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第6話

Author: 柚乃
月明かりが白い屋敷を包み込み、書斎には明かりが煌々と灯っていた。

修平がドアを開け、トレーを手にして入ってくると、牛乳とフルーツをそっと置いた。

美月はパソコンに映し出されたデータの流れをじっと見つめたまま、振り返りもせずに言った。「お父さん、もう休んだら」

修平は頷いた。「分かった。君もあまり夜更かしするなよ」

「うん、分かってるよ」

修平は美月の後ろ姿を見つめ、胸の奥に温かなものが込み上げてくるのを感じた。そして手を伸ばし、美月の頭を優しく撫でた。「君はなあ、お嬢様みたいな暮らしができるのに、わざわざこんな苦労をするんだから」

美月は手を止めて振り返ると、真剣な顔で言った。「お父さん、それはちょっと古い考え方だよ。女だって、自分の仕事を持たなきゃ。私は家にいる時は親に、結婚したら夫に頼りっぱなしな女じゃないから」

「はいはい、俺の考え方が古くて、君の足を引っ張ってるってことだな」修平は目を細め、娘を愛おしそうに見つめながら言った。

そして書斎のドアを開けて出ていった。

廊下は薄暗く、両側の壁にはたくさんの絵が飾られていた。どれも修平が描いた作品だった。

修平は眼鏡を外し、何気なく絵を眺めながら、ふと思った。

一枚の絵さえ売れなかった無名の画家だった自分が、今では美術大学の学長にまでなった。

まさに、人生が一気に変わったと言っていい。

かつて、狭くて湿っぽい賃貸住宅で、昼も夜もなく絵を描いていた日々は、もう遠い昔のことのようだ。

あの頃の暮らしがあまりにも苦しかったせいか、今でもたまに、あの賃貸住宅に戻る夢を見る。

夢の中では、妻は昔と変わらない姿で、家事をしながらぶつぶつ文句を言っている。娘は髪を二つに結び、怯えたような顔で賞状を自分の前に差し出してくる。

そんな夢を見るたび、修平ははっと目を覚ました。

目を覚まして、広々とした明るい屋敷のベッドで眠っていたことに気づくと、いつも大きく息を吐いてほっとした。

あんな貧乏暮らしには、もう本当にうんざりだった。

……

食事を終えると、紗季は奏太を連れて庭で食後の散歩をしていた。

由美と秀子は二人で食器を片付けていた。

「どうして本当のことをあの子に話さないの?」秀子が尋ねた。

由美は庭にいる親子をちらりと見た。「もう何年も経ってるんだもの。今さら話す必要なんてないわ。それに、実の娘だろうが何だろうが、あの人が紗季の面倒を見るわけじゃないもの」

秀子はため息をついた。

片付けを終えると、由美も庭に出て、孫のそばに座った。

奏太は小さい頃から何不自由なく育ってきた。由美はたくさんのおもちゃを用意していたが、奏太はどれにも興味を示さなかった。

その様子を見て、由美は困ったように眉を寄せた。紗季の胸にも、複雑な思いが込み上げてきた。

奏太が一歳になるまでは、紗季と母の由美が二人で世話をしていた。

由美は、黒田家での紗季の立場が大変なことを分かっていた。あの家の使用人たちが、本心から紗季に仕えているとは限らない。だから、ほとんど毎日のように紗季のところへ通って子育てを手伝い、そのうち、いっそ一緒に暮らそうと引っ越してきた。

昼間は紗季と一緒に子どもの世話をし、夜は紗季をゆっくり眠らせてあげようと、自分が孫と一緒に寝た。夜中に奏太が目を覚ますと、紗季のところへ連れていき、授乳させた。

奏太はとても手のかかる赤ん坊だった。毎晩のように泣き、しかも肌が敏感で、どれだけ高価なおむつを使ってもかぶれてしまった。

そこで母娘は布おむつを使うことにし、毎日手洗いしていた。

奏太は体が弱く、よく病気になった。一度具合を悪くすると、一晩中眠らずに泣き続けることも珍しくなく、母娘は夜になると交代で抱っこして、まともに眠れる夜などほとんどなかった。

奏太の一歳の誕生日には、由美がお祝いのプレゼントを嬉しそうに用意した。それを見た春江が嫌味たっぷりに、「いい娘を持ったわね。これからは娘と一緒に大きなお屋敷で暮らせるじゃない」と言った。

由美は気の強い人だった。孫の一歳の誕生日を祝い終えると、それきり御山苑の屋敷には二度と足を運ばなかった。

幼い頃の奏太は、由美にべったりだった。「誰が一番好き?」と聞けば、いつも「由美おばあちゃんとママ」と答えていた。

ところが、成長するにつれて、怜司の家族のほうになつくようになった。

佳代は一日たりとも奏太の面倒を見たことがなかった。それでも、高価なプレゼントを買い与え、本宅に行けば、奏太が食べたいと言ったものは何でも食べさせた。

そのせいで、奏太は佳代こそ自分を一番大切にしてくれる人だと思うようになった。

「お母さん……」紗季は申し訳なさそうに呟いた。

由美はそんな娘を見て、やさしく笑った。「子どもなんだから、まだ小さいもの。それに、佳代さんのことが好きでもいいじゃない。

むしろ、あの子が佳代さんになつかなかったらどうしようって、私はずっと心配してたのよ。そうなったら、佳代さんに『あなたがそう教えたんでしょ』って言われかねないもの」

紗季の胸の内は、複雑だった。特に、これから怜司と離婚したら奏太の親権を取れず、母が孫に会える機会もますます減ってしまうことを考えると、なおさらだ。

そもそも結婚だって、紗季が母に事後報告で決めてしまったことだった。由美は最初から賛成していたわけではない。

だからこそ、離婚することまで母に黙っているわけにはいかなかった。

「お母さん、怜司から離婚したいって言われたの」

紗季が淡々と告げると、夜の静けさが一瞬、辺りを包んだ。

「……それで、どうするつもりなの?」由美が尋ねた。

「もう受け入れた」

由美はため息をついたあと、どこか寂しげに笑った。「それなら、それでいいじゃない。黒田家みたいな立派な家、もともと私たちには身の丈に合わなかったもの」

ところが、そう言っているうちに、由美の目から涙がこぼれた。それでも自分に言い聞かせるように、続けた。「離婚してよかったのよ。お母さんは、あなたにお金持ちと結婚してほしいなんて思ってない。ただ、あなたのことをちゃんと分かってくれて、大事にしてくれて、一緒に穏やかに暮らせる人を見つけてほしい。それだけよ」

紗季は、母の言葉を聞いて、胸の奥がじんとした。

きっと、世の中のお母さんが娘に願うことなんて、そんなささやかなものなのだろう。

けれど今の紗季には、ようやく分かっていた。

女は、必ずしも結婚しなければならないわけじゃない。いわゆる「いい男」を見つけて、嫁に行かなければ幸せになれないわけでもない。

女にとって一番大切なのは、自分自身の人生と仕事を持つことだ。恋愛や結婚は、人生に欠かせないものじゃない。

「じゃあ、奏太は?」

「奏太の親権は争うつもりはない。あの子のこれからを考えたら、黒田家にいたほうがいいと思うから」

夜の静けさの中、由美が鼻をすする音が聞こえた。

奏太は、何より由美自身が手をかけて育ててきた子だ。手放すのは、やっぱりつらかった。

「あなたがどんな道を選んでも、お母さんは味方だから」

「ありがとう。今は大学時代の先輩の会社で働いてるんだけど、もしかしたら海外で二年間、研修を受けることになるかもしれないの。終わったら、国内で暮らせるようになると思う」

紗季は、あらかじめ母に心の準備をしておいてほしくて、そう伝えた。

「いいのよ。あなたがやりたいことをやりなさい。おばあちゃんのことは私がちゃんと面倒を見るから」

由美は娘を見つめた。

小さい頃から、紗季は聞き分けがよくて、しっかりした子だった。顔立ちもきれいで、勉強もよくできた。本当なら、もっと大きな舞台で羽ばたけるはずの子だ。

あの日、この子を抱きかかえて連れて帰ったことだけは、今まで一度も後悔したことがない。

紗季を大切にできない男なんて、ただこの子の良さが分からなかっただけだ。見る目がなかったのは、あの男のほうだ。

紗季も胸がいっぱいになった。

もともと自分は、気持ちを言葉にするのが得意なほうではない。母と娘のこれまでの関係も、どこか淡々としていた。

それでも今は、母を抱きしめたかった。

勇気を出して、腕を広げようとした、そのときだった。

「ママ、まだ帰らないの?」背後から奏太の声が聞こえた。

紗季は奏太が退屈しているのだと思い、由美に言った。「ちょっとあの子をなだめてくるね」

「ええ。じゃあ、果物を用意してくるわね」

庭には、紗季と息子の二人だけが残った。紗季はしゃがみ込み、優しく尋ねた。「どうしたの?」

「まだ帰らないの?」奏太は小さな顔をしかめ、明らかに機嫌を損ねていた。

「来てからまだ一時間も経ってないよ。おばあちゃんもひいおばあちゃんも、奏太に会いたくて楽しみにしてたんだから、もう少し一緒にいてあげよう?」

紗季は息子の小さな手を握り、できるだけ優しい声で言い聞かせた。

「嫌だ。僕は今すぐ帰りたい。ママが一緒に帰らないなら、僕一人で帰るから!」奏太は、脅すような口調で言った。

ママなら、自分のお願いを何でも聞いてくれる。奏太はもう、そんなことを当たり前のように思う年頃になっていた。

それに、周りの大人たちの話を聞いているうちに、自分がママにとってどれほど大切な存在なのかも、なんとなく分かっていた。自分がいたからこそ、ママはパパと結婚できたのだと思っていた。

そこへ由美が果物を盛った皿を持ってやってきた。「どうしたの?」

奏太が怒っていることに気づき、由美は奏太のそばまで歩み寄った。「どうしたの、奏太?おばあちゃんが奏太の大好きな果物……」

すると奏太は、手を伸ばして果物の皿を叩き落とした。「嫌い!ママも嫌い!おばあちゃんも嫌い!こんなところ、大嫌い!」

由美は呆然と立ち尽くした。

家の中にいた秀子も物音を聞きつけ、何かあったのかと慌てて駆けてきた。「どうしたの、奏太。誰かにいじめられたの?ひいおばあちゃんに話してごらん……」

けれど、奏太はすでに感情を抑えきれなくなっていた。秀子の手を乱暴に振り払い、甲高い声で叫んだ。「触らないで!ひいおばあちゃんも嫌い!」

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