝手に入ってはいけませんと、いつも言っているでしょう。きちんとお返事を待ってからお入りしなさい。」 「あっ…ご、ごめんなさい! 朱璃様がお目覚めかと思ってついうっかり……。」 春蘭に窘(たしな)められ、お盆を持ったまま肩をすぼめて縮こまる小鈴。朱璃の危険な役目を知らない無邪気な妹分だ。そんな二人のやり取りを、朱璃は可笑しそうに目を細めながら、ふっと柔らかく微笑んだ。 「構わないわよ、春蘭。小鈴、温かいお料理を届けてくれてありがとう。入っておいで。」 「ありがとうございます!朱璃様は優しいですね!」 「こら、朱璃様がお優しいからといって甘えてはダメですよ。」 「えーでも……それより春蘭、 ちょうどよかった!朝ご飯みんなの分持ってきたから一緒に食べよう!」 「もう……私の話を聞きなさい、小鈴。」 呆れつつもどこか嬉しそうな春蘭と、えへへとお盆を運ぶ小鈴。二人の賑やかなやり取りに、朱璃の胸の奥はじんわりと温かくなるのだった。 * 温かい朝食を終えた後、朱璃たちは昨
昨晩の暗殺未遂事件による緊迫した空気のまま迎えた、収穫祭の翌日。 後宮の大庭園にて、女人たちが集めたキノコ狩りの成果に対する授与式が執り行われていた。 後宮は男子禁制の聖域。かしこまる者たちの中に一般的な男子の姿はなく、控えているのは後宮専属の宦官たちと侍女のみ。 正面の玉座には、後宮の絶対的な支配者として君臨する皇后殿下が座し、そのさらに奥――薄い絹の簾(すだれ)の向こう側には、皇帝陛下が静かに事の始末を見守っていた。 皇后殿下の手によって妃嬪(ひひん)たちへ順に労いの言葉と褒美が授けられる中、最も多くのキノコを収穫した者として名が呼ばれたのは――延明宮(えんめいきゅう)所属の『朱璃(しゅり)』であった。 朱璃がその場に膝をつくと、玉座の皇后が悠然とした、しかし冷ややかな声を響かせた。 「九等嬪・朱璃。そなたの知識は、倭国の姫の名に相応しく立派であった。よってそなたには、これを授ける。」 恭しく捧げ持たれたのは、後宮の厨房を管理する『御厨(みくりや)の技師資格』の札。一見すると誉れ高く見えて、実質は「姫の身分でありながら、厨房の下働きのと同等」と暗に侮辱する、皇后らしい冷酷な品であった。 「……ありがたき幸せにございます。」 朱璃が深く頭を下げると、その横に控えていた魏淑妃(ぎしゅくひ)が、扇子で口元を隠しながら甲高い笑い声を上げた。 「あら、さすが自然豊かなところで育った姫様だこと。皇后様の慈悲に感謝するのよ? ――ふふ、私からも、延明宮の主である鳳得妃(ほうとくひ)様の顔を立ててあげるために贈り物を渡すわ。ほらこれよ。」 淑妃の侍女が不気味な笑みを浮かべ、朱璃の前に差し出したのは、埃をかぶった正体不明の古びた木箱であった。中から何とも言えぬ嫌な気配が漂うそれを目にして、淑妃は目を細めて囁く。 「貴女なら使えるのではなくて? ……クスッ。」 得妃の名を引き合いに出しつつ、怪しげなガラクタを押し付ける露骨な嫌がらせ。周囲の妃たちが忍び笑いを漏らす中、朱璃は眉一つ動かさず、静かに拝礼した。 「……淑妃様のお心遣い、恐悦至極にございます。」 * 延明宮へ戻るや否や、爆発したのは鳳 麗華(レイファ)様であった。 「なによあの女たち! 皇后様まで朱
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は