تسجيل الدخول婚約パーティーから三日が過ぎたが、その日に起きたことは世間を騒がせるような大事には至らなかった。信三が自ら手配し、当日招いた客のもとへ謝罪と贈り物を届けさせたらしい。結果として、人々の認識は「中道家と斉藤家の縁談」という形で落ち着き、肝心の「誰が婚約したのか」については、あくまで中道家の内情として扱われた。……けれど由奈にとっては、そんな外の評価などどうでもよかった。浩輔から、近況についての報告を受けたあの日以来、祐一からは一切音沙汰がない。三日間、メッセージも電話も、何ひとつ返ってこなかった。不安が募る中で、彼女が気にかけていたのは、むしろ、和恵のほうだった。食卓で、ふと箸を止めた由奈に気づいた秀明が、静かに口を開く。「そんなに気になるなら、一度向こうへ行ってきてもいいじゃないかな」思いがけない言葉に、由奈は顔を上げた。少し迷ったあと、口を開く。「……実は、そのこと、私からもお願いしようと思ってました」「だろうな」秀明は軽く手を振る。「君からは言い出しにくいだろうと思って、提案しておいた。本音を言えば、海都市に行かせるのはあまり気が進まないが」そこまで言って、彼はふっと息をついた。「けどな。君はもともと海都市で育ったんだ。たまには、帰ってみたくなることもあるだろう」その言葉に、由奈は静かに頷く。「今回帰るついでに、浩輔にも会ってこようと思ってます」「浩輔……ああ、養父母のところの子か」「はい。今、あの子にとって家族は私だけですから。名目上とはいえ姉ですし、ずっと一緒にやってきたんです。顔くらい見に行かないと」秀明は少し考えたあと、やわらかく笑った。「それもいいな。もし本人が嫌がらなければ、智宏の会社に紹介してやってもいい。近くにいれば面倒も見やすいだろう」「縁故採用ですか?」由奈は思わず笑う。「縁故採用だとしても、悪いことばかりじゃない」秀明は真面目な顔に戻る。「能力があっても機会に恵まれない人間はいくらでもいる。親の代が築いたものは、本来、次の世代に機会を与えるためのものだ。誰もが持てるものじゃないからこそ、価値がある」少し間を置いて、言葉を続ける。「才能ある人間が、必ずしも評価してくれる相手に出会えるとは限らんからな」その意味を噛み締めるように、由奈は静かに頷いた。「……わかりました。本人に聞いて
パーティーの様子も、招待客がこの婚約式をどう思っているのかも、由奈にはわからなかった。ただ――ここにいればいい。パーティーが終わるまでじっとしていれば、それで中道家を守ることができる。そんなふうに、自分に言い聞かせていた。そのとき、扉の前でふっと気配が止まる。差し込んだ影に心臓が大きく跳ねた。一瞬、相手を祐一の姿が重なる。――祐一が来たのか?思わず顔を上げる。けれど、数秒の沈黙のあと。「……私です」聞こえてきたのは、倫也の声だった。現実に引き戻され、由奈はわずかに肩の力を抜く。「……どうしてここに?」パーティーには招いていたが、今は会場にいるはずだ。倫也は軽く顎でホールの方を示す。「主役が入れ替わってたから、気になってお兄さんに聞いてみました」その言葉に、由奈は目を伏せる。倫也は少し間を置いてから続けた。「滝沢家、何かあったみたいです。松本さんが昨日、急に休み取ってました。かなり慌てていました」「え……?」由奈の胸がざわつく。「……何があったか、わかりますか?」「いや。向こうは情報を締めてるみたいで、私のとこにも何も降りて来ていません」滝沢家に何かあった。その一言だけで、嫌な想像が頭をよぎる。まさか和恵に何かあったのか?だが、祐一が婚約パーティーを放り出すほどの事態――それは、「家や会社にトラブルが起きた」ってだけで済むはずがない。紬まで慌てて戻ったとなれば、巻き込まれているのは滝沢家だけじゃない可能性もある。……まさか。そこまで考えて、由奈は思考を止めた。顔色がみるみる白くなっていくのを見て、倫也がわずかに眉をひそめる。「心配なら――数日後、一緒に海都市に行きませんか?ヤクモヘルスグループと案件があるので、どうせ行く予定なんです。向こうの様子も見られますし」由奈は即座に頷いた。……婚約パーティーの翌日。中道家の屋敷には、関係者が集められていた。悠也と澪の姿もある。空気は、重かった。「滝沢家、どういうつもりなのよ」美雪が苛立ちを隠さずに口を開く。「あんな大事な場なのに来ないなんて……代役立ててどうにかしたけど、あんな茶番、人になんて言われてるのか……」式の準備を主に担っていたのは彼女だ。延期を経てようやく迎えた当日が、あんな形で崩れたのだから、無理もない。秀明も苦い顔で頷く。
「もともと延期してた婚約パーティーなんです。ここで中止にしたら、さすがにまずい。みんな見てるし……おじいさんやお父さん、それからお兄さんも困ってしまいます」由奈の言葉に、智宏は一瞬言葉を失った。彼女がそこまで周りを見ているとは、思っていなかったのだろう。視線を落とし、低く問いかける。「……まさか、全部一人で背負うつもりなのか?」由奈は小さく息を吐いて、顔を上げた。浮かべた笑みはぎこちなく、どこか無理をしている。「中道家の婚約パーティーなんだから、主役が中道家の人間であれば、形にはなるでしょ?」智宏が言葉を返す前に、由奈は悠也へと向き直った。「今日の婚約パーティーって、中道家の娘と斉藤家の御曹司ってことになってるでしょ?だから、あなたはその新郎です」「は?」悠也は一瞬固まり、すぐに顔を引きつらせて手を振った。「いやいや、ちょっと待って!そんなの無理って!新郎役に俺が?祐一に殺されるよ!」「そういうわけじゃないんです」そう言って、そっと澪の手を引いた。「澪さんだって、中道家の娘でしょ?」いきなり名前を出された澪は、その場に立ち尽くしたまま由奈を見返す。悠也も言葉を失う。さすがに想定外すぎる展開だった。「あの……言いたいことはわかりますけど」慎重に言葉を選びながら、悠也は続ける。「今日、あなたと祐一の婚約パーティーですよね?それを急に俺と澪さんが代わりにって……信三さんがどう思うか以前に、澪さんが了承してくれるかどうかさえわかりませんよ」澪はわずかにまぶたを震わせ、うつむいたまま黙っている。由奈は一瞬だけ目を閉じたあと、静かに言った。「二人とも、お願いです。形だけでいいんです。ほんとに結婚させるわけじゃないから」一拍置いて、さらに続ける。「どうしても無理なら……あなたが祐一の代わりに立つしかありません。どっちがいいのか、選んでください」もう迷っている時間はない。中道家を守る――それが最優先だった。智宏は深く息を吸い、悠也の前に立つ。「斉藤さん。この件、引き受けていただけるなら……借りは必ず返します。どんな形でも」しばしの沈黙。やがて悠也は、軽く舌打ちして息を吐いた。「……やるのはいいですけど、最終的に決めるのは澪さんです」由奈の視線が、澪へ向く。澪はゆっくりと顔を上げた。「……私、やります」……由奈は澪を
翌日に行われる婚約パーティーは、派手なものではなかった。数か月かけて整えられた会場はそのままに、無駄な儀式は削ぎ落とされ、全体として落ち着いた構成になっている。中道家はゲストを迎えていた。今回の席には、恭子以外、信三も「体調不良で療養中」という理由で欠席している。招かれているのは中道家と親しい関係者ばかりで、信三が欠席した本当の理由に気づいている者も多かったが、誰も口には出さなかった。会場の外では、秀明と智宏が並んで客を迎えていた。招待客はほぼ揃っているにもかかわらず、千代たちの姿だけが見えない。「まさか遅れるなんてことはないだろうな……」腕時計を確かめながら、秀明が小さくつぶやく。やがて、ゲストたちは全員入場し、会場はにぎわいに包まれた。……控室では、由奈が身支度を終えていた。ゲストも揃った頃合いを見て、彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、立ち上がる。澪がバッグを持ち、そのすぐ隣で裾を整えながら付き添う。まだ会場へ入る前、来客対応をしていた美雪が足早に近づいてきた。「由奈さん、滝沢家のみなさん、まだ来てないの?」由奈は会場の中へ視線を向ける。上座が、ぽっかりと空いていた。千代も、和恵の姿もない。そして――祐一の姿も。一瞬だけ唇を引き結び、平静を装って答える。「何か用事で遅れてるのかもしれません。もう少ししたら来ると思います」「あと十分で始まるわ。連絡、取ってみて」由奈は静かにうなずいた。美雪は別の来客に呼ばれ、その場を離れていく。由奈は目を伏せ、わずかに眉を寄せた――祐一が遅れるなんて、ありえない。胸の奥に、じわりとした不安が広がる。「澪さん、スマホを……」受け取るとすぐに発信する。呼び出し音だけが、長く続く。だが応答はない。もう一度かけてみても――繋がらない。「由奈お姉ちゃん、大丈夫ですか?」澪が由奈の顔をのぞき込む。「祐一さん、出なかったんですか?」由奈は何も答えず、ただスマホを握りしめたまま、再び会場へ視線を向ける。その中に、紬の姿もない。見えるのは、悠也だけ。「悠也さん、呼んできてくれますか?」澪が頷き、悠也に近づくと、耳元で何かを囁いた。直後、悠也はグラスを置き、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。「どうしたんですか?」「祐一の電話が繋がらないんです」「え……?
信三は、あの親子を本気で傷つけようとしたわけではないと由奈が知ったのは、秀明と智宏が本邸から戻った後だった。表立って態度を変えたわけではない。ただ一歩だけ引いた――それだけで、今後はもう干渉しないという意思は十分に伝わった。どうして急に考えを変えたのか、由奈は気になって父に尋ねた。秀明は苦笑する。「おじいさんは昔からああいう人だ。何を考えてるかなんて、誰にも分からないさ」長年付き合ってきた彼でさえそうなのだ。秀雄を除けば、兄妹の中で誰一人として、その気性を読み切れる者はいない。由奈はそれ以上、何も言わなかった。……それから二日後、茜がようやくメディアの前に姿を現し、「未婚での出産」について説明した。「後悔はしていません。子どもの父親は、私が思っていた以上に、この子を大切にしています」その二言だけで、世間の詮索はひとまず収まった。なぜ秀雄が彼女と籍を入れていないのか――誰もが薄々事情を察してはいたが、それ以上は推測の域を出ることはなかった。やがて騒ぎも落ち着き、一週間。延期されていた婚約パーティーが、いよいよ明日に迫る。あの霧がかったような淡いブルーのドレスに、由奈はようやく袖を通した。最高級のシルクベルベットは、室内のやわらかな光を受けて、しっとりとした艶をたたえている。幾重も重なるレースが上へと流れ、取り外し可能なフィッシュテールの裾は、淡い霧がたゆたうように由奈の体を包み込んでいた。襟元には、パールとブルーのビジューで白木蓮がかたどられている。控えめな上品さの中に、確かな華やぎがあった。指先でそっとなぞると、雲のようにやわらかな感触と、手縫いならではのわずかな起伏が伝わってくる。「お嬢様、本当にお似合いです。どんな女優さんよりもお綺麗ですよ」試着を手伝っていた使用人が、思わず声を弾ませた。由奈は小さく笑う。「大げさですよ」「いいえ、本当です。奥様の若い頃にそっくりで……皆そう思っております。もし奥様が今のお姿をご覧になったら、きっと誇らしく思われますよ」長年この家に仕えてきた彼女の言葉には、確かな実感がこもっていた。母の話題に触れた瞬間、由奈は視線を落とす。本当は――この日を、いちばん見てほしかった人だった。そのとき、不意に鏡の中にもう一つの影が映り込んだ。使用人は一歩下がり
「秀雄、お前は――私の子どもの中でも一番頭が切れる。誰よりも信頼していたし、私の考えも一番よくわかってくれた」信三はゆっくりと歩きながら続けた。「もしあのとき、私の言う通り安藤家の娘と結婚していれば……今ごろ、中道家の後継ぎはお前の息子で、智宏ではなかった」その言葉に、茜がそっと秀雄の方を見る。秀雄は一度、深く息を吸い込んだ。「もしあのときお父さんの言う通りにしていたら……お父さんは満足したでしょう。でも、俺は――今の俺でいられたでしょうか」わずかに間を置き、続ける。「お父さん。正直に言うと、俺は弟たちが羨ましかった。少なくとも、彼らには自分で選ぶ権利がありました。けど俺は違った。期待されていたのはわかっています。でも、その期待は……俺にとっては、枷でもあったんです」信三の眉がぴくりと動く。「今日は……この二人のために、私に逆らうつもりか」「もしお父さんが彼らを認めてくれないのなら――私は、やるべきことをやるまでです」張り詰めた空気が、リビングを満たす。外に控えるボディーガードたちですら、息を潜めていた。そのとき、秀雄の背後にいた光俊が一歩前に出る。「すみません」まっすぐ信三を見据えた。「父を困らせるのは、やめてください」その口から、「おじいさん」という言葉は出なかった。これまで一度も会いに来なかった相手に、そんな呼び方はできなかった。信三はその様子を見つめ、ほんの一瞬、複雑な感情が目の奥をよぎる。「光俊、部屋に戻りなさい」秀雄は息子を巻き込みたくなかった。だが光俊は首を振る。「僕はもう子どもじゃありません。今年で十八歳です。お父さん、僕にも、家族を守れます!」その言葉に、秀雄は言葉を失った。気づけば、息子は自分よりも背が高くなっている。守られる側だったはずの存在が、いつの間にか自分を守れるようになっていた。「……もういい」信三はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。「別に、この二人をどうこうするつもりはない。縁を切らせようと思っただけだ」淡々とした口調で続ける。「今日来たのは、ただ見たかったんだ。お前が十年以上も守り続けてきた相手が、どんな人間なのかをな」秀雄はわずかに目を見開く。信三は鼻を鳴らした。「……なかなか骨がある」それだけ言うと、顔を背けてその場を後にした。秀雄はしばらく
由奈は長い沈黙のあと、以前彰が語った滝沢家との因縁を思い出し、彼を見つめた。「じゃあ……Aというのは、滝沢家の人なんですね?」「そうだ」彰は否定しなかった。「そしてBの妹は僕の祖母。その女の子が、僕の母だ」由奈は息を呑む。彰の母親は、滝沢家の血を引いていた。もし滝沢家が彼女を認めていれば、今ごろ彼女は滝沢家の長女として生きていたはずだ。「……それを、どうして私に?」「正直に話すよ」そう言って、彰は由奈の手を取った。「最初は、君を利用するつもりで近づいた。でも……由奈ちゃん、僕は後悔したんだ。君と久美子さんが僕をあんなに信頼してくれた時から後悔したんだ。もう、これ以上嘘をつき
久美子の異変に、看護師はすっかり怯えてしまった。騒ぎが大きくなるのを恐れ、慌てて彼女の腕を掴む。「池上さん、落ち着いてください……!言いたいことがあるなら、外でゆっくり話しましょう!」その隙に、歩実ははっと我に返り、踵を返して走り出した。「待ちなさい!」久美子は看護師の手を振りほどき、後を追う。階段に差しかかったところで、ハイヒールのせいで足を取られた歩実を、久美子が掴まえた。「答えなさい!浩輔をあんなふうにしたのはあんたでしょう?あんたがやったのね?」強く引かれ、歩実の身体は廊下の手すり際へ追い込まれる。背後には、十数階分の高さ。道路を走る車が、異様なほど小さく見えた。
歩実はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。頭が重く、意識は濁った水の中に沈んでいるようだった。――自分が、切り捨てられる側になるなんて。転落する前は、誰もが彼女に味方していた。けれどひとたび立場を失えば、同じ人間たちが、まるで示し合わせたかのように背を向ける。急に、昔のことが恋しくなった。祐一が、まだ彼女を宝物のように扱ってくれていたあの頃。あのときの彼女は、すべてを手にしていたはずなのに、それでも満たされなかった。だからこそ、圭介とあんな愚かな関係を持ってしまったのだ。圭介が与えてくれる金銭的な余裕を享受しながら、祐一の信頼と甘やかな愛情も手放せなかった。迷いがなか
祐一への憎しみは本物だった。その薄情さが骨の髄まで許せない。だが、それ以上に――由奈の存在が憎い。彼女のせいで、自分の計画がすべて狂わされた。もし由奈が現れなければ、いまごろ自分は祐一と結婚し、目の前の悪魔からも逃れられていたはずだ。圭介はグラスの酒を軽く揺らしながら、彼女の瞳に宿る激しい憎悪を眺め、くすりと笑った。「なら、まずはお前の覚悟を見せてもらおうか」歩実は一瞬、言葉を失う。次の瞬間、彼の表情の意味を悟り、血の気が引いた。……午後。由奈は足早にエレベーターへ乗り込んだ。だが中に倫也の姿を見つけ、思わず足を止める。目が合った瞬間、彼女は視線を逸らし、軽く笑って挨拶







