食卓に敷いたランチョンマットの上へ炊きたてのごはんを中心に、右に味噌汁、左に納豆。奥に焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたしを並べ、漬物と湯のみを添える。
「よしっ」
つぶやいて箸置きの上に箸を揃えたところで、足音が近づいてきた。
夫の杉岡孝夫(すぎおか たかお)だ。今日はいつになく険しい顔をしている気がするから、怒らせないようにしなきゃ、と気持ちを引き締める。
愛犬うなぎは孝夫さんがいる間は、彼が嫌がるので、ケージ内で大人しくしてもらっている。彼が出掛けたら束の間だけど、私が出勤するまでの間は狭いケージから出して自由にさせてあげよう。
ちらりとうなちゃんに視線を投げかけて、私はそう決意した。
*** 私が用意した朝食を、スマホ片手に不機嫌そうに食べ終えた孝夫さんが、 「穂乃(ほの)、お前今日は残業の予定あんの?」 探るような目で私を見詰めてきた。どんなに手間をかけてご飯を作っても、「美味しい」なんて言葉は結婚して二年、一度も言ってもらったことがない。
お付き合いしているときには笑顔で、「穂乃は家庭的で最高だね。きっといいお嫁さんになれるよ」って褒めてくれていたのに……。
でも、だからといって私が作ったものに無関心か? といえばそんなことはなくて……。おかずが三品以下だと叱られてしまうから、私は時間を見つけては冷凍庫に常備菜を蓄えて、臨機応変にやりくりするようにしているの。
急須から注ぎ終えたばかりの緑茶を彼に差し出しながら、「いつも通りだよ」と答えたら、孝夫さんにチッと舌打ちされてしまった。――え? 何で今、舌打ちされたの? 私、答え、間違えた?
「なぁ、穂乃。俺は今、残業の有無を聞いたんだけど? お前の返しってホント、頭悪い女の典型的パターンだよな。返事は要点を的確にって……社会人なら分かんだろ。お前それでよく勤め先、クビにならねぇな」
小馬鹿にしたように鼻で笑われて、せっかくの清々しい一日の始まりが台無しだ。私は自分の中で心がシュゥゥゥーッと音を立ててしぼんでいくのを感じた。
今日から新年度のスタート。異動のなかった私にはそんなに大きな環境変化はないけれど、それでも「初めまして」の先生方が沢山いらっしゃる。どんな先生と出会えるかな? 上手くお付き合いしていけるかな? そんな風にわくわくソワソワしていたのにな? 朝からこんなの、凄く残念だよ、孝夫さん。
「……ごめんなさい。残業はありません」
家から徒歩圏内にある公立の小学校で学校図書館司書をしている私には、残業なんて滅多にない。
そのことは孝夫さんだって知っているはずなのに、あなたの方こそ察しが悪すぎやしませんか?
ふとそんなことを思ったけれど、口に出せるわけがない。
「お前さぁ、家事とかそういうのが得意だからお情けで家政婦替わり……離婚せずにいてやってるっての、理解してる? 汚ねぇー犬はいつまでも処理しねぇし、お前自身の容姿もパッとしねぇ。ダセェ眼鏡は野暮ったいままだし、たまに温情で抱いてやっても痛がるばっかで反応悪いマグロとか。ホント俺、嫁選び、失敗したと思うわぁー」孝夫さん、会社で難しい案件でも動いているのかな?
出勤前だというのに、いつになく当たりが強い……。
孝夫さんの私いびりは今に始まったことではないけれど、ここ最近は拍車が掛かってきた気がする。
鬱々としたまま学校へ行った私は、職員室へ入る前に両頬をペチッと叩いて気持ちを切り替えた……つもりだった。 一日中、他の先生方にも図書室へ来た子供たちにも何も言われなかったから、完璧に誤魔化せていると思っていた。 このまま終業時間まで誰にも悟られないでいこう。 そう思っていたのに一人ぼっちになった途端、私は気が緩んでしまったみたい。 いつも通り。夕暮れ時の図書室はしんと静まり返っていて、書架の隙間から差し込む西日が床に淡く長い影を落としていた。 (何だろ……。凄く寂しい感じがする) 昨日までは同じ風景を見ても、そんなこと思いもしなかったはずなのに今日に限ってそう感じてしまうのは、感傷的になっちゃってる証拠かな? 授業が終わって子供たちがいない図書室には、児童らの残した温もりみたいなものがまだほんのりと残っていた。いつもなら微笑ましく思えるそれが、今日に限って私、いま一人ぼっちなんだと突き付けられるみたいで……何だかとっても切ないの。 窓の外では木々が風に揺れていて、ほんの少し開けた窓の隙間からかすかに葉擦れの音が聞こえてくる。それさえも静けさを際立たせて、寂寥感《せきりょうかん》を助長させた。 そんな感傷的な気分に負けて、ほぅっと小さく吐息を落としたと同時――。「桃瀬先生が溜め息なんて珍しいですね。何かありましたか?」 放課後、自分のクラスの児童らを帰していらしたんだろう。不意に図書室へ姿を現した梅本先生から開口一番そう問いかけられて、私はビクッと肩を跳ねさせた。 「え?」 それを誤魔化すみたいに、言われた言葉の意味が分からないという風を装ってキョトンとして見せたら、「無理して取り繕う必要はないですよ?」と眉根を寄せられてしまう。 「えっ。そんなこと……」 ――ないですよ? とヘラリと笑いながら紡ごうとしたら、言葉を発する前に、 「今日は一日何だかいつもの覇気がなかったの、気付いてないとでも?」 こちらを探るような視線とともに発せられた梅本先生の言葉に遮《さえぎ》られてしまった。 梅本先生の視線は微塵も揺らぎがなくて……それゆえにすべてをお見通しだと言わんばかりの力を持っていた。 ダメだなぁ。隠したつもりでも、全部バレてた! どれだけ笑顔を貼り付けてみても、やっぱり私、嘘が下手なんだ。 お顔が〝強面《こわもて》だ
孝夫さんは朝の宣言通り夕飯を食べて帰宅してきたらしく、いつもならすぐに告げる「飯」という言葉がなかった。 (きっと、あの女性と美味しいディナーを食べたんだろうな) 私と付き合っているとき、孝夫さんは滅多にレストランなんて連れて行ってくれなかった。一応の理由は『穂乃の手料理が美味いのに、わざわざ外へ食べに行く必要なんかないだろ?』だったけれど、もしかしたら私なんかに使うお金が惜しかっただけかも知れない。 「風呂入る」 つっけんどんに告げられた言葉に、(すぐお風呂へ入りたいとか……。浮気の証拠、消したいのかな)とか思ってしまった私は、視界が水膜に歪み掛けるのを必死にこらえた。 「はい。ちゃんとすぐ入れるよう用意できてます」 震える声を気取られないよう一生懸命告げた私に、「当たり前のこと、いちいち恩着せがましく言うなよ。ホント腹立つ女だな」と、孝夫さんはこちらを見向きもせずに吐き捨てる。 いつもなら〝孝夫さんはそんなもの〟として受け流せる夫の素っ気ない態度のアレコレが、今日はダメ。胸にチクチクと棘を突き立ててくる。 夕方、残業をして家に帰宅してきた時、うなぎが待つこの家に入ってすぐ感じた、〝いつもと違う〟香り――。 もしかしたら街中で見かけた女性が、この部屋に入っていたのかも知れない。 そんなことを思うと、今朝、孝夫さんに残業の報告を入れた自分のバカさ加減を痛感させられるようで、胃の奥がキリリと痛んだ。 部屋に今も何となく残る残り香と同じにおいが色濃く薫る、孝夫さんのスーツの上衣をギュッと抱きしめたまま、私は脱衣所へ消えていく夫の背中をぼんやりと見送った。 ケージの中からうなちゃんが、そんな私を心配そうに見上げている。 「うなちゃん……」 大丈夫だよ、と続けようとして言えなくて……手にしたままのスーツをキッチンの椅子の背もたれへ掛けると、私はまるでその匂いを払拭したいみたいにごしごしとタオルで水気を拭った。 いつもなら生地が傷まないよう気を付けて、ポンポンと優しく叩いて水気を吸うところだけど、そんなの頓着していられない。 (お願い、消えて!) なかなか消えないにおいに焦燥感ばかりが募る。 新しいタオルを手に取った私は、うなちゃんから離れて一旦玄関を抜けて家の外へ出ると、ハンガーにかけた孝夫さんのスーツへ向け
雨の中、うなちゃんといつも通り、一時間ばかりのお散歩を楽しむ。 なんとなく梅本先生に会うのが躊躇われて、いつもと違うコースにしてしまったのは、通常なら外出時にはちゃんと持っているはずの片手袋を忘れてきてしまったから。 (お返しするお話もしそびれちゃったけど……持って来るのも忘れたんだもん。今日はお会いしない方がいいよね?) 雨と残業のダブルパンチのせいだと自分に言い訳をしてみるけれど、そんなのは梅本先生にはきっと関係ない話。 (明日、学校でお返ししよう……) きっとそれが一番いい気がした。 何より、梅本先生は私に関わってくる気満々みたいだった。放っておいても、彼の方から図書室へ来てくれるだろう。 ふと、お勧めのホラー漫画を持って来ると言われたのを思い出した私は、つい苦笑してしまった。 (私が好きなのは都市伝説なのに。どうせ貸して下さるなら、都市伝説系のホラーならいいな?) そんなことを思っていたら、不意にうなぎが立ち止まって、リードを持つ手がグイッと後方へ引かれた。 「うなちゃん?」 こんなことは滅多にない。 どうしたんだろう? と思った矢先、うなちゃんがくるりと向きを変えて、私を引っ張ろうとする。 「ちょっ、うなちゃん、どうしたの?」 立ち止まるだけならまだしも、引き返そうと方向転換をするだなんて、前代未聞だ。 私は不可解な行動を取るうなちゃんを引き留めようとして――。 (え……?) ふと見詰めた数メートル先――。仲睦まじげにひとつの傘に身を寄せ合う男女の姿へ目を留めた。 愛らしいフリル付きのパステルカラーの傘は、見るからに女性ものだ。だけど、その|柄《え》を手にしているのは男性の方だった。 まぁ男性の方が長身なのだから、効率を考えるとその方が断然いいと思う。 思うのだけれど……。 (どう、して……?) ゆるふわウェーブの髪の毛を揺らせる愛らしい若い女性が、豊満な胸をキュウッと押し当てるようにして腕を掴んでいるのは、どう見ても夫の孝夫さんだった。 そこからはもう、ほとんど記憶がないの。 うなちゃんに引かれるまま、町をふらふらと彷徨って……気が付いたらマンションに帰り着いていた。 仕事帰りにそうしたようにエントランスで濡れたレインコートを脱いで持参していたビニール袋
うちのマンションは中へ入ってすぐ、大きめの玄関マットが敷かれているのだけれど、さすがにこの天気。 すでにたくさんの住人《ひと》が靴底を拭った後だったみたいで、踏むと同時にビチャッと瑞々しい音がして、マットにうっすらと水が滲んだ。(これじゃ余計に靴が濡れちゃうっ) そう思ってみれば、エレベーターへと続く人工大理石張りの床のそこかしこに、小さな水溜りができていた。 私はそれを踏まないよう気をつけながら、エレベーターホールへと向かう。靴底がキュッと鳴って、気をつけていないと足が滑ってしまいそうで怖かった。 (まだかな……) 気持ちが急いている時に限って、エレベーターは最上階にあるとか、一体なんの意地悪だろう! 上昇ボタンを押して、箱が一階に降りてくるまでの間、階数表示がゆっくりとカウントダウンするように移動するさまを落ち着かない気持ちで見上げているのには、ちゃんと理由がある。(いつもより遅くなっちゃったし、うなちゃん、きっとお腹空かしてる……) いつもならご飯も食べて、一緒にお散歩へ出かけている時間帯。きっと火の気のない薄暗い部屋の中で、愛犬うなぎが寂しさと空腹に身体を震わせているに違いない。 幸いにしてうなぎは雷を恐れる子ではなかったけれど、だからと言ってひとりぼっちで待つのが平気なわけではないのだ。 そう思うとどうしても早く早く、と思ってしまうの。 *** 「うなちゃん、ただいまぁー!」 薄暗い部屋の中へ努めて明るい声を投げかけながら、手探りで廊下の電気をつける。 私が帰宅した気配に、「ワン!」と元気の良い吠え声が返ってきた。 その声にホッとして家の中へ入ると、なんだか〝いつもと違う香り〟がする。 (香水?) 私はうなちゃんのことを考えてそう言うのは付けない。孝夫さんはコロンを付ける人だけれど、何となく嗅ぎ慣れたにおいとは違う気がして、私は小首をかしげた。 「うなちゃん、ここ、誰か来てた?」 ケージの扉を開けてうなぎを部屋の中へ解き放ちながら何気なく問い掛けたけれど、うなぎはキョトンと私を見上げるばかり。例え『うん!』と答えてくれていたとしても、犬と会話が出来ない私には、うなちゃんの返事を聞く術はない。 (もしかして……浮気?) なんて懸念が頭をよぎったけれど、フルフルと首を振ってその考えを一掃す
委員会活動――残業――を終えて、いつもより一時間ちょっと遅く帰ってきた私は、ふと傘越しにマンションの自宅窓を見上げて、家の中が暗いことでまだ孝夫さんが帰宅していないのを知った。(あんなに文句言ってたから今日はいつもより早か帰る予定でもあったのかと思ったけど……違うのね) もともと孝夫《たかお》さんは、帰りがいつも20時とか21時の人。だから本当は私が少々遅く帰ったところで彼に影響はないのだ。 それでもそんな勝手な判断でいつも通りの時間(16時頃)には帰れないことを言わないでいると、「穂乃《ほの》の癖に俺に隠し事とかすんなよ!」と機嫌の悪くなる人だから、私はいつも逐一自分の予定を彼に話すようにしている。(孝夫さんは遅くなる日も早くなる日も、私にはなんにも言ってくれないのに……) 彼の帰宅時間が読めなくて、料理の温め直しのタイミングを推し量りづらいのは、結婚した当初からの私の悩みのひとつなの。 自分は良くても私はダメ。孝夫さんはお付き合いしていた頃から、そういうところのある人だった。 朝は篠突く雨だったけれど、今は細く静かな雨がしっとりと地面を濡らす地雨《じう》に変わっている。 犬のパウがあしらわれた愛らしい傘の布地を細かな雨粒が淡く叩く。薄い水の膜を張ったような街の喧騒も、いつもよりいくぶん和らいで感じられた。 耳を澄ませても雨音はほとんど聞こえないのに、傘越しに見る街の輪郭は静かな雨のせいで滲んだ絵のようにぼやけていて、何だか物悲しい気持ちにさせられてしまう。 朝からずっと降り続いている雨は、土と草の匂いを水の中に溶かし込んで、いつもなら感じられない香りを立ち上らせては私の鼻先をくすぐった。きっと犬のうなちゃんなら、もっともっとたくさんのにおいを嗅ぎ分けられるだろう。 息をするたびに蒸した空気が傘の内側に忍び込んできて、身体を気怠くさせる。しっとりとまとわりつく湿気は、雨に触れていないはずの襟元や髪の毛を、じわりと重くした。 足元ではあちこちに大小様々な水たまりが広がり、それを避けるようにして歩いたはずなのに、靴の縁から染み込んできた水が靴下を濡らしている。 空はどこまでもどんよりとした曇天で、「明日も雨かなぁ」と呟いたら、口の端から自然と吐息がこぼれ落ちた。 天気が悪いからいつもより少し薄暗いけれど、先月に比べればだいぶ陽が長くなっ
五月に入ったばかりという今日、まだ梅雨ではないけれど、外はあいにくの雨模様だった。 「ごめんなさい、孝夫さん。今日は月に一度の委員会活動の日で残業なの」 私の勤め先の青葉小学校では、毎月大体第四月曜日の五時間目が、各委員会の定例集会になっている。 校内にいくつもある様々な委員会所属の五・六年生たちが、各々定められた場所へ集まってイベントの取り決めをしたり、日々の反省会をしたり……。月によってやることはまちまちだ。 私が担当する図書委員会の児童らは、図書室に集まって定例会をする。 基本的には教員免許を所持している司書教諭の白石先生が主体になって議事進行をなされるのだけれど、図書委員会では学校図書館司書の私も白石先生の補佐として委員会活動に参加するのがずっと続いてきた習わし。 今年度初の委員会活動は年度はじめでバタバタしていた絡みで、四月が飛んだから、第一月曜日の今日が委員会活動に割り当てられていた。 年間行事予定表へ視線を落としながら夫の孝夫さんに声を掛けたら「はぁ? 何で今日。いつも月末辺りだっただろ」と、あからさまに溜め息を落とされる。 さすがに頭のいい人だ。委員会活動が大体第四月曜日に開かれていたことを覚えているみたい。 「今回は年度初めでごたついていて、四月の第四月曜日に出来なかったから今日になったの」 ごめんなさい、と付け加えながら答えたら、「ふーん。……で、俺の夕飯はちゃんと支度して出るんだろうな?」と返ってきた。それはある意味想定の範囲内の質問だったから、私は電子レンジの中へワンプレーと料理が用意してある旨を告げる。 「申し訳ないけど電子レンジで温めてもらえますか?」 炊飯器は孝夫さんのいつもの帰宅時刻に合わせて仕掛けておいたから、炊き立てのご飯も食べられるはず。 「はぁ? わざわざ疲れて帰ってきた亭主に飯、温めて食えって言うのかよ? すっげぇ面倒くせぇんだけど!? あー、もういいや! それお前が食えよ。俺、外で食って帰るから」 チッと舌打ちして「ホント使えねぇ女」とわざと聞こえるように私を罵ってから、「あー、あと。お前がいなくてもクソ犬が騒がねぇようにしっかり躾けとけ。ホントあいつ、お前がいないってだけでうるさくて仕方ねぇ」と付け加えてくる。 「はい……。ごめんなさい」 ケージの中、良い子に