LOGIN「―――君に、一番似合うものを」
その言葉が、サロンの静かな空気に、低い響きだけを残して溶けていく。(……は?) 何を、言っているの。この男は。 私に、一番、似合うもの? それは、どういう意味? 婚約者のドレスを選びに来たんじゃなかったの? それとも、まさか――(―――私を、本気で馬鹿にしてる?) 昨日、あのスイートルームで私を抱いておきながら、今度はこんな風にからかうつもり? プロの笑顔を貼り付けたまま、指先が冷えていくのを感じながら固まる私を見て、湊は、それまで浮かべていたあの「半笑い」を、ふっと消した。 そして、まるで、今までのやり取りがすべて茶番だったとでも言うように、私にしか聞こえない低い声で、面倒くさそうに呟いた。その声が、昨夜、耳元で聞いた熱っぽい囁きとは似ても似つかない冷たさで、私の神経を逆撫でる。「……冗談だ。話がある」「え……?」「ここじゃまずい。少し、付き合え」 そう言うと、彼は、私が返事をするよりも先に、私の腕を掴んだ。「ちょっ……! お客様!? いま、仕事中……!」 熱い。昨日、私を軽々と抱き上げ、ベッドに押さえつけた、有無を言わせぬ力強い手。「構うな」 私は、唖然とする後輩スタッフたちの好奇と戸惑いの入り混じった視線を背中に浴びながら、昨日と同じように、この男に強引に腕を引かれ、サロンの外へと連れ出されてしまった。◇
「ちょっと! 離しなさいよ! 一体どういうつもり!?」
サロンのすぐ近くにある、ホテルのラウンジカフェ。 その一番奥の、人目につかない席に、私は半ば放り込まれるように座らされた。柔らかいソファに乱暴に沈み込む身体。 昨日から、私はこの男に振り回されてばっかりだ。胃の奥がキリキリと痛む。「……いい加減にして。何の用なのよ。婚約者さんのドレスは?」(……雇われる?) 私は、目の前の男が何を言っているのか、本気で理解ができなかった。 昨日、私が時給五万で雇った、はずの男。 私をスイートルームで翻弄し、欲望のままに私を抱いた、はずの男。 今朝、私の職場に現れて、「婚約者のドレスを選びに来た」と私を地獄に突き落とした、はずの男。 その男が、今、私を「婚約者役として雇いたい」……?「……っ、あんた、いい加減にして」 私は、こめかみがズキズキ痛むのをこらえながら、彼を睨みつけた。 この男の口から出る言葉は、どれもこれも私の常識を遥かに超えている。「昨日から、ずっと私を弄んで……。そんなに楽しい? 人の心も身体も、めちゃくちゃにして」「心と身体を弄んだ、か」 湊は、私の言葉を訂正するように呟き、心底不思議そうに首を傾げた。その声には、罪悪感など微塵もなく、あるのは冷徹な計算だけだ。「これは、ビジネスの話だ。昨夜のことは、まあ……契約の『手付金』のようなものだったとでも思えばいい。君にもメリットはあるはずだ」「手付金……ですって?」(……最低だ、この男) 全身の血が沸騰するような怒りを感じた。 昨夜の、あの熱いキスも、肌を合わせた感触も、私たちが共有した(と思っていた)刹那的な感情も。 この男にとっては、ただのビジネスの「前払い」に過ぎなかったというのか。 私が感じていた罪悪感や、ほのかなときめきが、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、冷たく乾いた「契約」という現実だけ。「メリット……?」 私は震える声で問い返した。「私に、何のメリットがあるっていうのよ。あんたの遊び相手にされて、都合よく使われて!」「俺は、とある事情で、早急に『婚約者』を必要としている」 彼の目が、すっと細められる。それは、獲物を定めるような、冷徹な光だっ
「―――君に、一番似合うものを」 その言葉が、サロンの静かな空気に、低い響きだけを残して溶けていく。(……は?) 何を、言っているの。この男は。 私に、一番、似合うもの? それは、どういう意味? 婚約者のドレスを選びに来たんじゃなかったの? それとも、まさか――(―――私を、本気で馬鹿にしてる?) 昨日、あのスイートルームで私を抱いておきながら、今度はこんな風にからかうつもり? プロの笑顔を貼り付けたまま、指先が冷えていくのを感じながら固まる私を見て、湊は、それまで浮かべていたあの「半笑い」を、ふっと消した。 そして、まるで、今までのやり取りがすべて茶番だったとでも言うように、私にしか聞こえない低い声で、面倒くさそうに呟いた。その声が、昨夜、耳元で聞いた熱っぽい囁きとは似ても似つかない冷たさで、私の神経を逆撫でる。「……冗談だ。話がある」「え……?」「ここじゃまずい。少し、付き合え」 そう言うと、彼は、私が返事をするよりも先に、私の腕を掴んだ。「ちょっ……! お客様!? いま、仕事中……!」 熱い。昨日、私を軽々と抱き上げ、ベッドに押さえつけた、有無を言わせぬ力強い手。「構うな」 私は、唖然とする後輩スタッフたちの好奇と戸惑いの入り混じった視線を背中に浴びながら、昨日と同じように、この男に強引に腕を引かれ、サロンの外へと連れ出されてしまった。 ◇「ちょっと! 離しなさいよ! 一体どういうつもり!?」 サロンのすぐ近くにある、ホテルのラウンジカフェ。 その一番奥の、人目につかない席に、私は半ば放り込まれるように座らされた。柔らかいソファに乱暴に沈み込む身体。 昨日から、私はこの男に振り回されてばっかりだ。胃の奥がキリキリと痛む。「……いい加減にして。何の用なのよ。婚約者さんのドレスは?」
――昨夜、私を抱いた男。(なんで、あんたが、ここに……!?) 心臓が、喉から飛び出しそうだった。全身の血が逆流するような感覚に襲われ、頭が真っ白になる。 私の尋常ではない動揺を、後輩のスタッフが不思議そうに見ているのが視界の端に入った。「チーフ? どうかされました?」「……っ、いえ、なんでもないわ」 私は、必死に平静を装い、一歩前に出た。 足が震えているのを悟られないよう、床に踵を強く押し付ける。 湊は、私を見ても、眉一つ動かさない。 その瞳は、昨日、私をベッドルームで激しく求めた熱っぽいものでも、電話口で見せた冷徹なものでもない。 まるで、初めて会う店の店員に向けるような、無関心で、品定めするような、冷たい視線だった。(……なに、その目) 昨夜のことなど、何もかも無かったかのように。 いや、それどころか、私のことなど知らないとでも言うように。 私だけが、あのスイートルームでの出来事を、あの肌の熱を、屈辱を、引きずっている。まるで私一人が馬鹿みたいじゃないか。 カッと、顔に血が上るのを感じた。「……いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件で」 声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死にこらえる。 私の、チーフコーディネーターとしてのプライド。プロとしての完璧な笑顔。 それが、今、私を支える唯一のものだった。 私のその、必死の笑顔を見て、湊は、初めて、あの「半笑い」を口元に微かに浮かべた。 そして、残酷な言葉を、はっきりと口にした。「ああ。婚約者のために、ドレスを選びに来たんだ」(……こんやく、しゃ?) 息が、詰まった。 婚約者。 その言葉が、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さる。 ああ、そう。そうか。 この男には、本物の「婚約者」がいたんだ。 昨夜のあれは、からかわれただけ
呆然と見渡した広いスイートルームは、しんと静まり返っていた。 微かに、昨夜の残り香が空気に溶けている気がして、息が詰まる。 シーツには、私以外の誰かの体温は、とっくに残っていなかった。 まるで、昨夜の出来事すべてが、アルコールが見せた悪い夢だったかのようだ。 だが、ベッドサイドのテーブルには、その夢が現実だったことを証明するように、一枚のカードキーが冷たく光っていた。(今夜はここに泊まっていくといい)(今日の『報酬』は、これで十分だ) 昨夜の冷え切った声が、耳の奥で蘇る。(……報酬) その言葉の意味を反芻し、全身の血が、今度は屈辱で凍りつくのを感じた。 私、なんて馬鹿なの。 あの男は、私を「時給五万」の復讐道具としてだけでなく、一夜限りの「報酬」として、私の身体を……モノのように扱った。 私は、あの男の剥き出しの欲望に、流されて、応えてしまった。 その事実が、恥ずしくて、情けなくて、たまらない。 私は、逃げるようにベッドから転がり出ると、床に脱ぎ捨てられていた昨夜のドレスを乱暴に掴んだ。くしゃくしゃになったシルクの感触が、今の私自身のようにみすぼらしく感じた。 その時、ベッドの足元に、昨夜はなかった真新しいショッピングバッグが置かれているのに気づく。 中には、私でも知っているハイブランドのワンピースが入っていた。 そして、簡素なメモ。『急用で先に出る。これは君へのギフトだ』 ――ギフト。 まるで、働きに対する「手当」のように。 破られたドレスの代わり? それとも、口止め料? こんなもの、いらない。 でも、破れたドレスで帰るわけにはいかない。 私は唇を噛み締め、屈辱に震える手でそのワンピースを身に纏った。サイズは、驚くほどぴったりだった。 それがまた、彼の手慣れた様子を連想させ、私の惨めさを加速させる。 もう二度と、あの男に会うものか。 混乱したまま一夜を明かした私は、朝日が眩しい Im
どれくらい時間が経ったのか、わからない。 耳元で響くのは、獣が獲物を貪るような、彼の粘つく呼気。それに応えるように、私の喉からは、制御できずに甲高い、濡れた声がひきつれて漏れ出ていく。「……朱里、こっちを見ろ」 快楽に溺れ、逃げるようにシーツに顔を埋めようとした私を、湊は許さなかった。 汗ばんだ顎を強い力で掴まれ、無理やり上を向かされる。 視界いっぱいに、彼の整った顔があった。いつも余裕ぶった「半笑い」を浮かべていた唇は固く引き結ばれ、額には玉のような汗が滲んでいる。 その瞳。 普段の冷徹な理性の光は消え失せ、そこにあるのは暗く燃え上がる、剥き出しの独占欲だった。「目は逸らさせない。……君がいけないんだ。僕をここまで煽った責任は、取ってもらう」 低く、腹の底に響くような声が、鼓膜を震わせる。 直後、身体の奥深くまで貫かれるような衝撃に、私は音にならない悲鳴を上げた。「あ……っ、んんッ!」 痛いほどの充溢感。 アルコールで鈍ったはずの思考が、体の内側から突き上げられる強烈な感覚に塗り潰されていく。私はただ、指先が白くなるほど彼の広い背中に爪を立て、この衝撃に耐えることしかできなかった。(こんなの……知らない) 拓也とのセックスは、いつだって優しくて、けれど、もっと淡白だった。 でも、この男は違う。 優しさなんて微塵もない。あるのは、私という存在を芯まで喰らい尽くそうとするような、圧倒的な捕食者の本能だけだ。 汗で滑る肌が擦れ合うたび、そこから彼の熱がじわりと移ってくる。 彼の硬い胸板に押し潰され、逃げ場のない腕の中で翻弄される。「……っ、み、湊……もう、むり……」 意識が飛びそうで、私は彼の名前を呼んでいた。 すると、彼は満足げに喉を鳴らし、私の唇を塞いだ。「……いい子
耳朶に、熱い吐息が直接吹きかかる。低く、鼓膜を震わせる声。それでいて有無を言わせぬ、絶対的な響き。「報酬が高くつく」――その言葉が、アルコールで痺れた頭に警鐘を鳴らす。(まずい。この男、本気だ) 私は、彼の胸板を必死に押そうとする。滑らかなスーツの生地越しに、岩盤のような硬さが伝わってくる。だが、アルコールで熱を持った指先は、その上を虚しく滑るだけだ。「……っ、はな、して……」 抗議の声は、自分でも情けないほどか細い。 湊は、そんな私を面白そうに見下ろしていたが、やがて、ふっと息を吐いた。「……これでは、話にならないな」 そう呟いたかと思うと、次の瞬間。 私の膝裏と背中に、彼の腕が差し込まれた。「え……?」 ふわり、と身体が浮いた。膝裏と背中に差し込まれた腕は、驚くほど安定的で、びくともしない。いわゆる、お姫様抱っこ。彼の高価なスーツと、微かなムスクの香りに、身体ごと包み込まれる。(嘘でしょ!?) あまりの展開に、酔いも何もかもが吹き飛びそうになる。「ちょっと! 降ろしなさいよ! 自分で歩ける!」「ふらついている人間が、何を言う」 湊は私の抵抗などまるで意に介さず、私を抱きかかえたまま、寝室であろう奥の部屋へとこともなげに歩き出す。スレンダーに見えたのに、スーツの下には、鍛え上げられた分厚い筋肉が隠されているのが、腕に回された感触で嫌というほどわかる。(え? 嘘、このまま流されちゃうの私?) 時給五万のホストに、復讐の道具として雇った男に、スイートルームで? 私のプライドが、そんな屈辱的な結末を許さない。「降ろして! これは契約違反よ! 追加料金、払わないから!」「……騒ぐと、唇で塞ぐぞ」 ドクン、と心臓が喉まで跳ね上がった。 その、冗談とも本気ともつかない低い声に、私は息を呑んで固まった。 本当に、やりかねない。この男なら。