LOGIN朝の職員会議が終わると同時、私はそそくさと荷物をまとめてから、
「図書室に上がります!」 誰にともなく声を掛けてスタコラサッサと職員室を後にした。 図書室は3階。 9時から始まる着任式には一応顔を出さないといけない。図書室へ行っても、実質稼働時間は30分もないだろう。 でも、何となくあのまま職員室へ残っていたら、梅本先生に捕まってしまいそうな気がして……私は居ても立っても居られなかったのだ。 更衣室ロッカーへ放り込まれた鞄の中には、実は綺麗に洗ってビニール袋へ入れた状態で、梅本先生の黒い片手袋が入っている。 あれから何故かうなちゃんのお散歩時にはパッタリ出会わなくなってしまった強面(こわもて)ランナーさんに、いついかなる時に遭遇しても「あの、これっ!」とお返しできるようにしてあるのだ。 でも――。 (まさかその〝いついかなる時〟が職場だなんて思わないじゃないっ!) 返せないままに二週間くらい経過してしまったからか、私の中であの手袋は鞄の片隅を占拠するのが当たり前の存在になっていた。 (どこかのタイミングで梅本先生を捕まえて、ちゃんとお返ししなくちゃ) そう思うけれど、何となく自分から話しかけづらいと思ってしまったのは、彼との出会いが最悪だったからに他ならない。 図書室へ入って、パソコンが起動するなり学校図書館専用ソフト『スクールプロフェッショナル』のアイコンをダブルクリックする。 パスワードを打ち込んでソフトを起動すると、とりあえず利用者名簿を使える状態にしなければと思い立った。 開館自体は司書教諭と相談して始業式の3日後に設定してあるから、猶予はある。 「まずは……」 前年度のデータをバックアップしなければ、年度更新の操作が行えない。 経験からそれを知っている私は、データをCドライブと、外付けハードディスクに保存して、朝一、職員会議が始まる前に集めておいた新年度のクラス名簿に視線を落とした。 (在校生に転入生はなし……かな?) 在校生たちは各自、前年度まで使っていた利用者番号がそのまま使えるのが有難い。 先ほど年度更新したことで、児童的にみんな一学年ほど進級しているから、名簿と照らし合わせながら新しいクラスに各々割り振っていけばいい。 在校生のクラス替えからやってもいいのだけれど、今年はとりあえず入学してきたばかりの新1年生の新規利用者登録から手を付けることにしよう。 新規のユーザーは、当たり前だけど既存のデータがないから、1から情報を入力しなければいけない。 皆が皆、太郎くんや花子ちゃんばかりなら有難いんだけど、残念ながら、昨今の子どもたちのお名前は、一発変換出来ないものが主流なのだ。 うちの学校にも在校生に〝愛絆〟と書いて〝あずな〟ちゃんがいて、その数年後、全く同じ漢字で読み方が〝いずな〟ちゃんという子も入学してきた。どちらも女の子なんだけど、名簿を見た時にはびっくりさせられたのを覚えている。 あとは何人もの子ども達によく使われる流行りの漢字というのもあって、私がこの小学校に着任してからは翔、琉、心なんかが比較的よく使われている気がします。 同じ漢字でも読み方がまちまち。それを、ふりがな込みで間違えないよう入力していかないといけないから結構大変なのだ。 青葉小は1学年が4〜5クラスで、1クラス平均25人前後の児童がいる。 今年の新1年生は4クラスだから、単純計算で約100人分、間違いのないように利用者名簿を作っていかなくてはいけない。梅本先生は私の手を引いて、公園横の小さな駐車場へ向かった。 梅本先生は迷わず一台の黒いSUV車に近付くと、ロックを解除する。車内はまだほんのりと温かくて、エンジンを切ってそれほど経っていないことがうかがえた。 (……きっとホテルからこっちへ直行してくださったんだ) 普段梅本先生がこの車に乗っておられるのを見たことはない。でも、昨日アパートの駐車場にこれと同じ車が停まっているのを見かけたのを覚えている。きっと昨日ホテルまで行くのに乗って行かれていたんだと思う。 私が『今からマンションに戻って、夫と話し合いをしてきます』と送った短いメッセージを見て、心配してすぐに駆けつけてくださったんだと分かって、胸の奥がじんと熱くなった。 「乗って? このままホームセンターへ行こう」 相変わらず飾り気のない、用件のみを伝えるような物言い。向けられる表情も強面さんだからなんだか怖い。でも、その実、彼がとっても優しいことを私は知っているから……素直に「はい」とうなずくことができた。 後部のスライドドアを開けるなり、うなぎが何のためらいもなく車内へ乗り込んだ。 「あっ」 そのままシートへお座りするうなちゃんを見て慌てたら、「毛のことなら気にしなくていい。あとで掃除すりゃいいだけだ」って、優しすぎませんか? 孝夫さんは決して愛車にうなちゃんを乗せようとはしなかった。 うなちゃんが体調を崩して大変な時ですら、「どうしてもってんならタクシーで行け」と冷たくあしらわれたのを覚えている。 結局一〇キロ以上あるうなちゃんを抱いて、私は歩いて動物病院へ行ったのだ。 移動用ケージを買っていたならば、あるいはタクシーを拾うこともできたのかもしれない。 でも、孝夫さんから生活するのにギリギリのお金しか渡されていなかった私には、それを買うゆとりがなかった……。 (そういえば……お給料の振込先、変えてもらわなきゃ) 今のままでは孝夫さんが管理している〝私名義〟の通帳へお給料が振り込まれてしまう。 私に任せるのは不安だから、と結婚してからずっと……お金は全て孝夫さんに握られていた。 考えてみれば、それだっておかしな話だよね? どうして私、今まで何も思わず彼に従っていたんだろう? せめて自分が稼いだお金くらいは、自分で管理すべき
私は一瞬、耳を疑った。 「でも……」 「でも?」 「まだ離婚、できてないし……。私が行ったら、梅本先生を家から追い出してしまいます」 昨夜、そうだったように――。 眉根を寄せて言ったら、梅本先生が小さく笑った。 「離婚するって気持ちは、もう揺らがないんだろ?」 「……はい」 「相手の浮気の証拠も、たたきつけてやった」 「……はい」 答えながら、そんな話したっけ? と思ったら、梅本先生がニヤリとした。 「頑張ったんだな」 「……え?」 「辛かっただろ。そういうの、こっちは悪くねぇのに、すっげぇ削られる」 まるで自分も経験したことがあるような物言いだった。 私は思わず、梅本先生をじっと見上げてしまう。 「――だったら気にすんな。桃瀬先生は何も恥じることはねぇし、後ろめたく感じる必要もない。何なら相手の男のせいだとでも思ってやればいい」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが溶けるような感覚があった。 止まっていたはずの涙が、再び頬を伝う。 「俺もホテルには行かねぇから……。遠慮しなくていい」 冗談みたいな言い方なのに、その声の奥には決意があった。 梅本先生が、私の頬を伝う涙を親指の腹でそっと拭ってくれる。 武骨な手指の感触に、私は何も言えず、ただされるがままだった。 ――強面な梅本先生が差し出してくれたその言葉が、どれほど優しく……そして、どれほど危ういものか……。 私にだって分かっていた。 本当は離婚が成立する前に、一人暮らしの男性に頼るなんて、あってはいけないこと。 離婚の際、相手に付け入る隙を与えかねない。 それでも今は、何かにすがらなければ歩けなかった。 「……ごめんなさい」 掠れるような声でそう言うと、梅本先生に額をピシッと人差し指で優しく小突かれた。 「謝罪は受け付けない。俺が聞きたいのは、礼の言葉だけだ」 どこかムスッとした表情。 もしかしたら、それは照れ隠しなのかもしれない。 「……ありがとうございます。お世話になります」 私は頭を下げた。 その瞬間、梅本先生がふっと息を抜いたように微笑んだ。 「行こう。うなぎも腹減らしてるだろ」 途中で「うなぎの飼育用品、買っていこうな」と言いながら
マンションを出て、朝の冷たい空気に触れた瞬間、足の力が抜けた。 握りしめた鞄の持ち手が、汗で滑る。 喉が痛い。泣いたわけでも叫んだわけでもないのに、胸の奥が焼けつくようだった。 階段を下りきるころには、もう呼吸の仕方もわからなくなっていた。 風が頬を撫でても、それが冷たいのか温かいのかさえ分からない。 ただ、ここから遠ざかりたかった。 なにも考えたくなかった。 足元では、うなちゃんが心配そうにこちらを見上げている。 私はリードを握りしめ、トボトボと歩き出した。 「ごめんね……うなちゃん。ごはんとか……持って来られなかったね」 孝夫さんと決別する〝ついで〟に、それらを取りに行くつもりだったのに、そんな余裕はどこにもなかった。 それが、ますます情けなくて。 気づけば、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。 これは、別に孝夫さんとの別れを惜しんでの涙じゃない。 何だか分からないけど、とにかくすごく、悔しかった。 「私って……孝夫さんにとって、何だったんだろ……」 声にした途端、余計に虚しさが押し寄せてくる。 どれくらい歩いたのかも分からないまま、気が付けばいつもの公園前に立っていた。 無意識に、足が勝手にここへ向かっていたらしい。 習慣って怖いな……とぼんやり思う。 「うなちゃん、今日の夜、どうしよっか」 口に出した途端、現実がのしかかる。 この東屋で一晩明かすのは、体調を崩した今の自分には自殺行為に思えた。 かといって、まだ離婚できていない身の上では、梅本先生のアパートに戻るわけにもいかない。 そんなことをしたら、また梅本先生をご自宅から追い出してしまいかねない。 「ホテル……」 無意識につぶやいて、うなちゃんと顔を見合わせた、そのときだった。 「……桃瀬先生」 名前を呼ばれて、顔を上げる。 少し離れた場所に、梅本先生が立っていた。 陽射しが背中から射して、輪郭だけがぼんやりと光っている。 信じられない。というより――どうしてここに? 色々な感情が一気に押し寄せてきたのに、何ひとつ言葉にならなかった。 「行くとこ、ないだろ」 怖いお顔。 それとは裏腹に、穏やかな声。 けれど、その瞳の奥には確かな焦りがあった。 私は
言われた瞬間、私は(どの口がそんなこと言うの!?)と思った。 だって浮気してたのは孝夫さんの方で、私じゃない。 「いい加減にして!」 怒りがパワーになって、グッと押しつけられたソファから、私はようやくの思いで孝夫さんを押しのけて立ち上がることが出来た。 けれど、ソファ下へ足を下ろした瞬間――足裏に、ちくりと鋭い痛みが走る。 「……っ!」 反射的にうずくまって足元を見下ろすと、そこには見たことのないピアスが転がっていた。 淡いピンクのストーンが揺れる、小さなフープタイプ。 見覚えがない。私のものじゃない。 唇をきゅっと噛みしめ、ピアスを拾い上げた私は、立ち上がって孝夫さんを睨みつけた。 「これ、なに?」 手のひらに乗せたピアスを突きつけると、彼は一瞬だけ目を泳がせ、それから鼻で笑う。 「それか? お前が俺の夕飯も用意せず出て行っただろ。困ったって話したら部下が食い物持ってきてくれたんだよ! やたら世話焼きの、良く出来た女だからな! 持ってきた飯、わざわざ温めてくれて食わせてくれたんだよ! きっとそん時にでも落としたんだろ」 部下が|妻《・》|帯《・》|者《・》|の《・》上司のために、家までご飯を持って来る? 寝込んでるわけでもないのに? なんて苦しい言い訳。 でも、声は堂々としている。 ――私なら、これで納得するとでも思っているんだろうな。 そう思ったら、今まで押さえつけていた感情が一気に溢れて来そうになる。 私はそれを懸命にこらえながら、 「……そう」 短く呟いて、無言のまま寝室へ向かった。 ドアを開けた瞬間、鼻をついたのは、甘ったるい香水の残り香。 バカな|男《ひと》。 浮気をしたくせに、換気もしないのね。 (この調子ならきっと……) そう思って布団をめくってみたら、案の定というべきか。シーツの上に、見知らぬ長い髪の毛が数本。 ベッドサイドのゴミ箱を覗くと、中には使用済みのコンドームが押し込まれていた。 (やっぱり……掃除すらしてないのね) 普通の人なら妻にバレたくない一心でこういうの、証拠隠滅を図ろうとするものじゃないの? 私はそういうのがバレても大丈夫な|妻《あいて》だと……そう思われてるってこと? どれだけ私のこと、バカにすれば気がすむんだろ
このところ、休日でも家にいることなんて滅多になかったのに。 私がいなかったからかな。玄関を開けると、 孝夫さんがいつも仕事履きにしている黒い革のストレートチップシューズが乱雑に脱ぎ捨てられていた。 昨日はこの横へ、まるで恋人みたいに寄り添って脱がれていた艶のあるローズベージュのエナメルパンプスは、今はもうない。 でも……嗅ぎ慣れない余ったるい香水の香りはまだ室内を満たしていて、私は思わず吐きそうになる。 咄嗟に鼻先を覆って気持ち悪さを逃す私のそばで、うなちゃんが心配そうにこちらを見上げている。 『ごめんね、うなちゃん、大丈夫だよ』 囁くようなか細い声音とともに、うなぎに微笑み掛ける。 リビングの方からは、テレビの音が漏れてきていたから、少々声を出したところで問題なんてなかったかもしれない。 私は孝夫さんの靴から極力離した位置にスニーカーを脱ぐと、うなちゃんのリードの持ち手部分の輪っかを玄関のドアハンドルに引っかける。 もし万が一、今から私が切り出す話で、孝夫さんの機嫌が悪くなって……その怒りの矛先がうなちゃんに向いたりしたら大変だと思ったからだ。 「ただいま……」 ここへ戻る気なんてさらさらないけれど、癖というのは抜けないもの。 私はリビングの扉を開けると同時に、そう言ってしまっていた。 扉を開けるとすぐ、テーブルに空き缶や菓子袋が散らかったままになっていて、ソファに寝そべった孝夫さんが、映し出される番組なんて微塵も興味なさげにリモコンを弄っている。 そんな彼が、私の姿を認めた途端ゆっくりと目を細め、口の端を歪めた。 「……穂乃の癖に朝帰りとはずいぶんなご身分だな」 皮肉を含んだ声とともに、孝夫さんは立ち上がり、リビング入り口に立ち尽くしたままの私の腕を乱暴に掴んだ。 「きゃっ……!」 抵抗する間もなくソファへ引き倒され、上から重い体重がのしかかる。 「孝夫さんっ!?」 何が起こっているのか分からなくて彼の名を呼んだ私の襟ぐりを、孝夫さんは無造作にぐいっと引き下げた。首筋を食い入るように見つめ、指先が肌を荒々しく探る。 「や、っ……」 「……ふん。さすがに痕跡残すほどお前もバカじゃないか」 孝夫さんが何を言っているのかさっぱり分からない。 それより何より彼から色濃く漂う甘ったるい女性用フレグランスの香りが、
小さなメモを手に取る。 昨夜、梅本先生が「もしもの時に」と書き置いていってくれた電話番号。 しばらく考えたのち、私はその番号をスマートフォンに【梅本先生】として登録した。 そうしてショートメッセージの画面を開けて、梅本先生宛にメッセージを打ち込んでいく。 『色々と有難うございました。 ヨーグルトとお薬をいただきました。 今からマンションに戻って、夫と話し合いをしてきます。 桃瀬』 打ち終えた文面を見つめ、しばらく躊躇った。 けれど、通話ボタンに指を伸ばせない以上、メッセージくらいは送っておくべきだ。 声を聞いてしまえば――きっと、甘えてしまう。孝夫さんと向き合うのが怖くなってしまう。 だから、短い文字だけを送信した。 スマートフォンを片手に難しい顔をしていたからかな? うなぎが私の横へおすわりをして、不安そうにこちらを見つめてきた。 「うなちゃんのご飯もお家に戻らなきゃないもんね?」 眉根を寄せて頭を撫でる私に、うなちゃんが「くぅーん」と甘え鳴きを返してくれる。 温かいうなちゃんの手触りに、私はほんの少しの勇気を分けてもらった。 体調はまだ整っていない。きっと薬を飲んでいるからなんとか起き上がっていられるけれど、気を抜いて仕舞えば倒れてしまいそうな気がした。 うなぎにハーネスとリードを取り付けると、「お散歩ですか?」とうなちゃんがしっぽをパタパタと振って私を見上げてくる。私はそんなうなちゃんを見下ろして深呼吸をひとつ。 ドアへ向けてゆっくりと歩き出すと、扉へ手をかけた。 扉の外へ出て、 (あ、鍵……) ごく当たり前のことに今更のように気が付いてキョロキョロと辺りを見回したらドアと一体化になったドアポストが目に入る。 (もしかして) 思ってドアを再度開けて内側についた郵便受けを開けると鍵がポツンと入っていた。 昨日お借りしたものみたいにキーホルダーが付いていないところを見るとスペアキーかな? (ってことは梅本先生も鍵、ちゃんと持っていらっしゃるよね?) この鍵を使って再度ドアに鍵を掛けたとして、今みたいにキーをドアポストに落としても大丈夫かな? ふと不安になった私は、ドアを施錠したまま鍵を片手に固まってしまう。 「うなちゃん、コレ、どうするのが正解?」 裸の鍵を手