LOGIN「――湊様、お久しぶりです」
(湊、様?) 私の叫びを遮ったのは、冷ややかで、しかし妙に甘さを孕んだ声だった。 むせ返るような、しかし高価であることだけはわかる甘い香水の匂い。 顔を上げると、そこには息を呑むほど完璧な女性が立っていた。 昨日、精一杯着飾った私なんか、足元にも及ばない。 しなやかな肢体に吸い付くような、上質なシルクのタイトスーツ。一分の隙もない完璧なメイク。隙のない、キャリアウーマン風の美女。 彼女は、私には目もくれず、まっすぐに湊だけを見つめている。 その瞳には、彼を値踏みするような、それでいてどこか熱を帯びた粘着質な光が揺れていた。「……綾辻さん。奇遇ですね」 湊の顔から、私に向けていたあの半笑いが、まるで仮面を剥ぐようにすっと消えた。 空気が一瞬で張り詰める。 ラウンジに流れる優雅なBGMが、急に遠くなった気がした。(なに、この雰囲気……)「奇遇かしら。このホテルのラウンジにいらっしゃることは、よく存じておりましたから」「ご用件は?」「つれないわね。……近々、新作のドレスラインを発表するの。Imperial Dragon Hotel と、ぜひ提携できないかと思って。そのご相談よ」 女――綾辻さん、と呼ばれた彼女は、そう言って湊の向かい、つまり私の隣の席に、断りもなく優雅に腰を下ろした。 香水が、再び強く香る。 始まったのは、私には到底理解できない、専門用語が飛び交う緊張感のあるビジネスの話。「……先のコンペの件ですが」「ああ、あれは、あなたのデザインでは、うちの客層には響かないと判断しました」「手厳しいわ。でも、湊様は、昔から私のデザインを一番理解してくださっていたはずよ?」(……昔から?) ぞくり、とエアコンの冷気とは違う悪寒が背筋を走る。 この二人の間には、私なんかが立ち入れない、濃密な「過去」がある。<ラウンジを出て、サロンに戻る気力もなく、私はそのまま重い足取りで自宅のアパートへと向かった。 地下鉄の窓に映る自分の顔は、青ざめていて、まるで幽霊のようだ。 華やかなホテルのラウンジから、生活感の溢れる薄暗い地下鉄へ。その落差が、今の私の立場を残酷なほど明確に突きつけてくる。(……最悪) アパートの鍵を開け、狭い玄関にヒールを脱ぎ捨てる。 どっと泥のような疲れが押し寄せて、私は張り付いた笑顔のメイクも落とさず、ひやりと冷たいリビングのフローリングに突っ伏した。 目を閉じると、瞼の裏に焼き付いているのは、あの二人の姿だ。 完璧な美貌を持つ綾辻さんと、彼女と対等に渡り合う湊。あの空間には、私が入り込む隙間なんて1ミリもなかった。 シャワーでいくら洗っても落ちない、あの男の匂いがまだ肌にこびりついているようで、気持ち悪い。 なんなのよ、あいつ。 ホストだと思ってたら、今度は私を雇うとか言い出して。 かと思えば、あんな綺麗な女の人と、私の知らない顔で、私の知らない話をして。「君に一番似合うものを」なんて甘い言葉で弄んでおきながら、結局私は、彼のゲームの駒でしかない。 全部、あいつの手のひらの上で、私は踊らされてるだけじゃない。 悔しくて、情けなくて、熱いものがこみ上げて視界が滲んだ、その時だった。「……あんた、何してんの。床で」 呆れ返った、しかしどこか鋭い声が頭上から降ってきた。 ビクリと肩を震わせて見上げると、部屋着のスウェット姿の姉、茅野詩織が、ゴミ袋を片手に私を見下ろしていた。「……詩織姉。おかえり」「ただいま、じゃないわよ。あんた、今日仕事は? しかも、何その顔。メイク崩れてるし……また男?」 詩織姉は、私より三つ上の二十八歳。区役所勤務の、超現実主義者だ。 恋愛で大怪我をしたばかりの妹を、心底心配してくれているのは分かっているけれど、その容赦のない視線が今は痛い。「
「――湊様、お久しぶりです」(湊、様?) 私の叫びを遮ったのは、冷ややかで、しかし妙に甘さを孕んだ声だった。 むせ返るような、しかし高価であることだけはわかる甘い香水の匂い。 顔を上げると、そこには息を呑むほど完璧な女性が立っていた。 昨日、精一杯着飾った私なんか、足元にも及ばない。 しなやかな肢体に吸い付くような、上質なシルクのタイトスーツ。一分の隙もない完璧なメイク。隙のない、キャリアウーマン風の美女。 彼女は、私には目もくれず、まっすぐに湊だけを見つめている。 その瞳には、彼を値踏みするような、それでいてどこか熱を帯びた粘着質な光が揺れていた。「……綾辻さん。奇遇ですね」 湊の顔から、私に向けていたあの半笑いが、まるで仮面を剥ぐようにすっと消えた。 空気が一瞬で張り詰める。 ラウンジに流れる優雅なBGMが、急に遠くなった気がした。(なに、この雰囲気……)「奇遇かしら。このホテルのラウンジにいらっしゃることは、よく存じておりましたから」「ご用件は?」「つれないわね。……近々、新作のドレスラインを発表するの。Imperial Dragon Hotel と、ぜひ提携できないかと思って。そのご相談よ」 女――綾辻さん、と呼ばれた彼女は、そう言って湊の向かい、つまり私の隣の席に、断りもなく優雅に腰を下ろした。 香水が、再び強く香る。 始まったのは、私には到底理解できない、専門用語が飛び交う緊張感のあるビジネスの話。「……先のコンペの件ですが」「ああ、あれは、あなたのデザインでは、うちの客層には響かないと判断しました」「手厳しいわ。でも、湊様は、昔から私のデザインを一番理解してくださっていたはずよ?」(……昔から?) ぞくり、とエアコンの冷気とは違う悪寒が背筋を走る。 この二人の間には、私なんかが立ち入れない、濃密な「過去」がある。
(……雇われる?) 私は、目の前の男が何を言っているのか、本気で理解ができなかった。 昨日、私が時給五万で雇った、はずの男。 私をスイートルームで翻弄し、欲望のままに私を抱いた、はずの男。 今朝、私の職場に現れて、「婚約者のドレスを選びに来た」と私を地獄に突き落とした、はずの男。 その男が、今、私を「婚約者役として雇いたい」……?「……っ、あんた、いい加減にして」 私は、こめかみがズキズキ痛むのをこらえながら、彼を睨みつけた。 この男の口から出る言葉は、どれもこれも私の常識を遥かに超えている。「昨日から、ずっと私を弄んで……。そんなに楽しい? 人の心も身体も、めちゃくちゃにして」「心と身体を弄んだ、か」 湊は、私の言葉を訂正するように呟き、心底不思議そうに首を傾げた。その声には、罪悪感など微塵もなく、あるのは冷徹な計算だけだ。「これは、ビジネスの話だ。昨夜のことは、まあ……契約の『手付金』のようなものだったとでも思えばいい。君にもメリットはあるはずだ」「手付金……ですって?」(……最低だ、この男) 全身の血が沸騰するような怒りを感じた。 昨夜の、あの熱いキスも、肌を合わせた感触も、私たちが共有した(と思っていた)刹那的な感情も。 この男にとっては、ただのビジネスの「前払い」に過ぎなかったというのか。 私が感じていた罪悪感や、ほのかなときめきが、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、冷たく乾いた「契約」という現実だけ。「メリット……?」 私は震える声で問い返した。「私に、何のメリットがあるっていうのよ。あんたの遊び相手にされて、都合よく使われて!」「俺は、とある事情で、早急に『婚約者』を必要としている」 彼の目が、すっと細められる。それは、獲物を定めるような、冷徹な光だっ
「―――君に、一番似合うものを」 その言葉が、サロンの静かな空気に、低い響きだけを残して溶けていく。(……は?) 何を、言っているの。この男は。 私に、一番、似合うもの? それは、どういう意味? 婚約者のドレスを選びに来たんじゃなかったの? それとも、まさか――(―――私を、本気で馬鹿にしてる?) 昨日、あのスイートルームで私を抱いておきながら、今度はこんな風にからかうつもり? プロの笑顔を貼り付けたまま、指先が冷えていくのを感じながら固まる私を見て、湊は、それまで浮かべていたあの「半笑い」を、ふっと消した。 そして、まるで、今までのやり取りがすべて茶番だったとでも言うように、私にしか聞こえない低い声で、面倒くさそうに呟いた。その声が、昨夜、耳元で聞いた熱っぽい囁きとは似ても似つかない冷たさで、私の神経を逆撫でる。「……冗談だ。話がある」「え……?」「ここじゃまずい。少し、付き合え」 そう言うと、彼は、私が返事をするよりも先に、私の腕を掴んだ。「ちょっ……! お客様!? いま、仕事中……!」 熱い。昨日、私を軽々と抱き上げ、ベッドに押さえつけた、有無を言わせぬ力強い手。「構うな」 私は、唖然とする後輩スタッフたちの好奇と戸惑いの入り混じった視線を背中に浴びながら、昨日と同じように、この男に強引に腕を引かれ、サロンの外へと連れ出されてしまった。 ◇「ちょっと! 離しなさいよ! 一体どういうつもり!?」 サロンのすぐ近くにある、ホテルのラウンジカフェ。 その一番奥の、人目につかない席に、私は半ば放り込まれるように座らされた。柔らかいソファに乱暴に沈み込む身体。 昨日から、私はこの男に振り回されてばっかりだ。胃の奥がキリキリと痛む。「……いい加減にして。何の用なのよ。婚約者さんのドレスは?」
――昨夜、私を抱いた男。(なんで、あんたが、ここに……!?) 心臓が、喉から飛び出しそうだった。全身の血が逆流するような感覚に襲われ、頭が真っ白になる。 私の尋常ではない動揺を、後輩のスタッフが不思議そうに見ているのが視界の端に入った。「チーフ? どうかされました?」「……っ、いえ、なんでもないわ」 私は、必死に平静を装い、一歩前に出た。 足が震えているのを悟られないよう、床に踵を強く押し付ける。 湊は、私を見ても、眉一つ動かさない。 その瞳は、昨日、私をベッドルームで激しく求めた熱っぽいものでも、電話口で見せた冷徹なものでもない。 まるで、初めて会う店の店員に向けるような、無関心で、品定めするような、冷たい視線だった。(……なに、その目) 昨夜のことなど、何もかも無かったかのように。 いや、それどころか、私のことなど知らないとでも言うように。 私だけが、あのスイートルームでの出来事を、あの肌の熱を、屈辱を、引きずっている。まるで私一人が馬鹿みたいじゃないか。 カッと、顔に血が上るのを感じた。「……いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件で」 声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死にこらえる。 私の、チーフコーディネーターとしてのプライド。プロとしての完璧な笑顔。 それが、今、私を支える唯一のものだった。 私のその、必死の笑顔を見て、湊は、初めて、あの「半笑い」を口元に微かに浮かべた。 そして、残酷な言葉を、はっきりと口にした。「ああ。婚約者のために、ドレスを選びに来たんだ」(……こんやく、しゃ?) 息が、詰まった。 婚約者。 その言葉が、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さる。 ああ、そう。そうか。 この男には、本物の「婚約者」がいたんだ。 昨夜のあれは、からかわれただけ
呆然と見渡した広いスイートルームは、しんと静まり返っていた。 微かに、昨夜の残り香が空気に溶けている気がして、息が詰まる。 シーツには、私以外の誰かの体温は、とっくに残っていなかった。 まるで、昨夜の出来事すべてが、アルコールが見せた悪い夢だったかのようだ。 だが、ベッドサイドのテーブルには、その夢が現実だったことを証明するように、一枚のカードキーが冷たく光っていた。(今夜はここに泊まっていくといい)(今日の『報酬』は、これで十分だ) 昨夜の冷え切った声が、耳の奥で蘇る。(……報酬) その言葉の意味を反芻し、全身の血が、今度は屈辱で凍りつくのを感じた。 私、なんて馬鹿なの。 あの男は、私を「時給五万」の復讐道具としてだけでなく、一夜限りの「報酬」として、私の身体を……モノのように扱った。 私は、あの男の剥き出しの欲望に、流されて、応えてしまった。 その事実が、恥ずしくて、情けなくて、たまらない。 私は、逃げるようにベッドから転がり出ると、床に脱ぎ捨てられていた昨夜のドレスを乱暴に掴んだ。くしゃくしゃになったシルクの感触が、今の私自身のようにみすぼらしく感じた。 その時、ベッドの足元に、昨夜はなかった真新しいショッピングバッグが置かれているのに気づく。 中には、私でも知っているハイブランドのワンピースが入っていた。 そして、簡素なメモ。『急用で先に出る。これは君へのギフトだ』 ――ギフト。 まるで、働きに対する「手当」のように。 破られたドレスの代わり? それとも、口止め料? こんなもの、いらない。 でも、破れたドレスで帰るわけにはいかない。 私は唇を噛み締め、屈辱に震える手でそのワンピースを身に纏った。サイズは、驚くほどぴったりだった。 それがまた、彼の手慣れた様子を連想させ、私の惨めさを加速させる。 もう二度と、あの男に会うものか。 混乱したまま一夜を明かした私は、朝日が眩しい Im