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息子の命と引き換えに、あなたは全てを失った

息子の命と引き換えに、あなたは全てを失った

By:  涼木Completed
Language: Japanese
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幼稚園へ息子、南里勇人(なんり はやと)を迎えに行った帰り道、1台のポルシェが勇人を撥ね飛ばした。小さい体は、8メートルも宙を飛んだ。 顔中血まみれの勇人は、それでも小さな手に買ったばかりのアニメヒーローのフィギュアを固く握りしめていた。 私、南里真優(なんり まゆ)はその場にへたり込み、勇人を抱きかかえながら、通りすがりの人に119番してくれるよう頼んだ。それなのに、事故を起こした女は車から降りようともしない。 シートに深く寄りかかったまま口紅を塗り直すと、どこかへ電話をかけ始め、甘ったるい声を出した。 「南里社長、私、やらかしちゃった……怖いよぉ、早く助けに来てぇ……」 わずか数分後、黒塗りの大型バンが2台、道を塞ぐように停まった。黒いスーツの男が6人、私と勇人をぐるりと取り囲んだ。 子供が血を吐いている、今すぐ病院へ運ばなければ死んでしまうと、私は必死に叫んだ。 だが、リーダー格の男は表情ひとつ変えず、駆けつけた救急車の進路までも無情に塞いでみせた。 「社長からの指示です。事故の状況が確認できるまで、負傷者を含め、誰もこの場を離れることは許されません」 私は半狂乱になって飛び出そうとしたが、両脇から力づくで押さえ込まれた。 ようやく車から降りてきた女は、コツコツとヒールを鳴らしながら歩み寄り、しゃがみ込んで勇人を一瞥した。 「あら、大したことないじゃない」 女はまた電話を耳に当て直し、甘えた声で言った。 「南里社長、この人たち言いがかりをつけてくるの。私の味方になってくれるわよね?」 「心配するな」 電話の向こうから、聞き覚えのある声が返ってきた。ぞっとするほど冷静な声だった。 「俺が処理する。お前は車の中にいろ」 勇人の唇はすでに紫色に変色していた。私は藁にもすがる思いで、その名前を叫んだ。 「南里章平(なんり しょうへい)!撥ねられたのは、勇人なのよ!」

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Chapter 1

第1話

電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちた。

女はフンと鼻で笑うと、そのまま一方的に通話を切った。

「ツー、ツー、ツー」

無情な電子音が、ざわめく街角でやけに耳障りに響いた。

女はスマホをエルメスのバッグに押し込むと、見下ろすように私を睨みつけた。

「何を騒いでるのよ?

うちの南里社長の名前を聞きかじったからって、馴れ馴れしくしないでよ。

社長は毎日分刻みのスケジュールで動いてるんだから。あんたみたいな当たり屋の女を相手にしてる暇なんてないのよ」

私は血走った目で、女を鋭く睨み返した。

「この子は……南里章平の実の息子なのよ!

あなたが撥ねたこと、章平が黙っているはずないわ!」

女はよほど面白い冗談でも聞いたかのように口元を押さえ、腹立たしいほど甲高い声で笑った。

「あらやだ、よくそんなデタラメが言えるわねー。

当たり屋をやるにしても、下調べくらいしなさいよ。社長のことを好き勝手に騙っていいとでも思ってるの?」

電話が切れた後、章平は胸の奥にかすかな不安がよぎるのを感じた。

家政婦の安永洋子(やすなが ようこ)に電話をかけ、家の様子を尋ねた。

「洋子さん、妻と息子は帰っているか?」

洋子はその日、午後から友人たちと出かけていた。ランチのあと、そのまま喫茶店で話し込み、さらに買い物までしていたため、まだ家には戻っていなかった。

洋子は咄嗟に嘘をついた。

「奥様と坊っちゃんなら、温室でお花に水をやっていらっしゃいますよ」

そのひとことの嘘が、勇人の命を奪う引き金になるとは、洋子は知る由もなかった。

章平は安堵の息を漏らし、スマホを放り出した。

電話の向こうで最後に聞こえた、あの叫び声に対する不快感だけが胸に残った。心の中で、なんて下品な女だ、と悪態をついた。

「離して!」

私は全力でもがき、ボディガードの拘束を振り解いた。

勇人のそばへ駆け寄る。彼の鼻からは絶え間なく血が溢れ出し、胸元の白いシャツはもうどす黒い赤に染まりきっていた。

勇人は辛うじて目を開け、小さな手を小刻みに震わせた。

「ママ……痛いよ……っ」

心臓をぐちゃぐちゃに引き裂かれるような痛みが走った。

「勇人、怖くないわよ。ママがいるから。救急車もすぐそこまで来てるからね」

私は顔を上げ、声を振り絞ってボディガードたちに叫んだ。

「そこをどいて!救急車はあなたたちのすぐ後ろに来てるのよ!

人の命がかかってるの!あなたたちにだって親や家族がいるでしょう、血も涙もないの!?」

リーダー格の男は、まるで感情を持たない氷の壁のようだった。

冷ややかに私を見下ろし、抑揚のない声で言い放った。

「社長のご指示です。友部夏子(ともべ なつこ)様が怯えておられるので、社長の顧問弁護士が到着するまで、誰であろうとこの場を離れることは許されません」

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第1話
電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちた。女はフンと鼻で笑うと、そのまま一方的に通話を切った。「ツー、ツー、ツー」無情な電子音が、ざわめく街角でやけに耳障りに響いた。女はスマホをエルメスのバッグに押し込むと、見下ろすように私を睨みつけた。「何を騒いでるのよ?うちの南里社長の名前を聞きかじったからって、馴れ馴れしくしないでよ。社長は毎日分刻みのスケジュールで動いてるんだから。あんたみたいな当たり屋の女を相手にしてる暇なんてないのよ」私は血走った目で、女を鋭く睨み返した。「この子は……南里章平の実の息子なのよ!あなたが撥ねたこと、章平が黙っているはずないわ!」女はよほど面白い冗談でも聞いたかのように口元を押さえ、腹立たしいほど甲高い声で笑った。「あらやだ、よくそんなデタラメが言えるわねー。当たり屋をやるにしても、下調べくらいしなさいよ。社長のことを好き勝手に騙っていいとでも思ってるの?」電話が切れた後、章平は胸の奥にかすかな不安がよぎるのを感じた。家政婦の安永洋子(やすなが ようこ)に電話をかけ、家の様子を尋ねた。「洋子さん、妻と息子は帰っているか?」洋子はその日、午後から友人たちと出かけていた。ランチのあと、そのまま喫茶店で話し込み、さらに買い物までしていたため、まだ家には戻っていなかった。洋子は咄嗟に嘘をついた。「奥様と坊っちゃんなら、温室でお花に水をやっていらっしゃいますよ」そのひとことの嘘が、勇人の命を奪う引き金になるとは、洋子は知る由もなかった。章平は安堵の息を漏らし、スマホを放り出した。電話の向こうで最後に聞こえた、あの叫び声に対する不快感だけが胸に残った。心の中で、なんて下品な女だ、と悪態をついた。「離して!」私は全力でもがき、ボディガードの拘束を振り解いた。勇人のそばへ駆け寄る。彼の鼻からは絶え間なく血が溢れ出し、胸元の白いシャツはもうどす黒い赤に染まりきっていた。勇人は辛うじて目を開け、小さな手を小刻みに震わせた。「ママ……痛いよ……っ」心臓をぐちゃぐちゃに引き裂かれるような痛みが走った。「勇人、怖くないわよ。ママがいるから。救急車もすぐそこまで来てるからね」私は顔を上げ、声を振り絞ってボディガードたちに叫んだ。「そこをどいて!救急車は
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第2話
「友部様の権利を守ることが最優先です。救急車など待たせておけ、とのご指示です」周りで見ていた野次馬たちも、さすがに黙っていられなくなった。若い男たちが数人前に出て、ボディガードを指さして怒鳴りつけた。「あんたたち、人間の血が通ってないのか!」「人を撥ねておいて助けもせず、道まで塞ぐなんて、命をなんだと思ってるんだ!」「みんなで強行突破しよう!子供を助けるのが先だ!」群衆がボディガードたちに詰め寄り、激しい押し合いになった。リーダー格の男は眼光を鋭くさせると、腰から特殊警棒を素早く抜いた。鈍い音が響いた。先頭にいた若者が肩を強打され、悲鳴をあげて後ずさった。ボディガードたちは一斉に警棒を構え、横一列になってバリケードを作った。「南里グループへの業務妨害だ。部外者は立ち去れ。これ以上前に出る奴は、業務妨害とみなす」人々はその圧倒的な暴力の前に怯み、次々と後ずさった。夏子はポルシェの車体にもたれ、気怠げに塗りたてのネイルをいじっていた。「ほんと、底辺の人間ほど正義の味方を気取りたがるわよねー。あんたたちを怪我させたって、社長には慰謝料くらい払えるけど、あんたたちは自分の治療費を払えるの?」夏子は私の前まで歩み寄ると、ヒールの先で地面に落ちた泥まみれのフィギュアをコツコツと小突いた。「このおもちゃ、どう見ても安物でしょ。せいぜい数百円ってとこ?じゃあ言いなさいよ、いくら欲しいの?200万円?それとも300万円?」私は震える手でフィギュアを拾い上げ、固く握りしめた。勇人の呼吸はどんどん弱々しくなり、胸の上下もほとんどわからないほどになっていた。私は顔を上げ、血走った目で夏子を睨み据えた。「お金なんていらないッ!お願いです、道をあけて!救急隊員を通してください!子供を助けさせてくれるなら、何でもしますから!」夏子は眉を上げ、優越感に浸った笑みを浮かべた。「本当に、なんでも?」私は何度も頷いた。「いいわ」夏子は自分のヒールを指差した。「さっき車から降りるとき、靴に埃がついちゃったの。跪いて、舐めてきれいにしなさい。私の機嫌が良くなったら、情けをかけて救急車を通してあげなくもないわ」群衆から一斉に怒声が上がった。「この女、狂ってる!」「
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第3話
肩の激痛に構う余裕もなく、私は起き上がり、再び跪いた。「言われたとおりにしました。だからもう……救急車を通してもらえますか!」夏子はスマホをしまうと、不満げに唇を尖らせた。「ごめん、やっぱりやーめた。なんか気持ち悪くなっちゃったし。弁護士が来るまで、大人しく待ってなさいよ」私の中で、何かが完全に切れた。「この、悪魔っ!」私は勢いよく立ち上がると、子を守る雌ライオンのように夏子へ飛びかかった。両手で彼女の首を思い切り締め上げ、ポルシェのボンネットに押さえつける。「救急車を通して!息子を助けて!お願いだから!」夏子は悲鳴を上げた。「人殺し!誰か助けて!」ボディガードが2人、すぐさま駆け寄り、左右から私の腕を強く押さえ込んだ。そのまま力任せに、私の体を宙吊りにする。「離して!この人殺し!」私は必死に両脚をばたつかせた。リーダー格の男が冷ややかな目で近づいてきた。「情けをかけてやったというのに、身の程を知らん女だ」彼は革靴の硬い爪先を振り上げると、容赦なく私の右膝に蹴りを入れた。ゴキッという鈍い音。神経を引き裂くような激痛が、一瞬で全身を駆け抜けた。私は悲鳴を上げ、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。右脚は、不自然な角度に折れ曲がっていた。冷や汗が瞬く間に全身を濡らしていく。夏子は首をさすりながら歩み寄ると、私の頬を平手で打った。「このクソ女!よくも私に触ったわね!あんたたち、ぶちのめしなさい!死んだって私が責任を取るから!」その時だった。人垣の外から、激しい騒ぎが起こった。「突っ込め!くそっ、何かあっても俺が全部責任取る!」荷物を満載した大型トラックが突然エンジン音を轟かせ、道を塞いでいた黒塗りの大型バンに突っ込んでいった。ドンッ!凄まじい衝突音が街中に響き渡る。バン2台の間に、大きな隙間ができた。トラックを運転していた男が車から飛び降り、手には大きなスパナを握っていた。「刑務所に入ることになったって構うもんか!この畜生どもが子供を見殺しにするのを黙って見ていられるか!」その瞬間、人々の怒りに火がついた。数十人の通行人が一斉に押し寄せ、体当たりでボディガードたちの壁を突き崩す。「早く!救急隊の人たちを通して!」
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第4話
「ヒーローが怪獣と戦うところ、見たいって言ってたよね?ママ、明日連れて行ってあげる」勇人の睫毛がかすかに震えたが、目を開ける力はもう残っていなかった。15分後、救急車は明徳病院の救急外来の搬入口へと滑り込んだ。救急外来の搬入口は大きく開け放たれていたが、ストレッチャーを準備して待ち受ける看護師は1人もいない。救急フロア全体が、不気味なほど静まり返っていた。救急隊員は一瞬固まると、すぐに車を飛び降りて叫んだ。「誰かいないのか!ストレッチャーを!」返事はない。受付の奥に数人の若い看護師が身を隠すように縮こまり、目を伏せて私たちを見ようとしなかった。救急隊員が思わず悪態をつき、自らストレッチャーを引っ張ってきた。救急隊員が勇人をストレッチャーに乗せ、処置室へと運んでいく。私も折れた脚を引きずりながら、必死にその後を追った。処置室の扉の前まで来たところで、白衣を着た中年の男が行く手を阻んだ。明徳病院の院長だった。額に脂汗を浮かべ、視線が定まらない。「待ってください。そこへは入れないんですっ」救急隊員が院長の襟元を掴み上げた。「正気か!この子は内臓が破裂しているんだ。一刻も早く手術しなきゃ死ぬぞ!」院長は救急隊員の手を無理やり振りほどき、声を落とした。「上からの厳命なんです!社長直々の電話でね、事故の責任が確定するまで、一切の治療を止めろと。輸血部はすでに閉鎖され、外科の責任者は全員、会議に呼び出されています。私にも養わなきゃいけない家族がいます。社長の命令には逆らえないんですよ!」私は雷に打たれたような衝撃を受けた。章平、あなたは本当にそこまで血も涙もない人間なのか?愛人の鬱憤を晴らすために、罪のない子供の命まで奪うつもりなのか?私は折れた脚を引きずりながら、どさりと院長の前に跪いた。「……院長、お願いします、助けてください!まだ5歳なんです!助けてくれるなら、一生恩に着ます。何でもしますから!」院長は顔を背け、私の目を見ようとしなかった。「お母さん、私を困らせないでください……この街で社長の機嫌を損ねたら、私だって生きていけないんですよ。他の病院に連れて行ったほうがいい。今ならまだ間に合うかもしれません」他の病院?ここから一番近い総合
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第5話
その時、処置室の前のモニターが、突然長く平坦な警告音を鳴らし始めた。ピ——それは、無情な1本の直線だった。救急隊員の体が、その場で固まった。彼はゆっくりと振り返り、もう動かなくなった緑の線を見つめ、苦しげに目を閉じた。「……駄目です」救急隊員は、死亡時刻を告げることすらできなかった。必要な救命処置すら受けられないまま、この子はすでに命を落としていたのだ。私は地面に跪いたまま、動けなかった。周りの世界から、音が消えたようだった。看護師のすすり泣きも、救急隊員の怒号も、何も聞こえない。私の目に映るのは、ストレッチャーの上の小さな体だけだった。勇人の顔は、すでに土気色に変わっていた。胸元の白いシャツは血に染まり、乾いてどす黒く変色している。ヒーローのフィギュアを固く握りしめていたはずの小さな手は、今はだらりと担架の縁から垂れ下がっていた。フィギュアは床に落ち、乾いた音を立てた。私は折れた脚を引きずりながら、少しずつ這って近づいた。フィギュアを拾い上げ、もう一度その手に握らせる。「勇人、ヒーロー、ちゃんと握ってて……ヒーローが、ママを守ってくれるんでしょう?」私は自分の頬を勇人の冷たい小さな顔に押し当てた。涙はとっくに涸れ果て、ひりひりとした痛みだけが残っていた。「どうして……ママを守ってくれないの……起きて……ねえ、ママを見て……」何の返事もない。廊下全体が、死んだように静まり返っている。その時、廊下の奥から、ヒールの硬い音が響いてきた。甘ったるい女の愚痴とともに。「この病院、消毒液の臭いがほんとキツいんだけど。章平ったら、私はもう平気だって言ってるのに、わざわざ全身検査させるんだもん。膝の擦り傷なんて、もう血も止まっているのに」聞き覚えのあるその声に、私の背筋は瞬時に凍りついた。ゆっくりと振り返る。章平はオーダーメイドの黒いスーツを身にまとい、背筋を伸ばして立っていた。片手で夏子の腰を抱き、私が1度も見たことのないような、甘さと呆れの混じった表情を浮かべている。「事故を起こしたのなら、念のため病院で検査しておくに越したことはない。あとになって何か症状が出たら困るからな」その声は、驚くほど優しく、甘かった。夏子は彼の胸にもたれ
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第6話
章平の視線は、担架の上に横たわる、その子の足元にある限定版のキッズスニーカーに吸い寄せられた。先週、海外へ出張に行った際、無理を言って取り寄せた、世界に10足しか出回っていない代物だった。彼の視線が、ゆっくりと上へ這い上がっていく。血に染まった半ズボン、見覚えのある白いシャツへと視線が移る。そして最後に、担架の縁を越えて視線が辿り着いたのは、血まみれで、鬼のような形相のまま跪いている私だった。章平の目が、限界まで見開いた。顔から、一瞬で血の気が引いていく。空気が、一瞬にして凍りついたかのようだった。いつも余裕ぶっていた彼の顔が、ひどく滑稽なほどに歪んでいく。唇が震え、喉仏が激しく上下するばかりで、声にならない。夏子の腰に回していた手を、ゆっくりと離す。鉛のように重い足取りで、一歩、また一歩と私に近づいてきた。「真優……?」その声は、人のものとは思えないほど掠れ、信じられないという震えを帯びていた。私は、冷ややかに彼を見つめた。口では愛していると言いながら、自分の手で息子の命綱を断ち切った、この男を。「私の名前を呼ばないで」自分でも驚くほど、冷静な声だった。取り乱すこともなく、泣き叫ぶこともない。ただ、骨の髄まで凍りつくような静けさだけがあった。章平には、私の言葉が聞こえていないようだった。視線は、担架の上の、生気を失った小さな体に釘付けになっている。「これ……これはどういうことだ」彼は勢いよく院長のほうを振り返った。目を真っ赤に充血させ、まるで狂った獣のようだった。「これは誰だ!そこに寝ているのは誰なんだ!」院長は恐怖のあまり膝から崩れ落ち、そのまま地面に跪いた。「社長……それは……あなた様が、ご命令を……いかなる治療も一切禁じろ、と……」章平はよろめき、全身から力が抜けたように体勢を崩した。担架に縋りつき、震える手を伸ばして、血だらけの勇人の顔に触れようとする。「勇人……俺の勇人……」パシッ!私は勢いよく手を振り上げ、彼の手の甲を思い切り払いのけた。乾いた音が、静まり返った廊下に響き渡る。「他の女に触れた汚い手で、この子に触れるな!」私は鋭く言い放った。章平は弾かれた手を引っ込め、ボロボロと涙をこぼした。その場にくずお
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第7話
「がはっ……!」章平の口から鮮血が噴き出し、病院の真っ白なタイルに飛び散った。夏子が、ようやく我に返った。ヒールの音を鳴らしながら駆け寄り、嫌悪感も露わに床の血痕を避ける。「章平、びっくりさせないでよ」彼女は章平の腕を掴もうと手を伸ばした。「たかが子供ひとりでしょ?死んだなら仕方ないじゃない。また作ればいいだけなんだから。済んだことのために、そこまで自分を痛めつけなくたって……」夏子の言葉が終わる前に。章平が勢いよく振り返った。血のように赤く染まった両目が、まるで死人でも見るかのように彼女を見据える。ドゴッ!章平は獣のように跳ね起きると、夏子の腹を思い切り蹴り飛ばした。夏子は凄まじい悲鳴を上げ、勢いよく吹き飛び、ナースステーションのカウンターに激しく打ちつけられた。「ああ!腰が!」彼女は苦しみに体を丸めて床に倒れ込んだ。丁寧に整えていた髪は乱れ、念入りなメイクも、歪んだ表情のせいで滑稽なものになっていた。「章平……あなた、私を蹴ったの?」彼女は信じられないという顔で顔を上げた。瞳には、理不尽な扱いを受けたとでも言いたげな色が浮かんでいる。「死んだガキのために、私を蹴るの?一番愛してるって言ったじゃない」この期に及んでも、幼稚なこの女は、自分がどれほどの大罪を犯したのか、まるで理解していなかった。章平の底なしの甘やかしに慣れきり、甘えれば何でも許されると思い込んでいたのだ。章平は、理性を失った亡霊のようだった。大股で歩み寄ると、夏子の髪を引っ掴み、彼女の体を引きずり上げた。「死んだガキ、だと?」その声は、ぞっとするほど静かで、それでいて凍りつくような殺意を帯びていた。「あれは、俺の息子だ。俺、南里章平のたったひとりの、実の息子だったんだ!」彼は指に力を込め、もう片方の手で夏子の首を思い切り締め上げた。「お前はあの子を撥ね殺しただけじゃない、救急車すら通そうとしなかった。車から降りて見ることすら嫌がり、お前はそこで口紅を塗り直していたんだ!」夏子の顔は瞬く間に紫色に変わり、白目を剥き、両手は彼の腕を虚しく叩いた。「た……助け……」ボディガードたちは互いに顔を見合わせるだけで、誰ひとりとして止めに入ろうとしなかった。章平は、本気で彼女を絞め殺そう
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第8話
診断結果の欄には、はっきりとこう書かれていた。【両側精管の重度閉塞、および精巣機能の不可逆的な低下を認める。永久性無精子症と診断】「これ……どういうことだ」彼は信じられないというように呟いた。私は、その惨めな姿を見つめた。「つまり、あんたにはもう子供はできない。勇人は、あんたにとって一生でたった1人の、血のつながった子供だったの。章平。自分の手でたった1人の息子も、この先子供を持つ可能性も全部断ち切った気分は、どう?」「そん……そんなはずは……」章平はその検査結果を手に、両手を激しく震わせた。彼は勢いよく振り返り、背後にいた院長の襟首を掴み上げた。「この検査結果は偽物だろう!お前の病院がミスしたんだろう!」院長は首を絞め上げられて白目を剥きながら、震える声で答えた。「し、社長……それは……先月、検査で判明したことです。あなた様が地方に出張中でいらっしゃったので、奥様が代わりに結果を受け取られたようです。再検査の結果も同じでした……あなた様は、永久性無精子症で、今後自然に子供を授かることはできません」章平の手から、力が抜けた。彼はよろめきながら2歩下がり、背中を冷たい壁に強く打ちつけた。永久性無精子症。彼には、この先、もう新たに実子を授かることはできない。そして、彼のたった1人の息子、唯一の血のつながった我が子は、2メートル先の担架の上に横たわっている。その小さな体は、すでに冷たくなっていた。彼自身が命じて閉鎖させた輸血部と、遠ざけられた医師たちが、最後に残されたわずかな命の可能性を断ち切ったのだ。「うああああ!」章平は突然、腹の底から絞り出すような絶叫を上げた。拳を振り上げ、壁に向かって狂ったように叩きつける。1発、2発、3発。指の隙間から血が滴り落ち、白い壁に痛々しい血の跡を残していく。痛みなど感じていないかのように、ただ機械的に殴り続けた。自分自身を罰するかのように。私は、彼が狂っていく様を冷ややかに見つめていた。これが痛いのか?これが耐えられないのか?勇人が血の海の中でママと叫んでいたとき、血が足りずに絶望しながら目を閉じていったとき。私の痛みは、あなたの1000倍、1万倍だったのだ!私は折れた右脚を庇いながら、片足で跳ねるよ
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第9話
夏子は悲鳴を上げ、無理やり勇人の遺体の前まで引きずられ、跪かされた。「勇人に土下座しろ!死ぬまで頭を下げ続けろ!」夏子は恐怖で涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、必死に首を振った。「嫌……死体が……怖い……章平、許して、お願い!もう二度としないから!」章平は彼女の後頭部を鷲掴みにし、硬い床に思い切り叩きつけた。ゴンッ!夏子の額がタイルに激突し、瞬く間に赤黒いこぶが腫れ上がった。「土下座しろ!もっと力を入れて頭を下げろ!でなきゃ頭を踏み潰すぞ!」章平は鬼のような形相で、彼女を押さえ込み続けた。1度、2度、3度。夏子の甲高い泣き叫ぶ声が、救急フロアに響き渡る。やがて、床のタイルには赤い血の跡が広がっていった。自慢の美貌は、今や血と涙にまみれ、これ以上ないほど惨めな有様になっていた。「社長……本当に、反省しているわ……でも私だって、わざとじゃないのよ。あの子が急に飛び出してきたのがいけないのよ……」この期に及んでも、彼女はまだ言い訳を探していた。その言葉を聞いた瞬間、章平が抑えていた怒りが一気に爆発した。彼は勢いよく立ち上がり、周囲をぐるりと見回す。突然、受付カウンターの上にあったステンレスのトレーを掴み上げた。「わざとじゃない?人を撥ねておいて、車から降りようともせず口紅を塗り直して、おまけに俺の妻に靴まで舐めさせようとしただろう!このクソ女め!」彼はトレーを振りかぶり、夏子の顔面めがけて思い切り振り下ろした。「あああー!」夏子は顔中血まみれになって倒れ込み、口元から血が流れ、血のついた歯が数本床に転がった。章平の手は止まらなかった。彼は夏子の胸元を力任せに踏みつけ、トレーを高々と振りかぶった。「何するつもり!人殺し!」夏子はようやく、目の前の男が本気で自分の命を奪おうとしていることを悟り、恐怖に全身が凍りついた。周りの医師や看護師たちも、あまりの惨状に怯え、後ずさるばかりだった。誰ひとりとして、止めに入る者はいなかった。私は、床に倒れている夏子を冷ややかに見つめた。これが、彼女が必死に媚を売っていた金づるの正体だ。自分の利益が損なわれた途端、彼女など犬以下の扱いなのだ。「警察だ!」誰かがそう叫んだ。何人かの警察官が救急フロアに
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第10話
「あなたが、あの愛人のために輸血部を閉鎖させた、あの瞬間から、私にとってはただの仇よ」パトカーと救急車のサイレンが入り混じり、病院全体に響き渡った。夏子は警察官に付き添われ、別の救急車に運ばれていった。章平は警察官に連行された。連れて行かれる間際、彼は車のドアにしがみつき、真っ赤に充血した目で私を見つめながら、追い詰められた獣のような声で懇願した。「真優、俺を置いていかないでくれ……南里グループは全部お前にやる。一生かけて償うから!俺が戻ってくるまで待っててくれ、もう一度やり直そう、な?」私は、もはや一瞥もくれなかった。振り返り、救急隊員が勇人の遺体を運び出していくのを見つめる。遺体安置所での手続きを終えたところで、私はついに力尽き、廊下で意識を失った。目が覚めたとき、右脚にはすでにギプスが巻かれていた。私は3日間、病院のベッドで横たわったまま過ごした。この3日間で、外の世界は一変していた。南里グループの代表が、愛人のご機嫌取りのために系列病院を封鎖し、結果的に実の息子を死なせたというスキャンダルは、瞬く間にネット上を駆け巡った。私は事故当時のドライブレコーダーの映像と、明徳病院院長の証言の録音を、すべて警察とメディアに提出した。南里グループの株は、3日連続でストップ安を記録した。数えきれない人々が、グループの公式SNSに非難のコメントを書き込み、厳正な捜査を求める声を上げた。章平の弁護団は対応に追われ、巨額の示談金を提示して事態を収めようと動いた。私は、弁護士たちを小切手ごと病室から叩き出した。4日目、章平が釈放された。事故に直接関与しておらず、病院封鎖の指示を裏付ける書面証拠もなく、捜査が続いていたため、警察はいったん彼を釈放したのだ。出てきて真っ先に彼がしたことは、私の病室に飛び込んでくることだった。病室のドアが乱暴に開け放たれた。章平は見る影もなくやつれ果て、目は落ち窪み、顎には無精髭が伸び放題になっていた。かつて、傲岸不遜なトップとして君臨していた面影はそこになく、まるで別人のようだった。彼はベッドの前まで歩み寄ると、崩れ落ちるように跪いた。「真優、戻ってきた。あの女……夏子には、絶対に重い罪を償わせる。二度と簡単には出てこられないようにしてやる
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