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私が夫にとって、ずっと「二番目」だったと知ったのは――
結婚五周年の記念日だった。 でも、本当はもっと早く気づくべきだったのだ。 結婚して一か月目。 私はキッチンでコップ一杯の水を飲もうとしていた。 寝室では、ザーンが新婚旅行の荷造りをしていた。 そのときだった。 「……ジョヴィ」 閉め切った部屋の向こうから、かすかに彼の声が聞こえた。 震えていた。 祈るようで。 恋しくてたまらないものを呼ぶような声だった。 胸が嫌な音を立てる。 その呼び方を、私は知っている。 十七歳の頃。 ジョヴィエンヌがまだ彼の恋人だった頃、何度も耳にした声だった。 私はその場で立ち尽くした。 聞き間違い。 そう、自分に言い聞かせた。 疲れているだけ。 考えすぎ。 結婚したのだから、彼は少しずつ前を向いてくれる。 私を見てくれるようになる。 そう信じたかった。 それから彼が私の前で彼女の名前を口にすることは、一度もなかった。 だから私は安心した。 彼は癒えているのだと。 ――違った。 彼は一度も忘れてなんていなかった。 彼が一人でいるとき。 私が見ていないと思っているとき。 ふとした瞬間に見せる表情。 そこにはいつも、深い喪失だけがあった。 世界そのものを失った男が、 何事もなかったように笑うためにつける仮面。 私は、その悲しみを少しでも埋めたかった。 だから必死だった。 良い妻になろうと努力した。 疲れて帰れば迎える人になろう。 安心して帰ってこられる場所になろう。 彼の「家」になろう。 ジョヴィエンヌを失った悲しみが消えるまで、 私は待ち続けた。 料理は得意じゃなかった。 それでも料理教室に通った。 彼の好きな料理を覚えるため。 その「彼の好きな料理」が、 気づけば全部ジョヴィエンヌの好物だったとしても。 クローゼットの中の服も、 少しずつ淡い色ばかりになっていった。 彼女がよく着ていた色。 私は気づかないうちに、 彼女に似ようとしていた。 彼女がもうここにいないなら、 代わりに私がいればいい。 そう思っていた。 なんて愚かだったんだろう。 ジョヴィエンヌとザーンは高校時代から付き合っていた。 誰もが羨む恋人同士。 そして私は―― いつも二人の隣にいる「親友」。 笑って祝福しながら、 胸の奥では誰にも言えない恋を抱えていた。 もちろん、その恋が叶うことはないと思っていた。 だけど七年前。 すべてが変わった。 ジョヴィエンヌは突然ザーンのもとを去り、 ブラックウッド家の御曹司と結婚した。 その結婚式で私は初めて彼を見た。 ヴァンス・ブラックウッド。 ブラックウッド・グループの後継者。 若くして莫大な財産を継ぐ男。 冷たく整った灰色の瞳。 誰も近づけないような空気をまとった男だった。 その日、 ジョヴィエンヌはザーンを捨てた。 私は泣き崩れる彼を抱き締めた。 そして気づけば、 その隣にいるのは私になっていた。 私は、 これが運命なのだと思ってしまった。 シャンパンはまだ冷えたままだった。 数週間前から冷蔵庫の奥に隠しておいた一本。 今日、彼を驚かせようと思って。 「結婚してもう五年だね。」 そう笑いながら乾杯する未来を、 何度も想像していた。 だけど―― 「ザーン? 今日は早く帰れたの。」 玄関を開けた私を迎えたのは、 返事ではなかった。 静寂。 そのあと、 かすかな吐息。 押し殺したような笑い声。 指先からシャンパンが滑り落ちる。 床に落ちる寸前で受け止めた。 でも、 落ちたのは瓶じゃない。 私の心だった。 その声を私は知っている。 高校生の頃。 ガレージに向かった私が、 車の後部座席で抱き合う二人を見つけた日のこと。 あの日と、 まったく同じ沈黙だった。 私は寝室へ向かった。 膝が震えている。 扉は少しだけ開いていた。 ほんのわずかな隙間。 ――それだけで十分だった。 最初に見えたのは、 ザーンの背中。 何度も抱き締めた広い肩。 左の肩甲骨にある小さなほくろ。 眠る前、 何度も口づけた場所。 暗闇の中で、 指先でなぞった場所。 その背中が、 ゆっくりと揺れている。 私には見覚えのあるリズムだった。 私だけが知っているはずの―― そう思っていた。 そして、 彼女の脚が見えた。 白い脚が彼の腰に絡みついている。 真っ赤なペディキュア。 私たちが一緒に選んだシーツを、 足先がくしゃりと握り締めていた。 金色の髪が、 私の枕に広がっている。 その枕からはまだ、 私が買ったラベンダーの柔軟剤の香りがしていた。 頭が理解を拒んだ。 違う。 これは私の寝室じゃない。 あれは私の夫じゃない。 あのベッドは、 二人で選んだものじゃない。 ――そんなはずがない。 でも。 現実だった。 彼女がゆっくりと目を開ける。 私の気配に気づいたのだろう。 その瞳に浮かんだものを、 私は見逃さなかった。 驚き。 恐怖。 そして、 言い逃れのできない罪悪感。 無意識に左手が震える。 薬指には、 結婚指輪。 「……っ!」 ジョヴィエンヌが悲鳴のような声を上げ、 慌ててシーツを胸まで引き寄せた。 「ネ、ネリッサ……!」 その声で、 ザーンも振り返る。 汗で額に張りついた黒髪。 頬にはまだ熱が残っている。 彼は私を見た。 その瞬間、 顔から血の気が引いていくのが分かった。 その表情を私は知っている。 七年前。 ジョヴィエンヌがヴァンス・ブラックウッドと結婚すると告げた日。 絶望の中で崩れ落ちた、 あの日と同じ顔だった。ジョヴィの笑顔は、ただ消えたわけではなかった。死んだ。彼女の視線が、絶望に沈んだ私の顔から、無機質な病院の空間へと移る。そして――ヴァンスへ。車椅子に置かれた彼の手。いつも完璧に整っている髪が、今は乱れている。そして何より――彼の身体全体が、私へ向けられていた。まるで、私と世界の間に立つ壁のように。ジョヴィは見ていた。彼女が知らない夫の姿を。「ネリ……?」ザーンの声が掠れた。彼は半歩、前へ出る。ジョヴィを支えていた腕が緩んだ。「何が……あった?」彼の目が、答えを求めていた。簡単な答えを。風邪。食あたり。何でもいい。真実以外なら。ヴァンスが答えた。その声は、凍った氷が割れるように冷たかった。「彼女には休息が必要だ」そして車椅子を押す。「失礼する」ザーンが動いた。反射だった。愚かなほど純粋な反射。守る側だった頃の本能。彼は手を伸ばし、車椅子のハンドルを掴んだ。私たちを止める。「待ってくれ!」声が震えた。「何があったのか教えてくれ。俺に助けさせてくれ」一瞬、息を詰まらせる。「俺は……彼女の夫だ」俺は、彼女の夫だ。その言葉が、胸の奥を殴った。何かが砕けた。麻痺していた感覚が。冷静さが。副社長としての仮面が。戦略家としての自制が。全部、消えた。残ったのは――血を流し、傷つき、怒り狂った一人の女だった。私は泣き叫ばなかった。絶叫した。「流産したのよ、ザーン!」廊下中に声が響いた。「私たちの赤ちゃんが……死んだの!」静寂。叫びすぎて、息が苦しい。胸が激しく上下する。ザーンの手が、火傷でもしたように車椅子から落ちた。顔から血の気が完全に引いた。灰色になった顔。開いたままの口。もう片方の手にあった――彼らの赤ちゃんの超音波写真が、指から滑り落ちた。ひらりと舞い、私たちの間の床へ落ちる。ぼやけた画像が、こちらを向いていた。ジョヴィが息を呑んだ。鋭く、醜い音だった。彼女の両手が自分の腹部へ飛ぶ。守るように。そして――まるで所有物を抱え込むように。その仕草が、私の胸を殴った。ヴァンスは完全に動きを止めていた。ただ、車椅子を握る手だけが、私をこの世界につなぎ止めている。私の叫びは、やがて途切れた。荒い呼吸へ変わる。そして――堰が切れた。声
ヴァンスは帰らなかった。カーテンで仕切られた入口のそばに立ち、背中を壁に預けている。大きな黒い影が、廊下から差し込む光と騒音を遮っていた。彼は私を見ていない。ただ、向かいの壁の一点を見つめ、身体を硬くしていた。超音波のプローブが肌に触れる。冷たく、異物のような感触だった。モニターには、ぼやけた灰色と黒の世界が映っている。何を見ているのか分からない。何を意味しているのかも。心臓が、肋骨の中で狂ったように暴れていた。お願い。声にならない祈りが、胸の奥からこぼれる。お願い。お願いだから。技師がプローブを動かす。キーボードを操作する。一枚の画像が画面に止まった。灰色の影。彼女は何かを測っている。眉間に皺を寄せたまま、何も言わない。部屋の沈黙が、胸を押し潰すように重くなる。聞こえるのは、機械の低い音だけだった。さらに何枚か画像を撮る。クリック。沈黙。クリック。また沈黙。やがて技師は、私の腹部からジェルを拭き取った。「先生に確認してもらいますね」彼女は私と目を合わせないまま、出ていった。しばらくして、ドクター・エヴァンスが戻ってきた。彼女は画面を長い間見つめた。優しかった顔には、慎重に感情を隠した表情が浮かんでいる。そして私を見る。「ネリッサ……」その声は優しかった。だからこそ――胃が落ちるような感覚がした。「本当に残念だけれど……心拍が確認できないわ」私は息を止めた。「おそらく妊娠六週前後です」一拍。「流産です」言葉が落ちた。でも、最初は意味が分からなかった。心拍。六週。流産。それが一つずつ、頭の中に入ってくる。心臓がない。鼓動がない。私の赤ちゃんが――もう、いない。いつからいなかったのかも分からない。喉から音が漏れた。泣き声ではなかった。自分でも知らないうちに抱えていた希望と、すべての空気が、一度に身体から抜けていくような音だった。視界が傾く。モニターの灰色の影が滲み、意味のない模様へと変わっていく。私はヴァンスを見た。彼も振り返っていた。暗い超音波画像を見つめている。そこにあるのは、命の証拠ではない。命がないという証拠だった。彼の顎が強く引き締まる。頬の筋肉が、小さく震えた。その目は冷たくなかった。むしろ――燃えていた。純粋な怒り。
ヴァンスは電話を切った。彼は、私の名前を使った。これまで、私たちがどれだけ戦略について話しても、彼はいつも私を「サリヴァン」と呼んでいた。だから今――秘書に「ネリッサ」と告げたことが、妙に胸に残った。それは、私が彼の世界にいる人間だと認められたような気がした。街の明かりが、窓の外を流れていく。再び、ヴァンスのスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、私は息を止めた。ジョヴィエンヌ。ヴァンスは鳴り続ける電話を見つめた。顔は硬い。もう一度、着信が鳴る。彼は拒否ボタンを押した。そして――電源そのものを切った。小さなクリック音が、叫び声よりも大きく聞こえた。ヴァンスは暗くなった画面を見つめたまま、私を見なかった。「父は……」低い声だった。いつもの洗練された冷静さが、少しだけ剥がれている。「三十年かけて、ビジネスにおける誠実さという評判を築いた」短く息を吐く。「温かさじゃない。誠実さだ」彼は窓の外へ視線を向けた。「父は、それこそが決して価値の下がらない唯一の通貨だと信じていた」一拍。「築くのに一世代。たった一度の軽率な結婚で、それを笑い話にされる」私は黙っていた。彼は――ジョヴィを拒絶した。この状況で。私のために。その事実があまりにも大きすぎて、私は考えるのをやめた。病院にはすぐに着いた。救急入口のドアが開く。すでに看護師が車椅子を用意して待っていた。表情は完璧な医療従事者のものだった。「ブラックウッド氏? こちらへ」ヴァンスが私を車椅子へ座らせる。その手は優しかったわけではない。ただ、無駄がなく、確実だった。それでよかった。今、優しくされたら――私は壊れてしまいそうだった。私たちは明るい廊下を急いで進んだ。いくつものドアを抜け、青いカーテンで仕切られた静かなエリアへ入る。3番ベイ。そこに、一人の女性が立っていた。鋭い顔立ち。白衣。「ドクター・エヴァンスです」彼女はヴァンスに軽く頷き、それから私を見る。「ヴァンス」「ジェーン」ヴァンスが短く答えた。「彼女はネリッサ。突然の激しい腹痛とめまい。顔色も悪い」ドクター・エヴァンスが私の前へ来た。ペンライトを手にしている。「ネリッサ、エヴァンス医師よ。痛む場所を教えてくれる?」私は下腹部を指した。彼女の
画面上の数字が、灰色の霧のように滲んでいた。私は強く瞬きをした。それでも焦点が合わない。デスクの時計は、午後9時17分。エグゼクティブフロアは墓場のように静かで、聞こえるのはノートパソコンのファンが回る音だけだった。このオフィスは、私が手に入れたばかりの新しい場所。けれど今は、街の上空に吊るされたガラス箱のように感じる。私はスマートフォンを無視していた。母からの心配そうな留守番電話。ザーンからの必死なメッセージ。どれも開かなかった。唯一、現実に感じられるのはハリントン案件のデータだった。数字は明確だった。論理的だった。嘘をつかない。誰かを愛して、私を裏切ることもない。けれど――数時間前から、腰に鈍い痛みがあった。椅子のせい。ストレスのせい。そう思って無視していた。立ち上がった瞬間、激しいめまいが襲ってきた。床が傾いたように感じ、私はデスクの端を掴んだ。食べればいい。眠ればいい。ただ、しばらく何も考えなければいい。そう自分に言い聞かせる。けれど、これは空腹ではなかった。下腹部を、鋭い痛みが締めつけた。いつもの生理痛とは違う。痛みが背中へ広がり、激しい頭痛まで襲ってくる。胸の奥に、小さな恐怖が灯った。けれど押し込める。ストレスだ。悲しみのせいだ。それだけだ。私は再び椅子に座り、腹部を押さえた。そういえば――生理が遅れている。数日。いや、一週間?もう分からない。こんな状況なのだから、周期が乱れても不思議ではなかった。スプレッドシートへ目を戻す。数字が滲む。また痛みが走った。私は歯を食いしばり、息を吸った。――おかしい。私は水を飲もうと立ち上がった。再びめまいが襲う。視界の端に黒い点が踊った。デスクに手を伸ばしたが、ファイルの山を倒してしまう。ドサッ!静かなオフィスに、大きな音が響いた。私はデスクにしがみつき、深呼吸した。ドアまで。トイレまで行って、顔を洗えばいい。一歩。もう一歩。ようやくドア枠に辿り着いた。廊下が果てしなく遠い。エレベーターまでは、何キロもあるようだった。そのとき――「サリヴァン?」私は顔を上げた。ヴァンスだった。「大丈夫です」声は細かった。「急に立ったから、少しめまいがしただけです」ヴァンスは何も言わず、三歩で私のと
私はずっと、ザーンとの間に子供が欲しかった。何年も願っていた。二人で努力して、期待して、それでも――叶わなかった。なのに今。彼は別の女との間に、たった一度でそれを成し遂げた。私たちの結婚を壊した、あの一週間に。私たちのベッドで。不公平だった。許せなかった。私は胸が痛くなるほど泣いた。ヴァンスが見ていることさえ、もう気にならなかった。ようやく顔を上げたとき、頬は涙で濡れていた。ヴァンスは動いていなかった。片手は強く握りしめられ、顎も固くなっている。その瞬間、私は理解した。ジョヴィがいつも言っていたことを。自分の夫は冷たくて、他人の気持ちに寄り添えない、と。けれど――ヴァンスの喉が、わずかに動いた。彼は視線を逸らした。私に冷たいからではない。ただ、私の痛みにどう向き合えばいいのか分からないのだ。彼の人生は、論理と計算とコントロールで成り立っている。けれど、悲しみはそのどれにも従わない。その無力さが、私をさらに泣かせた。そして――今度は腹が立った。「何か言って」私は涙声で吐き出した。「何を言えばいい? 泣くな、とでも?」声は荒かった。けれど、冷たくはなかった。「涙を流しても事実は変わらない。これは、俺たちの状況を何も変えない」ヴァンスは一度、息を吐いた。「ただ、あいつらに都合のいい話を与えるだけだ」「都合のいい話?」私は袖で涙を拭った。「これは話なんかじゃない!」声が震える。「赤ちゃんよ! 一人の人生なの!」「その人生について、あいつらは説明しなければならなくなる」ヴァンスは妊娠検査薬と検査報告書を拾い上げ、バッグへ戻した。「こういう秘密は重い。いずれ、あいつら自身がその重さを感じ始める」彼は静かに言った。「今は待てばいい」ヴァンスはキッチンへ向かい、すぐにグラス一杯の水を持って戻ってきた。私に差し出す。「飲め」私はグラスを見つめた。「それから、顔を整えろ」震える手でグラスを受け取る。「……すべてが変わった」私は小さく呟いた。「分かっている」「これから、どうすればいいの?」「家に帰れ」ヴァンスは迷いなく答えた。「何も知らないふりをしろ。誰にも話すな」彼の目が私を捉える。「あいつらに秘密を抱えさせろ。その秘密が、あいつらを不安にさせるまで」「もし……演
パーティーの翌朝。私は静かな家のキッチンカウンターに座っていた。ザーンは早朝に出ていった。今は、静寂が重かった。午前十時。玄関のチャイムが鳴った。配達員が一通の封筒を差し出した。中に入っていたのは、キーカードと住所。力強く、迷いのない筆跡だった。『The Aerie PH 70 午前7時』メモも説明もない。ただ、ヴァンスからの指示だった。行きたくはなかった。けれど、今日は他に予定もない。私はすぐに向かった。The Aerieは、アステラ・スパイアの隣に建つ高層住宅の最上階だった。エレベーターが、そのまま部屋の中へ開く。全面ガラスの窓。広すぎる空間。整然と並ぶ家具。けれど、生活の気配はない。まるで人が住む場所ではなく――美術館のようだった。ヴァンスは窓際に立っていた。スーツではない。ダークカラーのパンツに、グレーのセーター。いつもとは違う姿に、思わず息を止める。「座って」「ハリントンからの最終修正案だ。責任条項を確認して」私は椅子に座り、書類を開いた。けれど、文字が頭に入らない。昨夜の出来事が何度も蘇っていた。「……本当なの?」口にしてから、自分でも驚いた。ヴァンスのペンが止まる。「何が?」「あなたは……彼女を愛していないの?」彼が振り返る。「二人の関係を見ても、あまりにも無関心に見える」ヴァンスはしばらく黙った。「君は、私が彼女を愛しているかと聞いた」「答えはノーだ」彼は続けた。「私は彼女と愛で結婚したわけじゃない。家同士に付き合いがあり、目的も一致していた。それで十分だと思っていた」一拍。「だが、彼女は別のものを欲しがった」「私には与えられないものを」「……愛?」「そうだ」私は眉を寄せた。「どうして私にそんなことを話すの?」「君が聞いたからだ」ヴァンスは淡々と続ける。「それに、今の私たちは同じ船に乗っている。君は、自分が何に関わっているのか知るべきだ」「私の結婚は空っぽだった。君の結婚は嘘の上に築かれていた」「……私たちは、二人とも失敗したんだ」私は否定したかった。私の結婚は、少なくとも私にとっては嘘ではなかった。でも、その言葉は喉の奥につかえて出てこなかった。そのとき。ピッ。壁のインターホンが鳴った。ヴァンスがボタンを押す。「何だ?」