LOGIN一臣さんは少しだけ間を置いてから、吐息交じりに答える。「……竹中さん」 その呼び方に、竹中さんがわずかに眉を上げた。「なぁに?」 「ここは職場です。場をわきまえてください」 低い声だった。 怒っているというより、たしなめるような口調。 けれど、明らかに歓迎しているようには聞こえない。 それなのに竹中さんは気を悪くした様子もなく、「あら」と小さく笑った。「分かったわ。じゃあ、プライベートなら昔みたいに〝一臣〟って呼んでもいいってことよね?」 「そういう意味じゃ――」 私は、二人のやり取りを茫然と見つめていた。 ――昔みたいに。 その言葉が、妙に耳へ残る。 教頭先生は、前の学校でご縁があったと言っていた。 だから、てっきり以前の職場で一緒だっただけなのだと思っていたけれど。 それだけの間柄で、下の名前を呼び捨てにするものなのだろうか。「穂、……桃瀬先生」 「……っ、はい!」 突然呼ばれて、肩が跳ねた。 一臣さんが私を見ている。 さっきまで竹中さんへ向けていた硬い表情が、ほんの少しだけ和らいでいる気がした。「図書室の案内はもう――」 「ええ。大体見せていただきました」 私が答えるより先に、竹中さんが口を挟んだ。「あ……」 「とても分かりやすく説明していただきました。ありがとうございます、桃瀬先生」 にっこり。 感じのいい笑顔を向けられて、私は反射的に「いえ」と返す。 でも、なぜだろう。 さっきまで好印象しかなかったその笑顔が、今はほんの少しだけ違って見えた。「――では梅本先生、他のところも案内していただけます?」 そう言って、竹中さんが一臣さんの腕へ手を添える。「――っ!」 それを見て、私は胸がギュッと縮んだのを感じた。 軽く触れているだけ。 それなの
「教育委員会の竹中です。本日はよろしくお願いいたします」「こ、こちらこそよろしくお願いいたします。学校図書館司書の桃瀬です」 軽く自己紹介を交わしたところで、教頭先生が私へ声を掛けた。「桃瀬先生、すみませんが、竹中さんに図書室の案内をお願いできますか?」「あ、はい。分かりました」 私が頷くと、教頭先生は「お願いします」と言ってカウンターの中へ入り、内線電話の受話器を取った。 教頭先生はいつも忙しくしていらっしゃる。今日もほかに気になることがおありなんだろうな、と思いながら私は竹中さんに向き直った。「では、こちらからご案内しますね」「お願いします」 竹中さんを促して、図書室を案内する。 その背後から、教頭先生の声が聞こえてきた。「――ああ、梅本先生ですか? 柏木です。今、少しよろしいですか?」 聞き慣れた名前に、思わず耳がそちらへ向く。「今、教育委員会の方が図書室へいらしてましてね。少しこちらへ来てもらえますか? ……ええ。お願いします」(一臣さん、来るんだ……) そう思っただけで、ほんの少し胸が弾んだ。 けれど、すぐに竹中さんから質問を投げかけられ、私は慌ててそちらへ意識を戻す。 蔵書数。 貸出状況。 授業との連携。 竹中さんの質問は的確で、こちらの説明にもよく耳を傾けてくれた。(仕事のできる人だな) 自然とそんな印象を抱いていると、図書室の入り口から聞き慣れた声がした。「失礼します」 振り返ると、一臣さんが図書室へ入ってくるところで……。「ああ、梅本先生。お呼び立てしてすみません」 教頭先生が言う。「教育委員会の方をご案内している途中なんですが、少し職員室へ戻らなければならなくなりまして。申し訳ありませんが対応をお願いできますか?」「俺がですか?」 突然呼び出された理由が分からないのだろう。 一臣さんが不思議そうに眉を寄せる。「ええ。このあと竹中さんには、いくつか教室も見て回っていただく予定なんですが、私は少し席を外さなくてはならなくなりましてね」 教頭先生は申し訳なさそうに言ってから、竹中さんへ目を向けた。「梅本先生と竹中さんとは、以前の学校でご縁があったと伺っています。竹中さんも顔見知りの梅本先生に案内していただく方が心安いでしょう」「私が柏木教頭先生にそうお願いしたんです」 竹中さんがに
一臣さんとの同居生活(同棲と呼ぶのはまだ抵抗がある……)にも、少しずつ慣れてきたけれど、校内では変わらず、『梅本先生』『桃瀬先生』 そう呼び合っている。 職場の同僚としてはそれが当たり前の距離感だと心得ているからだ。 結婚しているわけでもないのに男女がひとつ屋根の下にいるだなんて、誰にも知られてはいけないとも思う。 一臣さんは、「別にいい大人なんだし、どっちも独り身なんだ。気にすることねぇだろ」って言ってくださるけれど、子供を預かる学校職員としては、やはりその辺はちゃんとしていないとまずい気がした。 保護者の、〝先生〟を見る目は厳しい。その不満は予測不能なのだ……。 そう思うのに――。 家に帰れば一臣さんは当然のように私のことを「穂乃」って呼ぶ。 私も最初のうちは「梅本さん」と呼ぶのが精一杯だった。 でも、毎日のように「いい加減、一臣って呼んでよ?」と言われ続けた結果、最近はようやく「一臣さん」と呼べるようになってきた。 まだ緊張はするけれど、そう呼べる頻度が少しずつ増えている。 正式に告白されたわけでも、告白したわけでもない。 だからもちろん、恋人ですらない。 それでもあの夏祭りの日、額へ落ちた優しい口づけを思い出すだけで、胸がほんのり温かくなるのだ。(……私、一臣さんの心に、少しずつ近づけているのかな?) そう考えるだけで、心がソワソワしてしまう。 これはきっと、まぎれもなく恋心だ。(一臣さん……) 彼は、今日はまだ一度も図書室へ顔を出してくださっていない。 一臣さんのクラスは図書室の利用がない日だから仕方ないのだけれど、一学期、用がなくてもちょいちょい遊びに来てくださっていたことを思うと、ちょっぴり寂しい。 そんなことを思って、ほぅっと溜め息を落としたと同時――。 職員室からの内線が鳴って、私はびくりと肩を跳ねさせた。「はい、図書室です」『桃瀬先生ですか? 柏木です』 教頭先生からの連絡だった。「はい」『実は今日、教育委員会の学校訪問がありましてね。図書室も確認したいそうなんです』 そういえば職員室に掛けられた、月間行事予定が書かれたホワイトボードに、そんな記載があった。でもまさか、図書室を見たいと言われるだなんて思っていなかったから、思わず「え?」と声が漏れた。『ちょうど
始業式から数日。 夏休みの間は静かだった図書室にも、ようやく子どもたちの声が戻ってきた。「桃瀬先生、返しに来ました!」 学期末、夏休み向けとして貸し出していた本を抱えた子どもたちが、カウンター前へ一列に並ぶ。 私は学校図書館管理ソフトの返却画面を開き、一冊ずつバーコードを読み取りながら、画面へ目を走らせる。 電子音が鳴っても、読み込みに失敗していることがある。 だから最後に頼れるのは、自分の目だった。 ピッ、ピッ……と電子音が鳴るたび、夏休みの間、子どもたちと一夏を過ごしてきた本たちが図書室へ帰ってくる。「はい、いいよ。……次に借りる本、もう決めた?」「うん!」 返却を終えた子は、そのまま本棚へ散っていく。 うちの図書室では、場所が分かる本は自分で棚へ戻してもらい、返す場所が分からなくなった本だけ返却棚へ置く、というシステムを取っていた。 中・高学年の子たちはもちろん、春には返却棚へ置くだけだった一年生たちも、今では少しずつ自分で本を戻せるようになっている。(みんな、二学期もたくさん借りてくれるといいな) 子どもたちが嬉しそうに図書室へ散らばっていく姿を見ていると、自然と頬が緩んだ。 「先生すみません! 遅くなりました!」 図書委員の子が来てくれて、私はパソコン前をその子に譲る。「じゃあ、カウンター、お願いね」「はい!」 貸出返却作業を図書委員に任せた私は、カウンター後ろへ積みあがった箱の開封に掛かった。 カウンターの片隅には、一学期末に業者へ注文した本たちが、段ボール箱に数箱分積みあがっていたのだ。 私が箱を開けているのを目ざとく見つけた常連の男子児童が、「先生、俺が頼んだの、入った?」と聞いてくる。「うん。入って来たよ。対決シリーズ、早めに出して欲しい?」 箱の方を見やりながら、私が答えると、その男の子は「うん!」と嬉しそうに微笑んだ。「分かった。じゃあ対決シリーズを優先して貸し出しできるよう頑張るね」「約束だよ!」「任せといて!」 私が微笑んでサムズアップして見せると、他の子たちも自分たちのお目当ての本を口々に告げてきた。 私はそれらを頭の中へ刻みながら、受け入れ作業に思いを馳せる。 図書室へ入ってきた本は、まず書誌データーを学校図書館管理ソフト内へ取り込む必要がある。 パソコンがイン
優しい横顔。 穏やかな声。 あの日、孝夫さんに襲われかけて知らない間に男性に対して苦手意識を芽生えさせてしまった私に、梅本さんは同じことを言ってくれた。 急がなくていい。 少しずつでいい。 ちゃんと待つから。 思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。「あらあら」 突然、後ろから声を掛けられた。 振り返ると、散歩中らしい年配のご夫婦がこちらを見て微笑んでいた。「仲良しねぇ」 私たちを見比べて、にこりと笑う。「新婚さん?」「ち、違いますっ!」 思わず大きな声が出た。「わ、私たちは、その……!」 必死に否定しようとする私の隣で、梅本さんは困ったように笑うだけだった。「あら、違ったの?」「ち、違います!」「そうなの? お似合いだったから、てっきり。……ねぇ、あなた」「ああ。わしらの若いころを思い出す」 そんなことを言うご主人を見つめて、おばあさんが「いやですよぅ」と照れたようにはにかんだのが、ちょうど打ちあがった花火の光に照らし出される。 ご夫婦は楽しそうに笑い合いながら、手を繋いで歩いて行った。 私は恥ずかしさで穴があったら入りたい気持ちになる。「も、もう……」「何だよ」「梅本さんも否定してください……」「いや、何か否定するのもな……って思ったから」「へ?」「夫婦に見られるの、そんなに悪いことじゃねぇだろ」「でも私たちまだ……」 恋人ですらないのに……。 そう言い募ろうとしたのに、うなちゃんが「ワフッ」と鳴いて動き出すから……色々有耶無耶のまま歩き出す羽目になる。 私はうなちゃんに引っ張られ
その日の夕方。 土曜日だから、今日は二人とも仕事は休みだった。 終業式まであと少し。 来週に入ると、梅本先生……じゃなくて梅本さんは個人懇談が始まって忙しくなる。私も図書室の夏休み前の準備や、蔵書整理で慌ただしくなる予定だ。 だからこそ、こうして二人でゆっくりうなちゃんのお散歩へ行ける休日が、なんだか少しだけ特別に思えた。 昼間の暑さがようやく和らいできた頃、私たちはうなちゃんを連れて、近所の川沿いの遊歩道を歩いていた。 梅雨明けの空は、まだ昼の青を少し残していた。地平線の向こうだけが淡い金色に染まり、夜がゆっくりと近づいてきている。 吹き抜ける風は生温かいけれど日中ほど熱風ではない。 うなちゃんは嬉しそうに尻尾を振りながら、あちこちの草むらへ鼻を突っ込んでは夢中で匂いを嗅いでいた。「今日のうなちゃんはすっごくご機嫌です」 「そうなのか?」 「はい。きっと、梅本せ……さんが一緒なのが嬉しいんだと思います」 なかなか〝梅本さん〟呼びが馴染まない。無意識に〝梅本先生〟と言いそうになるのを訂正した私を、彼がクスクス笑いながら見つめてきた。 「特訓が足りてねぇようだな?」 「そ、そんなことっ」 「ないって言い切れるか?」 にやりと凶悪なお顔で笑われて、グッと言葉に詰まる。 散々「梅本先生」と呼びかけそうになっては軌道修正を図っているのだ。とても「ない」とは言い切れない。 「ほら、呼んでみ?」 「梅本……さん」 「もう一度」 「梅本さん!」 何度も繰り返される応酬に、私は真っ赤になりながらちょっぴり大きな声になってしまう。 そんな私をうなちゃんが、舌をのぞかせたヘラリとした顔で見上げてくる。 「ほら、うなぎもまだまだだって言いてぇみたいだ」 「そんなことありません!」 「あるよなー、うなぎ!」 「ワン!」 肯定とも否定とも取れないうなちゃんの鳴き声に、梅本……さんがニヤリと笑う。 そうして不意に立ち止まると、「穂乃」と少しだけ低音な声で呼び掛けてきた。 「な、んで……しょう?」 「いや、楽しいなって思って」 「……もう!」 「ワフ!」 二人と一匹で、そんな他愛もない会話(?)を交わす。 不思議だった。 少し前までの私は、沈黙になると何か話さなきゃと焦ってい
朝の職員会議が終わると同時、私はそそくさと荷物をまとめてから、 「図書室に上がります!」 誰にともなく声を掛けてスタコラサッサと職員室を後にした。 図書室は3階。 9時から始まる着任式には一応顔を出さないといけない。図書室へ行っても、実質稼働時間は30分もないだろう。 でも、何となくあのまま職員室へ残っていたら、梅本先生に捕まってしまいそうな気がして……私は居ても立っても居られなかったのだ。 更衣室ロッカーへ放り込まれた鞄の中には、実は綺麗に洗ってビニール袋へ入れた状態で、梅本先生の黒い片手袋が入っている。 あれから何故かうなちゃんのお散歩時にはパッタリ出会わなくなってしまった強
「おはようございます」 朝、夫の孝夫さんと色々あったことは極力考えないようにして、私は気持ちを切り替えるように努めて明るい声とともに、勤め先『市立青葉小学校』職員室のドアをくぐった。 「おはようございます、〝桃瀬〟先生」 前年度から異動なしの、顔馴染みの先生方数名が、私を見て挨拶を返して下さる。 私は二年前に結婚して苗字が【杉岡】になっているけれど、職場では旧姓の【桃瀬】のまま仕事をさせて頂いているの。 子供達を惑わせるのが嫌だったと言えば聞こえがいいけれど、単に私が〝杉
うなぎのことも快く思っていないみたいに保健所へ連れて行けってことあるごとに睨み付けてくるし、これ以上可愛いうなちゃんに矛先が向いては大変。だから私、色んなものをグッと飲み込んで、黙って彼の暴言をただただ従順に浴び続けるの。 結婚して二年。うなちゃんがちっとも孝夫さんに懐かないのも原因だろうな? 孝夫さんの〝嫌い〟がうなちゃんにも伝わって、うなちゃんも[あたちも嫌い]の悪循環に陥っているんだと思う。 うなちゃんは私が大学卒業間近な時期に、アパート近くの公園に捨て子されているのを拾った子。
食卓に敷いたランチョンマットの上へ炊きたてのごはんを中心に、右に味噌汁、左に納豆。奥に焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたしを並べ、漬物と湯のみを添える。「よしっ」 つぶやいて箸置きの上に箸を揃えたところで、足音が近づいてきた。 夫の杉岡孝夫(すぎおか たかお)だ。 今日はいつになく険しい顔をしている気がするから、怒らせないようにしなきゃ、と気持ちを引き締める。 愛犬うなぎは孝夫さんがいる間は、彼が嫌がるので、ケージ内で大人しくしてもらっている。 彼が出掛けたら束の間だけど、私が出勤するまでの間は狭いケージから出して自由にさせてあげよう。 ちらりとうなちゃんに視線を投げかけて







