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第2話

Author: 塩せんべい
涙で視界が歪む。私は絶望に溺れそうになりながら、病室にいる一人ひとりの顔を縋るように見渡した。

違う、私、何も間違ったことなんてしていないのに。そもそも、梨乃は妊娠なんてしていなかった。一年前に彼女の健康診断書を見たことがある。彼女は元々、子供ができない体だったはずだ!

「嘘よ!全部演技だわ!同情を買って、私を陥れるための芝居なのよ!」

私は藁にもすがる思いで叫んだ。

だが、誰一人として私を信じようとはしない。

和也は鬼のような形相で私を睨みつけると、再び私に強烈な平手打ちを食らわせた。

「まだ戯言を吐く気か!

麻酔は打つな。痛い目を見れば、少しは懲りるだろう」

低く、冷酷な声で彼が命じる。

絶望の闇が、私を飲み込んでいった。担架の上で、まるで壊れた人形のように、ただ力なく横たわっていた。もう、声を上げて泣く気力さえ残っていなかった。

静寂の中、涙だけが無音で頬を伝い落ちていく。

手術室へ運び込まれる直前、梨乃が私に向けて勝利の笑みを浮かべるのが見えた。

彼女は和也の胸に甘えるように身を寄せ、私の無様な姿をあざけるように見下ろしている。

手術室の中、メスが私の皮膚を切り裂き、生身の肉へと食い込む。

全身を貫く激痛に、意識が飛びそうになる。

メリメリと肉が裂ける音が、耳元で嫌というほど鮮明に聞こえていた。

だが不思議なことに、痛みが増すほど思考は冴え渡っていく。

七年前、出会ったばかりの頃の和也はこうではなかった。

あの時、起業したばかりで蓄えも少なかった彼は、それでも私には一番のものを与えようとしてくれた。

私のクローゼットをブランド品で埋め尽くす一方で、自分は安物のTシャツ一枚買うのさえ惜しんでいたのだ。

彼は、私が少しでも傷つくことが耐えられない人だった。

病気になれば、身代わりになれない自分を本気で責めるほど、私を愛してくれていた。

私に苦労をかけているという負い目から、彼はありったけの愛を注ぐことで、それを償おうとしてくれていたのだ。

息子の雪見蓮(ゆきみ れん)が生まれた後、彼は「女にとって、金は決して裏切らない味方だ」と言って、全財産を私の名義にしてくれた。ただ私を安心させるためだけに。

だがそれは、一年前、梨乃が帰国するまでのことだ。

その夜、和也はかつてないほどに酔い潰れ、身体を引きずるようにして帰ってきた。

「全部俺のせいだ。もっと努力していれば、梨乃は海外へ追いやられることもなく、俺たちはこんなに長い時間を無駄にせずに済んだのに……」

その時初めて知った。梨乃こそが、和也の真実の愛だったのだと。

手術が終わると同時に、私の心もえぐり取られたかのように空っぽになった。

和也はまるでゴミでも見るような目で、私を見下ろしている。

「お前のその痛みなど、梨乃に比べれば、取るに足らないものだ」

私は最後の力を振り絞って口元だけで笑い、彼から逃げるように顔を背けた。

やりすぎたと思ったのか、和也は腰をかがめ、私の頭に手を置く。

「まあ、やっと大人しくなったか。体が回復したら、家族みんなで旅行に行こう」

返事をする気力もない。体は弱っていく一方で、全身に鳥肌が立つのがわかった。

それは彼に対する、恐怖だ。

さっきまで悪魔のように私を断罪していた男が、次の瞬間には平然と償いのような言葉を口にする。あまりの異常さに吐き気がした……

「きゃあああ!!!来ないで!

私がダメだったの、赤ちゃんを守れなかったから……

あそこにいる、あの子が見えるの、血まみれの塊が……」

目を開けると、梨乃がベッドの隅で怯えたように身を縮こまらせ、虚ろな目で虚空を指さしていた。

私と目が合うと、彼女は眉をくいっと上げ、溢れんばかりの嫉妬と悪意を露わにする。

わざとだ。このビッチが……

案の定、次の瞬間に彼女は涙を拭い、か弱い被害者を演じながら、兄に許しを請い始めた。

「ごめんなさい、驚かせちゃったわよね。でも、お願い……詩音(しおん)のことは責めないであげて?だって……あの子も、きっとわざとじゃなかったと思うの……

ただ、詩音にはもう子供がいるのに、私は……」

その言葉を聞いた瞬間、悟の顔色が変わった。私の方へ振り返り、怒りで拳を固く握りしめる。

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