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第2話

Author: スパチャよろ50
教室を出る直前、娘はふと何かを思い出したように、思わず口にした。

「パパ」

晴嵐の足が止まり、信じられないものを見るように娘を振り返る。

「い、今……なんて呼んだ?」

娘は我に返り、頬を赤く染めて恥ずかしそうに俯いた。

「ごめんなさい、おじさん……パパと間違えちゃった。おじさん、まだ何かご用ですか?」

晴嵐の瞳に宿っていた感情は、次第に掻き消され、やがて死んだような色に変わっていった。

彼は白く小さな顔を冷ややかに見やると、それ以上振り返ることなく立ち去った。

娘は唇を尖らせて小さく呟いた。

「間違えちゃった……でも、このおじさんの後ろ姿、ママが引き出しにしまってる写真とすごく似てるんだ」

首を振ると、また大人しく私を待つため席に戻った。

ただ山本だけが、娘に不満げな視線を投げ、まるで大物と縁を結ぶ機会を逃したことを惜しむかのようだった。

夜が次第に濃くなっていく。

幼稚園の子どもたちは次々と迎えが来て、教室は空っぽになった。

残されたのは、絵を描き続ける心音だけ。

「これがわたし、これがパパ、これがママ」

クレヨンを走らせながら、娘は楽しそうに独り言を言う。

そして「ママ」と口にした瞬間、ふと教室の入り口を振り返った。

まるで次の瞬間、私が現れて優しく手を振りながら――

「心音、迎えに来たよ。さあ、帰ろう」

そう言うのを待っているように。

三十七回目、彼女がドアを見たとき、ようやく人影が現れた。

「瀬川心音、あんたのお母さんはどこ行ったの?なんで電話にも出ないの?

まさか年寄りの男と遊んで、あんたを放り出したんじゃないでしょうね?」

電話の向こうでプツリと切れる音。山本は露骨に目を回し、整った顔を尖らせて毒を吐いた。

私は耳を疑った。

――どうして、こんな言葉が教師の口から出てくるの?

娘はというと、慣れてしまったかのように小さな手でクレヨンを握りしめ、震える声で答えた。

「ママはそんな人じゃない。必ず迎えに来てくれる」

山本は鼻で笑い、娘のつぎはぎだらけの服を見下すように眺めた。

「よく言うわね。陽太のパパから聞いたわよ。あんたのママ、金のためなら何でもやるんでしょ。年寄り相手だろうと、犬みたいに尻尾を振ることだって。

こんな子、なんで園長が入れたのかしら。縁起でもない」

そう言うと、娘のクレヨンを乱暴に取り上げ、彼女を電話の前に押しやった。

「さっさとお母さん呼びなさいよ。私の退勤を邪魔しないで」

受話器を押しつけると、山本はそのまま背を向けて出ていった。

残された心音は、唇を噛みしめ、小さな体を震わせていた。

私は涙を拭いてあげようと手を伸ばした。だが、その手は娘の身体を虚しくすり抜けてしまう。

それでも、娘は自分で自分をなだめるように呟いた。

「心音は大丈夫。泣かない……心音はママが大好きだから」

涙を拭った彼女は、小さな体を精一杯伸ばしてダイヤルを回した。

「0……8……0……1……3……7……3……4……5……8……6……」

呼び出し音が鳴り響く。

「ママ!また残業なの?疲れてない?心音は今日いい子にしてたよ。ちゃんとごはん食べて、どこにも行かなかった。

いつ迎えに来てくれるの?」

返ってきたのは、冷たい話し中の音だけだった。

娘はじっと受話器を見つめ、そして大人のようにため息をついた。

「ママはきっと忙しいんだね。でも大丈夫。心音、わかってるから。心音は自分でちゃんとするよ」

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