All Chapters of 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

第一話 姫の帳、自由の楔

夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。  弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は小さく息を吐いた。「動きは悪くない。だが力任せだ」「はい」「お前はもっと冷静に相手を見るべきだ」 そう言って父は木剣を下ろす。 厳しい人だ。  だが決して冷たいわけではない。 幼い頃から、父は朱璃へ剣を教えてきた。 倭国では、武家の娘も武を学ぶ。  家を守るため。  己を律するため。 だが、それはあくまで“娘として”だった。「兄上ーっ!」 庭へ駆け込んできた小さな影に、朱璃は目を瞬かせた。 淡い桃色の着物を翻しながら飛び込んできたのは、末の妹・琴葉だった。「兄上、また父上とお稽古してたの!?」「こら、琴葉」 朱璃は思わず笑う。「そんな勢いで走ると転ぶよ」「だって兄上のお稽古好きなんだもん!」 無邪気にそう言って、琴葉は朱璃の腕へ抱きつく。 その後ろから、侍女が困ったように頭を下げた。「申し訳ございません、姫様。琴葉様、“兄上”ではなく“姉上”ですよ、と何度も――」「えー」 琴葉は不満そうに頬を膨らませる。「でも兄上の方がかっこいいもん」 一瞬だけ、空気が止まった。 侍女が困ったように視線を下げる。 父も何も言わない。 朱璃は静かに笑った。「ありがとう、琴葉」 ただ、それだけ返す。 胸の奥が少しだけ温かくなる。 誰にも理解されないことがあっても、琴葉だけは、いつも自然に自分を見てくれる気がした。「姉さん」 不意に声がして、朱璃は振り返る。 廊下の向こうに立っていたのは弟の蒼真だった。 まだ十五になったばかりだが、既に父に似た鋭い目をしている。 次期当主として期待されている弟。 けれど朱璃は知ってい
Read more

第二話 別れの朝、茨の道

神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。​ 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。​ ――家を、売る。​ 朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。 倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。 頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。​「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」​ 父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。 朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。​「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」​ 顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。 蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。​「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」​ 朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。​「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う
Read more

第三話 爪を研ぐ鳥

大国の権威を誇示するような、圧倒的な朱色の城門。龍蘭帝国の後宮に足を踏み入れた朱璃(しゅり)を待っていたのは、息を巡らせる暇もないほどの混沌だった。    到着した時期は、ちょうど春の盛りの大祭『桃源節(とうげんせつ)』の直前。後宮全体がその準備で蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっており、他国から来たばかりの、まだ寵愛も得ていない端くれの姫である朱璃など、誰もまともに相手をしてはくれない。あてがわれた宮の侍女たちとも、一言二言の挨拶を交わすのが精一杯という慌続きだった。 ​ そして、何一つこの国の作法を教えられないまま、春の祭り当日を迎える。 ​ 絢爛豪華な大広間。金銀の装飾が施された衣装をまとい、妖艶で華やかな大陸の舞を披露する他国の姫たち。その姿に、玉座に座る皇帝や皇后、あるいは第三皇子リウ・タイランが退屈そうに視線を送っていた。  やがて朱璃の番が回ってくる。生家である神凪(かんなぎ)の地、倭国(わこく)の厳かな神事しか知らない朱璃は、心を込めて、静かで格式高い「神楽舞(かぐらまい)」を踊った。指先まで神経を尖らせた、神に捧げるための美しい舞。 ​ しかし、この後宮が求めるのは「男の目を惑わせる色香」だ。静寂を重んじる朱璃の舞は、彼らにとって退屈極まりないものでしかなかった。 ​「まあ、陰気な舞。まるで死人を弔っているようですわ」 「せっかくの桃の節句が台無しね。倭国の野蛮な娘には、この国の華やかさは理解できないのかしら」 ​ 他国の姫たちの間で、容赦のない嘲笑が響く。玉座の皇帝や皇后は興味なさげに一瞥をくれただけで、すぐに視線を外した。こうして朱璃は、後宮に足を踏み入れた初日に「地味で退屈な、落第姫」という烙印を押されたのだった。 ​ ――だが、嘲笑の嵐が吹き荒れる広間の中で、ただ一人、違う目をしている男がいた。  第三皇子、リウ・タイラン。  彼は頬杖を突いたまま、遠ざかる朱璃の背中をじっと見つめ、周囲の喧騒に消え入るような小声でボソッと呟いた。 ​「……なんと、華麗な舞なのだ。軸が一切ぶれていない。これが神に捧げるという、倭国の舞なのか」 ​ その瞳には、退屈の代わりに、獲物を見つけたかのような深い興味の光が鈍く宿っていた。しかし、その呟きに気づく者は、まだ誰もいなかった。 ​    ◇ ​ 祭りが終わり、後宮が本来の静け
Read more

第四話 月下の猛禽、夏に舞う

龍蘭帝国の容赦ない夏の陽射しを遮るように、夜空へ無数の火が放たれる。  後宮の夏を彩る壮大な大祭『千涼祭(せんりょうさい)』。涼を競う名目のもと、きらびやかに飾り立てられた池の上の特設舞台では、今夜も各宮の妃たちが競うように華美な衣装をまとい、優美な大陸の舞を披露していた。 ​ その宴の最中、いよいよ前座として、延明宮の代表たる朱璃の名が呼ばれる。 ​ 春の『桃源節』では、地味で退屈な落第姫だと嘲笑された。主である麗華(レイファ)徳妃からも、あからさまな二度目の公開処刑としてこの舞台に立たされた。誰もが「あの倭国の不器用な姫が、また無様な姿を晒すのだろう」と、冷ややかな、あるいは娯楽を期待するような視線を向けている。 ​ だが、舞台に上がった朱璃の姿に、まず広間が小さくどよめいた。 ​ まとい慣れた、くすんだ藍色の衣装ではない。動きやすさを重視して仕立て直させた、薄衣の装束。髪は高く結い上げられ、その手には――月光を冷たく反射する、一振りの真剣が握られていた。  後宮の宴において、刃物の持ち込みは本来許されない。しかし、倭国の武家が「神に捧げる儀礼」として用いる、刃を潰した儀式用の神剣という名目で、朱璃はこの場に剣を持ち込む許可を強引に勝ち取っていた。 ​ ――トォン、と太鼓の音が響く。 ​ その瞬間、朱璃の身体が爆発的な速度で動いた。  それは、春に踊った静かな神楽舞とは完全に一線を画すものだった。倭国の神事のステップをベースにしながらも、その身のこなしに融合されているのは、父から骨の髄まで叩き込まれた『神凪(かんなぎ)流剣舞』。 ​ 抜き放たれた白刃が、夜空に冷烈な弧を描く。  しなやかに跳躍したかと思えば、鋭い踏み込みと共に剣が風を「烈(れつ)」と引き裂き、飛び散る火花を両断するかのように激しく煌めいた。音もなく着地する足捌き、目にも留まらぬ速さで繰り出される突きと斬撃。流れるような一連の動作の裏には、一撃で人の首を刈り取れるような、圧倒的な体幹の強さと鋭い殺気が孕まれていた。 ​ 美しくも、あまりに恐ろしい、命を削り合う戦場さながらの剣舞。  刃が空気を切り裂く風切音だけが響く広間は、水を打ったように静まり返った。 ​ 演舞が終わり、朱璃が剣を美しく鞘へと収め、深く一礼して舞台を降りても、しばらくの間、誰も声を出すことができなかっ
Read more

第五話 深まる秋、迫る影

 夏の『千涼祭』での見事な神凪(かんなぎ)流剣舞を経て、朱璃(しゅり)は『貴人(きじん)』から一階級上の、**『嬪(ひん)』**の位へと昇格した。  しかし、嬪に上がったからといって、独立した「自分の宮」が与えられるわけではない。龍蘭(りゅうらん)帝国の後宮制度において、嬪には九つの階級が存在するが、朱璃があてがわれたのはその一番下――いわば「九等嬪」という最も低い席だった。 ​ だが、朱璃の身の回りには確かな変化が起きていた。  主である麗華(レイファ)徳妃から、  「そんな物置同然の最果ての離れに嬪の者を住まわせておくなど、我が延明宮(えんめいきゅう)の恥ですわ!」  とツンとした態度で命じられ、徳妃の本宮のすぐ近くにある、手入れの行き届いた清潔な離宮へと引っ越しをすることになったのだ。 ​「呼んだらすぐに来られるようにね」 という麗華の言葉通り、朱璃は変わらず雑用係として主のそば近くで仕えることになった。 ​ 実際のところ、麗華徳妃が普段、朱璃にキツい態度を取りながらも、本当は彼女を大切に扱い、深く信頼していることを知っているのは、延明宮の古参の側近たちだけだった。 (本当は、皇帝陛下がお渡りになる時よりも、朱璃と話している時の方が嬉しそうなのよね……)  側近たちは麗華のそんな可愛い秘密をそっと胸にしまいながら、朱璃の裏表のない誠実さと有能さを認め、家族のような強固な信頼関係を築いていた。 ​ ――しかし、それを面白く思わない者が、同じ延明宮の中にいた。 ​ 季節は移り変わり、暦でいう九月頃。都では、豊かな実りを祝う「秋の大祭」の準備が着々と始まっていた。  後宮全体が再びバタバタと慌ただしさに包まれる中、朱璃が徳妃のそば近くに配置されたことに激しい嫉妬を燃やす者が現れた。 ​ 同じ延明宮に所属する上位の妃、**金 宝蓮(ジン・ホウレン)修媛(しゅうえん)**である。  王宮直属の巨大な商団の一人娘であり、潤沢な実家の財力を背景に、後宮の最高権力者である皇后にも目をかけられている女人だった。皇后の後ろ盾があるからこそ、格上の徳妃の宮に所属していながらも、普段から傲慢で偉そうな態度を崩さないのだ。 ​「あら、これはこれは……」  廊下ですれ違いざま、宝蓮修媛はわざとらしく扇で口元を隠し、取り巻きの侍女たちと共に憐れむような笑い
Read more

第六話 仮面の下の覇気

使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。  後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。 ​ お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。 ​ やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。 ​「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」 ​ 使者の男が扉に向かって低く声をかける。  一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。 ​「――入れ」 ​ 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」 と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。 ​「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」 ​ 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。  龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。 ​「面を上げよ。そこに楽に座れ」 ​ 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。  視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。 ​ ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。 ​(……見事な構えだわ)  朱璃は内心で息を呑んだ。  だらしなく座っている
Read more

第七話 二つの顔、交差する思惑

驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)から戻った翌朝、朱璃(しゅり)は自身の離宮の奥の間へと、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)の二人だけを呼び寄せた。他の女人や侍女たちを完全に下がらせ、部屋の扉をきっちりと閉める。 普段とは違う主のただならぬ雰囲気に、二人は緊張した面持ちで固まっていた。​「二人によく聞いてほしいことがあります。――これから私は夜の間だけ、後宮を抜け出し、第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下の元で『高 漣(ガオ・レン)』という名の見習い近衛として働くことになりました」​ その言葉が落ちた瞬間、小鈴は「ひゃぅっ!?」と短い悲鳴を上げて口を塞ぎ、昨晩の不穏な空気を肌で知っている春蘭は、驚きに目を見開いた。​「な、何をおっしゃるのですか朱璃様……! バレたら死罪です、いえ、それどころか我が国との外交問題にも……!」「朱璃様のお体が心配ですっ!夜までそんな男たちに混ざって戦うなんて、もしお怪我をされたらどうしたらいいんでしょう……!」​ 口々に不安と心配を募らせる二人に、朱璃は優しく両手を差し伸べ、その手をそっと握りしめた。​「心配をかけてごめんなさい。でもね、私はやっぱり、ただの飾り物として鳥籠の中にいるだけの人生は嫌なの。これは私の意志よ。……後宮で、そしてこれから始まるであろう激動の中で生き残るために、私にはこの力が必要なの。お願い、二人の協力が必要不可欠なのよ」​ 真っ直ぐな朱璃の瞳。その強い覚悟に射抜かれ、小鈴と春蘭は互いに顔を見合わせた。やがて、二人は涙をグッと堪え、同時に深く頭を下げた。​「……朱璃様がそこまでお決めになられたのでしたら、私たちはどこまでもお供いたします」「夜間のアリバイは、私たちが命に代えてもお守りします。朱璃様のお心のままに……!」​ こうして、朱璃の超過酷な二重生活の幕が切って落とされた。​ それからの日々は、目まぐるしいほどの忙しさだった。 昼間は、麗華徳妃に頻繁に本宮へと呼び出され
Read more

第八話 収穫祭の咆哮

「――あの、瑛凱(エイガイ)殿下。私は弓の扱いにはあまり慣れていないのですが、そのような私が狩りのお供などしても宜しいのでしょうか?」 ​ 驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)の執房。差し出された偽の通行証を前に、朱璃(しゅり)は少し困ったように眉を下げて問いかけた。倭国(日本)にいた頃、一通りの武芸は叩き込まれたものの、大国である龍蘭(りゅうらん)帝国の本格的な狩猟に「見習い近衛」として同行するとなれば、勝手が違うかもしれないという、もっともな懸念だった。 ​ しかし、それを聞いた第二皇子・劉 瑛凱は、一瞬の静寂のあと、椅子から転げ落ちんばかりに大笑いした。 ​「ははははは! 面白いことを言うお妃様だ! お前が弓は苦手だと?」 ​ 瑛凱は不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。 「だが、武家の娘だ。それなりにはできるだろう。……おい雲雀(ユンケ)。そのへんの庭でお相手してやれ。高(ガオ)見習いの『不慣れ』がどの程度のもんか、俺に直接見せてみろ」 ​「いやあ、殿下も人使いが荒い。では高見習い、まずは僕が放つ矢を避けてみてください。そのあと、僕を目掛けて射返してくれればいいですからね」 ​ そう言って、普段の典衛(てんえい)としての柔和な笑みを浮かべたのは、梁 雲雀だった。しかしその裏の顔は、裏の隠密組織を統括する『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。彼もまた、朱璃の実力を測るためにその細い目を怪しく光らせていた。 ​ 夜の驍駿宮の庭。松明の灯りだけが揺れる静寂の中、朱璃は近衛の練習用の弓を手に、雲雀と対峙した。  雲雀が  「いきますよ」 と告げた瞬間――空気が爆ぜた。 ​ 雲雀が放った目にも留まらぬ速さの木矢を、朱璃は身体をわずかに捻るだけで完璧にかわし、同時に自身の弓を引き絞って矢を放つ。夜闇を切り裂くような鋭い風切り音が響き、雲雀の頬をかすめて背後の木々へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。 ​「おっと、危ない……!」 ​ 雲雀は本気の目になり、さらに二の矢、三の矢を連続で放つが、朱璃はそれらすべてを最小限の動きで見切り、逆に雲雀の足元や肩口ギリギリを正確に射抜いていく。 ​「そこまで」 ​ 特等席で観戦していた瑛凱が、満足げに手を叩いた。 「素晴らしいな。お前の『不慣れ』は、俺の宮の並の近衛を数人まとめて撃ち抜ける
Read more

第九話 闇を裂く鏑矢

「――敵襲ッ!! 太子殿下をお守りせよ!!」 ​ 渓谷に響き渡った悲鳴と同時に、夜闇の奥から無数の黒い矢が牙を剥いた。それと同時に、草むらから黒装束の集団が抜刀して躍り出てくる。狙いはただ一人、白馬の上の太子・劉 瑛良(エイラ)だ。 「防陣を組め! 太子殿下の前に出ろ!」  白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長が怒号を上げるが、乱入してきた刺客の剣部隊に応戦するため、近衛たちの防壁はどうしても左右に分散せざるを得なかった。 ​ その隙を突くように、二の矢、三の矢の豪雨が太子の無防備な頭上へと降り注ぐ。近衛たちが一瞬の動揺に身をすくませる中、警護陣 of 末席にいた『高 漣(ガオ・レン)』  ――朱璃(しゅり)の身体は、思考よりも先に動いていた。 ​ 地を蹴り、弾かれた弾丸のように太子の前へと割り込む。  ザシュッ、ギィンッ! と、夜闇の中で火花が散った。朱璃は腰の刀を極限の速さで引き抜き、衣服をかすめるほどの精密さで、太子へと殺到する矢を次々と叩き落としていく。 ​ だが、敵の狙いは矢だけではなかった。 ​(――後ろ!?) ​ 朱璃の武人としての鋭敏な五感が、太子の真後ろから迫る尋常ならざる殺気を捉えた。一人の刺客が、他の近衛たちの目を盗んで完全に太子の死角へと回り込み、その背中に向けて鋭い突きを放とうとしていたのだ。 ​ 上空からは未だに矢の雨が降り注いでいる。矢を捌きながら、背後の敵も止めなければならない。 ​「太子殿下、その場から動かないでください!!」 ​ 朱璃は鋭い叫び声を上げると同時に、太子の馬の腹を掠めるようにしてその背後へと跳んだ。  キィィィィィンッ!!!  渓谷に、鼓膜を震わせるような激しい金属音が響き渡る。朱璃の放った一撃が、太子の背中に届く寸前で刺客の刃を力任せに弾き返したのだ。 ​ そのまま二の太刀、三の太刀と激しい火花が散る。朱璃は近衛刀一本で迫り来る刃を受け流すが、刀身から伝わる重い衝撃に、わずかに眉をひそめた。 ​(……この男、強い。ただの捨て駒の刺客じゃない。完全に人を殺し慣れている手練れだわ……!) ​ 朱璃の猛攻を受けながらも、刺客は不気味なほど冷静に刃を返してくる。朱璃は乱れる風の音の中に、再び上空から迫る風切り音を聞いた。さらに弓矢
Read more

第十話 王者の褒賞と昏き命

――太子殿下、襲撃。  その衝撃的な噂は、夜が明ける頃にはすでに王宮内を文字通り震撼させていた。当然、朱璃(しゅり)の住まう延明宮(えんめいきゅう)も例外ではない。 ​「朱璃様! 昨日、本当は何があったのですか!? 狩りが途中で中止になるなんて前代未聞です。」 「そうですよ朱璃様! 巷では太子殿下が暗殺されかけたなんて恐ろしい噂まで飛び交っていて……!」 ​ 翌朝、自室で身支度を整えていた朱璃は、春蘭(シュンラン)と小鈴(シャオリン)の二人から、文字通り詰め寄られていた。いつになく必死な形相の二人に、朱璃は困ったように微笑みながらも、兜の奥の「高 漣(ガオ・レン)」としての顔を崩さないよう、努めて冷静に言葉を返した。 ​「大丈夫よ、二人とも。色々あったけれど、太子殿下はかすり傷一つ負わずにご無事だから。私はただ、近衛として当然の務めを果たしただけ。」 「当然の務めって……朱璃様、また何か無茶をしたんじゃないですよね?」 ​ 少鈴が心配そうに疑わしげな目を向けるが、朱璃は 「さあ、どうかしら。」 と、はぐらかすようにお茶を濁した。表向きはまだ、一介の見習い近衛がたまたまその場に居合わせたことになっている。しかし、その「たまたま」がどれほどの神業であったかを知る者たちの間では、すでに別の嵐が巻き起こっていた。 ​    * ​ 同時刻、太子・劉 瑛良(エイラ)の住まう『清耀宮(せいようきゅう)』の一室。  次期皇帝の宮にふさわしい清廉で美しい佇まいとは裏腹に、そこには昨晩の襲撃についての事後処理に追われる、緊迫した空気が漂っていた。白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長を伴った太子・瑛良の元へ、のっそりと、しかし強烈な覇気を纏った男が乗り込んできた。 ​ 第二皇子・劉 瑛凱(エイガイ)である。その背後には、いつもと変わらぬ涼しい顔をした梁 雲雀(ユンケ)が影のように従っていた。 ​「なんだアニキ、無事で何よりだ。――で、どうだった? 俺が直々に送り込んだ『お気に入り』は。ちゃんと役に立っただろ?」 ​ 瑛凱は部屋の椅子にどかりと腰掛け、兄の無傷な姿を見て不敵に笑った。  その言葉に、太子・瑛良は驚いたように目を丸くし、それから全てが合点がいったように苦笑を漏らした。 ​「……なるほど、そういうことか。趙隊長が『驍駿宮
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status